◆説教2001.09.09.◆

ヨハネ伝講解説教 第89回

――ヨハネ8:48-53によって――

 主イエスとユダヤ人との対立は殆ど極限まで行った。59節で見るように、「彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした」のである。しかし、まだ時でなかったから、彼らは石を投げることは出来なかった。それでも、決裂という意味があることは言うまでもない。一方、主イエスはまだ決裂とは見ておられない。だから、11章7節で「もう一度ユダヤに行こう」と言われる。弟子たちは不思議がって「先生、ユダヤ人が先ほどもあなたを石で撃ち殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか」と問うている。この時、主は、ユダヤといってもベタニヤまでしか行っておられない。そして、こののちまた荒野に近いエフライムに退きたもうた。そして間もなく、最終的にユダヤに行き、エルサレムに上って十字架につきたもうた。
 さて、今日のところの初め、48節で見るように、ユダヤ人は憎悪の情をこめて、主イエスを「サマリヤ人」、また「悪霊に憑かれている人」と決めつける。彼らは少し前には「キリストはまさかガリラヤからは出て来ないであろう」と言っていたのであるから、主イエスがガリラヤのナザレの人であることは知っていたのである。だから、サマリヤ人ではない、と承知していたはずである。それが今、憎しみに駆られて、もうサマリヤ人と同じに扱ってやる、すなわち、ユダヤ人としての交わりを断つ、というのである。
 殆ど異邦人同様にあしらうという宣言である。
 ナザレのイエスを「悪霊に憑かれた人」と罵る人がいたことは、他の福音書で見ることも出来るが、ヨハネ伝でも7章20節に一度出ていた。そこでは、これまで比較的好意的であって、彼を殺そうと思ったこともない人が、「あなた方は何故私を殺そうとするのか」と言われたので、カッとなって、このように考える手合いは被害妄想に陥っている、と見たわけである。すなわち、昔の人は精神の病いを悪霊のせいにしていた。今回は主イエスの教えられた内容について、常軌を逸しただけでなく、悪魔的と言うほかないことを教えるという判断をしたのである。
 すぐそれに対して、「私は悪霊に取り憑かれているのではない」と答えておられるが、「サマリヤ人」と判定されたことについて、主イエスは反論も釈明もされない。サマリヤ人と見られても一向に構わないと言っておられるかのようである。すなわち、サマリヤ人をイスラエルから除外するのは、ユダヤ人にとっては重要な判断であったが、彼らの判断であるに過ぎず、神の救いの歴史の中ではそうでないから、ここで反論するにも及ばないのである。
 いや、むしろ、「あなた方はサマリヤ人から聞かなければならない。ユダヤ教の正統主義の教えを守るのだ、という考えを推し進めて、不純と見えるものを排除して行った結果、独り善がりの、硬直し、冷え切った宗教になってしまったあなた方は、思いを翻してサマリヤ人から聞いた方が良いではないか」という含みをこめて沈黙したもうたと取った方が良いかも知れない。ここでは、その意味を大きく取り上げることはしないが、先に4章で見た主イエスのサマリヤ伝道、またルカ伝10章の善きサマリヤ人の譬えを思い起こすならば、聖書全体としてそのような含みがあることは認めざるを得ない。
 彼らの罵りに対して、49節で主は答えておられる、「私は悪霊に憑かれているのでなく、私の父を重んじているのだが、あなた方は私を軽んじている」。
 イエス・キリストを「悪霊に憑かれた人」と罵る者に対して、それは聖霊に対する冒涜になると警告しておられる場合がある。「聖霊を汚す者はいつまでも赦されず、永遠の罪に定められる」と宣言される。この次第はマルコ伝3章22節以下に書かれているが、今回はそれには触れない。
 なるほど、精神が錯乱して自分が神であると思い込んで吹聴する人は珍しくない。だから、それを予防するためにユダヤ人が警戒していたことは確かである。しかし、用心深くすることによって、キリストの来ておられることが見えなくなった。彼らは神の言葉をシッカリ聞くべきであった。
 「私は悪霊に憑かれて、思い上がり、自分は神のように偉い者である、と思い込んで、誇っているのでなく、私の父を重んじる教えをしているのである」と主は言われる。父を重んじるとは、父に栄光を帰すると言い換えても良い。自分の栄光を求めるのでなく、父の栄光を求めているのである。
 父を重んじるには、父の遣わしたもうた子を通して父を知らなければならない。子は父を顕すからである。これが主イエスの教えの最も重要な部分であって、何度も繰り返し教えられたが、最後の晩餐の場面で14章9節では、「ピリポよ、こんなに長くあなた方と一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのである」と言われた所に明らかにされる。御子なしでも神が十分分かっており、御子なしでも、アブラハムの子孫であるという理由で、生まれながらに自由であると思い込んでいるのがユダヤ人の陥った決定的な落とし穴であることを我々はすでに学んだ。
 「ところが、あなた方は子を尊重しない。だから、子を通して顕される真理が分からず、却って子を悪霊に憑かれた者と判断してしまうのである」と主は言われる。このことをさらに詳しく見よう。
 主イエスは今回の所では、悪霊に憑かれた者という判断が、判断する者自身にとって如何に禍いであるかには触れないで、ご自身の教えを曲解している点をたしなめておられる。ここで問題になっている教えの要点は二つである。すなわち、一つは、父なる神と神の子なるイエスとの関係、目に見えない父なる神と、肉体を採って目に見える様で現われたもうた御子なる神との、本質における同一、別の面で言うなら、キリストの栄光である。もう一つは、死に対する命の勝利、永遠の命、甦りである。確かに、この二つは主イエスの教えの最も中心的な特色であり、ユダヤ人にとって乗り越えることの最も困難な躓きであった。
 第一の点については、5章18節で「神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされた」という言葉で示されて以来、繰り返し躓きとして問題にされたのを読んで来た。
 神を父とするのは、この8章の41節でもユダヤ人自身が言うのを読んだのであるが、神に対する信頼、神の守りの確かさ、嗣業の確かさを表現するに適切な、イスラエルの信仰に一般のものである。しかし、主イエスが言っておられたのは、それとは別の意味で、ご自身についてのみ言える深遠な奥義である。ヨハネ伝はこのことを冒頭の節から言い続けて来た。「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」。今日学ぶ要点も、結局ここに還って行くことになる。
 福音書記者はさらに続けて、1章14節で「そして、言葉は肉体となり、私たちのうちに宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みとまこととに満ちていた」という言葉で証言したが、神の独り子であることは、神の独り子としての栄光を持っているということでもある。
 そこで、主イエスは8章50節で、ご自身の栄光について述べておられる。「私は自分の栄光を求めてはいない。それを求める方が別にある。その方はまた裁く方である」。つまり、「私は、自分では自分の栄光を主張していない。私は主張しないけれども、別の方が私の栄光を主張しておられる。その方は裁く方であるから、私の栄光が示されているのになおそれを求めないない者があれば、その者は裁かれる」という意味である。それは、54節で言われるのと同じ意味である。ただし、私の栄光を受け入れない者が裁かれるということは、言われていない。54節、「私がもし、自分に栄光を帰するなら、私の栄光はむなしいものである。私に栄光を与える方は私の父であって、あなた方が自分の神だと言っているのは、その方のことである」と言われる。
 たしかに、主イエスは自分の栄光を主張しておられなかった。むしろ、栄光なき者であるかのように、しもべとしての遜りに徹したもうた。ついには、ご自身の栄光を全く擲ったかのように十字架の死を遂げたもうた。また、主は地上に生きておられる間、自分の栄光を求めず、父の栄光を求めたもうた。これはイスラエルが代々に亘って神の栄光を追求したのと同じようであるけれども、違うのではないか。神はイスラエルに光栄を約束されたが、ご自身と同じ栄光を与えたもうたのではなく、ただ父は御子にこそ栄光を与えたもう。他の者は御子を通じてこそ神の与えたもう栄光に与ることが出来るのである。そういうわけで、十字架において栄光を全く捨てたことが転じて彼の栄光になった。
 「私の栄光を求める方が別におられる。その方はまた裁く方である」と今訳しているが、「私の栄光を求める」というのは原文そのままではない。直訳すれば、「私は私の栄光を求めない。求め、かつ裁く方がある」である。だから、私は私の栄光を求めないが、父はご自身の栄光を求め、それを受け入れない者を裁きたもう」というふうに取ることも出来なくはないが、今見ているように読み取るのがここの言葉の読み方としても、聖書全体の読み方としても正しいと思う。すなわち、御子は父から全権を委ねられて派遣されたのであるから、御子を軽んじることは、これを遣わされた父を軽んじることになるのである。それは裁かれることなしには済まされない。
 次の節に進んで、今日学ぶべき第二点を見よう。51節、「よくよく言って置く、もし、人が私の言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」。いつまでもとは永遠にということである。
 この教えは我々にとって、最早初めてのものでも、聞き慣れないものでもない。5章24節はこれと内容的に同じであった。「よくよくあなた方に言って置く、私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の生命を受け、また裁かれることがなく、死から命に移っているのである」。
 この教えは6章でもしばしば繰り返された。例えば40節には、「私の父の御心は、子を見て信じる者が、悉く永遠の命を得ることなのである。そして、私はその人々を終わりの日に甦らせるであろう」と記されていた。永遠の命を受けるのは、5章24節で聞いた通り、そして今日8章51節でも学ぶように、キリストの言葉を聞いて、それを守り、キリストを遣わされた方を信じることによってである。そのことはまた、6章では、私の与えるパンを食べることとも言われ、さらに、私の肉を食べ、私の血を飲む、とも言われた。
 そのように既に聞き慣れている教えであるから、説明を繰り返す必要はないが、我々にとって全く良く分かっているわけではないのであるから、繰り返し聞くことは極めて大切である。
 「私の言葉を守る者」とここでは言われた。「言葉を守る」という言い方はここまでには出て来なかった。これ以後には頻りに用いられる言い方である。「言葉を守る」とは、教えを信じ、そこに留まり、命じられたことに服従する、という意味である。
 これは、私の戒めに従った者は、その業の報いとして父による裁きを免れ、永遠の生命を受ける、という意味で言われたものではない。行ないではなく言葉を信じることが第一である。しかし、服従を実行するという意味も第二に含まれる。服従の行ないとは愛である。
 「その人は永遠に死を見ることがないであろう」と約束された。この言葉を悪霊の唆した飛んでもない誤謬であると彼らは見た。永遠に生きることと死人の甦りとは、6章で見られたように、同一の事として把握して良い。
 今、主の語り掛けておられる相手のユダヤ人は、ユダヤ人の中でも主にパリサイ派であると考えられるが、彼らは死人の甦りは信じていて。このことではサドカイ派と始終論争していた。それだけにまた、パリサイ派の中には、主イエスに親近感を抱いて近付く人もいたのだが、パリサイ派の最大の特徴である律法主義は、主イエスに対して反発させるものでしかなかった。
 ところで、パリサイ派の理解する「死人の甦り」は、終わりの日の甦りであった。確かに、主イエスも6章39節で、「私を遣わされた方の御心は、私に与えて下さった者を、私が一人も失なわずに、終わりの日に甦らせることである」と言われたように、終わりの日に甦りが起こると教えたもう。しかし、イエス・キリストが齎らしたもうたのは、終わりの日に成就することの約束ではない。その程度の約束なら、ユダヤ人は旧約聖書によって知っている。主が齎らしたもうたのは。歴史が終わってから清算が付けられるというだけのことではなく、この歴史の中に終わりが持ち込まれ、終わりの日の甦りが始まるということなのだ。そのことの実証を彼はご自身の復活によって示したもうた。
 彼は甦りの初穂であり、彼一人が甦るのでなく、彼を信じる者は死んでも生きる。これはユダヤ人にとって余りにも驚きの大きいことであるから、多くのユダヤ人は、キリストによって始まった甦りを認めまいとしたのである。この51節のユダヤ人の言葉はそのような背景の事情のもとに理解出来るであろう。
 52節から53節に掛けて彼らは反発している。「あなたが悪霊に取り憑かれていることが、今分かった。アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それだのに、あなたは、私の言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろうと言われる。あなたは私たちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。
 あなたは一体、自分を誰と思っているのか」。
 キリストを信じたなら、途端に不死身になる、と主イエスが言われたようにユダヤ人は取った。それと同じ誤解がキリスト者に向けられることもあったらしい。いや、教会の中にもそういう誤解をした者がいたようである。しかし、キリストはそういうことを言われたのではない。先に述べたように、歴史のただなかで終わりが始まり、キリストの死と復活が歴史の中で起こり、それ故にキリストを信じる者は死に勝利した生を生きるということが教えられているのである。
 「アブラハムも死んだ。預言者たちも死んだ。イエスよ、あなたも死ぬ。あなたが死んで、あなたが歴史上の、追憶の人物となり、しかし終わりの日が来た時にあなたも甦ると信じているなら我々には何も異論はない」と彼らは言ったのである。
 「あなたは、一体、自分を誰と思っているのか」。イエス・キリストの側から、弟子に「あなたは私を誰と言うか」と尋ねられたことがある。我々の一人一人に対しても同じ質問が向けられると思って良い。我々は問われて答えなければならない。しかし、我々が主に答えを迫ることは出来ない。彼は「私は自分から来た者ではない」と言われるように、自分が何々であると表明することを殆どされない。私は光りである、命である、道である、命の水である、羊飼いである、というふうに、彼はたいてい直接的な答えを避けて、象徴的にしか言われない。ここでも、人々の論法の枠に乗るような言い方では答えたまわなかった。「あなたはアブラハムより偉いのか」と問われて、「アブラハムの生まれる前から私はいるのである」と答えたもうた。彼もまたアブラハムの子として生まれて来られたのであるが、同時にアブラハムより前に永遠の言葉としておられたのである。
   

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