◆説教2001.09.02.◆

ヨハネ伝講解説教 第88回

――ヨハネ8:43-47によって――

 42節で、主イエスは、私は神から出た者、神から来ている者、神から遣わされた者、という三通りの言い方をされた。この三通りの言い方は、基本的には同じことを言うが、ニュアンスは少しずつ違う。総合的に言って、御自身が神の本質をお持ちになり、父なる神と別な意図や主張を何も持たず、神の御心のままを顕しており、神から遣わされて来ており、この世に来ていることを明らかにしておられる。そして、それを踏まえて、43節で、「どうしてあなた方は私の話すことが分からないのか。あなた方が私の言葉を悟ることが出来ないからである」と言われた。
 キリストの言葉を聞いていても、分からない、という現実がある。言葉というものは語られると、聞かれ、そして理解される。それが当然で自明のことと考えられているが、実際はそうでない場合が、我々の日常生活のなかにもある。我々がそれに気付くこともあるが、気付かない場合も多い。分かったつもりでいるだけ。分かったことにして置くだけである。
 イエス・キリストの語りたもうお言葉も、本当は分かっていないのに、分かったことにして置く、というケースがあるのではないか。そういう問題をこの43節で突きつけられるのである。
 「私の話すことが分からないのは、私の言葉を悟ることが出来ないからだ」と言われるのであるが、これは、同じ言葉を重ねただけで、説明になっていないのではないか、という疑問があろう。それに答えて、「話すこと」というのと「言葉」は別のもの別の含みを指す、と答える人がいるかも知れない。この区別は無理であろう。
 しかし、「分かる」という言葉と「悟る」という言葉は区別さるべきだとして、分かっているが、悟っていないのだと説明する道が一つある。なるほど、この節で使われている「分かる」という言葉はギリシャ語では「ギノースコー」、知る、理解する、という意味の語で、「悟る」と訳されているのは「アクーオー」、聞く、聞いて悟るという言葉である。だから、聞いていないあなた方が悟らないのは当然であるということになる。先ず聞きなさい、そうすれば次に理解が出来るのだ、と主が言おうとされたと解釈することが出来る。一つの解決である。
 しかし、ここで主イエスが言われた意味はそうでないのではないか。ギノースコーとアクーオーは、言葉は違うけれども意味は同じと取れる場合もあることを考えなければならない。何よりも、同じ言葉を重ねる「見ても見ない。聞いても聞かない」という言い方があったことを思い起こそう。それと同じように、「分かったけれども分からない。
 悟ったけれども悟っていない」ということがあるのだ。だから、単語の違いの説明では問題の解決にならない。
 徒に面倒な議論をしているように思われるかも知れない。こういうことは一部の理屈好きな人だけが興味を持つことで、信仰の益にならないのではないかとも考えられるが、この機会に、信仰にとって「分かる」とか「分からない」とかいうことはどうなのかを思いめぐらしても無駄ではあるまい。我々は普段この言葉を不用意に使っていて、大事な問題に切り込むことが出来ないのではないか。
 「分かる」と言っていることは、「分かったけれども分からない」ということかも知れない。だから、そうならないように、少なくとももう一度は「分かったのか」と問い直さなければ、分かったことにならない、という意味を含む。だから、人は理解できたと思ったことを、何度も考え直して本当の理解に到達する。これが人生を真実に生きる知恵である。まして、信仰に関わる理解は、分かったと感じただけでは殆ど意味をなさない、ということに気付いて置こう。
 福音の真理について語るとき、分からなければ何にもならない、と言われる。確かにそうだと言える面がある。しかし、では、分かるように語れば良いのか。そうではない。
 分かっても分からない、という状況になるだけかもしれない。人は分からないうちは分かろうとする求めを持つが、分かったと感じてしまうと、その求めは消えてしまうのである。そして、それ以上に掘り下げて本当の所を理解しようという志はなくなる。これは主イエス・キリストが、マルコ伝4章12節で、譬えを用いて群衆に説教する理由を説明して、「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めて赦されることがないためである」と言われた事情である。譬えによって「分かった」という気になったことにより、肝心のことが分からなくなってしまう。これでは救いは得られない。
 「分かる」ということも大切には違いない。「分からなくても良いのだ」と言い放つのは明らかに間違っている。だが、分からせることを重要視し過ぎては危険である。本当に大事なのは「悔い改め」と「信頼」である。分かったように感じはしたが、悔い改めも信頼もないのでは、分かって分からないことなのだ。大事なことを浅薄な回答ですり替えたのだ。主イエスが今ここで指摘しておられる問題点はこれなのだ。しかも、主はさらに重大な問題に入って行かれる。
 44、45節で言われる、「あなた方は、自分の父、すなわち悪魔から出て来た者であって、その父の欲望通りを行なおうと思っている。彼は初めから人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音を吐いているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。しかし、私が真理を語っているので、あなた方は私を信じようとしない」。
 主イエスはここに、何もかも逆さまである二つの秩序を向き合わせておられる。すなわち、まことの父である神、これを本源として、神から遣わされたキリスト、そしてキリストに属する者という系列が一方にある。これと、偽りの父、悪魔、これを本源として悪魔に属する者の系列、この両系列を対比させておられる。あるいは、二つの王国と言っても良かろう。一方には真理があり、命があり、偽りはなく、死もない。他方には偽りがあり、死があり、真理と命はない。偽りの側に身を置く者は真理の側のことは全く分からないし信じない。さらに7節では、「神から来た者は神の言葉に聞き従うが、あなた方が聞き従わないのは、神から来た者でないからである」と言われる。
 神の側と悪魔の側を対照的に述べるのは聖書の正規の教え方ではないが、分かり易く教えるために、この対比が示されることも稀ではない。非常にスッキリするという利点がある。悪魔の系列が神の系列に戦いを挑み、キリストを殺した、と言うならば事柄は単純で分かり易い。我々がどちらを捨て、どちらを取るべきかがハッキリし、信仰の決断を促されるからである。
 このように対照的に論じることは本来の教え方ではないと言った。二つの原理を対立させる説き方、すなわち、所謂「二元論」であって、これは神の民の中にはもともとなかった。ペルシャの方から入って来たようである。すなわち、神のみが支配したもうのであって、本来、悪魔には神と太刀打ちする資格はない。何よりも、神は全てを創造したもうた。神の創造によらなければ何一つも存在出来ない。だから、悪魔ももとは神に創造された。ただし、創造されたままで留まったのではなかった。創造された状態は善の状態であったが、反抗して転落し、本来のあるべき姿勢と全く逆になったのである。――こういうことをキリスト教会の神学者たちは考えて来た。
 そういうわけで、創造者に対する被造物という位置づけから言っても、また、創造された状態から徹底的に堕落した負い目を負うという意味においても、悪魔は決して神と並び立つ原理になることは出来ない。本来は神の国、神の支配だけがあって、悪魔の国、悪魔の支配はない。一時的に悪魔の王国があるかのように見えることはあるが、その国は決して永遠でないことを我々は知っている。だから、一時的に悪魔が猛威を振るっている時代の中でも確信をもって耐え抜くことが出来るのである。けれども、悪魔が反抗出来ないにも拘わらず反抗していること、また神と並び立つかのように見える場合があることは事実である。
 悪魔について考えることは好奇心を喜ばせるかも知れないが、意味はないし、しばしば危険であるから、これ以上論じることは避けたい。主イエスがユダヤ人に、あなた方は「悪魔の子」だと言われたのは、彼らがアブラハムの子であると言い張るのをもじったもので、彼らの言い分を有効に否定するための論法である。すなわち、アブラハムの子であるならばアブラハムの業を受け継ぐはずである。ところが、彼らのしている業を見るならば、その先祖は悪魔ではないか、ということにならざるを得ない。
 彼らは悪魔から出て来た者であって、「その父の欲望を行なう」と言われる。38節では「あなた方は自分の父から聞いたことを行なっている」と言われたが、ここでは父の言うことに聞き従ってではなく、もっと直接的に、父の「欲望を行なう」と言われる。子は善にせよ悪にせよ父の業をする。だが、たまには良い業をすることがあるという意味はここではない。欲望を遂げることしかしないのである。欲望という言葉は、人に高い志と低い欲望があって、その低い方を指すように取られるかも知れないが、高いも低いも問題にならない。
 彼の欲望とは人を殺すことである。ただし、この人殺しは創世記4章に出て来るカインの殺人のことではない。勿論、無関係ではないが、カインの犯罪は人殺しの欲望の現われまた結果であって、欲望そのものではない。「彼は初めから人殺しである」とは、文字通り本源からのことを指しており、途中で人殺しになったということではない。「人殺し」とは、ここでは何よりも、命を否定すること、生きさせないことを言うのであって、サタンがアダムを唆した結果、アダムは永遠に生きる祝福を奪われ、死ななければならなくなったことを指す。すなわち、「殺す」とは「命を与える」ことの対極である。
 命を与えるのは第一に父なる神の業である。そして、子もまた命を与える権能をお持ちになる。5章21節に、「父が死人を起こして命をお与えになるように、子もまた、その心に適う人々に命を与えるであろう」と言われる通りであって、悪魔の国では、その真反対のことが行なわれる。
 「初めから」の人殺しとは、最初から最後までズッとそうであることを言おうとするものであるが、もう一つ、人殺しの事件として見逃してならない特別の殺人、主イエスを十字架につけて殺したこと、この出来事を初めから目指していたことを暗示している。
 ペテロは使徒行伝3章15節で「あなた方は命の君を殺してしまった」と言うが、「命の君」として来られた方を殺すこの殺人は、人類の歴史の中で数限りなく行なわれた殺人事件のうちの特異なものである。命によって生かされている人を殺すことと、命の本源、命の君を殺すこととは同列ではない。ヨハネ伝1章4節に「この言葉に命があった」ということを教えられたが、悪魔のしようとするのはこの命の抹殺であった。同列の殺人事件の一つが行なわれたのではない。
 カインがアベルを殺したことと、ユダヤ人がキリスト・イエスを殺したこととは、或る意味で同列であるが、同列と言えない面がある。また、ユダヤ人が神から遣わされた預言者を次々殺したのは、キリストを殺したことと一連の神に対する反逆であることは確かである。また、預言者が殺されたことは、キリストが殺されることの前触れであることも事実である。それでも、キリストの死は別のこと、空前絶後、唯一度のことである。マタイ伝21章にある葡萄園の主人の譬えでは、年貢の取り立てのために次々僕が遣わされ、それらが殺され、最後に主人の息子ならば敬われるであろうと期待して送られたが、これもまた殺されたので、主人は遂に最終の判断を下した。ユダヤ人に対する救いの計画は変更されることになったのである。不幸な行き掛かりや誤解から主イエスが殺されるに至ったと解釈されることがある。使徒行伝でペテロがユダヤ人に向かって、「あなた方は知らずに、救い主を十字架につけた」と言うのもそれであるが、それだけでは事柄を十分に捉えることにならない。キリストを殺した人たちは決然と殺したのである。初めから人殺しであった悪魔は、最大の殺人事件をキリストに対して行なったのである。
 ところで、初めからの殺人者は、キリストを殺すことによって生命の根を断ち切ることが出来ると見たのであるが、キリストは死の中から甦りたもうて、殺人者の意図は完全に挫折し、崩壊したのである。
 さて、神の系列と悪魔の系列の二つを対立的に挙げたが、一方に属する者は他方に移ることが出来ない。真理がない者は、真理がない故に、真理の言葉を聞いても聞けない。
 神から来たのでない者は神の言葉が語られても聞けない。聞けないから悟れない。悟れないから信じられない。信じないから悔い改めるに至らない、新しい命に生きることが出来ない、ということなのであろうか。悪魔に属する者は、偽りと死の絆で結ばれていて、初めから、生まれる前から真理に近付くことが出来ないようにされていたのか。
 ここで主イエスがそう言っておられるかのように受けとられるかも知れない。47節で、「神から来た者は神の言葉に聞き従うが、あなた方が聞き従わないのは、神から来た者でないからである」と言われる。彼らは聞くことが出来ないようにされていたのではないのか。
 なるほど、本人が如何に熱心であり、真剣であり、周囲が如何に善意であっても、一人の人を不信仰から信仰へと転換させることは出来ない。神の永遠の計画に逆らうことは出来ないからである。それならば、ここでは、神の永遠の計画によって、このユダヤ人たちは救いを決して得られない悪魔の国に入れられていたというのであろうか。
 しかし、ここで主イエスの言わんとされたのは、そういうことではない。自分たちはアブラハムの子だ、さらに神の子だ、と言い張ることによって、自分自身を追い詰め、悪魔の系譜に属する者だと決めつけられるようにならざるを得なくされる次第が明らかにされたのである。丁度、9章の終わりで、「もし、あなた方が盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなた方が『見える』と言い張るところに、あなた方の罪がある」と言われたのと同じ論法である。「見える」と言い張る限り、彼らは自分自身をがんじがらめにし、救いの望みは全くなくなる。しかし、「見える」と言い張りさえしなければ、望みが絶たれるわけではないのだ。同じように、このユダヤ人は「自分たちはアブラハムの子であって、奴隷になったことはない」などと言わなければ、「悪魔の子」、悪魔に属する者、命の道と縁のない者、と呼ばれることにはならなかったであろう。
 確かに、主イエスがここで語られる言葉は実に厳しい裁きの言葉であるが、「あなた方が頑なである限り裁かれる」と言われるのであって、最終の裁きではない。だから、使徒行伝で見るように、命の君を殺してしまった人々にも悔い改めの呼び掛けが行なわれ、少なからぬ人が悔い改めて、イエス・キリストを信じて、新しい命に歩み始めた。だから、ここでも、彼らはアブラハムの子であることを空しく主張するのでなく、キリストに立ち返る道はあったのである。
 これまで何度か見て来たように、アブラハムの子であることを誇りとし、それ故主イエスから厳しい批判を受けたユダヤ人を冷ややかに蔑んではならない。我々キリスト者も、クリスチャンという名を空しく誇り、見て見ず、聞いて聞かず、分かったような顔をしていて分からないという状況に落ちないとは言えないのである。繰り返し悔い改めに立ち返らなければならない。
   

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