◆説教2001.08.19.◆

ヨハネ伝講解説教 第87回

――ヨハネ8:38-43によって――

 主イエスは、ご自分が父のもとで見たこと、受けたことを地上で語るのだと主張される。これまで繰り返し言われたのと同様である。5章19節で言われた、「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることが出来ない。父のなさることであれば、子もその通りするのである」。また、7章28節で「私は自分から来たのではない」と言われる。これは、8章42節で、「私は自分から来たのでなく、神から遣わされたのである」と言われることと重なるが、自分がないと言われるのでなく、私の言うことは父が言われるのと同じだという意味である。 
 8章38節で「父のもとで見たことを語る」と言われたが、これは、例えば人の滅多に行けない所に行って来た人が、見て来たことを人に語る場合と同じように考えてはならない。単に見てきただけの情報を伝えるのではない。これは「私の言う言葉は、父のもとにおける現実を啓示したものである」という意味である。 
 ご自分が父のもとで見たことをそのように伝えるのと違って、「あなた方は自分の父から聞いたことを行なっている」と言われる。ここでは、「父」という言い表しのもとで、別々のものが指し示されている。そのことにユダヤ人は気付かない。主イエスが「私の父」と言われるのは神である。一方、「あなた方の父」と言っておられるのは、44節でハッキリするように悪魔である。神の子と悪魔の子の対立としてこの場面を捉えておられる。 
 ユダヤ人を「悪魔の子」と決めつけるのは酷すぎる言い方ではないかと感じる人があるかと思う。それはそうかも知れない。しかし、子は父のなすことを見てそれを行なうという原理があるなら、イエス・キリストのなしたもう業が父の業であるのに対し、ユダヤ人のなす業、すなわち神の遣わしたもうたキリストを殺すことは悪魔の業であるから、彼らは悪魔の子だということになるほかない。 
 ユダヤ人が主イエス・キリストを殺したのは何故であったか。5章で見たように安息日を破り、神を自分の父と呼んだことが理由だとされる。要するに、神を冒涜したからであると彼らは主張する。 
 しかし、本当にそうだったのか。安息日を汚す人は外にもいた。そういう人は軽蔑されたが殺されはしなかった。ユダヤ人が主イエスを殺した本当の理由はほかにあった。邪魔だったから殺したのである。邪魔な人が存在しているとき、その存在そのものを消そうとする。例えば、最初の殺人事件はカインが弟アベルを殺したことであるが、二人が争っていたからではない。利害が衝突したのでもない。アベルの捧げ物を神が顧み、カインの捧げ物は顧みたまわなかったということがあっただけである。自分よりも大きい顧みを受けている人がいることが邪魔であった。ユダヤ教が真理として教えていることを越えている教えを説く者は邪魔であった。 
 ユダヤ人のした行動が「悪魔の子」の業であるとは、彼らの業が結局キリストを殺すことであった所から遡らなければ確認出来ない。よく見ないと、キリストが殺されたのは、悪魔の業でなく、人間の業であり、人間の責任ではないかと我々は考えてしまう。だからこそ、キリストの死がよそごとでなくて、我々の問題に帰結する。それが悪魔の業であったということなら、我々の救いとの結び付きはないのではないか。 
 確かにそういう面はある。あの時のユダヤ人が悪いことをしただけでなく、私が主を殺したと把握することが重要である。しかし、私自身と全ての人の中に巣くっている悪の傾向が主を死なせたという理解は、真理にかなっているが、それだけでは事実を把握し尽くせない。「悪魔の業」という捉え方は、神話めいていて警戒が必要であり、理解しにくいものを含んでいるが、それでも非常に重要なことを教える。 
 ある人を指して「悪魔」とか「悪魔の子」という言い表しが聖書には時々出て来るのであるが、勿論、この言葉は慎重に扱わなければならない。我々が自分に敵対する者を悪魔と呼ぶことは慎まねばならない。人を悪魔呼ばわりすることによって、自分を同じ呪いに陥らせることにしかならない。 
 ここで思い起こされるのは、6章70節で主イエスが「あなた方十二人を選んだのは、私ではなかったか。それだのに、あなた方のうちの一人は悪魔である」と言われたお言葉である。イスカリオテのユダを「悪魔」と呼びたもうたのである。 
 悪魔については、Iヨハネ3章8節に「罪を行なう者は悪魔から出た者である」と言われるように、罪の業を行なう者を一般的に「悪魔」とか「悪魔の子」と言うことがある。だから、我々自身が悪魔の業を行なう者にならないように注意しなければならない。しかし、悪魔の業を無制限に広い範囲に適用出来ると考えないようにしたい。神の遣わしたもうた御子を十字架につけたことこそが悪魔の代表的な業なのだ。 
 それは歴史の中で唯一回起こった出来事であるという点を見落とさないようにしよう。 
 悪魔の業は或る意味では常時行なわれている。人々は悪魔に唆されて悪の業を数え切れないほど行なっている。我々が日常犯す罪、日常ついうっかり語ってしまう偽りの言葉、これが悪魔に由来することは確かなのだ。しかし、悪魔が後にも先にも例がないほど全力を傾けて当たったのは、神から遣わされた御子を消し去ることであった。悪魔はあらゆる手だてを動員してイエス・キリストを罪に定めた。そしてこのことに成功したと見られた。ところが、そう見えたとしても、実際は悪魔の没落であり、キリストの勝利であった。すなわち、悪魔はキリストを罪に定めたが、神は彼を高く挙げて、勝利者の栄光を帰したもうた。Iヨハネ3章8節は「神の子が現われたのは、悪魔の業を滅ぼしてしまうためである」と言っている。神の子は、悪魔の力と悪巧みに敗れたのでなく、むしろ勝利したもうた。悪魔の没落は十字架に始まったのである。 
 ここでユダヤ人らはもう一度、「私たちの父はアブラハムである」と言う。主イエスの言われることと噛み合わないのであるが、それは彼らの迷妄の故である。これは43節で、「どうしてあなた方は、私の話すことが分からないのか。あなた方が。私の言葉を悟ることが出来ないからである」と説明される通りである。 
 彼らは、自分たちはアブラハムの子に課せられた律法を守って励んでいるから、アブラハムの子としての証しを立てていると言おうとするらしい。しかし、主イエスは「あなた方が父と思っているものは実は悪魔である。すなわち、子ならば父の業をするからである。アブラハムの子ならアブラハムの業をすることによって、アブラハムの子たる証しを立てるべきである」と言いたもう。 
 さらに主は言われる、「ところが今、神から聞いた真理をあなた方に語って来たこの私を殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった」。 
 ユダヤ人のしたのは、真理を語るキリストを沈黙させるために、その存在を抹殺することであった。自分たちが真理と思っている以上のことを聞かなくて済むように、地上で真理の言葉が語られることがなくなるように、語る人をなき者にしようというのである。 
 ユダヤ人が主イエスを殺そうとしていたことは、5章18節以来何度も触れて来た。人々がそこまで考えるよりも先に、彼がご自身の死を予告される。7章にはしきりに出ていた。7章の初め、ユダヤ人が殺そうとしているから、今回の仮庵の祭りには行かない、と言っておられたのに、後で密かにエルサレムに上って行かれ、祭りの半ばには公然と姿を現して宮で教えたもうた。つまり、身の危険を覚悟された。 
 彼を殺そうとハッキリ意図していたのは、当初ユダヤ人の指導者だけであった。彼らは下役にイエスの逮捕を命じる。ところが下役はその命令に反抗して、主イエスを逮捕しないままで帰って来る。「この人の語るように語った人はこれまでなかった」と7章46節に言う通りである。まして一般民衆は彼を殺そうとは全く思っていない。7章20節にあるように、群衆はご自身の死を語る主イエスに「あなたは悪霊に取り憑かれている。 
 誰があなたを殺そうと思っているか」と反発した。「あなたは被害妄想だ」と言っているのである。 
 今、主イエスがこの言葉を語るのは、ユダヤ人の中でも彼に対して一番敬意を払っている人たちに向けてである。31節には「ご自分を信じたユダヤ人に言われた」と書かれていた。ここで「信じた」という言葉にそれほどの意味がなかったと言えるとしても、彼らは実際に信じて、その言葉を受け入れたのであるから、この人を殺そうとしているとは、本人たち自身も気付いていない。しかし、主イエスを殺したのは、初めから露わに対立的であった指導者だけでなく、比較的良識のある、穏健な人もそれに加わったのである。先には不服従であった下役も、18章3節を見ると、主イエスを逮捕するために、ユダの道案内でゲツセマネにやって来ている。謂わばキリストを殺すために全世界が立ち上がる。 
 ここで、先ほど来、しきりに出て来た「悪魔」という言い方に留意すべきであろう。人間の為す業として見ていたのでは、説明し切れない悪の面が残ると言った。勿論、人間は悪い。好い加減だ。しかし、好い加減な人間の思いがブツカリ合って、互いに牽制するので、悪をなすにしても余り酷いところまでは行かないのが普通である。悪魔的意志が働かなければ、一つの方向に結集して全力で突っ走ることにはならない。 
 世界の歴史を見ると、悪が満ち満ちていながら、悪同士が相殺し合って、さほど大きい悪を成し遂げ得ない場合と、悪が一方向に向けて結集する場合とがある。イエス・キリストの十字架は悪の結集であった。普通の意味では主イエスに対して好意的である人も彼に対する憎しみに巻き込まれた。主イエスに従って来た弟子、ガリラヤから来た支援者も、彼の身を守ることはしないで散り散りに逃げ隠れてしまった。弟子の一人が裏切って主の身柄を祭司長に引き渡した。律法にしたがって行なわれるはずの裁判が、正しく機能しないで、あるべからざる結論を出してしまった。ピラトは無罪判決を出すべきだと判断したにも拘わらず、十字架刑を言い渡してしまった。人間の悪だけでは説明し切れない。 
 このように、悪魔が介入して来るケースは、稀なのではないか。いや、後にも先にもないほど、と言って差し支えないのではないか。だから、我々が日常見ている人間の悪や卑怯さでキリストの受難を或る程度は説明出来たとしても、何か物足りないものが残る。悪魔の業と言うほかないような要素が働いていると見なければ、十分納得出来ない。 
 「あなた方は、あなた方の父の業をしているのである」。――ここにおいて彼らは、キリストが「あなた方の父」と言っておられるのは、自分たちが父と思っているのと別の者だと気が付く。そこで彼らは憤慨して、「私たちは不品行の結果生まれた者ではない」と言い張る。 
 「不品行」とは正式の結婚の関係を否定する関係である。すなわち、名目上はアブラハムの子ということになっているが、実は母の不品行によって別の男を父親として生まれているということである。「不品行による出産」とは、母とその子を故なく耐え難い侮辱に遭わせることになるではないか。我々をそのように侮辱するのか、といきまいている。 
 この言葉に関しては、もう一つ、「あなたは不品行によって生まれたかも知れないが、我々は違う」という底意地の悪い主張が含まれているようにも読むことが出来る。マリヤが結婚していないのに妊娠したことを人々が問題にしたらしいことが、他の福音書では読み取れるが、ヨハネ伝に登場するエルサレムのユダヤ人がそういうことを知っていたことはあり得る。そういう悪評が少なくとも次の時代にあったことには証拠がある。 
 それに続いて彼らは言う、「私たちには一人の父がある。それは神である」。――ここでいきなり神を唯一の父と呼ぶのはどうしてかという疑問が起こる。「我々の父はアブラハムである」と言い張っていたが、それ以上は言えなかったのではないか。ユダヤ人の間に神を父と呼ぶ習わしはあったのか。5章18節にはこう書かれていた。「このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それはイエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しい者とされたからである」。だから、彼ら自身も神を父と呼んではならなかったはずである。 
 一人の父、すなわち神から来たとは、己れの正しさの主張であると共に、恐らく主イエスに対する対抗意識があったのだ。「イエスよ、あなたが自分の父は神であると言うなら、我々も同じように言えるのだ。神を父と呼ぶことが旧約聖書の中にあることを我々は知っている。しかし、その呼び方をするのは恐れ多いから慎んでいる。あなたがその慎みを破棄して、神を父と呼ぶなら、我々にだってそれは出来る」と言いたかったのであろう。 
 ここに彼らの混乱がある。彼らが神を父と呼んだことについて、異を称える必要はない。神は旧約においてすら、ご自身を父として示しておられた。神の真実と慈しみを受け入れて、「父よ」と呼ぶことは正しい。しかし、主イエスと張り合って、権利意識で、「あなたが言うなら私も言う」というのでは根拠にならない。 
 神を父と呼ぶのは、新約信仰の特色であると我々は普段教えられている。特色というなら、確かにそうである。主イエスがそれを積極的に教えたもうた。旧約のおいては、神は超越的主権者という面が特に強く打ち出されている。それでも、旧約聖書には、神がご自身を父として示したもう実例が沢山ある。申命記32章6節、「主はあなたを生み、あなたを造り、あなたを堅く立てられた、あなたの父ではないか」。詩篇89篇26節、「彼は私に向かい『あなたは我が父、我が神、我が救いの岩』と呼ぶであろう」。 
 なおまた、異邦人の間でさえ神を父のようなものとして捉えることがあった。使徒行伝17章を見ると、パウロがアテネで説教して、異教徒の詩人でも「我々も確かに神の子孫である」と言っていることを肯定的に取り上げている。神が父であることは自然感情からも言えなくはない。しかし、そう考えることが出来るというだけで、確かさは何もない。キリストが保証して下さらなければ我々が神の子であることの確かさはない。 
 我々が神を父として信じ、従うのは、イエス・キリストにおいてであるが、ユダヤ人たちの主張とは全く異なる根拠による。我々はキリストを信じるから、神が父であることは単なる観念や願望でなく、キリストにおける確乎たる事実となる。だから神を父として信じて受け入れるのである。ところが彼らはキリストと対立して張り合い、彼が言うなら我も主張しようと言うのである。 
 人間の間においては、父と子の間柄は同じ性質を受け継ぐ関係を意味している。しかし、聖書が我々に教える神と人との関係においては、神と人とは異質である。神の真実の故に神は我々に対して父であり、神に対する信頼の故に我々は神の子なのだ。ユダヤ人がアブラハムを父と言うことについても、彼らの主張に基づくなら、アブラハムと同じものを持っていなければならなかった。だから、アブラハムと同じ業をするが良いと言われる。つまり、アブラハムの信仰を継承せよということである。神が父であると言う場合も、神の子たるに相応しい証しを示せと要求されることになる。 
 神から来たということについて、同じ性質、同じ賜物を持つとは言えなくても、神から来た者は神の御心にそって全てのことを行なうはずである。そして、神の御心にかなう業とは、神から遣わされたお方を受け入れ、愛することである。 
 そこで、主イエスは42節に言われる、「神があなた方の父であるならば、あなた方は私を愛するはずである。私は神から出た者、また神から来ている者であるからだ。私は自分から来たのではなく、神から遣わされたのである」。 
 神が父である者はキリストを愛するというハッキリした印しを持つ。これが今日の教えの核心部分である。そのことを、続いて行われる聖晩餐においても確認しよう。 
   

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