◆説教2001.08.12.◆

ヨハネ伝講解説教 第86回

――ヨハネ8:36-37によって――


前回学んだ35節で、主イエスは「子」と「奴隷」の対比をお示しになった。ここで言われた「子」は、神の子であるご自身のことを指すのではなく、ユダヤ人が自称している「アブラハムの正統の子孫」としての子を指したものであると我々は読む。すなわち、奴隷たる母から生まれたアブラハムの子イシマエルも、或る意味ではアブラハムの子に違いないが、その実体は女奴隷ハガルから生まれた奴隷であった。奴隷は家を継ぐことが出来ず、やがて去らなければならない。 
ここで語られた要点はそういうことであるが、「子」という言葉には、主イエスがご自分を指して言われる意味もあることに我々は気付いている。すなわち、神の子を指すという含みがある。したがって、今見たことは、神の子である我々にも当てはまる面がある。つまり、我々が神の子であって、神の奴隷でないということ、これは今ここで学ぶべき中心テーマではないが、これを考え併せて置くのは有意義である。すなわち、36節で学ぶ「自由」をよく咀嚼するためには、「奴隷」でなく「子」なのだということが確立していなければならない。 
そこで36節の御言葉を聞こう、「だから、もし、子があなた方に自由を得させるならば、あなた方は本当に自由な者となるのである」。 
このお言葉は我々には最早少しも難解ではないから、説明の必要はない。だが、「分かった」ということで、卒業してしまうのではなく、ここで受けた認識をさらに掘り下げることを怠らないようにしよう。 
四つの点から掘り下げて行きたいが、第一は「子が自由を得させる」の「子」が何かという点である。これはユダヤ人たちが「我々はもともとアブラハムの子であり、自由人であって、人の奴隷になどなったことはない」と主張したことの中にしぶとく主張されている思いと対決するものとして読み取らなければならない。「子」の意味はここでは前の節のそれから一変して、「神の子」、「独り子」、キリストのことである。我々もアブラハムの子であるから自由なのだ、と言い張ることの許されない意味での子である。そして、この「子」によらない自由は、偽物、架空のものであるということが示される。 
「アブラハムの子孫であるから、自動的に、生得的に、また自明の権利として、我々は自由人である」というユダヤ人の厚かましい安心感、あるいは思い上がりは成り立たない。ここではまた、その他の手段によって自由人となることは出来ないという主旨であることに留意させられる。自由に至る道筋は一つしかない。すなわち、神から遣わされた御子を信ずることがそれである。 
では、子が自由を得させることが出来るのは何故か。それは32節で聞いたように、「真理」によってこそ自由が獲得されるのであって、その真理を保持し、その真理に与らせて下さるのは、神が世に遣わしたもうた御子だけだからである。「私は道であり、真理である」と言われる方によってこそ真理は我々のものになる。 
さらに掘り下げて置きたいが、「真理が自由を得させる」とは、どういうふうにしてであろうか。これを、キリストが真理を持っておられ、その真理を我々に分け与えて下さるとき、真理を持った者は自由になる、というふうに理解しても良いであろう。譬えを借りれば、昔の人の間で「哲学者の石」という物があると空想されていた。この石を手に入れれば、自由になり、永遠に生きることが出来ると考えられ、人はこの石を捜しに長い旅に出た。真理がその石のような物であると考える人はいるかも知れない。その石を持つのがイエス・キリストであって、彼を信ずる者にはこの石を与えられる権利を得るのであって、これを持つことによって自由になれる、と信じられたかも知れない。だが、これは余りにも迷信的、お伽話的な理解で、我々はとらない。 
ご自身自由である御子が、彼を信じる者にご自身を与えたもう時に、信じる者も自由になるのであるが、その自由とは、箱に入った宝物とか、自由人であることを証明する権利書のようなものとして理解してはならない。自由は物ではなく、キリストが自由でありたまい、その自由に我々が与るという出来事が起こることなのだ。そしてキリストの自由に与るのは、キリストそのものに与る結果なのだ。 
「自由」ということは、自由であると感じる気分というようなものでなく、「奴隷」とか「隷属の地位」と対照される「身分」として捉えた方が分かり易い。だから、自由とは自由人の身分を持つこと、人権を十全に認められて生きることである。自由になるとは、具体的イメージとしては、奴隷が奴隷でなくなる出来事である。これは二つの側面から捉えることが出来る。一つは、解放者が来て、奴隷の身代金を払ってくれて、奴隷の束縛がなくなることである。すなわち、キリストがご自身の血をもって我々を罪の奴隷としていたその負債を償って下さったことである。もう一つのイメージとして、自ら奴隷となって下さった方が、奴隷の立場から自由人へ、僕から主へと立場を逆転したまい、その転換に我々を与らせて下さったことである。聖書はこの二通りの言い表しをしている。この二つを重ねることによって理解が確かにされるであろう。 
第二の掘り下げであるが、「本当に」という言葉に目を向けなければならない。我々の日常会話の中に「ホント」という語彙が口癖のように頻発されるので、我々はこの言葉に鈍感になっているかも知れない。それだけに、シッカリ聞き取って置かなければならない。主は軽々しくこの言葉を使っておられるのではない。 
ここで「本当に」あるいは「真実に」と訳されたギリシャ語は、こう訳するほかない言葉である。そして、現に我々が使っている通り、かなり広がった意味を持つ。我々が人との話しの中で「ホント?」と言う時の意味合いの多様さを考えて見れば良い。確かめるために、あるいは納得するために言う場合がある。嘘ではないかと、否定を含めて言う場合がある。空想でなくて現実、観念でなくて実体ということを強調する場合もある。それらの多様な意味を絞り込んで見ると、「本当に」とは、「真理」と「確かさ」の二つに対応したものである。ただし、ここに使われる「本当に」という言葉が、「真理」という名詞をもとに作られたわけではない。真理という言葉から作られた「本当に」という言葉もある。例えば、直ぐ前の31節に「本当に私の弟子なのである」と言われた時の「本当に」は36節の「本当に」とは別の言葉である。また、ヨハネ伝1章47節に、主はナタナエルを指して「見よ、あの人こそ、本当のイスラエル」と言われるのもそれであるが、言葉は違うが意味は同じであると見なければならない。 
理解を深めるために、「本当」でないのに「本当」だと思っている場合と対比して見れば良いであろう。自由になっていると思っているが、それは他者によって欺かれたか、自ら欺いているか、本当のところ自由になっていない、という場合が極めて多い。ユダヤ人が自分たちはキリストなしで自由だと胸を張っていたが、本当に自由なのかと自ら検討すべきであった。この検討方法は我々にも有効である。我々も自己検討を怠ってはならない。 
さて、アブラハムは本当に自由であったと我々も考えて良い。しかし、アブラハムが本当に自由であったからといって、その子孫が、当然のこととして、本当に自由だと言えるであろうか。神の約束があるからその子孫は自由人であるとは、理論的・形式的には言えるとしても、それが「本当に」自由であることになるのか。 
我々が自由についての教理の解説を聞いてよく分かったとする。だが、分かったということは「本当に」自由になったことと同じではない。絵に描いた餅は完璧に描かれたとしも「本当の」餅ではない。解説されて理解された自由は、「本当の」自由とは別である。ということは自由について教えられることに意味がない、と言おうとするのではない。教えられることは必要であり、分かることも必要だが、自由について分かることと、自由である現実とは別である。「本当に」自由であるとはそのことなのだ。 
「本当に」という言葉にはまた、31節で「留まる」という言葉について、35節で「いつまでもいる」という言葉について読み取った意味、すなわち持続性という意味がある。 
本当の自由人であるかのように一時的に振る舞うとしても、続かない。それは「本当の」自由人ではないからである。 
ここで「自由」と言われたことを「救い」と言い換えた方が分かり易いかも知れない。 
本当でない救いに満足している場合がある。「本当でない救い」と言われる実情に、実に好い加減に生きる場合と、「本当でない救い」に熱中している場合とがある。本当の救いとは、永遠に揺らぐことのない基礎の上に立てられたものである。その人が試練によって一時的に揺らぐことはあるのだが、救いの基礎そのものは揺るがない。 
第三に、当然、「自由」という言葉、その実質、その実体を掘り下げなければならない。これは一回で語り尽くせるものでなく、また今ここで論じ尽くす必要はないであろう。「自由」という言葉ほど多彩な語られ方をする言葉はないかも知れない。だから、「本当に」自由である場合に限って論じた方が良い。 
第四に「あなたがたは自由な者となる」の「あなた方」である。自由とは「奴隷ではない」ことと言い換えれば良い。そして、名義だけ或る意味で子であるが実際は奴隷に過ぎないのと違い、正真正銘の自由な子であると、前の節で言われたことをここに読み入れるべきであろう。大事なのは、どこかの誰かでなく、あなた方が自由になる点である。 
つまり、抽象的にまた他人事として自由について考えるのでなく、あなた方自身が自由人として生きていることを確認して示さなければいけない。これは、あなた方自身の自由こそが重要であって、あなた方以外の人々の自由を考える必要がない、という意味ではない。社会的自由の場合、自分が自由でありさえすれば、他の人が不自由であっても構わないとは言えない。奴隷労働を強いられている人がこの世に一人でもいるならば、私は本当には自由でない。それと同じことが霊的自由に関しても言えるのであって、霊的奴隷がいる限り、私は決して真の自由の境地に達していない。だから、終わりの日、主が全てにおいて全てとなりたもう日に至るまでは、完全な自由はない。しかし、今は他の人の自由のことは差し置いて、自分自身の自由を良く捉えなくてはならない。 
37節に移る。「私はあなた方がアブラハムの子孫であることを知っている。それだのに、あなた方は私を殺そうとしている。私の言葉があなた方のうちに根を下ろしていないからである」。 
ユダヤ人が人種的にアブラハムの子孫であることを、主イエスは勿論否定されない。だが44節に、「あなた方は自分の父、すなわち、悪魔から出て来た者であって、云々」と言われる。「アブラハムの子でなく、悪魔の子だ」とあからさまに語られたのだが、限定された意味でならば、アブラハムの子孫と認めてよい。しかし、限定された意味であっても、アブラハムの子孫であるならば、先祖に倣ってアブラハムの業を受け継ぐことによって子であることの証しを立てねばならない。すなわち、父の信仰に倣わなければならない。もし、そうしないならば、限定された意味すら自分で否定してしまうことになる。 
主イエスのこの御言葉は、マタイ伝3章9節のバプテスマのヨハネの言葉を思い起こさせる。「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思っても見るな。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことが出来るのだ」。ヨハネはユダヤ人に対して悔い改めを迫り、裁きが迫っていることを告げた。 
また、パウロはローマ書2章28節で「外見上のユダヤ人」と「隠れたユダヤ人」の区別を語っているが、これも似た構造の教えである。 
あるべきイスラエルと、現実のイスラエルとの間には食い違いがあり、放っておくとその食い違いはますます大きくなる。それ故、神がしばしば預言者を遣わして、イスラエルを本来の姿に立ち返らせようとしたもうたことを、我々は旧約の歴史の中に見ている。本論から若干それることになるが、神のこのみ業は今日も続いていて、それがあるから、我々はキリストの民の本来の位置からの逸脱を指摘されて、繰り返し軌道修正を迫られる。もし、その警告がなくなれば、キリストの教会は名前だけの集団になって軌道の外に出てしまう。そこには約束も祝福もない。それは謂わば味を失なった塩であって、時が来れば、いや、時の来る前に捨てられて人に踏みつけられてしまう。 
さて、それではアブラハムの業、アブラハムの本領とは何か。これは繰り返し聞いているように、「アブラハムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」という創世記15章の言葉に焦点が絞られるものである。アブラハムが善行を行なったから、子孫も良い行ないをしなければならない、という程度の理解では核心に達していない。また、これはヨハネ伝6章28節で聞いたことと一緒である。「そこで、彼らはイエスに言った、『神の業を行なうために、私たちは何をしたら良いでしょうか』。イエスは彼らに答えて言われた、『神が遣わされた者を信じることが、神の業である』」。つまり、神の遣わされた御子を受け入れること、信ずることがアブラハムの子である実質になる。 
「それだのに、あなた方は私を殺そうとしている」。アブラハムの子に全く相応しくない行為ではないか、と言われる。――この後、56節で主は、「あなた方の父アブラハムは、私のこの日を見ようとして楽しんでいた。そして、それを見て喜んだ」と言われるが、これは、アブラハムがその全力を傾けて求め続けたものが何であるかを示されたものである。アブラハムの子なら、そのようなアブラハムに倣わなければならないではないか。 
ところで、神から遣わされた御子が人々の手に掛かって殺された事件には、神の御旨に対する人間の徹底した反逆という面と、この邪悪によって神の御旨が遂行されたという面とがある。これは人間の理解を遥かに越える神秘であるが、神の御旨がここにある。 
では、キリストを殺した人は、神の言葉に服従したのではないか。そうではない。神の決定された計画通りのことが起こったとはいえ、これを信仰の服従と見ることは出来ない。 
主はこの事情を説明して、「私の言葉が、あなた方のうちに根を下ろしていないから」と言われる。「私の言葉」とは父から受けて私が語る言葉である。その言葉はとにかく人々の耳に届いた。しかし、根を下ろさなかった。「根をおろす」とここで訳されたのは、根がだんだん深く伸びて行き、実を結ぶに至るという意味に取って良いが、言葉自体は単純に場所を持たないという意味である。主が種蒔きの譬えで言われたように、種が蒔かれたけれども、根を下ろさずに枯れたことを思い起こしながらこう訳したのである。 
事柄を理解するために、種蒔きの譬えを思い出すことは有意義である。すなわち、種は蒔かれなければならない。しかし、蒔かれただけでは殆ど何にもならない。根を下ろさなければ、種は芽を出したまま枯れてしまうのである。種が蒔かれなかったならば、種として保存されて、生命を保つが、蒔かれてしまったばかりに枯れてしまう。そのような蒔き方にならないためにどうすべきかについては、今は述べなくて良い。 
彼らが主イエスの語られる言葉を聞いて「信じた」ということを30節で読んだ。そのようにして信じた人に主は語っておられるのであるが、「あなた方は私の言葉を一応信じたけれども、その言葉はあなた方のうちにシッカリ定着しているわけではない」と言われる。だから、あなた方は私を殺すことになる。 
み言葉を聞いて受け入れていても、言葉がその人の内面に入って行かなければ、空しいのである。我々の場合もそうである。我々は聞いた言葉が根を下ろすよう、御霊の働きを祈り求めねばならない。  

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