◆説教2001.08.05.◆

ヨハネ伝講解説教 第85回

――ヨハネ8:33-35によって――


「あなた方は私の言葉に留まるなら、私の弟子になる。そして、私の弟子になるなら、真理を知るのである。そして、真理を知るなら、あなた方は自由になれる」と主イエスが宣言された時、ユダヤ人はまたもその言葉を理解しようとしなかった。「お前の世話にならなくても、我々はアブラハムの子孫だからもともと自由なのだ」と彼らは突っかかって来る。ここには、我々にも共通する思い上がりと不信仰という問題がある。「イエス・キリストの世話にならなくても、自分は自由ではないか」と言っている人たちが我々の周囲にいる。というよりも、我々のうちに同じ傾向がある。すなわち、31節で見たように、主イエスはご自身を信じたユダヤ人に言われた。そして彼らがそれに反発した言葉が、「我々はアブラハムの子なのだから自由ではないか。一応信じているがあなたなしでも生きられる」という言い方である。 
自分が「アブラハムの子」だ、という言い方は、我々の間では余り頻繁には聞かないが、こういう言い方が出来ることは良く知られている。聖書は、旧約だけでなく新約も、アブラハムを「信仰の父」と呼んでいる。アブラハムの信仰を受け継ぐ者は、血縁においては無縁の者であっても、真実のアブラハムの子なのだ。だから、異邦人のキリスト者も、ユダヤ人がアブラハムの子であることを誇ったのと同じような誤りに陥ることはある。 
それは兎も角として、もっと単純な意味での思い上がりが人々のうちにあって、「キリストによって自由にされる必要などない。我々はもともと自由ではないか。特に私はキリストを必要としない満ち足りた人生を送っている」と言い切ってしまう傾向が非常に強いのである。自由なつもりで、ドンドン自由を捨てて行き、しかも自由であると威張っている人が沢山いる時代である。 
しかし、その時代状況に説き及んでいると、ヨハネ伝の今日のテキストの学びが進まなくなるので、ここではその問題を差し置いて、ユダヤ人がこのように言った事情を考えて見ることにする。彼らは、自分たちはアブラハムの子孫だから、特権を受けている、という一点に固執するのであるが、今日はここから、特に、「アブラハムの子」とは何であるかをめぐっていろいろなことを学ばせられる。これは聖書全体を把握する上で非常に重要な点である。 
33節から学んで行こう。――こう記されている、「そこで彼らはイエスに言った、『私たちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは一度もない。どうして、あなた方に自由を得させるであろうと、言われるのか』」。 
この反論について、聖書を或る程度読み慣れた人なら、説明は不要であろう。だが、もう少し深く読んで置いた方が良いと思う。さて、ユダヤ人は誇り高い民族であった。その誇りがこの言葉の中に鮮明に現われ出ている。その誇りの彼らなりの理由付けも表明されていて、これは人類が誰しも持っている自尊心と同じものではない。人々は誰も、自分が一番偉い、と思っているが、その根拠を問われると、確かな理由が何もないことを認めなければならない。しかし、ユダヤ人は誇りの根拠を示し得るのである。 
「自分たちはアブラハムの子孫である」と、ユダヤ人はキリストによる自由を拒絶する理由を挙げる。では、アブラハムの子孫が何故自由なのか。彼らはその確かな理由を踏まえているつもりである。すなわち、我々は他の人と違って、アブラハムの約束を受け継いでいるからである、と彼らは考える。これは、それなりに筋の通った、聖書の裏付けのある主張であると認めねばならない。 
神は全世界の創造者であられるが、ご自身を誉め讃えるに最も相応しい被造物として人間をお造りになった。しかし、造られた人類は神礼拝という目的から全く外れて生きている。さらに、神はご自身の自由な決定によって、全人類の中からアブラハムとその子孫だけを特別に選んで、これに御言葉を語り掛け、これと契約を結び、祝福を約束するとともに、使命を授けたもうた。すなわち、「あなたの子孫によって世界の全人類は祝福を受ける」という創世記12章2節3節にある使命である。その使命はまた、律法を守ることであるとも言えるであろう。自分たちには律法がある、ということが彼らの誇りであった。 
例えば、割礼を守ること、安息日を守ること、刻んだ像を持たないこと、これらは聖なる民であることの記しとなっている。他国人はこの記しを持たない。そして我々は主の聖なる民であるから、世界の諸民族に君臨することが出来る。そういう約束が豊かに与えられている、と彼らは考えた。だから、律法遵守に固執することになるのであるが、大真面目に固執すればするほど、律法の本来の意味は見えなくなり、神を愛することも、隣り人を愛することも疎ましくなり、律法が課せられた目的も見失われて行った。 
もう一つ、彼らはアブラハムの血統のことをしきりに強調する。それは聖書の歴史もシッカリ教えるところであるから、的外れとは言えないであろう。すなわち、アブラハムには、妻サラから生まれた子イサクと、そばめであるハガルから生まれた子イシマエルと、二系統の子孫がある。そのうち、イサクの血統だけが正式のアブラハムの子孫であるとされる。創世記21章によれば、ハガルの子孫にも或る意味の約束は受け継がれているのであるが、ユダヤ人はそれを殆ど無視した。 
ハガルはもともとエジプト生まれの女奴隷であった。サラはエジプトにいた時に少女ハガルを自分の女奴隷とした。サラは自分も年を取り、もう子を生むことが出来なくなったと悟ったので、己れの身代わりとしてハガルをアブラハムのもとに差し出して、アブラハムの子を生ませ、しかもこの女は自分に属する者であるから、ハガルから生まれた子を自分の子と看倣すことが出来ると考えた。つまり、ハガルの胎を借りて自分たち夫婦の子を得ようとした。古代の世界では普通に行なわれていたことで、その道徳的可否を今は論じない。一夫多妻と言うよりは、今日の感覚では代理出産に近いであろう。サラはこの処置によって自分たちの夫婦が子を正当に儲けることが出来ると考えた。ところが、神はこの術策を喜びたまわなかった。神はハガルとその子イシマエルを放逐せよと命じたもう。 
一方、サラについて言えば、創世記12章に見られる通り、サラはアブラハムが故郷を出る前からその妻であって、自由人たる女であった。したがって、アブラハムとサラとの間には、自由人と自由人の間の正式の婚姻の契約があった、ということを聖書の歴史は物語っている。自由人の正式の婚姻から生まれたのだから、サラの子孫は自由人として生まれる。ハガルの子孫は奴隷の母から生まれた奴隷になる。これがユダヤ人の間の解釈の定説となっていたが、今日の学びの所では重要な意義を持つ。ユダヤ人たちが自分たちは生まれながらに自由であると主張するのはこの理由である。 
そのことと余り関係はないが、もう一つの事情も見ておく。アブラハムとサラの子はイサクであるが、彼と妻リベカから生まれた子供は二人いた。ヤコブとエサウである。その二人の息子のうち、下の子ヤコブがアブラハムの子孫として家督を嗣ぎ、エサウは、同じ父と母から生まれた兄弟であるにも拘わらず、いやそれどころか、エサウの方が兄であったにも拘わらず、選びから洩れたのである。この出来事の意味は、新約聖書ローマ書9章で取り上げているように、非常に深遠であるが、ユダヤ人はその意味を深く考えることなく、自分たちの民族の優越性がこれによって保証されているとしか考えなかった。要するに、中味のない自尊心の材料とされた。 
確かに、ここには謂れのない自尊心を斥ける教えが含まれている。だが、先ず、「アブラハムの子孫」ということにどういう意味があるかを調べて見なければならない。ユダヤ人は、「自分たちはアブラハムから生まれたから、当然アブラハムの子である」と単純に主張するのであるが、主イエスはその主張の空虚さを衝いておられる。 
「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムの業をするが良い」と39節に言われる。 
子は父に似ることによってこそ子なのである。だから、アブラハムの子はアブラハムの業をしなければならない。これは良く分かるであろう。では「アブラハムの業」とは何かということについては、39節を学ぶ際に見ることにするが、つまるところ、アブラハムの子という「名目」ではなく、アブラハムの子たるの「実質」が問われているではないか、と言われたと説明して良いであろう。 
主イエスのこの御指摘を我々自身に向けてみて、我々はアブラハムの子であると言っているが、本当にアブラハムの業を行なっているのか、と問うことは十分有意義である。 
「アブラハムの子」という言葉を「キリスト者」と言い換えても意味は変わらない。キリスト者も無内容な自負心に耽り易いのである。 
アブラハムは主の約束を信じた。例えば、子が一人もなく、自分自身すでに老境に達していたが、「あなたの子孫は海辺の砂のように、天の星のように多くなるであろう」と言われた時、彼自身の力では信じられなかったが、信じた。主はこの信仰をアブラハムの義とされた。これがアブラハムにおいて最も重要な点、アブラハムのアブラハムたる所以であることを、ローマ書4章9節と、ガラテヤ書3章6節は、創世記15章6節を引いて、言っている。我々もキリスト者という空虚な名目を持つのでなく、信仰によって義とされる生き方をしなければならない。 
さて、「我々は人の奴隷になったことなど一度もない」と彼らは誇り高く言った。――この言葉にもいろいろな面から考察すべき要素がある。ユダヤ人が本当に奴隷になったことがないかどうか。これはたしかに問題である。イスラエルは食物を求めてエジプトに身を寄せている間に、奴隷になってしまったではないか。また、実際、イスラエルの中にも自分の身を売って奴隷になる者は後を絶たなかった。だから、奴隷になったイスラエルを贖い出す「ヨベルの年」の制度が必要であったではないか。 
「人の奴隷になったことなど一度もない」と放言した人は、事実、奴隷の経験はなかったのかも知れない。しかし、二つの点を見落としている。一つは社会の奴隷制度を容認していた。だから、自分は奴隷でないつもりでいたが、奴隷はいたし、それを人々は社会の維持のために必要と思っており、新しく奴隷になる人もいたし、そう言っている人自身が奴隷になる日が来るかも知れない、そのことを認めようとしなかった点である。 
もう一つは内なる奴隷ということについて丸で考えようとしなかった点である。金を沢山持っているつもりでいるが、沢山の金が却って彼の心を拘束して、自由を失なわせるという状況がある。したいことを何でも自由に出来る、という境遇にいても、本当は自由でなく、欲望の奴隷になっている場合がある。 
神に贖われた者が神以外の者の奴隷になってはならないということは確かである。ガラテヤ書5章1節でも教えられている通りである。我々もそうである。その心掛けを失なってはならない。しかし、自由人だという気位だけは高く、実質的には奴隷であるという場合が多いのである。 
その気位に対して、主イエスは「罪の奴隷」という、彼らがこれまで考えて見もしなかった概念を示したもう。こう言われる、「よくよくあなた方に言って置く、全て罪を犯す者は罪の奴隷である」。――「よくよくあなた方に言って置く」という言い方が示す通り、これは重要な宣言であり、定義であり、啓示である。 
「アブラハムの子は罪を犯すことがない」というような主張がユダヤ人の間に確立していたわけではない。旧約の儀式の中に罪の潔めの儀式がさまざまに規定されているが、このことは人々に罪があることを確実に示している。また、旧約の人たちがそれで罪から全く潔められたと確信していたわけでなかったのは言うまでもない。へブル書がキリストのただ一回の贖いと比較して指摘しているように、旧約の罪の潔めの儀式は年々繰り返されなければならなかった。 
しかし、彼らは概ね罪の力を軽く考えていた。ちょうど、体が汚れても、洗い落とせば、元通り綺麗になるように、罪の処理は簡単だと考えていたようである。人が罪を犯すことによって罪の奴隷になる、自分を支配する権能を罪に売り渡すことになる、というような罪の大きさの理解は全くない。罪の持つ力はイスラエルの持つ祝福に劣ると考えていた。 
約束の大きさと確かさに関しては確信が必要であるが、その確信が自信や慢心に陥り勝ちであることに警戒しなければならない。確信は約束への確信であるという一点をシッカリ押さえて置かねばならない。神の約束は確かであるから、約束されたことが見えなくても信じるのである。それが見えているかのように思い込んではならない。見える場合があるのは確かである。しかし、そこで見られるのは約束が果たされたことではなく、約束が果たされることの象徴と言うべきである。 
思い起こすのであるが、1章13節で、「それらの人は、血筋によらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである」という言葉を聞いた。神の子となる人は、自然的な出生によってではなく、神によって生まれねばならない。それは3章3節で主イエスが、「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることが出来ない」と言われたことと重なる。生まれながらに真の自由人である人はいない。みな罪の奴隷である。それが神によって上から、新しく生まれることである。 
では、イスラエルは新しく生まれた者ではなかったのか。確かに、彼らには新しく生まれることが約束されていた。しかし、その約束が確かであるということは、すでに生まれ変わったという現実があるということとは別である。 
「そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる」。ここで言う「子」と「奴隷」は、イサクとイシマエルを指す。イシマエルも或る意味ではアブラハムの子であったが、奴隷である母ハガルとともに家を追い出される日が来た。 
ところが、イサクは追い出されることはなかった。いつまでも神の家に住まうのである。これは永遠の生命の中に既に生き始めているということでもある。その違いを言う。 
奴隷と子の違いがここにある。 
「あなた方はアブラハムの子であるつもりでいる。だが、イシマエルが奴隷であるのに、母がアブラハムの家に住んでいるので、家の子であるかのように振る舞っていて、遂に追い出されたが、そのようにあなた方はアブラハムの家から追い出される日が来るのに、なおそのことに気付かない」と言っておられる。 
「子でない者が追い出されるに至ったように、あなた方はまことのイスラエルであるかのように自分では思っているが、追い出される日が来る」ということも含みとして言われたのである。 
すなわち、肉によるイスラエルはまことのイスラエルではなく、信仰のイスラエルこそがイスラエルであると言われたのである。旧約の時代には本当のイスラエルでない者もイスラエルのような顔をして紛れ込んでいたが、ことがハッキリする日が来たから、あなた方は追い出されるのだ、と判決したもうた。 
アブラハムの子はいつまでもアブラハムの家にいる、むしろキリストの教会にいるのである。神の家にいて、養われ続けるのである。そのことを我々は主イエスの晩餐によって確認させられるのである。 
 

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