◆説教2001.07.22.◆

ヨハネ伝講解説教 第84回

――ヨハネ8:28-32によって――


 2001.07.22.ヨハネ伝講解説教 第84回――8:28-32によって――「私を遣わされた方は、私と一緒におられる。私はいつも神のみこころに適うことをしているから、私を一人置き去りになさることはない」。主はそのように言われた。 
この文章で強調されているのは「神は私と一緒におられる」、また「私を一人にして置かれない」ということである。これは言うまでもなく、信仰の最も基本的な確認事項である。その言葉が力強く響いたから、聞いた人の多くが信じたのである。――ただし、彼らの信仰があやふやなものであることが直ぐに明らかになる。それにしても、神がともにいますとの確信は人を動かす。 
一人の求道者が真剣に神を求め、神に問い掛け、その胸中を披瀝したならば、聞く人はその真剣さに感動する。けれども、その感動は必ずしも救いの確信ではない。その話しは神について、またキリストについてのものであっても、福音としては聞くべきものでないのではないか。本物の福音を聞かなければならない。本物と偽物はどう見分けるか。主イエスはここで二つのことを言っておられる。一つは、父が私を遣わされたこと。 
派遣である。もう一つは、私がいつも神のみこころに適うことをしていること。すなわち、神への服従である。派遣と服従この二つなしで、神についてどんなに真剣に語っていても、信仰は起こらないであろう。 
だから、我々の間で神を語る者は、勿論真剣に語らなければならないのであるが、真剣であれば良いということにはならない。真剣に語れば、こういう真面目な問題を考えたこともなかった人を動かすことは出来るかも知れない。しかし、考えて見たこともない問題を考える境地に至らせる成長が起こったとしても、信仰にはならない。聞いた人は変わらない。新しい人生は始まらないのである。神に派遣された者が、服従しつつ語ると言われる意味を考えなければならない。 
さて「派遣」と「服従」ということがハッキリしておれば、聞く人は動かされて、信仰に導かれるのか。必ずしもそうはならない。主イエスの言葉を聞いた人でも、信じなかったケースは多いのである。語る言葉が真実でなければならないし、語る姿勢が真実でなければならないが、それだけではなお足りない。神が聞く者の内に御霊をもって働きたもうことが必要である。 
さて、主イエスは「私を遣わされた方は私と一緒におられる」と言われた。我々はそのお言葉を真実なものと受け取って疑わない。しかし、ここでもう少し突っ込んで考えて見なければならない。先ず、思い起こすのはニコデモの言葉である。3章2節にあった。 
かれは夜、訪ねて来て言った、「先生、私たちはあなたが神から来られた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるような徴しは、誰にも出来はしません」。ニコデモは主イエスが神から派遣されたこと、神とともにあられることを殆ど受け入れている。 
それでも、ニコデモは神の国に遠かったのである。どこが足りなかったかについて、今は詳しく語らなくても良いであろうが、「誰でも、新しく生まれなければ、神の国を見ることが出来ない」との主の御言葉が全てを明らかにしている。まだちょっと足りないところがある、と言われたのではなく、生まれ変わっていないあなたは、神の国と何の関わりもないではないかと言われたのである。ニコデモは真剣に探求し、求道し、精進した。けれども、上からの力で新しく生まれてはいない。だから、神の国に憧れていることは確かであるが、神の国を見てはいない。したがって、「私を遣わされた方は私と一緒におられる」という言葉に得心が行くとしても、それだけでは足りないということを思い見なければならない。 
もう一つ考えなければならないことがある。ヨハネ伝の文脈から離れたところに行ってしまうが、主イエスが十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた叫びを思い起こさずにおられない。そこでは、キリストは神から見捨てられたと言っておられるではないか。彼は父から遣わされたものとしての服従の道を貫きたもうた。それなら、どんな苦境にあっても父がともにいて下さるのではないか。ところが、見放された。「神は私を独り置き去りになさることはない」と言われるのと矛盾しているではないか。 
「いや、これは絶望した者の叫びではない」と弁明されることがある。確かに、その弁明は正しいのであって、主イエスには信頼があるからこの叫びがあったと言うべきである。けれども、本当は絶望しておられなかったのだ、本当は神に捨てられたのでなかったのだ、と言い張るなら、その理解は間違っている。主イエスが神から捨てられたのは、まぎれもない事実なのだ。すなわち、神に捨てられなければならない罪人に代わって、彼は真実に捨てられたもうた。なぜなら、神の子としての祝福に満ちた彼であったからこそ、捨てられた状態からの回復を勝ち取ることが出来るからである。そのように、彼は我々の側にあって、真実に捨てられたもうた。しかし、彼の本来の位置から言えば、父と私は一つ、つねに遣わされた者、つねに服従者であって、つねに神とともにありたもう。だからこそ、彼は我々を神とともにある確かさへと導き入れたもう。神から見放された者の苦痛を理解して我々と一緒に泣いて下さるだけでは、我々の救いは来ないのである。 
31節に移る。「イエスは自分を信じたユダヤ人に言われた。『もし、私の言葉のうちに留まっておるなら、あなた方は本当に私の弟子なのである』」。 
これはユダヤ人で信ずる者に対して言われたものである。単に「ご自分を信じた人々に」というのとは若干違う。信じている人々に言われたならば、それは信仰者の心得を教えるためである。ここでは、つい今しがたまでは対立とまでは言えないとしても、殆ど主イエスの言われた言葉が分からないで、「あなたは、いったい、どういう方か」と聞いていたような人たちである。 
ユダヤ人だから心がねじけていて、信じても本物になれないというのでは勿論ない。この「ユダヤ人」とは、22節に「そこでユダヤ人たちは言った『私の行く所に、あなた方は来ることが出来ないと、言ったのは、あるいは自殺でもしようとするつもりか』」と記録されているそのユダヤ人と同じ人物だという意味である。 
彼がユダヤ人を拒否しておられると取る必要はない。しかし、彼らが「信じる」と言っていることが何であるかを、主イエスは知っておられた。2章23節以下で、「過ぎ越しの祭りの間、イエスがエルサレムに滞在しておられた時、多くの人々は、その行なわれた徴しを見て、イエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにはならなかった。それは、全ての人を知っておられ、また人について証しする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身、人の心の中にあることを知っておられたからである」と述べられていた事情と同じである。 
ただ、今回は彼らを突き放しているのでなく、あなた方は、信じたならば、まことの信仰に達するべきではないか、と教えておられる。漠然と信じるだけでなく、キリストの本当の弟子にならなければならない。 
別の状況で言われた言葉で、今学ぶ聖句と結び付くとは言えないが、弟子となるための道を示しておられる、ルカ伝14章25節以下を思い起こさずにおられない。「大勢の群衆が随いて来たので、イエスは彼らの方に向いて言われた、『誰でも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、私のもとに来るのでなければ、私の弟子となることは出来ない。自分の十字架を負うて私に随いて来る者でなければ、私の弟子になることは出来ない』」。 
主は二つの言葉の対比を我々に示して、これを考えよ、と言っておられる。「信ずる」という言葉と、「留まる」という言葉である。本当はこの二つの言葉の区別はないのではないか、と我々は思う。その通りである。しかし、実際に、「われ信ず」と言っている言葉が空しく空回りする場合や、熱心に信じているはずの信仰が、いつの間にか消え失せているという場合が極めて多い事実を忘れるわけには行かない。今、見ているこの場面でも、章の終わりまで読んで行くと、彼を信じたはずの人々が石を取ってイエスに投げつけようとした、と書いてある。信じたかも知れないが、その時にはもう信仰は消えてなくなっている。 
そのように信ずるという言葉もはかない言葉になる危険があるから、空しくならないように、別の言葉を引いて来て、中味を充実することを考えなければならない。 
「留まる」という言葉はヨハネ伝では最も重要な言葉の一つだということを我々は学んで来た。最初にこの言葉について教えられたのは、1章32節であった。「私は御霊が鳩のように天から降って、彼の上に留まるのを見た」とバプテスマのヨハネは証言したのである。御霊が一瞬イエスに満ちていた、というのではない。御霊が風の吹き過ぎるように、何かの業をなして過ぎ去ったのではない。留まるのである。留まるというところが決め手になる。 
次に、その翌日のことであったが、ヨハネの二人の弟子が主イエスを追って行く。そして、「ラビ、どこにお泊まりですか」と尋ねる。この「泊まる」と訳された言葉が「留まる」なのだ。ヨハネの弟子はイエスについて行って、イエスの泊まるとこに泊まった。すなわち、留まった。この場合、留まったとはいえ、次の日にはここを引き上げてガリラヤに向かうのであるから、留まるという永続的な意味はないのであるが、イエスが留まりたもう、またイエスとともに留まるという言い方に深い暗示が含まれている。キリストとの関わりの一切がこの「留まる」という言葉にこめられている、と我々は受け取って良いであろう。 
ヨハネ伝でこの「留まる」という言葉がしきりに出て来るのは15章である。4節に、「私に繋がっていなさい。そうすれば、私はあなた方と繋がっていよう。枝が葡萄の木に繋がっていなければ、自分だけでは実を実を結ぶことが出来ないように、あなた方も私に繋がっていなければ実を結ぶことが出来ない」。ここで、「繋がっている」と訳されているのが「留まる」という言葉なのだ。留まっていなければ実を結ばない。留まっていなければ、命がない。 
「留まる」とは、先ず持続である。変わらず信じ続け、愛し続け、祈り続け、悔い改め続け、己れと戦い続けることである。パッと燃え上がるが間もなく冷えてしまうような一時的な熱心はまことの信仰ではない。永遠の救いに関するものであるから、永遠でなければならない。 
「留まる」という言葉の持つ深い意味については、こののちも繰り返し学ぶ機会があるから、今日は一通りの説明で留め、「御言葉に留まる」という言い方に目を向けよう。 
先に15章の御言葉を引いたが、キリストは「私に留まれ」と言われる。だが、キリストに正しく留まるためには、キリストの言葉に留まらなければならない。言葉を抜きにしてキリストのうちに留まっているつもりでいても、自分でそう思って独りよがりになっているに過ぎない。言葉に留まるとは、言葉を受け入れ、それに従い、これを実行し、かつ止むことなく持続するという意味である。 
私の言葉に留まるのでなければ、本当の意味での私の弟子ではない。弟子という言葉はこれまで何度も聞いている。キリストのあとに随いて行った人たちであって、特にキチンと定義されているわけではない。この言葉を印象深く聞いたのは、6章66節である。 
「それ以来、多くの弟子たちは去って行って、もはやイエスと行動を共にしなかった」。随いて来ているから、一応、弟子ということにはなっていた。しかし、簡単に去って行った。つまり、本当の弟子ではなかったからである。だから、今日聞く主の御言葉は、本当の弟子になる道を示したものである。 
続けて言われる、「また真理を知るであろう。そして真理は、あなた方に自由を得させるであろう」。 
真理を知るのは、私の弟子になることとの結び付きによってである。キリストの弟子になれば真理を知るのである。主イエスの前に立っているユダヤ人は真理を知りたいという強い願いを持っていた。そして、普通のユダヤ人は、真理を知るためには律法を学べば良いと考えていたようである。 
キリストの弟子になることが真理を知る道であるのは、キリストが真理だからである。 
14章6節である。「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことは出来ない」。 
真理を知るならば、自由になれる、と考えている人は少なくない。何となく本当のこととおもわれるのである。しかし、真理とは何か。ここで人々は行き詰まる。 
「真理とは私である」と言いたもうお方に出会わねばならない。イエス・キリストはピラトの裁きを受けたもうた時、真理について語っておられる。18章37節以下である。「イエスは答えられた、『あなたの言うとおり私は王である。私は真理について証しするために生まれ、また、そのためにこの世に来たのである。誰でも真理につく者は私の声に耳を傾ける』」。 
裁かれる所においてのみ真理が明らかになるのではない。けれども、そのような場面でこそ真理の証しが立てられるというのが主の教えである。そして、主は身をもって模範を示しておられる。人から喜ばれ、誉められる立場に立たなければ真理の証しが出来ないと思うような貧しい思想に訣別しなければならない。 
真理が自由を得させるということは、まさにそのような場面で明らかになるのである。 
人間は例外なく自由を求めるのであるが、自由が欲しければ真理を身につけよと教えることは必ずしも間違いではないが、殆どの場合、空論である。人々の求める自由を餌として人をおびき寄せるのでなく、人々の思い及ばない、新しい自由を求めなければならない。それは捕らえられ、裁かれ、脅かされるもとにあって、真理を語ることによって現実化する自由である。 

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