◆説教2001.07.15.◆

ヨハネ伝講解説教 第83回

――ヨハネ8:25-28によって――


 主イエス・キリストが「私はそれである」、あるいは「私は私である」、もしくは「私である」と言われた、ギリシャ語で「エゴー・エイミ」という言葉の重要性、むしろ重量感と言うほうが適切かも知れないが、それを我々は見て来た。主の言われるこの言葉に対応する人々の側からの質問が、「あなたは誰ですか」という言葉である。「あなたは、いったい、どういう方ですか」と25節では訳されている。これもまた重要な問いではないであろうか。キリストが誰であるかを知ること、我々の存在の全てがここに懸かっていると言っても過言ではないのではないかと思われるほどである。 
イエス・キリストは、マタイ伝16章の15節で、「あなた方は私を誰と言うか」と弟子たちに問われた。ペテロは直ちに「あなたは神の子、キリストです」と答えた。この問いに触発されるまでもなく、弟子たちは、「この方は誰であろう」と自問自答していたことは確かである。そして、すでに或る程度確かな答えを得たから、彼らはそれまでの人生を捨てて、この方の後について行くという決断をし、生活の転換をしていた。 
我々にとっても同じであって、「この方はどういう方か」と問い、答えを得て、彼の後を追って行く生活を始めている。しかも、「あなたは、どなたですか」との問いは、すでに答えを得ている問いであって、その答えに人生を懸けて裏切られることはなかったという確認を持ってもいるが、イエス・キリストがどういうお方かについて全てが分かり切っているわけではなく、まだまだ分かっていないことがあり、生きている日の限りこれを問い続け、答えを深めて行くのである。 
したがって、ここでユダヤ人が「あなたは、どなたですか」と主イエスに問うたのは、当然であり、極めて重要な問い掛けではなかったかと思われるのである。この問いによって彼らの人生は窮極の答えに出会うであろう。あるいは、人生が逆転すると言っても良いかも知れない。あるいは、答えが明らかになった時、彼らの存在は崩壊すると言っても良いほどではないか。――ところが、主イエスはこの重要な問い掛けに、殆どまともに応答しておられないように思われるのである。 
「私がどういう者であるかは、初めからあなた方に言っているではないか」と答えたもう。「初めから言っていた。あなた方はそれを初めから素直に聞くべきであった。今になって『あなたは、どういう方ですか』と尋ねるのは、時を失した問いではないか」という含みで言われたのである。 
では、「初めから言った」とは、宣教の初めのどういう場合の、どういう事件と、どういう言葉を指したものであろうか。福音書を以前に遡って調べても、これに該当する場面を拾い上げることは難しい。 
実は「初めから」と言っておられるのは、初めにどういうことがあったかという問題ではなく、このギリシャ語の慣用的意味は、「終始一貫して」、「全面的に」、「いつも」、という意味である。「私はズッとこのことを明らかにして来たのに、あなた方は不信仰によって終始それを受け付けなかったではないか」というくらいの意味である。26節に、「あなた方について、私の言うべきこと、裁くべきことが沢山ある」と言われるのは、あなた方の初めからの「不信仰」を裁かねばならないことを指したものである。 
主イエスが「私はそれである」という、日常の言葉とかなり違った言い方をされた時、ユダヤ人は、この言い方はオカシイ。実がないのではないか、「私はある」ではなくて、「私は何々である」、「私はこうこういう者である」と言わなければならないではないか、と疑問を抱いた。そこで「あなたは、いったい、どういう方ですか」と問うて来るのである。 
その問い方、問いを起こす時が、間違っている。初めに帰って出直せ、と主イエスは示されるのである。先ず、「初めから」という言葉が示しているように、初めから分かっていることを今になって聞くのは間違っているではないかと考えさせておられる。 
第二に、クイズの答えを書き入れれば済むような具合に、「あなたは何々です」と言えば良いというものでは全くないということを気付かせようとしておられる。ペテロが答えて「あなたはキリストです」と答えたのは正解であって、キリスト者は皆そのように答えなければならないことは確かである。が、そのように答える知識を持っておれば十分だということとは違う。クイズの答えのようにではなく、信仰の応答でなければならない。それは、キリスト教について、救いについて一応の知識を持っているというだけでなく、生活の全体、生涯の全てが「私はある」と言われるお方に向き合っているものでなければならないという意味である。 
「初めから」とは、初めのどの時点に、どういう言葉があったか、ではなく、まるまる全体として、終始一貫して、という意味だと先に述べたが、キリストの弟子になった人たちの実際を見ると、主が「初めから」と言われた意味が分かるのではないか。 
最初の弟子の場合を思い起こして見よう。1章37節以下がその記事であるが、バプテスマのヨハネの弟子であった二人の者が、ヨハネの言葉に促されて、イエスの後について行った。イエスは振り向いて言われた。「何か願いがあるのか」。彼らは言う、「ラビ、どこにお泊まりですか」。イエスは言われた、「来て見なさい。そうすれば分かる」。 
そこで彼らは随いて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。 
これだけのことで彼らに何が分かったのだろうか。何も分かっていなかったと言うべきであろう。何も教えられていないからである。 
ところが、この二人の弟子のうちの一人、それはアンデレであったが、先ず自分の兄弟シモンに出会ったとき、「私たちはメシヤに今出会った」と言った。何も分かっていないはずだが、この方がメシヤであるということは分かっていた。そして分かったことを人にも伝えずにおられない感動に動かされていた。 
「分かっていないのだが、分かっている」という分かり方がある。これは誤魔化しのために用いられる場合もあるから、これこそが本当の分かり方だと強調しないほうが健全であるかも知れない。また、分からないのに分かる、というようになるのはどうしてか、と詮索しても益にならない。それでも、実際問題としてこういうことがあるのだから、そこから、分かったと思っていることの不確かさがある、ということを弁えて、我々は謙虚に学ばなければならない。分かっていないように見える子供のほうが、分かったような顔をする大人よりもよく分かっている場合がある。人間が分かるとか分からないとか言うのは空しい言葉であって、それを超えたところで、神の業がなされる。 
今見た最初の弟子の記事の続きであるが、主イエスはピリポに出会って、いきなり「私に従って来なさい」と言われた。そこでピリポは主イエスに従ったのであるが、そのピリポが間もなく友人のナタナエルに出会って、「私たちはモーセが律法の中に記しており、預言者たちが記していた人、ヨセフの子、ナザレのイエスに今であった」と言っているのである。 
ナタナエルは半信半疑のまま連れられて来るのだが、来て早々、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と告白している。まだ何も分かっていなかったはずではなかったか。 
そのように、これらの例では、弟子になったばかりの何も分かっていない人たちが、初めから、イエスは何者であるかが或る意味では分かっていた。十二弟子になるような人であったから、人並み以上の直感力を持っていたのであろうか。そういう意味でこの挿話が語られたのではなく、初めから分かっていることを示すためにこれらの実例が挙げられたのである。 
ヨハネ伝で見たことを思い起こしても、2章23節、「過ぎ越しの祭りの間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行なわれた徴を見て、イエスの名を信じた」と記されていた。ここでの人々の信仰はまことにあやふやなものであるから取り上げるに価しないかも知れない。それでも、とにかく、初めに接して、信じた。 
もっと分かり易いのは4章にあるサマリヤ人の実例である。スカルの町での一回の説教で、町の人たちは信じた。そのように、最初の御言葉で人々は捕らえられ、吸い込まれるように信じたのである。「初めから」という言葉を普通に言うような「初めから」と取る必要はないのであるが、初めから示され、初めから信じたという実例を拾うことは、無理なしに出来るのである。 
どの人の場合も初めの一瞬でことが決まると言うのは差し控えたほうが良いであろう。 
そうでない場合もあるからである。それでも、「分からないけれども分かる」という分かり方があって、初めにことが決まる場合が多いのだ。 
我々の経験をここに交えない方が良い。我々の場合は、キリストと出会うまでに時間が掛かっている。つまり、キリストについて紹介されてはいるが、中間に立っているものがいろいろあって、それを取りのけなければ、本当のキリストに出会えない場合が多いのである。聖書からジカに読み取れば良いのだが、仲に立つ解説者が、要らないことを教え過ぎる。だから、その解説から自由になってキリストと向き合わなければならない。あるいは生涯、解説者から自由になり切れず、その解説者が語るべきことを十分に語らないという場合もある。だから、キリスト、キリストと言っているけれども、「私に随いて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って私に従え」と命じたもうた主の声をとうとう聞かないままで一生を終わるというようなこともあるのである。 
だから、ジカに向き合うまでに時間が掛かるが、主とまともに向き合うことが出来るようになれば、「初めから」彼が何であるかはスッと分かる。つまり、こういうことである。我々は初めから多くの言葉を彼から聞くわけではない。知識としては余りにも乏しい。しかし、キリストそのものに会っている。キリストそのものとの関係が始まっている。キリストに捕らえられていると言うべきである。具体的に言うなら、彼の後について行く歩みを始めている。そこでは、ユダヤ人がここで言ったような意味での、「あなたは、いったい、どなたですか」というような疑問は出て来ない。 
キリストの教えを学ぶとは、第一課何々、第二課何々、というふうに進んで、やがて全課程終了、というふうに終わるものではない。死ぬまで学び続けるのであるから、始まったなら、終わりはない。それと共にもう一つ、学び始めた最初の瞬間に、もはや外の者ではない神の家族の一人として受け入れられており、すでに窮極のことをある意味で把握しているのである。或る意味で神の国に達しているのである。我々もそういうところに来ているのである。 
26節で「あなた方について、私の言うべきこと、裁くべきことが、沢山ある。しかし、私を遣わされた方は真実な方である。私はその方から聞いたままを世に向かって語るのである」と言われた。「言うべきことは沢山ある。その沢山のことを初めから全部言っていたわけではないが、その片鱗に触れただけでも、神の言葉の真実が味わわれたであろう。また、私を遣わされた方は真実であるから、私の語った言葉も真実であった。その真実は分かったであろう」という意味である。 
次に言われる「あなた方については裁くべきことが沢山ある」とは、あなた方の不信仰に対して裁くべきことが多いという意味である。しかしまた、私は直接にはあなた方を裁いてこなかった、という含みが込められている。裁かなかった理由は3章17節で明らかにされた。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためである」。御子は世を救うために遣わされたもうた。彼からは祝福の言葉をこそ聞くべきである。キリストの言葉を聞いても信じようとしない者を、キリストは裁くことが出来たが、裁かなかった。しかし、続いて3章18節で「信じない者は、すでに裁かれている。神の独り子の名を信じないからである」と言われるように、信じない者には裁きがすでに来ている。裁きの悲惨さが目に見えないだけであって、キリストの齎らしたもう祝福から遠のけられた闇の中に留まるのである。 
御子は真実な神から遣わされて真実に語るのであるから、それを聞いた者はその真実に触れて、己れの不真実が顕わになるのを感じ取り、自らの不信仰を自ら裁くことにならざるを得ない。そして、それによって救いを求めるようになり、立ち直りが来るのである。 
ユダヤ人が「あなたは、いったい、どういう方ですか」と聞いたのに対して、主イエスは「私は、私を遣わされた方の言葉を初めから語って来たではないか。そこに答えがあった。それを聞けば、私の語る言葉は、神の言葉であることが分かり、『あなたは、どういう方ですか』というような質問をする必要はなかったではないか」と言っておられる。 
27節に「彼らはイエスが父について話しておられたことを悟らなかった」とある意味はこうである。主イエスの語っておられる意味がユダヤ人によく分からなかったのであるが、それは、「私を遣わされた方」と言っておられるのが父なる神であり、それがイエスの父であることを、彼らが素直に認めなかったからである。それは聞かなかったから分からなかったのではなく、聞いて反発したからである。 
「そこでイエスは言われた、『あなた方が人の子を上げてしまった後はじめて、私がそういう者であること、また、私は自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが分かって来るであろう』」。 
「人の子」という言い方はヨハネ伝で重要なものであることは承知しているが、仮庵の祭りの際の論争に用いられたのはここだけである。「人の子」とは人としての低さ、人間に成りきっていることと、ダニエル書7章に言われる、終わりの日に天に現われる人の子のようなもの、すなわちメシヤを指す。人の子を「上げる」とは、栄光の地位に高めるという意味と、十字架につけるという意味とを重ねたものである。 
「あなた方が人の子を上げてしまった後初めて、私がそういう者であることを知る」とは、どういうことか。ユダヤ人はイエスがキリストであることを、その時になれば知ったのであろうか。そのような事実を我々はこの福音書の中では読み取れないのであるが、少なくとも、十字架の後でなければ、ユダヤ人、パリサイ人で、キリストを信ずる人は出なかった。キリストの死が手がかりとなって、不信仰な人がキリストを信じる逆転が起こる。「一粒の麦は死ななければ多くの実を結ばない」と12章24節で言われる通り、キリストの死から信仰が生まれることは確かである。だから、我々もキリストの十字架、あるいはキリストが上げられたもうたことを直視しなければならない。 
28節の後半に、「私は自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、分かって来る」と言われる。キリストが殺されて後、その語っておられた言葉が神の教えたもうた言葉そのものであることが分かる、と言われる。たしかに、キリストは自分の意志を遂げようとしたのでなく、己れを捨て、死に至るまで、十字架の死に至るまで服従の道を貫きたもうた。父が教えて下さったままを話していた、と言われるが、彼にあっては、語ることと行なうことは完全に一致していたから、これは彼の行為についても言えるのである。モーセが荒野で蛇を上げ、人々がそれを仰ぎ見たように、キリストが上げられ、我々がそれを見る時、罪の赦しが現実化し、祝福が始まるのである。

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