◆説教2001.07.08.◆

ヨハネ伝講解説教 第82回

――ヨハネ8:22-24によって――


 先に21節の終わりで、主イエスは「私の行く所にあなた方は来ることが出来ない」と言われた。これは、「私は私の出て来た所、天に帰って行くが、あなた方はそこへ近付くことが出来ない」という意味である。これがユダヤ人には全く理解出来なかった。初歩的なことも分かっていないのである。したがって、ここで言われているのは初歩的な教え、あるいは初歩以前の教えと言って良い。我々も今日は初歩的なことを学ぶのである。 
「自殺でもしようというのか」と、初歩以前の半分茶化したような受け答えを彼らはするが、半分はそうとしか考えられないという真面目な気持ちでもある。 
すなわち、彼らは先に、7章34節で、「あなた方は私を捜すが、見つけることは出来ない」と言われた時、「それでは、ギリシャ人の中に離散している人たちの所に行って、ギリシャ人を教えようというのだろうか」と的外れなことを答えた。主イエスの言わんとしたもうことが全く分からないで、トンチンカンな受け答えをする点、今回も良く似ている。低い所を低迷しているから高い所のことが語られても分からないのである。 
「自殺しようとでも言うのか」と考えたのは、不真面目な応答である反面、真面目に考えて、自分たちはどこまでも追い掛けることは出来るつもりだが、後を追って行っても、一緒に自殺することだけは出来ない、という意味である。自殺については聖書に幾らかの実例があるが、命の源である神に逆らい、望みを拒絶する呪われた業であった。 
一つの単語で自殺を表わす言葉は、ギリシャ語にもラテン語にも、その他多くの国語にはあるのだが、へブル語にはない。「自分を・殺す」という二語である。旧約に例があるとはいえ、名前の記された自殺者は5人である。ヨナが「私を海に投げ入れよ」と言ったのは自殺に当たると普通解釈され、これで6例になる。非常に少ないと言うべきである。だから、自殺という単語はなかった。 
ユダヤ人はこれを忌まわしいものと見ていた。そして、主イエスに対し、あなたは呪われているから自殺するかも知れないが、我々は神の祝福のもとにいる民であるから、自殺は出来ない、という含みでこう語ったのである。しかし、ここに皮肉がある。主イエスが自らを死なせたのではなく、ユダヤ人らが殺したのである。そのようになることが予想出来なくもなかったのに、呑気に「自殺でもするつもりか」と言っているのである。 
主イエスはくだらないやり取りを止めさせて、問題の核心に迫りたもう。そして、「あなた方は下から出た者だが、私は上から来た者である」と申し渡したもう。上からと下から、これは根本的に食い違う。話しが噛み合わない理由はそこにある、という意味が籠められていた。相手を切り捨てるわけではないが、全く違うということを先ず弁えさせようとしておられる。初歩的な教えを与えるのに、初歩以前から始めたもう。 
確かに、この初歩以前と言うべき理解は必要である。譬えて言えば、病み上がりの人が、歩けるはずだと考えて、いきなり歩き始めると、失敗して、却って病気は悪くなる。 
だから、初歩以前に戻って、第一歩の前からやり直さなければならない。へブル書6章の初めで、キリスト者は初歩の教えに留まってはいけないと教えられており、その教えは真実であるが、ある意味では初歩以前のことも時に必要である。我々は信仰の奥義を教えられたとしても、弱さと幼稚さを引きずっているのである。 
コロサイ書3章1節に「あなた方はキリストと共に甦らされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられる」と勧められている。我々はキリストに属し、キリストは上からのお方であるから、我々も上からの者と言うべきであろう。しかし、我々はもともと下から出た者でもある。恵みによってキリストと結び付いているだけである。下から出た者であるから、自分自身では上に登り切れないで下に落ちてしまう。下から来た者であるから、下のことしか分からないし、上のことを悟れない。こういう限度を弁えて、この限度がないかのように思い上がってはならない。 
では、この御言葉はユダヤ人らに、あなた方は決して私の言うことが理解できない、と申し渡すものであろうか。そして我々も下から来て下に帰るほかなく、上に行く望みはないのか。そうでない。二つの初歩的なことを知らなければならない。一つは、自らのうちに本来持っていなかった悟り、上なるものについての悟りを、恵みとして差し出されているということである。もう一つは、下からの者であるが、上から来られたお方と、この世において出会うことが出来るという点である。「言葉は肉体となって世に来たりたもうた」。そして、彼は遣わされた方の御心を行ない、我々をご自分の所に引き上げて下さる。 
この二点はキリストの教えの初歩であって、今さら教えられるまでもないと我々は思っているが、分かり切ったこととはいえ、これを時々繰り返し学ぶことによって、信仰生活の基礎は深められ、シッカリしたものとなる。 
この初歩を踏まえて、次に、同じく初歩と言うべきであろうが、「イエス・キリストが上から来られた」という点を確認しなければならない。彼がへりくだった僕の形をとっておられたのは確かである。だから、今学んでいるヨハネ伝で見ているように、人々は彼が上から来られたと認めることが出来なかった。 
しかし、彼が上から来られたことを認めようとしない悟りの鈍さを、繰り返したしなめておられるのであるから、上から来られたのが分からなくて当然だと言ってはならない。低く下りたもうた人間イエスと出会うのであるが、彼を知る時は、上から来たりたもうたお方として知るのである。単なる人間イエスのひたむきな生き方に感銘を受けているという程度のことでは、救いの確信はどこにもない。 
さて、彼と出会うのはこの世においてである。人々の生きるこの地平で、私の生きるこの生涯の間で出会うのである。この世の時をはみ出した所で出会うのではない。また高みに登らなければならないわけではない。また、深いところまで下る人生経験を積まなければならないということはない。特に深刻な経験を経たために信仰に入ったというケースがあることは事実であるが、そういう経験があるために却って信仰に入れなかった人もいるし、特別高度な経験を積んだ人だけが信仰に達するのではない。 
本筋から逸れるが、そのような経験にはどういう意味があるのかについて触れて置きたい。それらの経験は信仰の修練になる。例えば、我々の心中に根を下ろしている傲慢や自信、これを砕いて行かなければ、信仰は素直な成長を遂げることが出来ない。特別に深刻な人生経験は、この傲慢や自信を比較的簡単に解決してくれる。そういう経験のない人はその経験に代わる修練を長い歳月に亘って重ねて行けば良い。 
ここで本論に戻るが、「あなた方はこの世の者であるが、私はこの世の者ではない。だから、私は、あなた方は自分の罪のうちに死ぬであろう、と言ったのである」。 
これもまた極めて初歩的なことである。ここでは「世」ということについて教えられる。すなわち、世は、そこで上から降りてこられたキリストと出会うところという重要な意味があるのであるが、単に世にあるというだけでは死ぬほかない。 
世は我々一人一人にとっては実に興味深い、可能性に満ちたものに見える。すなわち、我々は少しの知識しか持たないが、この世には我々に学び尽くせないほどの知識が満ちているから、その点だけから言っても魅力的である。しかし、世の知識を如何に豊かに吸収したとしても、その知識の蓄えを持ったままこの世を去って次の世界に移ることは出来ない。それどころか、知識というものは生きているうちにドンドン目減りして行く。こうして人は遂に死に呑み込まれて行く。世というものと死は同じではないが、世と死は常に結び付いている。 
世の欲もまた死と結び付いている。これはもっと分かり易い。「欲が孕んで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」とヤコブ書1章15節が言う通り、欲は死に向かっている。死はこの世の生の終わった後のこと、次の段階、その結末と見られているが、世はそのまま死であると言っても結局同じであろう。 
だから、「世にある」ということは、死に向かっているということであり、死に密着しており、すでに死そのものであると看倣してよいほどである。 
「私はこの世の者ではない」と言われたのは、あなた方と何から何まで違う、という意味であるが、死にほかならないこの世を脱却するためには私によらなければならない、ということを含めておられる。私には世にないもの、すなわち永遠の命がある、ということも言われているのである。 
世というのは死と同じものと看倣して良いと言ったが、結果的にそう看倣して良いということであって、世そのものが死なのでは勿論ない。1章9節に「全ての人を照らすまことの光りがあって、世に来た」と教えられたように、世は光り、すなわちこれは救い、また救いの源泉のことであるが、その光りと出会う場である。 
人々はこの世に生まれて来て、死んで行く。全く空しいのだ。しかし、生きているうちに光りと出会うならば、この世において、この世からの脱出のいとぐちを掴むことが出来るのである。12章35節36節で主イエスは言われる、「もう暫くの間、光りはあなた方と一緒にここにいる。光りがある間に歩いて、闇に追いつかれないようにしなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分かっていない。光りのある間に、光りの子となるために、光りを信じなさい」。 
さて、世からの脱却は信仰による。信仰は光りを信じ、信じる者は光りの子となる。神の遣わしたもうた御子を信じる者は神の子となる。命の水を信じることによって、その人の腹から生ける水が川となって流れ出るようになる。 
その信仰について、24節では、「もし私がそういう者であることをあなた方が信じなければ、罪のうちに死ぬことになる」と言われる。何かを一心に信じておれば救われるということではない。キリストを信じる信仰でなければならない。何か依り頼むべきお方がおられると信じるだけでは救いの確かさはない。この節の御言葉については前回かなり立ち入って論じたが、今日も繰り返し学びたい。 
「私がそういう者である」とは、要するに、私がキリストであるという意味であるが、言葉としては、「私がそういう者である」という言い方は、「私がキリストである」というのと同じではない。 
主イエス・キリストがピリポ・カイザリアに行かれた時、ペテロに対して、あなたは私を誰と言うか、と問われた。その時、ペテロは「神のキリストです」と答えた。これが決定的に必要な応答であり、また認識であることは我々の間で良く知られている。それはそれで良いのであるが、ペテロが「あなたはキリストです」と答えたのは、主イエスが「私はキリストである」と言われたのに対応するとはいえ、キリストのお言葉はペテロの応答した以上の含みを持っていることを捉えて置きたい。 
嵐の夜の海上で、あるいはまたその他の場合に、「私は私である」と言われたのは、単にご自身がどういうお方であるかを名乗り、また説明なさっただけの言葉ではない。例えば、私が初対面の人に会って挨拶して、「私はこうこういう者です」と名乗って名刺を渡す場合と、私がキリストを信じる故に裁きの場に呼び出されて、「お前はキリストを天皇よりも偉いと信じる何某であるか」と尋問された時に、「そうだ、私はキリストを主と信じ、これ以外に絶対服従すべき主を持たない何某である」と言う場合と、同じ名前を名乗っていても、重さはかなり違う。ここでは私の存在の全部が懸かっている。 
そのように、キリストが「私は私である」と言われる時、言葉の説明では十分言い尽くし得ないのであるが、たいへん重みのある言い方であることは分からなければならない。「重みのある言い方」という舌足らずの表現をしたが、神がご自身について語られる時は、この重い言い方を用いたもうのである。こういう言い方は、聖書がギリシャ語で書かれる前には、ギリシャ語では使われなかった。旧約のへブル語にだけあったのである。 
例えば、申命記32章39節を聞こう。「今、見よ、私こそはそれである。私のほかには神はない。私は殺し、また生かし、傷つけ、また癒す。私の手から救い出し得る者はない」。イザヤ書41章4節を聞こう。「誰がこの事を行なったか、なしたか。誰が初めから代々の人々を呼び出したか。主なる私は初めであってまた終わりと共にあり、私がそれである」。同じく、イザヤ書48章12節を聞こう。「ヤコブよ、私の召したイスラエルよ、私に聞け。私がそれである。私は初めであり、私はまた終わりである」。「私はそれである」という言い方がなされている。 
イエス・キリストが「私はそれである」、「私は私である」、あるいは「私は私自身である」と言われた言い方に特徴があることを前回学んだが、この言い方は旧約において神がしきりに用いたもうた言い方を受け継いだものである。 
モーセがエジプトから逃れてホレブにおいて神と出会い、召しを受け、イスラエルの人々のもとに戻って、神から指示された言い方をするのであるが、それは、出エジプト記3章14節によれば、「『私はある』という方が、私をあなた方の所へ遣わされた」という言葉であった。 
神は「私はある」、「私は『在って在る者』である」と言われる。このことばの重さを我々は知恵が足りなくても、ある程度弁えることが出来る。人々はみな「私は在る」、「私は私である」と言い切りたいが、それが言えないもどかしさを感じている。「私が私であろうか」という疑問に悩まされている人が増えて行く。 
カインは弟アベルを殺し、その死体を地に埋め、犯罪の証拠を隠滅したと思った。時に神はカインを呼んで、「弟アベルはどこにいるか」と尋ねられた。カインは「知りません。私が弟の番人でしょうか」と偽った。この時、カインは弟がどこにいるかも、自分自身がどこにいるかも、自分が何者なのかも分からなくなっていた。罪人はみな、自分が何者であるか分からなくなっている。それの回復はキリストを通じて神と出会い、「私は私である」と言われる方の前で、自分自身を取り戻し、自分も「私は私である」と言える者に回復させられることしかない。 
私が神について、またキリストについて語る時、どこかの人のこと、あるいは何かの事件のことを、新聞や、辞典に書かれているのと同じように、単に間違いなしに述べれば良いというものではない。「私はそれである」、あるいは「私は私である」と重みのある言い方でご自身を顕したもうお方について語るのである。したがって、語る私も、「私は私である」という自己確認を伴って告白しなければならない。 
この世からの脱出は、この世に来たりたもうたキリストと、肉の身において出会い、救助者である彼に一切を委ね、肉の身において信仰の歩みを始めることである。それは、この世でいろいろなことを知ったその一つとしてキリストを知ったというようなものではない。知って充実感を味わうようなものをまた一つ加えはしたが、死ぬ時にはその知識が何の役にも立たず、脳細胞が死ぬと同時に消えてしまう、そういう知識ではない。 
知ることによって永遠性を獲得するのである。その永遠の生命はこの世ですでに始まっているのである。 
 

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