◆説教2001.07.01.◆

ヨハネ伝講解説教 第81回

――ヨハネ8:21によって――


 「また彼らに言われた…」。今日学ぶ御言葉はこう始まる。「もう一度、あるいは再び」という語が用いられるのである。同じような言い方は12節の初めでもなされ、「イエスは『また』人々に語ってこう言われた」とあった。前の段落で主の説教は一旦終わったが、また始まったのである。少し休んで、また説教を始めたもうたということなのかも知れない。前のお言葉と切れているが続いている。一旦完結したが、主イエスはそれをさらに発展させたもうた。謂わば、第一段の言葉が終わって、第二段の御言葉が始まる、というふうに読むのが自然な読み方である。 
だから、すでに語られた御言葉を心に刻んでいなければならないが、その上さらに御言葉が与えられるのである。 
先の所では、主イエスが「どこから」出て来られたかが主として論じられた。「父から」来られた。「父から」遣わされて来たのである。それに対して、21節においては、彼が「どこへ」行かれるかが説かれている。しかし、先に14節で「私はどこから来たのか、またどこへ行くのかを知っている」と語られた通り、主イエスにおいては、「どこから」と「どこへ」は結び付いているし、同じなのである。「私は去って行く」と言われるが、父のもとに「帰って行かれる」のである。あるいは、「昇って行かれる」のである。 
先には「どこから」ということについて、パリサイ人が何一つ理解しようとしなかったのを見たのであるが、今度は「どこへ」ということについても、全く理解できない。もっとも、「どこから」ということについての議論も終わっていない。いずれ順を追って御言葉を学んで行くのであるから、今ここで詳しく触れるに及ばないであろうが、ユダヤ人らは33節で、「自分たちはアブラハムから出た」と主張する。それに対して、主イエスは44節に、「あなた方は悪魔の子孫ではないのか」と言われる。そのような、「どこから」という議論がまたズッと続くのであるが、真理と虚偽がとめどなく張り合っているのでなく、主の真実が次第に明らかにされて行くのである。 
今日は、21節の学びに終始することになる。 
「さて、また彼らに言われた、『私は去って行く。あなた方は私を捜し求めるであろう。そして、自分の罪のうちに死ぬであろう。私の行く所には、あなた方は来ることが出来ない』」。 
先に、7章の33節以下で、主は「今しばらくの間、私はあなた方と一緒にいて、それから私をお遣わしになった方のみもとに行く。あなた方は私を捜すであろうが、見つけることは出来ない。そして私のいる所に、あなた方は来ることが出来ない」と言われた。これと大部分重複することを8章21節で聞くのである。 
先にこれを聞いた時のユダヤ人の反応は全く混乱そのものであった。すなわち、彼らは互いに言った、「私たちが見つけることが出来ないというのは、どこへ行こうとしているのだろう。ギリシャ人の中に離散している人たちの所にでも行って、ギリシャ人を教えようというのだろうか」。彼らは聞いても何一つ分からなかったのだが、今回はさらに踏み込んで教えられる。 
「去って行く」というのは、「死」を意味する。ここを去って、別の地に行くことではない。一般に、死をそのように言い表わすのであるが、主イエスがここでこう言われたのは、一般の言い方に従ったことではない。ここでは「去って行く」は「来た」と対をなすというところに重点を置いて読むべきであろう。したがって、父のもとにある栄光を捨てて来た方が、栄光の地位に昇ることを言うのである。 
ユダヤ人の間に主イエスを殺そうという企てが進んでいた。「去って行く」という言い方にはその企てによって殺されるという意味が込められているように聞くことが出来たであろうが、この時の聞き手であるユダヤ人は気付かなかった。彼らはユダヤ人の中の権力者がイエスを殺そうとしているのを知っていたが、自分たちもその仲間であることには気付いていない。この人たちの多くがイエスに対する殺意を抱くのは、8章の終わりである。 
さて、イエス・キリストの死が、今日でもなお、不信仰な者をも含む多くの人の心を揺り動かすだけの迫力ある事件であることは説明するまでもない。普通の人の場合でも、一人の人の死は心を打つものである。ましてナザレのイエスが、罪なくして十字架に架けられ、崇高な死を遂げたもうたのであるから、人々は感動せざるを得ない。 
パリサイ人がその時、何ら感銘を受けないで、一人の人の死をあざ笑っていたように受け取られているかも知れない。そのような心なき人もいたにはいたが、パリサイ人の全てがそうであったと見るのは粗雑な読み方である。少数であったかも知れぬが、パリサイ人の中にも、主イエスの死を衷心から悼む者がいた。その人たちのことについて、主は「あなた方は私を捜し求めるであろう」と言われたと考えたい。そのように考える根拠は、後ほど見るが、この同じ言葉が弟子たちに当てはめられている所があるからである。 
つまり、このユダヤ人たちはナザレのイエスを殺してセイセイしたと喜んでいたわけではなかった。主が去られた後、彼らは主を「捜す」のである。捜すとは、追憶し、慕うこと、探求することである。パリサイ人がことごとに主イエスと対立していたように取られる面があるが、それでも彼らは何かを学んでいた。だから、主が去って行かれた後、惜しい人を死なせたと思い、或る意味では彼を慕って、地上に残された彼の痕跡を尋ねるのである。その典型がパリサイ派の最高の神学者と見られていたニコデモである。 
彼は主の遺骸を墓に葬るために、悪びれず出て来るのである。イエス・キリストの弟子たちが逃げ散ってしまった後、主イエスの亡骸を葬ったのは、正式の弟子でないアリマタヤのヨセフと、パリサイ人ニコデモであった。 
ニコデモがパリサイ派の中で例外的に偉い人物であったと見ることは出来るが、それよりは、パリサイ派の一つの傾向を代表したと見る方が当たっている。彼によって代表される思想の傾向は、なかなか立派である。しかし、彼らは真剣に捜し求めても、求めるものを見出せない。去ってしまわれた主の亡骸に対して最大の丁重さをもって仕えているだけである。 
主のこの御言葉が宛てられたのがパリサイ派だけであったと見てはならない。13章33節に記された主の言葉を思い起こそう。「子たちよ、私はまだ暫くあなた方と一緒にいる。あなた方は私を捜すだろうが、既にユダヤ人たちに言った通り、今あなた方にも言う、『あなた方は私の行く所に来ることは出来ない』」。――今日学んでいる御言葉を、主は最後の晩餐の中で、弟子たちに語っておられる。弟子たちも、去って行かれた主を捜すのである。 
去って行かれた主を捜し求めるという点では、キリストの弟子もパリサイ人も余り違わない。捜すのは決して悪意からではない。むしろ崇敬の現われである。しかし、捜しても空しい。会えない。キリストのおられる所に行かなければ会えない。 
我々においても同様である。我々も主を単に追憶し、慕い求めて捜すだけなら、出会えないし、捜す労は空しい。ここで注意させられるが、我々がパリサイ人より上の立場にいると思うならば危険な錯覚である。パリサイ人に向けられた主の峻厳な御言葉が、我々自身にも向けられているのではないかと考えなおして見ることは慎重な読み方である。確かに、我々をパリサイ人と同一視してならない面もある。彼らと同じところに立っていては、御言葉の光りが届かない場合がある。しかし、違っていると割り切ってはならない面もある。ここで賢く判断しなければならない。 
今日聞いている聖書の箇所は、特に精神を集中して聞かなければならない所である。単純に割り切ってはならない。この語り掛けの結びのところ、30節に、「これらのことを語られたところ、多くの人々がイエスを信じた」と書かれているように、今回の御言葉は、聞く者らを信じさせる力と内容を持っていたのである。単なる反発の繰り返しではなかった。その事情を読み取って行かねばならない。しかもまた、その続きでは、45節に「私が真理を語っているので、あなた方は私を信じようとしない」と言われていて、全面的な対立になっている。だから、「信じた」とあったのは嘘ではないのだが、彼らの信じた信仰には多くの問題が含まれていたことを読み落としてはならない。そのことは、その箇所に至ってまた考えることにする。 
さて、「あなた方は私を捜し求めるであろう。そして自分の罪のうちに死ぬであろう」と言われる。平易な御言葉ではないが、ここにある罪と死については、少し先の24節の御言葉が問題を解く鍵になっているので、それを聞いて置こう。「だから私は、『あなた方は自分の罪のうちに死ぬであろう』と言ったのである。もし『私がそういう者であること』をあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」と言われた。 
「罪」とは、ここでは不信仰のことである。そして、「不信仰」とは、イエスをキリストと信じないことである。さらに、ここでは「私がそういう者であること」を信じること、と言い表されている。「私がそういう者であること」という言葉については、後でもう一度出て来るので、その時に一括して扱うが、ここでは要するに、イエスをキリストと信じることが言われる。 
「あなた方は私を探求するであろう」と言われ、それは結果的には空しいと言われるが、それなりに真面目な探求なのである。彼らはまた、自分が不信仰であるとは思っていない。神を真剣に信じているつもりなのである。不信仰だと言われると猛烈に憤慨する。そのように真面目に探求しようとしている人を「不信仰」と決めつけるのは酷ではないか、と言われるかも知れない。そこで、次の御言葉を聞かなければならない。 
「私の行く所には、あなた方は来ることが出来ない」。ここに「からである」という言葉は使われていないが、それを補って読めば、理解が平易になる。 
「あなた方は私を信じないから、その不信仰のうちに死ぬ」というのは無慈悲な言い方であると言われる。しかし、不信仰な罪と死の世界からの脱却は、どのようにして実現するかを考えれば良いのではないか。 
その脱却は、キリストを信じ、キリストを受け入れ、キリストと共に生き、キリストに従い、キリストに倣うことによるほかないではないか。神を信じていても、去って行かれたキリストを去られた後で捜し求めているだけでは、ニコデモがそうであったように、死んでしまったキリストの亡骸を丁重に扱うだけの儀式に終わる。それはキリストと別の世界なのだ。そこからキリストを追憶することは出来る。その追憶によって心を洗われる思いになることもあろう。しかし、結局は、罪のうちに死ぬのである。死に勝利することは出来ないのである。 
キリストの行かれたところに私も一緒に行く。それが唯一の生きる道であり、唯一の救いである。平易な言い方をするならば、キリストが一緒に歩いて下さらなければ、死から命への道を我々は一歩も歩けないのである。だから、彼を救い主として信じなければ罪のうちに死ぬほかない。 
「あなた方は私を捜し求めるが、罪のうちに死ぬであろう」と主イエスは彼らの探求が空しいと宣言したもうた。ここで語られた限りでは、言われた通りである。しかし、今回の箇所では丁寧に読むことが大事であるとの注意を促されている。そこで、少し先になるが、28節の御言葉を聞いて考えて見たい。「そこでイエスは言われた、『あなた方が人の子を上げてしまった後、初めて、私がそういう者であること、また、私は自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、分かってくれるであろう』」。 
「人の子を上げてしまって後」、つまり、キリストを殺してしまって後、初めて、私がそういう者であることが分かり始めると言われるのである。キリストの去った後、彼を捜し求める人の全てではないが、そのうちの幾らかは、「私がそういう者である」ことに思い当たるであろうと言われるのである。 
キリストの死の後に、状況がやや変化するのである。その説明はここにはないが、キリストの十字架の力が大きい衝撃になるわけである。 
それでは遅過ぎると強調しても始まらない。むしろ、キリストの死後、キリストの死を見詰めることによって、キリストが何であったかが、やっと見え始める、と言っておられるのである。 
しかも、ここに非常に大切な言葉が使われている。直ぐ前に、24節でも聞いたのであるが、「私がそういう者であること」という言葉は、「私がそれであること」いや、むしろ「私が私であること」と訳した方が明瞭になる面がある。これは6章20節の嵐の夜の記事に「私だ」と訳されていたのと同じ言葉、「エゴー・エイミ」である。解説を繰り返すのを煩わしく感じる人はしばらく辛抱して聞いて貰いたい。「エゴー」は「私」という意味、「エイミ」は「私がある」という意味の言葉である。だから、「私は私である」としたい。8章58節の「アブラハムの生まれる前から私はいるのである」、これも「アブラハムの生まれる前から私は私である」という言葉なのだ。 
もう一つ「エゴー・エイミ」の用例を挙げるなら、18章5節6節がある。ゲツセマネの逮捕の場面である。主は進み出て言われた、「誰を捜しているのか」。彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言われた、「私がそれである」(エゴー・エイミ)。イエスを裏切ったユダも彼らと一緒に立っていた。イエスが彼らに「私がそれである」(エゴー・エイミ)と言われた時、彼は後ろに引き下がって地に倒れた。「エゴー・エイミ」という宣言にはユダを打ち倒す力があった。 
ヨハネ伝には「私がそれである」という主イエスの御言葉が沢山出て来る。他の福音書にもあるが、ヨハネ伝には特に多い。また「私は何々である」という言い方も多い。私は命のパン、私は生きたパン、私は世の光り、私は生ける水、私は道、私は良き羊飼い、私は羊の門、私は上から来た者、私は私自身について証しする者、私は甦りであり命である、私は真理である、私は葡萄の木である、等々の言葉は我々の親しんでいる通りである。 
それらと「私は私である」とでは、言葉の調子が違うように感じられるかも知れないが、そうではない。上に列挙した言い方は、「エゴー・エイミ」という言葉が先ずあって、それから「光り」とか「水」とか「羊飼い」というような名詞がつく。だから、単に「エゴー・エイミ」だけでも十分な自己証言であるが、自己証言がなされた上で、もう一つの証言が重ねられる。 
キリストを信じるとは、キリストのその証言を信じ受け入れることなのだ。それを信ずる時に、キリストの行かれる所に我々も行き、彼とともにあることが実現するのである。 
 

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