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ヨハネ伝説教 第8回

――1:16によって――

 「私たち全ての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、恵みに恵みを加えられた」。
 今日はこの16節だけを学ぶことにする。17節、18節と続いているのであるが、一気に学ぶには分量が多過ぎる。それに、17-18節は16節で文章が一旦締め括られた後で、福音書記者によって書き足されたのではないかと見られる。大事なことであるから書き加えたのであるが、ロゴスに対する讃歌は16節で終わる。
 さて、「私たち・全ての者」という言い方はヨハネ伝で初めて接するものである。14節には「私たち」という言葉が出た。そこを読む時に気づかせられたのは、これは本来この文章を書いている使徒を指すものではあるが、内容には拡がりがあって、今ここを読む私自身まで含まれると理解して良いということであった。それにしても、「私たち」という言葉を「私たち・全て」と同列に置く理解は、この場合には許される派生的な理解であって、つねにそう受け取らねばならないと言うならば乱暴な解釈である。
 しかし、今、16節では「私たち・全ての者」と言われる。「私たち」というのとは違うのである。それでは、これは万人、全ての人か。
 全ての人が、「満ち満ちているもの」の中から受けて、恵みに恵みを加えられたのでないことは言うまでもない。だから、全人類というのではなく、それと区別される私たち、すなわち、全人類の中から選ばれて召し出された信仰者、福音を語る人だけでなく聞いて受け入れている者、しかも、その全員である。使徒が聴衆の全てに向かって「あなた方みんなは」と言ったと取って良い。
 なお、この16節は、前の15節に続いてバプテスマのヨハネが語った言葉であると解釈する人が昔からいる。意味内容から言って、そう読めないことはない。しかし、前回見たように、15節は福音書記者が挿入したものと取った方が、自然に読めるように思う。初めの原稿では14節から16節に繋がっていたが、ヨハネのキリスト証言の重要性のゆえに、ここに挿入せざるを得なかったと取って置きたい。
 次に、「満ち満ちているもの」という言葉もヨハネ伝で初めて接するものである。ただし、この言葉はヨハネ伝ではここに一度出て来るだけである。ギリシャ語では、これは一語で「プレーローマ」と言い、新約聖書に時々出て来る特徴ある用語である。エペソ1章23節、「この教会はキリストの体であって、全てのものを全てのもののうちに満たしている方が、満ち満ちているものにほかならない」。3章19節、「人知を遥かに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているものの全てをもって、あなたがたが満たされるように祈る」と書かれている。コロサイ書1章19節が最も有名ではないかと思うが、「神は、御旨によって、御子のうちに、全ての満ち満ちた徳を宿らせ、云々」。ここで「満ち満ちた徳」と訳されたのが「プレーローマ」である。満ちたと言ってもよいのだが、日本語では普通「満ち満ちた」と言い表わし、充満の様子を表わそうとする。
 この後、キリスト教の一つの異端であるグノーシス派がこのプレーローマという言葉を愛用した。先にエペソ書、コロサイ書におけるプレーローマの用例を引用したが、異端派がこの使い方に興味をもってさらに深入りしたようである。満ち満ちていることを殆ど神と同一視した。使徒ヨハネはエペソ書、コロサイ書よりもずっと慎ましくこの言葉を使っている。
 今、新約聖書における特徴ある言葉だと言ったが、新約になってから新しく入って来た神学概念ではない。旧約に「満ちる」という言葉が繁く出て来ることを思い起こそう。例えば、イザヤ書6章3節、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、栄光全地に満つ」。詩篇119篇64節、「地はあなたの慈しみで満ちる」。豊かであると言うだけでは足りない。満ちていなければならない。
このような言葉については説明をしなければならないが、説明を聞けば分かる、という種類のものではない。すなわち、説明とは一つの言葉を他の言葉で置き換えることであって、それで分かる場合、また分かったと感じる場合はあるのだが、「満ち満ちているもの」という言葉については、説明は容易ではない。言い換えても「満ち満ちているもの」としか言えない。だから、理解は進まない。
 では、分からないものなのか。そうではない。「私たちは、その満ち満ちたものの中から受けて、恵みに恵みを加えられている」と言われる。すでに実際に味わっているから分かっている。しかし、説明という営みを通じて分かる問題ではない。
 少し脇道に逸れるかも知れないが、我々は説明ということに信用を置き過ぎているのではないかと考えさせられることがある。何でも説明を聞きたがる。説明を受けるとナルホドと感じ、分かったという感じになる。それで良い場合もあるのだが、分かったと感じただけで、何も分かっていない場合もしばしばあるのではないか。
 信仰に関することで、分かりの良い人と思われていた人が、実は肝心のところが分かっていなかったという場合が往々にしてあるのではないか。外の人のことはともかくとして、私自身にもそういう問題があることに気付かせられる機会がよくある。こういう欠陥、至らなさ、これは信仰の修練を通じて埋めて行くのであるが、信仰のことだけではない。人間としての大事な要件について、説明を聞いて、あるいは自分で考えて、分かったつもりであったが、分かっていないという深刻な実情がある。今日の世界の精神的混乱は、分かっているつもりのことが、実は最も単純な要件においても分かっていなかったということが明らかになった戸惑い、恥ずかしさと大いに関係するのではないか。簡単に言えば、人間の理性の破綻がポロポロ出て来たのである。軽々しく、「分かった分かった」と思っていたことが問題なのであって、深く考えて生きなければならない。
 説明では済まない場合、すなわち言葉を置き換えただけでは、分かったことにならない場合がある、ということを弁えて置きたい。そういう事情に気づかせてくれる点で、「満ち満ちているもの」という言葉との出会いは有益である。この種類の言葉に14節に出た「栄光」というものもある。これも説明だけでは分からない。
 説明ということに過度の信用を置く人たちは、説明の効果があり、説明し甲斐がある事柄に重点を置きがちである。そして、説明してもなかなか分かって貰えないことは、知らず知らずのうちに疎んじる。他の領分には触れないが、近代のキリスト教がこういう傾向を著しく持っていることに我々は今気づかせられているのではないか。聖書にある大事な言葉がだんだん死語になって行くようである。実際、「主の栄光」という言葉は多くのクリスチャンの間では死語になってしまった。また、「キリストのうちにある満ち満ちたもの」、というような言い方を、今日のクリスチャンは生き生きと語っていないではないか。語ることがあるとしても、身に付いていない服を着せられたような、ギゴチない語り方しか出来ていない。
 それでは、「満ち満ちたもの」というのは「曰く言い難し」として封じておくべきであろうか。説明で分かったと思うことには注意しなければならないが、それでも説明は必要である。説明をしないで、「曰く言い難し」という言い方しか出来ない人がいるが、その人を軽蔑してはならないと思う。しかし、ここには危険もある。分かっていて説明出来ないからしない、ということなら危険はないかも知れないが、分かっていないことを、権威ぶって誤魔化す弊害が随所にあるように思う。
 説明すること、分かることに過大の信頼を置いてはならない。それでも、説明すること、分かることには、それなりの意味がある。それをしない精神は怠慢である。そこで、誤魔化しなしに説明して行きたいが、私たちには聖書があるから、聖書を手掛かりに説明し、聖書を手掛かりに分かって行きたい。
 「満ち満ちているもの」、これは14節に「恵みとまことに満ちていた」というくだりで使われた「満ちている」という形容詞と同一系列の名詞である。この「恵みとまことに満ちる」が一つの手掛かりとなる。だからといって、満ち満ちているものとは恵みとまことであると片づけては簡単過ぎる。「満ち満ちているもの」と口語訳が訳すところを、新共同訳では「満ち溢れる豊かさ」と訳しているが、その方が意味は通りよいかも知れない。しかしまた、「満ち溢れる豊かさ」という訳語も、結局「豊かさ」の意味に受け取られて、肝心の意味を表わしきれないもどかしさを感じる。
 プレーローマは「満ちていること」なのである。簡単な言葉で言えば「充満」、「フルネス」である。量的な・相対的な豊かさというのとは違う。絶対的なのである。それ以上に増える余地がない状態である。我々が人と出会って、この人は偉い、と感じることがよくあるが、これは私と比較して言うことである。人と比較して自分を至らぬ者と捉え、相手を尊敬する、これは良いことであるが、この考えをイエス・キリストとの関係に持ち込んではおかしくなる。初めてイエス・キリストを知って、この方は偉い方だと感ずることは当然であるが、キリストを信じる我々は彼を尊敬するのでなく、彼を信じ、崇めるのである。私より偉い方だと感心するのは当然であるとしても、比較して偉いというのではない。絶対的帰依なのである。分かるということがあって良いのであるが、分かる対象ではなく讃美の対象である。「満ち満ちている」とはそういうことである。
 「満ちている」という言い方がなされる場合を聖書から拾うならば、「時が満ちる」という言い方がある。主イエスは「時は満ちた」と宣言して神の国の宣教を始めたもうたが、満ちた時とまだ満ちていない時の間には、質的な断絶がある。夜中の12時を過ぎると明日になってしまうように、時が満ちると神の国が来る。審判が始まる。やり直しが効かなくなる。このようにして時を満たすのは何か。時が自然に満ちるのか。自然に満ちる時もあるかも知れない。しかし、一切の時を手中に収めておられる神が時を満たしたもう。
 もう一つ、預言を成就するという場合には「満たす」という動詞を使う。例えば、ヨハネ伝12章38節、「それは預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、『主よ、私たちの説くところを誰が信じたでしょうか』」。預言されていたことが全うされるのである。約束という不十分な形でペンディングになっていたのが、完全なものとして差し出されるのである。約束したもうたのが神であるから、成就したもうのも神である。 そのように、「満ちる」、「満たす」、「満ちさせる」のは神である。そして、神の存在は何らの欠けたところもない満ち満ちた存在である。欠けたところがなく、物足りないところがない。それが神である。
 大雑把に言うならば、満ち満ちたものと、満ち満ちていないものとがある。我々の属するのは満ち満ちていない世界である。だから、我々は満ち満ちたものに憧れ、探し求める。神こそが「満ち満ちたもの」であられるが、我々はそのような神性をキリストにおいて見るのである。それが、18節で「神を見た者はまだ一人もいない。ただ、父の懐にいる独り子なる神だけが、神を顕わしたのである」と言われる通りである。
 「その満ち満ちている中から受けた」という「その」は「彼の」である。肉体となって我々のうちにやどりたもうた御方にこそ「満ち満ちたもの」がある。その方においてしか満ち満ちたものは発見されない。我々がキリストに見るのは、より優れたものではなく、絶対的なものとしての充満である。彼にあるもの、それを祝福とか、救いとか、命というような言葉に置き換えて見れば、理解が容易になるかも知れない。
 しかも、我々は彼の充満を、またその充満の中から「受けた」のである。充満の世界が彼方にしかないというのではなく、彼にしかないのは確かであるが、彼にあるものを我々は汲み取り、我々のものとするのである。しかも、我々が彼から受けることによって、彼にある分がそれだけ減るわけではない。我々が精一杯吸い取っても、彼の充満は依然として欠けるところなき充満である。
 とにかく、我々は彼の「満ち満ちていること」に与るのである。我々は「皆」受け取ったのである。我々のうちの進歩した人だけが与るのではなく、全員が受けたのである。福音を聞くとはそういうことなのだ。
 彼のうちに満ちているものとして、「恵みとまこと」があることは14節で学んだ通りである。「満ち満ちていること」と、「恵みとまこと」を、単純に同一視して良いのではないが、キリストの充満に我々が与ることを理解するには、「恵みとまこと」をシッカリ押さえて置くのが適切である。恵みとまこととに関わりなく、キリストの充満を理解する人がいる。確かに、我々はあらゆる意味でのキリストの充満に与るのである。キリストの光りの充満、キリストの栄光の充満、キリストの知恵の充満、力の充満、そしてキリストにある時の充満すなわち成就、それらのことも考えなくてはならないであろう。しかし、恵みとまことに満ちていることに与る所から始めるべきである。それが分かりやすい。
 16節も「私たち全ての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、恵みに恵みを加えられた」と言う。恵みを受けたことから目が開け、理解が始まったのである。
 さて「恵みに恵みを」という言い方であるが、新共同訳では「恵みの上にさらに恵みを受けた」と訳す。直訳すれば「恵みに対し恵みを」である。「加えられる」という言葉はない。恵みがドンドン増し加わってグラフが伸びて行くように取ってこう訳したのである。しかし、それでは恵みの本質として単純すぎる理解になりはしないか。むしろ、一つの意味の恵みに対して、また別の意味の恵みが加わる、と取った方が良い。
 ある人は旧約の恵みに対して新約の恵みが与えられた、というふうに読みたがる。それも一つの読み方であると思うが、無理がある。しかし、一つの恵みがあって他の恵みを呼び起こすことはある。例えば、御言葉の恵みとして信仰が与えられ、その信仰によってさらに進んだ救いの恵みが受け取られると見ることは出来る。その受け取り方の方が適切ではないだろうか。
 詩篇36篇9節に「我らはあなたの光りによって光りを見る」と歌われるが、意味の深い言葉である。人はみな光りを慕っており、光りがあれば誰もがそれを見るのではないかと思われるであろうが、まことの光りに関しては、神から光りが来るとき、それによって、初めて光りを見ることが出来るのである。
 神の恵みは渇いている者なら誰でも来て飲むことが出来るのではないかと思われるであろうが、恵みがないならば、求めることも、来ることも、飲むことも出来ない。恵みという手段が与えられて、それでこそ恵みを受けるのである。
 一種類の恵みがドンドン増えて行くというふうにここを理解する人がいるが、間違いと決めつけることは出来ないとしても、こういう単純な理解では躓くのである。すなわち、恵みとしての苦難が来る時、この人はこれが恵みであると悟らないからである。 さて、「恵みとまこと」というその「恵み」について今見たのであるが、「まこと」はどうなのか。勿論、満ち満ちた彼の「まこと」に我々は与るのである。そのことはここには語られていないけれども、併せて考えて置きたい。
 キリストの充満に与る者は、キリストの真実に与る。今、その真実について詳しく言わないが、その真実を我々は受けた。そして真実から真実へ、進む。これが信仰より信仰へである。
1999.06.20.

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