◆説教2001.06.10.◆

ヨハネ伝講解説教 第79回

――ヨハネ8:13-18によって――


 イエス・キリストがご自身について証しして、「私は世の光りである。私に従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、命の光りを持つであろう」と言いたもうた時、パリサイ人は真っ向からこれを拒否して、「これは証しになっていない」と言った。13節にある通り、「あなたは自分のことを証ししている。あなたの証しは真実でない」と言ったのである。<br>
 これはパリサイ人の発言であったと書かれている。これに先立つ前の記事を見ると、7章32節と45節とに、「祭司長とパリサイ人」が主イエスに論争を挑んだことが書かれていた。祭司長というのは単に身分がそうであったというだけでなく、思想的立場もあらわしたのであって、サドカイ派であった。パリサイ派とサドカイ派は普段、学説上では対立し勝ちであったが、主イエスに敵対する時には合流した。ところが、今回はパリサイ人だけである。<br>
 サドカイ派は今回のことでは共同戦線から抜けた。彼らはパリサイ派ほどには理論を徹底させることを好まなかったようである。パリサイ派は主イエスが自分について証ししておられて、そのような証しは受け入れられない、という論法で攻めようと提案し、サドカイ派が同調するのをためらったのではないだろうか。<br>
 パリサイ派の主張はこうである。申命記17章6節に、「二人の証人、または三人の証人の証言によって、殺すべき者を殺さなければならない」と規定されている。これは重大な要件についての証人は二人以上の証言がなければならない、という意味である。すなわち、それより少ない証人の語ることは真実でないかも知れない。<br>
 そこから彼らは証言一般についてさらに考える。人が自分自身について立てる証しは、独り善がりになったり、特別に意識しないとしても、自分に都合の悪いことは隠して、証しとしての客観性を欠くのである。だから、二人以上の合致した証言でなければならない、ということにしなければならない。<br>
 常識的に見れば、もっともな意見であると思われるかも知れない。しかし、重大な誤りがある。神がご自身について証しされる場合を考えて見よう。神がご自身について一人で証言される場合、それは偽りの証言であろうか。そうではない。神の証しはこの上ない真実である。そしてキリストの立てたもう自己証言は、神としての自己証言であって、真理そのものなのだ。そのことがパリサイ派の主張では見えなくなっている。<br>
 主イエスは15節に、「あなた方は肉によって人を裁くが、私は誰をも裁かない」と言われる。これは主の証しを聞いても、それを福音として素直に聞くことをせず、証言としては受け入れられない、とそれを裁いている、しかも「肉によって」、肉的な原理によって裁いている、その姿勢、その手続きの欠陥を指摘したものである。命の言葉を聞いても、聞き従うのでなく、それを一段高い所から判定するならば、聞くことは命を得ることにならないではないか。我々も良く気を付けたい。<br>
 さて、「証し」というものが人間社会において、なくてならぬものであることは言うまでもない。「隣人に対して偽りの証しを立つるなかれ」との戒めは、真実の証しによって人間の共同体が成り立つこと、証しが偽りであったならば、社会は立ち行かなくなること、また、神はこの社会を維持するために、人々が証しを真実なものとして守れるように、罰則を伴う保護を加えておられることを示す。この事情は多くの人も理解していて、神を信じない人々の間でも偽証罪というものがある。<br>
 だが、その考えを推し進めて行くならば、最も大事な点を見落とすことになるのではないか。それは、神がご自身について立てたもう証しこそが、確かな意味を持つものであり、それこそが人々の立てる証しに意味を与える根源であるという事実である。<br>
 人々が社会生活を営む必要上、真実な証しを立てねばならぬことは確かであるが、ではその必要がなければ、証しを偽っても良いのか。そうではない。実際上の必要とは無関係に、相手がいなくても、自分一人の時も、自分に対する真実の証しを立てなければならない。このことは、落ち着いて考えて見れば、誰にでも容易に納得出来るはずである。自分で心に誓ったことは、人に語っていなくても、神は知っておられるのであるから、なかったことにしておく訳には行かない。誓ったことは必ず果たさなければならない。<br>
 ところが、実際問題として、人は自分を誤魔化し、自分に対して偽りの証しを立て、あるいは自分の心に誓った誓いを守らないことが多い。神が律法によって禁止しておられるのは「隣り人に対しての」偽りの証しであって、自分に対する偽証は追及したまわないように見える。しかし、これは、隣人でなくて自分を偽るだけだから、偽りの罪にならない、という意味ではないであろう。自分自身に対する偽りの証しは、自分には分かっている。自分に対する偽りの証しが律法によって禁じられていないのは、律法では主として、神と隣人に対する愛の義務を規定するからである。律法はそれ以上に立ち入って、証しを立てる人間そのものとは何か、証しというものの構造はどうなっているか、というような問題を解明することはしていないからである。そういうことは、めいめいが考えれば分かるのである。<br>
 「人間とは何か」、「自分は何か」というような問題は、考えなくても生きて行ける。<br>
 こういうことを考えよ、という神の命令が与えられているわけではない。そこまで考え深くならなくても、神を侮らず、人を傷つけないで正しく生きることが出来る。また、考え過ぎて無駄な時間を過ごすこともあるから、戒めを守る実践を重んじた方が堅実であろう。だから、「隣人に対して偽りの証しを立ててはならないと規定されている人間とは何なのか」と考えなければならないわけではない。<br>
 しかし、考える時があっても悪いことではない。隣人に対して偽りの証しを立ててならないのは、社会生活の必要とか、そういうことでは結局、自分が信用されなくなって、損をするからという理由によるのではなく、もっと深い意味があることを考えても決して無益ではない。実益以前に、二つのことがある。一つは神が生きておられ、神が真実であられ、虚偽を憎みたもうのであるから、偽りの証しという形で隣人に実害を及ぼさないとしても、神は見ておられるのである。<br>
 もう一点は、他の人に対して偽りの証しを立ててはならない人間は、自分自身に対しても偽りの証しを立てることが本来は出来ないのだ、ということを見ておきたい。人間の精神の中には、自分に対して偽りの証しをした場合、直ちに作動して警鐘を鳴らす装置が組み込まれている。すなわち、良心である。自分を偽ったならば、それで損害を受ける人がいないとしても、良心は晴れないのである。<br>
 実際問題として、人は往々にして自分自身に対して偽りの証しを立ててしまう。そして良心もそのことに無頓着なままに過ごしてしまう。しかし、これは確かに本来の人間の姿勢・機能を逸脱している。<br>
 次に、もっと重要なことに思いを向けなければならない。それは神を証しする人がいなくても、神がご自身について証し、「私は私である」、「私はあってある者である」、「私は生きている」と言いたもうということである。これこそが聖書の根幹であり、神の言葉の基本であり、全ての物事の出発点である。神なしでは人間は生きて行けないが、人間なしでも神は神である。人間が考え出した真理の基準があって、それに神が謂わば応募して、合格しておられるのではない。このことがハッキリしないと、人間は自分が審査官であって、神が審査に合格するかどうかを判定しているかのような錯覚を起こしてしまう。だから、証しという時、神から始めなければならない。<br>
 パリサイ派は、証しについての律法の規定に忠実であろうとし、厳密を期し、厳密な解釈を誇っていた。彼らは死刑判決に当たって二人以上の証人の証言を聞かなければならない、という律法の規定を手がかりに、証言一般について考えた。そこには頷ける部分もある。けれども、神がご自身について証言したもうことが出発点になるという事実は、完全に見えなくなっていたのである。神がご自分について証ししたもう時、証しする者は一人、神ご本人だけである。それを証言として成り立たないと言えるであろうか。<br>
 それと同時に、彼らは証しを問題にしている自分自身の証しはどうなのかということも素通りし、内に顧みることをしなかった。だから、善を行うと自認しながら、偽善に陥ったのである。この偽善ということについては今日はこれ以上は論じないで、今日の主題に帰る。<br>
 神の証しを人間の立てる証しと同列の線に引き下ろし、混同してはならない。二人以上の証人が必要なのは、人間の証しが間違いを含みやすいからである。だから、間違いを取り除く手続きを取らなければならない。二人以上の証言が合致した点についてでなければ、証言としては採用出来ないのである。だが、神には偽りがないから、間違いを含んだ証しをされる心配はない。したがって、神ご自身の証言は、神ご自身の証言である限り、二人以上の証人を必要としないのである。そして、イエス・キリストは二人以上の証言者を必要としないまことの神である。――ただし、今日のところで、主は、「私の証言は私一人で十分である」とは言っておられない。<br>
 人間は一人では立てない。我々の語る真実も人々の支えがあって成り立っている。人は互いに偽りのない証しを語り合うことによって責任ある社会を作ることが出来る。それはそれで良いのであるが、人間社会を考える時のこの考え方をもとにして神を考えてはならない。神は一人で立ちたもうのである。他のものの助けを借りたまわない。証しも、ご自身でなし得たもう。<br>
 我々にとって、神を讃美し、神の証しを立てることは人生の重要な務めである。しかし、考え違いをしないようにしよう。我々が神讃美をしなくなり、神を証しすることを怠ったなら、神の栄光が地に落ちてしまうのか。そういう考え方をしてはいけない。世界が挙げて神に逆らっていても、神の栄光それ自体は変わらず輝いている。ただ、その栄光が人の目に見えなくなるというだけである。<br>
 パリサイ人が如何に心得違いであったかを見て来たのであるが、よそごとではないということを考えよう。我々の間では、神の言葉の証しは通常一人の人によってなされる。<br>
 二人の証人によらなければならないとは言わない。それで大丈夫なのかと問題にする人は通常はいない。しかし、ここでパリサイ人が取ったのと同じ姿勢を取るならば、この説教者は一人で語っているだけではないか。教理を教える一方の言い分だけを聞いていて良いのか。反対の立場からも聞かなければ公正を期し得ないのではないか、と言う人が出て来ないとは言えない。<br>
 こういう議論は主が教会を建てたもうたという前提を覆したものであって、確かに間違いなのだが、一人の人の言うままに受け入れていては危険な場合がないとは言えない。<br>
 万全を期して、主イエスは弟子を全国伝道に派遣したもう時、二人ずつ遣わしたもうた。五旬節の朝、ペテロが説教に立ち上がった時、11人も一緒に立った。<br>
 へブル書12章1節に、「このように多くの証人に雲のように囲まれている」と言われているが、五旬節に11人がペテロの傍に立っていた時のようには目に見えなくても、教会において真理の言葉が語られる時、歴史を貫く雲のごとく証人の大群が立っていることを我々は弁えているのである。<br>
 羊飼いが羊の群れをドンドン間違った方向に連れて行き、誰もそれをチェック出来ないということになると、危険である。そこで、教会には羊飼いが正しい方向に群れを導いているかどうかをチェックする務めが、制度として立てられている。しかし、チェックされているから安心だとか、チェックの制度がないと心配だ、と言うことではない。他の人によってチェックされねば不確かだというほどに、説教者の召しが不確かであると考えてはならない。預言者はしばしば孤立無援の中で証言したではないか。それでも真理の証言は真理の証言であり、聞く人は聞くのである。<br>
 後で見るように、主イエスは、ご自身を遣わしたもうた父がともにいて証しをされるから、私の証しは二人の証しになるのであって、正しいのだと言われる。それと同じ論法が教会でも言えるということを考えたい。遣わしたもうた主が、遣わされて語っている者とともに証ししておられるのである。その神は霊においてここにいます。<br>
 さて、主イエスはご自分で立てる証しが真実である理由を、二点に亘って論じられるが、第一は14節、第二は16節後半と18節である。第一点であるが、14節で主イエスはこう説明された。「たとい私が自分のことを証ししても、私の証しは真実である。それは、私がどこから来たのか、またどこへ行くのかを知っているからである。しかし、あなた方は私がどこから来て、どこへ行くのかを知らない」。私は知っているが、あなた方は知らない。この開きは無限に大きい。知らない者は知っている者に、楯突く資格がない。<br>
 「自分はどこから来てどこへ行くのか」。これは人が自分について感じる疑問である。<br>
 「あなた方は私がどこから来てどこへ行くのか知らない」。これはあなた方は私について知っていないという意味でもあるが、その人自身は、私が知るように、自分自身について、どこから来てどこへ行くかを知っていない、という意味も含んでいる。そして、「どこから来てどこへ行くか」という言い方は、わりあい良く用いられ、ただそれだけでも分かるような気がするので、それだけの意味に取られてしまい勝ちであるが、その読み方では足りないのである。<br>
 キリストの場合、「どこから来てどこへ行くのか」という、この言い方が、どこで、どういう意味で使われているかを思い起こして見よう。13章3節に「イエスは父が全てのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出て来て、神に帰ろうとしていることを知り、云々」と記されている。そのように、キリストは神から来て神へ行くのである。そして、そのことは、彼が神の子であり、また神であることを意味する。<br>
 しかも、「どこから」という言葉の中に、神から「遣わされて」来た、という意味も読み取らなければならない。7章28節に「私は自分から来たのではない」と言われる通りである。自分から来たのでないとは、父から遣わされたということである。すなわち、使命を帯びているのである。<br>
 第二点であるが、16節後半に「私は一人ではなく、私を遣わされた方が私と一緒である」と言われ、18節に「私自身のことを証しするのは私であるし、私を遣わされた父も、私のことを証しして下さる」と言われる。二人の証人が揃っており、証言は一致している。今挙げた二つの箇所のうち第一のものは、私の裁く裁きは正しい、ということの続きとして言われ、なぜなら、私は一人で裁くのでなく、私を遣わされた方が私と一緒だからである、という風に論じられた中の言葉であるから、ご自身の「証し」の正しさについて言ったものではない。しかし、論旨が続いているから、一括りにしても文章を損なうものではない。<br>
 ところで、キリストを遣わしたもうた父がここに来ておられる。しかし、人々にはキリストの父が来ておられることが見えない。だから、「あなたの父はどこにいるのか」と楯突くことを止めないのであるが、見えないところでこそ神の遣わしたもう証しが必要である。それは言葉によって、また御霊によって証しされている。<br>
  

目次へ