◆説教2001.05.20.◆

ヨハネ伝講解説教 第78回

――ヨハネ8:12によって――


 「イエスはまた人々に語ってこう言われた」――。 
この「また」、あるいは「再び」という言い方は、前にあったこととの関連を示す。すなわち、7章37節に対応するものである。そこには「私は何々である」とは言われていないが、内容的にそう言われたも同然である。「私は生ける水である」と先に4章でサマリヤの女に語りたもうたことを前置きにして、仮庵の祭りの終わりの日に、「すべて渇く者は、生ける水である私のところに来て飲め」と公けに宣言された。それと対になることがこの8章12節でも繰り返されるのである。 
先の時に、ある人は主の言葉を素直に受け入れ、ある人は猛烈に反発し、両者の間に論争が起きた。ここでは聞いた者の中の信じない者と、主イエスの論争が続く。ただし、主がご自分のことを「光り」と言われた内容に反論したのでなく、自分のことを自分で証言しているから正しくない、と異議申し立てをしているのである。主イエスの宣言は、もろもろの議論に決着をつける権威という意味を我々に対して持つが、相手によっては議論の起こりにもなる。 
なお、先の時との違いの一つは、主イエスに反対する集団の指導的グループ、それはパリサイ人という呼び方をされているのであるが、このパリサイ人は先には直接主イエスに反論することはしていない。主イエスの説教を聞いて、感銘を受けた人々と論争している。しかし、13節に「パリサイ人たちがイエスに言った」と書かれているように、今度は彼らが表に出て来たのである。 
さて、「私は何々である」という言い方を、主イエスはヨハネ伝では好んで用いておられる。そのことに触れる前に、何々をつけず、ただ「私は私である」と言われた場合があることを見て置かねばならないであろう。すなわち、6章20節で、嵐の海のうえで漕ぎ悩んでいる弟子たちに近づき、恐れている弟子たちに「私である。恐れるな」と言われた。これは「私は私である」という言葉である。ご自身のアイデンティティーの宣言が非常にハッキリしている、全ての宣言の基礎である。それと比べると、「私は何々である」という言い方は、宣言としての力において劣る。 
とにかく、ヨハネ伝には、私は門である。私は羊飼いである。私は命のパンである。私は葡萄の木である。私は命の水である。私は光りである。という言い方が盛んに用いられる。これらは譬えを借りたものであるが、単なる説明として捉えてはならない。これは宣言であり、啓示であり、さらに我々に対する約束と命令をも含んでいる。 
注意すべきことに、イエス・キリストはご自身が何であるかを示したもうた時、それだけでなく、必ず、相手の人に対する何かの関与をされる。7章37節の場合、「私は命を与える水である」と言っておられるだけではなく、「あなた方は私に来て飲め」と呼び掛けておられるのである。しかも「あなた方、渇く者よ」と先ず言われた。ご自身が何であるかを語るに留まらず、聞く者が何であるか、そして聞く者が何をしなければならないか、あるいは、ご自身との関係においてどうなのかを明らかにしておられる。すなわち、「私は命を与える水である」というだけでも十分意味があるのであるが、それだけで留めず、「私に来い」、「私から飲んで癒されよ」、「あなたがたは渇き衰えている者なのだ」、「私なしでは、あなたがたは死んでいるのだ」と言われた。それと同じような言い方を8章12節でもしておられることを心に留めよう。 
そこで言われる、「私は世の光りである。私に従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、命の光りを持つであろう」。私は何々であるという部分と、私に聞いて、私に従って来る者はどうなるか、の部分からこの言葉は成り立っている。今日はこの一節の御言葉だけを学ぶことにする。 
この説教は20節が述べているように、賽銭箱の傍で語られたのである。賽銭箱の置かれているのは、宮の中の「婦人の庭」と呼ばれる区域であるが、この婦人の庭には仮庵の祭りの一日、その暮れ方に、四つの大きい明かりがタップリの油を用意して、金の灯台の上に灯されることになっていたそうである。それとの関連で言われたのかどうかは定かでないが、その行事を頭に置いて読むのは当然であろう。人々はその光りを見て、来たるべきまことの光りへの憧れを募らせたのである。仮庵の祭りは、ゼカリヤ書14章が語るように、終わりの時を待ち望む祭りであるが、この祭りの象徴的意義が、赤々とした明かりによって強調されたのである。 
人々はその明かりを見て喜んだのであるが、光りが灯されて、祭りの喜びが絶頂に達したとしても、やがて油が尽き、灯は消え、あたりは闇の中に沈んで行く。来年の仮庵の祭りまで待たなければ、精神のこのような高まりは起こらない。そして来年、思いは高まるが、また元に戻る。多くの宗教が繰り返している年中行事の祭りと同じことである。終わりの日を指していても、終わりの日は来ていない。終わりの日とは「夕暮れになっても光りがある」とゼカリヤ書14章7節は言う日である。 
殆ど全ての宗教が、明かりを灯す儀式を考案し、光りによって救いを象徴させる演出をしている。人々はそれを喜び、また大事にしているが、その明かりが象徴する当のものが実在しない所では、一時的な感銘を味わわせるだけで終わる。それと比べて我々の宗教は光りの儀式を持たないが、「私が光りである」と言われるお方そのものを持っている。これは儀式宗教と非常に違う点である。だから、明かりが灯された光景を想像してみなくて良い。主の語りたもう御言葉を聞けば良い。 
光りを使う儀式が全ての宗教にあると言ったが、人は殆ど本能的に光りを有り難がる。 
光りを拝む宗教も少なくない。だが、聖書は神が最初に光りを創造したもうたと教える。すなわち、光りが全ての被造物の筆頭また根源に位置づけられるのではあるが、光りもやはり被造物であって、光りは創造主に代わるのではない。光りを礼拝することは出来ない。では、「私が光りである」とはどういうことか。確かにこれは比喩、譬えなのである。本当に光りであるならば、被造物になる。 
譬えであるが、この譬えは救い主を示すためには相応しい。それは1章5節に、「光りは闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」と言われているように、光りの譬えは救いの力を表わすにピッタリだからである。「神は光りであって、神には少しの暗いところもない」という聖句がIヨハネ1章5節にあるが、これも適切な譬えである。神は光りの作者であって作品ではないが、被造物の中では光りが譬えとして相応しい。 
また御言葉が光りであるという言葉が詩篇119篇105節にあるが、これも光りに照らされて道を歩むことからとった譬えである。御言葉は光りを作り出すものである。主イエスが「世の光り」と言われたのも、照らすという働きから来た譬えである。 
キリストは「私は世の光りである」と言われた。単に「私は光りである」と言われたのではない。「世の光り」、すなわち「世を照らす光り」である。彼によって照らされなければ、世は闇である。彼が来られた以上、世は闇であるとしても、また照らされたことを知らないとしても、すでに照らされたのである。 
ところで、「世」という言葉はヨハネ伝の初めからしばしば聞いていた特徴ある言葉である。「全ての人を照らすまことの光りがあって、世に来た。彼は世にいた。世は彼によって出来たのであるが、世は彼を知らずにいた」。 
世がそのまま闇であって、それが光りと対立し、光りを拒絶し、打ち消すと主張する宗教がある。聖書は決してそのようには教えない。世はキリストによって、永遠の神の言葉によって造られたのであって、神の意志に反して造られたのではない。確かに世は造りたもうたお方を認めず、これに逆らう。だが、神は世を滅びに投げ入れることをされない。そして闇は光りに対抗できるかのようであるが、決して勝てない。 
「世」という言葉もヨハネ伝に頻繁に出て来るのであるが、重要な箇所を拾って行くと、次に「世」について教えられる箇所は、3章16節以下であった。「神はその独り子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。………神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためである」。 
その次が8章のこの所である。そしてその次は、やや特殊で、制限された意味で使っておられるが、9章5節、「私はこの世にいる間は世の光りである」。12章35-36節に「もうしばらくの間、光りはあなた方と一緒にここにある。光りがある間に歩いて、闇に追いつかれないようにしなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分かっていない。光りのある間に、光りの子となるために、光りを信じなさい」とあるが、光りが世にある時は限られているのであろうか。そうではない。我々が光りの子となる時は無制限でないのだ。 
主イエスの肉の生涯の終わりに近付くと、世についての教えは集中的に出て来る。12章47節、「私が来たのは世を裁くためではなく、この世を救うためである」。13章1節、「イエスはこの世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知り、世にいる自分の者を愛して、彼らを最後まで愛しとおされた」。14章17節、「この世はそれ(真理の御霊)を見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることが出来ない」。世に関して最も鋭く語られたのは、15章18節以下ではないかと思う。「もし世があなた方を憎むならば、あなた方よりも先に私を憎んだことを知って置くが良い。もしあなた方が世から出た者であったなら、世はあなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなた方はこの世のものではない。かえって、私があなた方を世から選び出したのである、だから、世はあなた方を憎むのである」。 
「世」という言葉について、聖書から、また我々の体験から、いろいろ考えることは決して無駄ではない。聖書で「世」と言うのは、我々が普段の生活の中で「世界」とか「時代」という言葉で捉えるものであって、信仰の内容そのものではない。したがって「世」について教えられなければならないとは言えない。もし、世についての教えが必要であるとすれば、我々は少なくとも今日の説教では、専ら世について学ばなければならないことになる。それは無益な議論だとは言えないし、我々にとって難し過ぎるわけでもないが、福音の宣教とは違うものになってしまうであろう。それでも、我々が「世にある」という状況をシッカリ思いめぐらしていないならば、信仰がおかしくなって、道を踏み外すことになりかねない。「信じています、信じています」、「救われた、救われた」と言っていながら、世に流されて、しかもそれに気が付かないでいることがある。 
「世」そのものについて論じることはしなくても良い。しかし、世そのものでなく、まことの光りとの関係における世を把握し、洞察する知恵は、信仰者にとって不可欠である。世そのものについて論じ始めると長くなるので、人は大抵それを断念して、世について余り考えないで終わる。人によっては、世を拒絶し、世について考えないのが信仰者の正しい在り方だと思い込んでいる。だが、その結果として、世がまことの光りによって照らし出された事実、しかも世がそのことを知ろうとしないでいる事情について無頓着になるクリスチャンが出て来ることは健全ではない。 
現今、我々の住んでいる世界が崩壊の危機に瀕していることを我々は知らないではおられない。これは緊急の事態であるから、通常のようにしてはおられないと言う人がいるのも当然である。だが、緊急事態であるからといって、この世に頭を突っ込み過ぎて、世を照らす光りがあるという事実を見落とすようではいけない。世が破滅して行くとしか見えなくても、実際、世は破滅に向けてまっしぐらに進んでいるのであるが、それでも、まことの光りは世を照らしている。だから、光りに照らされていることを知る我々は、この時代の中に置かれている自らの使命を忘れることは出来ないのである。 
さて、ここまでは、光りに照らされるという関係について聞いて来たのであるが、ここで主イエスは「光りに照らされよ」とは言わず、「私に従って来い」と言われる。「全ての人を照らすまことの光り」とあるように、照らされるのは全ての人である。しかし、従うのは全ての人ではない。我々が光りに照らされることは確かであり、それを無視してはならないのであるが、従うことに重点がある。 
「光りに照らされる」という言い方は、当然、我々の精神と知性を照らすことを含むから、照らされるとは理解や知識に関することと受け取られ易い。そのように受け取ることがいけないのではないが、軸の方向がズレるのではないか。主イエスは「私によって照らされよ」という言い方はしておられない。キリストから学んで、知性が冴えて、賢くなることは本当であるが、彼は英才教育をしておられるのではない。「私について来なさい」と言われる。随いて行くことが教育であり、また救いであるような導きをされた。「ついて行く」のと「照らされる」のと、矛盾するのではないが、知的なことと受け取られ易い前者と比較するならば、後者はハッキリ意志的なことという方向を打ち出している。だから修練がある。前者がジーッとしているのに対し、後者は前進して行く。 
我々の主がこちらを向いておられると捉えるのも一つの捉え方であって、これが間違っているとは言えない。しかし、主が随いて来なさいと言われた時、彼はこちらを向いておられるというよりは、向こうを向いて進んで行かれるのである。その後に随いて行って彼とともに栄光に入るという把握が重要である。こちらに優しい顔を向けるキリストを考えていると、私に従って来い、との御言葉が耳に入らなくなる恐れがある。 
マタイ伝11章で主イエスは「私が負わせる軛は負いやすい」と言われたが、信ずる者には或る意味で軛が課せられるのである。辛い軛ではないが、気楽に、気軽に、遊び半分に負って行ける、というものでは確かにない。 
「従う」というのは、先に行きたもうお方の後から随いて行くことであり、そのお方とともに生きることである。主イエスは彼を信じて弟子になる者に対し、「私に随いて来なさい」と言われた。信仰し、教えを聞き、服従し、模範に倣う、さらには共同生活をするという意味がこれに含まれている。 
次に言われる、「私に従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、命の光りを持つであろう」。これは生ける水について語りたもうた時に、「私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と言われたのに対応する位置を持つものである。 
キリストに随いて行くならば、もはや闇の中を歩くことはない。それは随いて行くことによって、やがて闇を抜け出て、光りの中に入って行くからではなく、随いて行き始めた第一歩で、すでに闇から光りへの転換が起こるからである。 
「命の光り」と言われる。「命の水」に対応しているが、その光りに照らされることによって生きるという意味である。照らされている間だけ生きているというのではなく、光りに照らされたその者は光りの子になる。 
主イエスがマタイ伝5章13-14節で、あなた方は地の塩、世の光りであると言われたのは、ヨハネ伝のこの箇所と全然別な文脈においてであるが、その御言葉をここに繋いでも不自然ではない。命の水を飲む者は、その腹から泉が湧き出すように、キリストの光りに照らされた者は、世を照らす光りになるのである。光りを見るだけでなく、光りになるのだ。 

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