◆説教2001.05.13.◆

ヨハネ伝講解説教 第77回

――ヨハネ7:53-8:11によって――


 今日、ヨハネ伝で学ぼうとしているところは、この福音書の中で特別な部分である。というのは、本来のヨハネ福音書にはこの部分はなく、比較的早い時期ではあるが、後から入ったと考えられている。意図的に書き加えられたのではなく、他の文書がミスによってここに入ったらしいのである。我々の持つ聖書で、この部分を括弧の中に入れているのは、その理由である。すなわち、古い、最も権威ある写本にはこの部分がない。つまり、本来は7章52節から8章12節に続いていた。そのことは内容から見ても、もっともだと思われる。7章の初めには「水」に言及された主の言葉があり、8章12節には「光り」について語る御言葉がある。これらは共に仮庵の祭りの中で行なわれる水と光りの儀式に関連して語られたものである。 
では、この部分はどういう事情でここに入ったのか。それは分からない。この文書も非常に古い時代に成立した福音書断片であることは、批判的に聖書を読む人も認めざるを得ない。多くの人が感じるように、なかなかリアリティーに富んだ文章である。古くからあったし、重んじられていた文書であるため、書き写す時に紛れ込んだのではないかと思われる。そこで、この部分を飛ばして読むのも一つの読み方であろう。しかし、この部分は省くに余りに惜しい内容を持っている。長い時代に亘ってキリスト者たちがヨハネ伝の一部として読んで来たものを、我々が無視するのも適当とは考えられない。また、これをヨハネ伝の一環として読むことによって大きい不都合が生じる恐れもない。 
以上のようなことを承知した上で、聖書に収められている通りのテキストを読んで行くことにしよう。 
先ず、「そして、人々は各々家に帰って行った」と記される。 
この前の部分が失われたのである。それがどういう文書であったかは何も分からない。 
ここに言われる「人々」、これはエルサレムの住人である。だから自分の家に帰った。 
ヨハネ伝7章25節に「エルサレムのある人々が……」とあって、それ以後登場するのは主イエス以外は、パリサイ人や役人たちも含めてエルサレム市民である。だから、仮庵の祭りの終わりの日、主イエスの説教が宮の中で行なわれ、夕方になるまで人々は熱心に聞き、あるいは論争し、それから人々は家に帰ったのだと思った人が、この部分をヨハネ伝の中に取り込んでしまったのである。 
つぎに「イエスはオリブ山に行かれた」とある。人々は家に帰り、主イエスはオリブ山に行って夜を過ごされた。そこで、これは受難週のことであったかも知れないとの着想が浮かぶ。ルカ伝21章37節によれば、「イエスは昼の間は宮で教え、夜には出て行ってオリブという山で夜を過ごしておられた。民衆はみな、み教えを聞こうとして、いつも朝早く宮に行き、イエスのもとに集まった」と書かれているのを思い出すが、そのところにピッタリ嵌まる言葉である。 
オリブ山に行かれたのは、休んでいる所を襲って捕らえる企みを避けるためであった。 
オリブ山の一画に人に知られない主イエスの休み場所があった。そこゲツセマネで休まれたのは受難週のことであったと我々は承知しているが、すでにヨハネ伝7章で、仮庵の祭りの時にイエスを捕らえよという指令が出ていたのであるから、受難週以前から、祭りの時上京して、夜はそこで泊まっておられたのかも知れないのである。 
なお、主イエスがオリブ山に行かれる時、弟子たちを連れて行かれたことは確かである。しかし、今日読むこの箇所には、弟子たちのことは出て来ない。イエスが一人でオリブ山に出て行き、一人で宮に来て教えたもうたかのように書かれている。また、7節で、主が身を起こして、「あなたがたの中で罪のない者が、先ずこの女に石を投げつけるが良い」と言われ、聴衆が年寄りから始めて一人一人出て行った情景を描くくだりでも、弟子のことは何も出ていないのである。 
つまり、徹底的に、弟子たちの影はこの場面から消し去られたのである。それは付属物や介在物なしに、主イエスと姦淫の女とを描こうと意図したからであろう。弟子たちはいたのである。一人去り、二人去りする中に彼らもいたのである。しかし、自分たちの出る幕ではないと心得て、この場のことを伝える時、自分たちのことをいっさい消し去ったのである。このことは、この記事を読む時の、我々の心得を示唆しているように思われる。 
パリサイ人が、訴える口実を捉えようとしてやって来たことも、受難週の出来事と符合すると言えるかも知れない。しかし、それ以外には受難週の機会であったことを暗示する記事はここにない。受難週に人々が朝早くから宮に来て主イエスの説教を聞いたことは確かだが、その聴衆が、一時、一人もいなくなることがあったとは考えにくい。だから、時期がいつであったかを特定することは避けて置く。 
とにかく、これはエルサレムでの出来事である。そして、主イエスがエルサレムにおられたのは祭りの時になる。仮庵の祭りか、過ぎ越しの祭りか、または10章22節に記されている宮潔めの祭りかである。 
主は朝早く宮に入って、人々が集まって来たので、座って教えたもうた。それはソロモンの廊であったと思われる。「座って教える」というのは、ユダヤ人の間では教える者の通常の姿勢であった。聞く者が立っていたのである。 
その説教が中断される。3節から6節、「すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時に捕まえられた女を引っ張って来て、中に立たせた上、イエスに言った、『先生、この女は姦淫の場で捕まえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で撃ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか』。彼らがそう言ったのは、イエスを試して、訴える口実を得るためであった」。 
受難週の、恐らく水曜日であったと思われるが、宮の中でパリサイ派、サドカイ派の学者との論争があったことは良く知られている。これがその論争であると見るのは無理であるが、似たところもある。一面ではこれは神学論争、律法解釈の論争である。もう一面では訴える口実を集める悪巧みである。 
「訴える口実」とは、ユダヤ議会で律法不履行の罪に定める材料を得ることであろう。 
これまで、悔い改めと罪の赦しを説いて来たイエスのことだから、憐れんで「赦してやれ」と言うに違いない。そう言わなければ、民衆の心は離反するのではないか。だがそれは、「石で撃ち殺せ」と命じる律法に対する明白な反逆であるから、彼を罪に定める決め手になる、と彼らは考えたのである。 
「訴える」というのは、ピラトに訴えることだと解釈する人もいる。その解釈によると、イエスは「律法の規定であるから、その通り実行しなさい」と答えるのではないか。 
しかし、ローマ総督の命令によって、ローマの裁判なしで死刑を執行することは無法なリンチである。その禁を犯すことになるから、訴える格好の口実になる。 
ユダヤの律法への違反ということで訴えるのか。ローマの法律に違反すると訴えるつもりなのか。あるいは、どちらも兼ねていて、主イエスが何を答えられても計略に引っかかるようになっていたのか。いろいろに考えられるところであるが、意地悪い意図を探ることには大した意味がない。 
「しかし、イエスは身を屈めて、指で地面に何か書いておられた」。 
何を書いておられたのか。人々は興味をもってあれこれ推測する。字だと考える人、絵だと考える人があり、何の字か、何の絵かで、意見はさまざまに分かれるが、それらの意見にいちいち付き合っている暇はない。必ずしも無駄な遊びだとは思わないが、時間を費やすだけの意味は確かにない。 
主が何もお答えにならなかった点を見なければならないのではないか。答えるに価しない問いだと、無言で示しておられることを先ず悟るべきであった。だから、我々も、成り行きがこれからどうなるかを知りたいという欲求を差し置いて、立ち止まらなければならない。 
姦淫の女が捕らえられて来た。「あなたはどう裁くか」とパリサイ人は主イエスに迫る。だが、裁きというものは公正でなければならない。公正でない裁きをするのは、裁判ぬきで処刑するのと同じ悪である。そういうことを考えさせておられるのではないか。 
しかし、その問いを汲み取る人はいなかったので、しばらくしてヒントをお与えになった。そして、こんなことでは公正な裁判は成立しないということを悟らせたもうた。いや、それだけでなく、本当に裁くことの出来るお方が誰であるか。そのお方が何をされるかを分からせておられる。 
それが今日学ぶ要点であるが、主はなお無言のうちに、公正な裁判とはどうでなければならないかを考えさせておられることに気付かなければならない。姦淫の女が引き立てられて来た。「さあ、姦淫の罪を裁け!」とパリサイ人は言うのだが、これでは裁きにならないことを主は示しておられる。すなわち、姦淫という犯罪は一人で犯すものではない。二人で犯す罪である。申命記22章22節では「もし夫のある女と寝ている男を見つけたならば、その女と寝た男、及びその女を一緒に殺し、こうしてイスラエルのうちから悪を除き去らねばならない」と命じている。女だけを裁いて撃ち殺すというのではない。 
だから、女だけを連れて来て裁かせようというのは、不十分どころでなく、根本的な間違いである。男性本位の偏見に過ぎない。そういうことでイスラエルの聖潔を保つことが出来ると考える好い加減さこそ裁かれなければならない。 
一般的に言って、当時女性の地位は低かった。そういう中で、主イエスが女性を男性と同等に扱っておられたことは確かに特筆して良い。しかし、律法が規定する通りに裁いていなかった点が指摘されたと見ることの方が大切である。女性が不当に虐げられていた時代に、主イエスは彼女たちに特に同情されたのであり、女性の人権を拡張する思想を指導されたと見ることは必ずしも間違いではないが、そればかり強調するのは現代思想におもねる空しい議論である。そのことはこの後、直ちに明らかになる。すなわち、人々は一人一人去って行って、誰もいなくなる。男だけがいなくなったのではなく、女性もいなくなったのである。残ったのは裁き主と裁かれる罪人だけになる。 
7節8節、「彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、先ずこの女に石を投げつけるがよい』。そしてまた身を屈めて、地面に物を書き続けられた」。 
パリサイ人たちは主イエスが答えを逃げておられると見たようである。そして、一挙に追い詰めて言葉尻を捕らえようとした。 
イエス・キリストは僅かな言葉で彼らの追及に勝利したもうのであるが、これを彼の機知とか頓知として捉えてはならない。むしろ、この言葉によって、我々自身が神の法廷に引き出されたことを覚えなければならない。「罪のない者が先ずこの女に石を投げよ」。人々はこの御言葉に言い逆らうことが出来なかったのである。その通りと認めるほかなかった。 
神の戒めであるから履行しなければならない。しかし、神の御旨を実施するに相応しいのは誰かという問題がある。人々はわが身を省みる。そして自分は降りなければならないと気がついたのである。急に恥ずかしくなって、一人去り、二人去りして、そこからいなくなる。 
実は、ここにテキストと直接に関わりないことだが、問題がある。罪があっても裁けないということになって、殺人、窃盗、姦淫などが野放しになり、犯罪が全く処理出来なくなるのではないか。 
そうではない。主イエスは公的な裁判制度を否定しておられるのではない。ご自身がユダヤの議会で、またピラトの法廷で裁かれる時、その裁判を否定するようなことは言っておられない。その裁判に服しておられる。地上の裁判は必要なのだ。ただし、公けの裁判は公正に行なわれなければならない。この場合は公けの裁判でなく、私的な裁判であり、公正な裁判ではなく、個人の感情に駆られた弱い者いじめに過ぎない。だから解散させなければならなかった。公正な裁判の追求。これはこれで大切なことである。ただ、今日はそこを論じる機会ではない。 
「石を投げよ」と言われたのは律法の規定の遵守を言うものである。しかし、罪のない者が先ずそれを始めなければならない、と言われた。ここで人々は己れに立ち返らざるを得ない。「己れ自身を知れ」というのは哲学者の教えであって、イエス・キリストの教えの中心とは言えないかも知れない。しかし、己れを知ることと神に従うこととは決して矛盾しない。むしろ、ここに人間の本来の機能のうちの最も重要なものがあって、これを回復して、これによって主に従って行くべきだと考えた方が良いであろう。己れ自身を検討することを怠るならば、神のため、と言っていても、実際は神のためにならない場合があるではないか。 
9節、「これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、一人びとり出て行き、ついにイエスだけになり、女は中にいたまま残された」。 
人間というものが生々しくも見事に描き出されている。イエス・キリストの一声によって己れを顧み、そこにおられなくなる。一人一人、人に唆されるのでも、誘われるのでもなく、自分の判断で退いて行く。男も女も同じであった。我々もそのうちの一人である。しかも、「年寄りから始め」てという点が興味深い。老人ほど恥が多いからでもあり、老人ほど己れを顧みる知恵と躾を積んで来ているのである。 
「そこでイエスは身を起こして女に言われた、『女よ、みんなはどこにいるのか。あなたを罰する者はなかったのか』。女は言った、『主よ、誰もございません』。イエスは言われた、『私もあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』」。 
我々も己れを顧みる時、去って行くほかない。キリストの声の届かないところに去ってしまえば、己れを究明する厳しさを逃れることが出来る。しかし、それでは、失なわれた人間として留まることになろう。一旦逃げ出したとしても、我々は主のもとに立ち返らなければならない。すなわち、ここを去らずにおられなくなった人々の一人ではなく、姦淫の女の位置に自分の身を置く切り替えをしなければならない。そこに救いの道が開ける。 
ここに描かれているイエス・キリストは弟子を引き連れておられないということに先ほど触れた。罪ある女は誰かに取り執して貰って主の前に出るのではなく、自分で進み出る。いや、もっと正確に言えば、逃げられなくなってイエス・キリストの前に取り残される。それが救いになる。 
彼こそが聖なるまた義なる主として裁きをなし得たもう。ヨハネ伝5章22節で言われたように、「父は誰をも裁かない。裁きのことは全て子に委ねられた」。しかし、裁きの全権を持ったその御子が「私もあなたを裁かない」と言われる。赦しの確かさを見なければならない。 
その主が、「今後はもう罪を犯すな」と言われた。人は弱いから、また罪を犯し、また赦されるのではないか。そうではない。確かに、何度も赦される。しかし、同じことの繰り返しではない。キリストによる赦しは再生と結びついている。主は3章でニコデモに言われた、「よくよくあなたに言って置く、誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」。 

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