◆説教2001.04.1.◆

ヨハネ伝講解説教 第74回

――ヨハネ7:33-36によって――


 
 「今しばらくの間、私はあなた方と一緒にいて、それから、私をお遣わしになった方のみもとに行く。あなた方は私を捜すであろうが、見つけることは出来ない。そして私のいる所に、あなた方は来ることが出来ない」。
主イエスのこのお言葉は、「今しばらく一緒にいて、それから去って行く」という部分と、「あなた方は私を見ることが出来ず、私のおる所に来ることが出来ない」という二つの部分から成っているが、これから後、同じ言い方が何回か繰り返される。難しいとは言えない表現だから、余り注意しないで読んでしまう。だが、繰り返されるので、注意を引く。我々の感じているよりは重要な意味を持つということが、繰り返し語られたのを聞くうちに分かって来る。
13章33節で主イエスは言われる、「子たちよ、私はまだしばらくあなたがたと一緒にいる。あなた方は私を捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言った通り、今あなた方にも言う、『あなた方は私の行く所に来ることは出来ない』」。このお言葉は誰の目にも明らかな通り、今日学ぶ御言葉の続きである。先にはユダヤ人に語ったが、今度は弟子であるあなた方に言うと語られた。信仰者にとっても不信仰者にとっても、重要なことがここで教えられるのである。
16章16節でも、「しばらくすれば、あなた方はもう私を見なくなるであろう。しかし、また、しばらくすれば、私に会えるであろう」と言われた。これも弟子たちに対する御言葉であって、ユダヤ人に対するものではないが、ユダヤ人に対するのと意味が共通している部分もあって、今日の箇所の解明に役立つであろう。
重要なのは、第一に、「しばらく」という言葉である。「短い時間」という意味である。先ず、「しばらくは一緒にいる」と言われる。これが全ての人に対して共通に言われる。しかし、「しばらくの後」去って行く。それ以後、「あなたがたは私を捜しても会えないであろう」と一般の人には言われた。
ところが、弟子たちには別のことを言われた。14章の19節である、「もうしばらくしたら、世は私を見なくなるだろう、しかし、あなた方は私を見る」。16章16節ではこう言われる、「しばらくすれば、あなた方はもう私を見なくなる。しかし、またしばらくすれば、私に会えるであろう」。
弟子たちに向けて、「しばらくの後にまた会える」と約束されたのは、復活とそれ以後の出来事を指す。聖金曜日から復活節までの、しばらくの間のことである。それには今日は触れないで、「しばらくしたら、世は私を見なくなる」と言われる方の「しばらく」だけを学ぶ。受難の金曜日、あるいは次の過ぎ越し、それが主イエスの知っておられた定められた日であるが、その日まで後半年はあなた方と一緒にいる。時に先立って私を殺すことは出来ない、と言われたのである。
16章18節に「彼らはまた言った、『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか。私たちには、その言葉の意味が分からない」と書かれているが、弟子たちにも「しばらくすれば」の意味が分かっていなかった。16章5節では、理解のない弟子に対して、「あなた方が私を見なくなる」ことと、「私が私を遣わされた方の所へ行く」こととを並べて語っておられるから、「あなた方が私を見なくなる」とは、「私が父のみもとに登る」ということであると分かる。
この「しばらく」という言葉の指し示す中心的な事柄を、最も明らかに、また分かり易く示す聖句は12章35節である。「そこでイエスは彼らに言われた、『もうしばらくの間、光りはあなた方と一緒にここにある。光りがある間に歩いて、闇に追いつかれないようにしなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分かっていない。光りのある間に、光りの子となるために、光りを信じなさい』」。
主がこう言われたのは、群衆の問いがあったからである。今引いた言葉の直ぐ前に書かれているが、「群衆はイエスに向かって言った、『私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きておいでになるのだ、と聞いていました。それだのに、どうして人の子は挙げられねばならないと言われるのですか。その人の子とは誰のことですか』」。キリストの王国は永遠であると約束されていたから、断片的な聖書知識しか持たないユダヤの群衆が「私は間もなく去って行く」と言われる主イエスに疑問を抱いたのは無理からぬ面があると言える。
しかし、キリストの「支配」は永遠であるが、キリストの「啓示」は「しばらくの時」に限定されて実行されたと理解しなければならない。すなわち、キリストを知る知識は全ての人に開かれている。しかし、全ての人が信じたのでないことも明らかな事実である。地球上に住む全ての命あるものは、空気を吸うことが出来る。人間であれ獣であれ、空気を呼吸する権利をゆえなくして奪われることはない。では、それよりもっと大切なキリストを知る知識は、まして全ての造られたものに、空気以上に自由に公開されていなければならないのではないか。
ここには、我々の知恵では十分論じ尽くすことが出来ない神の知恵に属するものがあるが、神の啓示の時は限られているのである。すなわち、見ていても見ることが出来ず、聞いていても聞くことが出来ない者が多いという事実を、キリストは種蒔きの譬えで指摘されたが、我々もその事実を経験している。これは「隠された選び」という問題であるが、この問題には今日は触れなくても良い。今日は「選び」と別に理解して良いことが教えられている。
「光りがある間しか光りを見ることが出来ない」と主は言われた。これは誰もがその通りと納得するのであるが、単純にその通りと承認する以上の理解を我々は与えられている。すなわち、光りがあるから見える、というだけでない。光りによって導かれるのでなくては、光りを求めることも、光りを見ることも出来ない、という事実を我々は知っていなければならないのである。我々は世の光りであるキリストから教えられなければ、キリストの光りを見ることは出来ないからである。キリストが誰にも直々に見える姿で、ご自身を世に示したもうたのは、誕生以来の30年の準備期間を経て、ヨハネのバプテスマの時から、ポンテオ・ピラトのもとで、ゴルゴタにおいて十字架につけられて死にたもうた時までの僅かな時間なのである。ヨハネの福音書によって教えられている通り、我々に信ずべきお方として示されているキリストの事実は、30数年ではなく、数回の祭りを含む僅々2年か3年の間の出来事である。
「主を知る知識は、水が海を覆うのと等しく、地に満ちる」とイザヤを通して約束されたことは真実であって、我々を裏切らない。しかし、実情がまだそうなっていないことをも我々は知っている。さらに、主を知る知識は十字架の言葉の宣教によって全地に満たされなければならないのであるが、未だ途上にある。そして、その宣教は「宣教の愚かさ」と呼ばれ、その十字架の言葉は、「愚か」と呼ばれ、「躓き」と呼ばれているから、決して安易に進展して行く業ではない。
「光りのある間に光りを信じなければならない」とは、キリストが地上に生きておられた間でなければ、信仰の機会がないという意味ではない。彼が世を去って行かれた後でも、我々は彼を信じることが出来ている。見なくても証言を聞くことによって我々は信じている。肉体を採りたもうた彼を目で見なければ信じられない、というわけではない。とはいえ、いつでも信じることが出来る、と考えてはならない。
今日でなくても明日があるではないか、という人生態度で生きる限り、信仰の時は決して来ないのである。同じ日常の日々が明日も繰り返されるのではない。今日しかない。
だから今日信じる。今日信仰へと飛躍する。こうして日常性を越え出て信仰に立つ。そして、一度信仰の地平に立ったなら、原理的には、そこからこぼれ落ちることはもうない。キリストの永遠の保護の圏内に入るからである。しかし、その永遠に入って行く機会は、その気になればいつでもあるのではなく、限られた今日の日しかないのである。
では、その機会は千載一遇、殆ど偶然としてしか起こらないのか。なるほど、人間の目には偶然としか見えなくても致し方ないが、後から振り返って見れば、神のキチンとした計画があったことが明らかである。
主を知る啓示の機会は、思い立った時いつでも入って行けるように、開きっぱなしになっているのではなく、我々の救いに十分な知識を示したのちに、閉じられた。もう見ることは出来ないが、それが閉じられたことを悔やむ必要はない。我々に必要な証言は十分に与えられ、また書き留められた。
すでに何回も学んだように、父なる神はご自身の一切の力と祝福を御子に与えてこの世に遣わし、御子がそれを救わるべき者に対して十全に行使することが出来るようにと定めたもうた。そして、御子はその定めを実行したもうた。神は救いの歴史の中で数え切れないほど頻繁に御旨を伝える使いを遣わしたもうた。だが、へブル書の初めで言われるように、「この終わりの日には御子によって教えたもうた」。御子によって最終的な開示があった。だから、「私を見た者は父を見たのである」と主イエスが言われた通りのことが起こった。それが啓示の時である。
「今しばらくの間、私はあなた方と一緒にいて、それから、私をお遣わしになった方のみもとに行く」という御言葉は、単に、「しばらくの後、私はユダヤ人に殺されて死ぬ。そうなるとお別れだ」というだけの予告ではない。派遣の目的が達せられる時が間もなく来る。だから、遣わされた者としての私が地上に居続ける必要はなく、私は遣わされた父のみもとに帰り、私の本来の栄光の座に還る、と言われたのである。
キリストが地上におけるハードルを次々越えて、謂わば優勝するようにその務めを全うして、褒美として栄光を獲得したもうたとは言われていない。聖書がそのような教え方をしている場合もある。例えば、「死に至るまで、十字架の死に至るまで、従順であられた。だから、神は彼を高く挙げて、もろもろの名に優る名を彼に賜った」とピリピ書2章が言うところはそれである。ヨハネ伝ではそうでなくて、もといた所へ還ると言われるのである。13章3節に「イエスは、父が全てのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出て来て神に帰ろうとしていることを思い、云々」と言う。
それでは、教えが二様になっているのか。そう受け取っても良いだろう。ピリピ書がキリストをそのように描いたのは、キリストの心を心とし、キリストにあって抱いている思いを兄弟たち互いに抱けという勧めの続きであったから、勧めの拠り所としてこのようにキリストを提示したのである。ただ、聖書がいろいろな言い方をするのは我々の弱い理解力に合わせるためであって、神のうちに不統一があるからではない。
続いて、主イエスは、「あなた方は私を捜すであろうが、見つけることは出来ない。そして、私のいる所に、あなた方は来ることが出来ない」と言われた。これはユダヤ人にとって謎のような言葉であったが、彼らがキリストを信じなかったから分からないのであって、あなた方がついて来ることの出来ない所、すなわち栄光の座へ帰って行くという意味であることは十分ハッキリしている。キリストの不在はキリストの栄光であり、彼を信じる者には益である。
面白いと思うのは、彼らが空想して、ギリシャ人の中に離散している人たちの所へでも行って、ギリシャ人を教えようとでもいうのだろうか、と互いに論じているくだりである。これは全くの空想であるが、彼らなりに考えたことかも知れない。8章22節では、彼らは「私の行く所にあなた方は来ることが出来ないと言ったのは、あるいは自殺でもしようとするつもりか」と言う、これは全く茶化しているものであるが、ギリシャ人に教えるのではないかと言ったのには多少の真実がある。
離散しているユダヤ人がいた。最初のキッカケは暴力的に離散させられたことである。
例えば、バビロン捕囚がある。ユダヤ人の先祖にとっては祝福の最も具体的な姿は約束の土地である。彼らはその地を守り抜こうとする。しかし、無理矢理に捕囚の地に流される。それは神の祝福を失ったことを意味したと思われた。しかし、流刑の地で先祖の仕業が神を怒らせて祝福の地が奪われることになったと教えられて、彼らは祭儀よりも悔い改めに重きを置く宗教生活を営むことによって、約束の地を離れていても祝福があることを実感する。離散状態の中での充実を確認することが出来た。彼らは神の祝福を一緒に住んでいる異邦人に宣べ伝えた。
12章20節に、祭りで礼拝するために登って来た人々のうちに数人のギリシャ人がいて、12人の一人であるピリポを介して、主イエスに会見を申し込んで来たこと、また、その時、主イエスが「今や人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたことは、この事柄の大事さを示していると思われる。
我々はイエス・キリストの福音が異邦人の間に広まって行ったお陰で、キリストを信じる者となることが出来たのであるが、異邦人への劇的な転換はパウロが始めたもののように言われることが多い。しかし、ヨハネ伝によれば、イエス・キリストご自身がこの意義を説いておられた。
そのようにギリシャ人伝道に大きい意義を置いておられることをユダヤ人がどうして知ったのか。ここは想像によって論じるほかなく、そのような不確かな解釈は救いの益にならない。恐らくこれはイエスへの蔑視とギリシャ人蔑視の重なったものであろう。当時、ユダヤ教の中にギリシャ人伝道への熱意を燃やす一群があった。エジプトのアレキサンドリヤでは聖書をギリシャ語訳してギリシャ人にも読ませていた。これが使徒行伝に神を恐れる人々と呼ばれているユダヤ教に改宗したギリシャ人である。
結果から見て行くと、ギリシャ人伝道と主イエスの務めと働きの結びつきが見えるのだが、裏付けとなる証言としては12章20節があるだけである。7章でユダヤ人たちが勝手に想像して語っていることについてはこれ以上触れる必要はない。
「あなた方は私のいる所に来ることが出来ない」とユダヤ人には言われた。しかし、弟子には別のことを言われた。二つのことを見なければならない。一つは、すでに触れたことであるが、14章19節で、「もうしばらくしたら、世はもはや私を見なくなるだろう。しかし、あなた方は私を見る」と言われるところである。見ることが出来るのはその場にいるからであって、ただ眺めているだけではなく、その栄光に或る意味で与っているからである。
もう一つはペテロに言われたものである。13章36節、「シモン・ペテロがイエスに言った、『主よ、どこへおいでになるのですか』。イエスは答えられた、『あなたは私の行く所に、今はついて来ることは出来ない。しかし、後になってからついて来ることになるであろう』」。
今日は詳しいことは論じないが、主イエスがペテロに言われた言葉は、ペテロの殉教のことを指したと考えられる。今は殉教の問題に触れなくて良いと思うが、キリストを信じ、キリストの栄光に与る者には、キリストについて行くことが許されるのである。

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