◆説教2001.03.11.◆
ヨハネ伝講解説教 第72回

――ヨハネ7:25-29によって――

 「さて、エルサレムのある人たちが言った」。――これは、どういう人たちであろうか。主イエスが仮庵の祭りの半ば過ぎに、公然と現われて説教を始めたもうた時、ユダヤ人と群衆が反応したことを、15節以下で読んで来た。今、25節の「エルサレムのある人たち」というのは、それとはまた別の人たちである。
 エルサレムの住民のうちの或る人々である。「エルサレム人」という聖書でもこことあと一カ所にしかない特別な用語が使われている。エルサレムには様々な地方から人が集まっている。ユダヤの田舎から来た人もおれば、ガリラヤから来たユダヤ人、海外から来たユダヤ人がいる。祭りのための一時的逗留者もおれば、ここに移り住んだ人もいる。それらの住民と区別され、生まれた時からのエルサレム市民である。例えば、この東京という町。ここには様々な人が流入して住んでいる。その中で親の代から住んでいる人は、新しく東京市民になった人と一味違った生活感覚を身につけている。エルサレムでも似たことがあったであろう。
 しかも、エルサレムは非常に古いダビデの時代から神が現臨の御座を置く所と定めておられた。都全体が聖域であり、独特の宗教的雰囲気があった。そういう都で生まれ育った人に独特の気風やプライドがあったことは容易に想像出来る。その気風がどういうものであったかを説明することは今は出来ないし、その必要もないであろう。15節以下で見て来た「ユダヤ人」また「群衆」と共通するところもあるが、それとは一緒に出来ないものがあった。そのエルサレム市民の中の或る人々が噂している。
 なお、ヨハネ伝のこの辺り、順序が入れ替わっているから、原型に戻して読むべきだという意見があることに先に触れたがが、その意見によると、5章47節の次に7章15節が来て、24節まで続く。そして、14節の次には25節が来る。我々はその意見に従わないで、我々の持つ聖書の通りの順序に読んで行く。
 エルサレム人は言った、「この人は、人々が殺そうと思っている者ではないか」。エルサレムの人は敏感であった。11節に「ユダヤ人らは祭りの時に『あの人はどこにいるか』と言ってイエスを捜していた」と書かれていたが、イエスを捜すその熱意が穏やかならぬ、というよりは殺意を含んだものであることにエルサレム市民は感付いた。「イエスを殺せ」という声がハッキリ聞こえるまでには至っていないが、敏感な人はそれを嗅ぎ取った。
 それにしては、何と冷ややかな態度であろうか。彼ら自身は殺人計画に参与していない。どちらかと言えば、それには反対なのだ。しかし、その悪巧みを食い止めようという熱意もない。その邪悪な計画に対して嫌悪するだけの潔癖さも持っていない。素朴さを失なった都会人たちである。
 「見よ、彼は公然と語っているのに、人々はこれに対して何も言わない。役人たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知っているのではなかろうか」。
 仮庵の祭りの半ばまで、ユダヤ人が主イエスを殺そうとして捜したが見つからなかったことをエルサレムの市民は知っている。祭りの半ばになって主イエスが急に現れ、公然と説教された。ところが、主イエスを殺そうとしていた人たちは手を出そうとしないし、何も言わない。それを見て、エルサレム市民は情勢が劇的に変化したのではなかろうかと考えた。どういう変化かと言うと、一般にはまだ知らされていないが、上層部ではすでに、ナザレのイエスがキリストであるとの見方が固まって、イエスを殺す計画の差し止めが指図されたのではないのか、とエルサレム市民は想像力を働かせた。
 エルサレム市民たちは「役人たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知っているのではなかろうか」と話し合った。ここで「役人」というのは、当局者であり、ユダヤで言えば七十人議会の議員のことである。市民たちは人々がナザレのイエスを捜しているのを知って、その計画が上の方の意向であると推測した。この段階では、イエスを殺す計画が最高機関である議会から出た証拠はないのであるが、実際に、イエス・キリストがピラトの裁判を経て十字架につけられたもう段階で、この計画が議会の強い意志によって推進されたことは明らかになった。議会が正式に決議をして事を運んだのは最終段階においてであったが、前々から議会筋の画策はあったのである。そのことを察知している人もいたのである。
 なかなか穿った見方であるが、もっと穿ったところは、問題の核心がイエスはキリストであるかどうかにある、とこの市民たちが見ていた点である。ユダヤ人がこれまでイエスのことを問題にして来た経過を我々は読んでいるが、宮潔めの事件がそもそもの発端である。宮の中に商人を入れて商売をさせても良い、と大祭司は判断していた。それに対して主イエスは挑戦された。この挑戦の言葉の中にご自身が神の子であるという意味を匂わせておられる。次に、5章にあった安息日における病人の癒しである。安息日規定を破るだけでなく、ご自身を神の子と言っておられる。これらは冒涜罪に当たるのではないか、したがって極刑に処すべきであるとユダヤ人は検討し始めた。
 ナザレのイエスが自分のことをキリストであると暗に言っておられる。彼こそキリストではないかと予感してソワソワしている人がおり、今にも社会不安が起こりそうな気配がある。もし、イエスがほんとうにキリストであれば、キリストに楯突いた者の罪は重い。だから、真相を確かめなければならない。
 「役人たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知っているのではなかろうか」。――言い換えれば、こういうことである。「これまで、人々がイエスを殺そうと計画をめぐらしていたのは、彼が自分をキリストであるとほのめかしているので、そういう思わせぶりの発言をすること、また人にそのように期待を持たせることは、ユダヤ社会の不安と宗教上の混乱を掻き立てるから、イエスを殺して、世の中を落ち着かせたい、ということであったらしい。しかし、ナザレのイエスがほんとうにキリストであるならば、彼を殺すことは神を敵とする冒涜になる。上層部はイエスがキリストであるという確証を掴んだから、これを殺す計画を差し止めたのではないか、ただし、上で決まったことは直ぐには下々に流れてこない。何事も急激に変化してはならないからである」。
 イエスがキリストであるのかどうか。当時、これは様々な立場の人々の間の一大関心事であった。そのことが非常にハッキリ読み取れるのは、10章24節である。「イエスは宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、『いつまで私たちを不安のままにして置くのか。あなたがキリストであるなら、そうとハッキリ言って頂きたい』」。
 こう言ったのはユダヤ人である。彼らは終始キリストに対立する者であったと我々は承知している。しかし、ここで見ると、何でも彼でも、イエスを抹殺してしまえというのでないことが分かる。彼らは旧約聖書が言うキリストの来臨の約束を信じている。約束されたキリストが来られたならば、正しく迎えなければならない。来臨されたキリストに楯突くようなことがあっては破滅になる。それくらいは分かっている人たちである。
 分からないのは、ナザレのイエスがキリストなのかどうか、という点である。ユダヤ人たちは彼らなりの論法を立てて、その筋道で考えて、ナザレのイエスはキリストでないだろうという結論を一応出す。しかし、その結論について完全な確信があるわけではない。彼はキリストかも知れないという予感が少しはある。それで不安になる。だからこの際ハッキリ言ってくれと頼みに来る。
 キリストなのかどうか、ハッキリ言ってくれと願った彼らの不安な気持ちは常識で理解出来る。しかし、常識で分かったとしても何にもならない。その不安には同情の余地はない。キリストなのかどうか、自分の口で答えてくれ、と要求することは筋違いであろう。大祭司カヤパが猛々しく「お前は、いと高き者の子キリストであるか。生ける神に誓って答えよ」と問うたことを思い起こす。そのように問うことはなすべからざる冒涜であった。こちらから要求して答えを得るのでなく、すでに示されていることに留意し、信仰をもって洞察すれば答えは明らかになって来るのである。
 ところで、キリストは答えを秘めておられたのであろうか。否。彼は言っておられる、「私が話したのだが、あなたがたは信じようとしない。私の父の名によってしている全ての業が、私のことを証ししている。あなたがたが信じないのは、私の羊でないからである。私の羊は私の声に聞き従う。私は彼らを知っており、彼らは私について来る」。
 これだけ言われても彼らは素直に聞こうとしなかった。
 「私の業が私を証ししている」と言われたのである。5章36節で主は言われた、「私にはヨハネの証しよりももっと力ある証しがある。父が私に成就させようとしてお与えになった業、すなわち、今私がしているこの業が、父の私を遣わされたことを証ししている」。主の言わんとされたことは十分明らかである。すでに答えは出ているのである。
 多くの場合、主イエスはご自身の何であるかを力ある業、あるいは「徴し」によって示された。すなわち、言葉によって示したもうた場合は稀であった。それは4章25-26節である。スカルの女が「私はキリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。
 その方が来られたならば、私たちに一切のことを知らせて下さるでしょう」と言った。
 それに対して主イエスは言われる、「あなたと話しをしている私がそれである」。
 ユダヤ人に対してはついに言葉で示すことをされなかったが、サマリヤ人には言葉で示された。もっとも、サマリヤの女も、こう言われて直ちに素直に信じたのではないようである。彼女は町に戻って、「さあ、見に来てご覧なさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」と言っているからである。キリストだとは言い切れなかった。
 それでも、彼女はもう一歩というところまで近づいていた。そして、彼女の証しの言葉に促されて、町の外に出て、主イエスに会いに行った人たちも「信じた」と4章39節に書かれていた。
 エルサレムの市民は人々がナザレのイエスをどう見ているかについて、なかなか細かいところまで立ち入って観察していた。しかし、人がどう見ているかを見るのでなく、自分がどうキリストを直視するかが重要である。その点がスッポリ抜け落ちている。
 さて、その次に、エルサレム市民自身の見解が披瀝される。「私たちはこの人がどこから来たのか知っている」。――彼らは人をその出身地によって判定しようとしたのである。そして、ここ、国の中央、聖なる都エルサレムに生まれ育った者としての誇りがあるように感じられる。それ以上のことは何もなかった。
 「この人がどこから来たかを知っている」。つまり、ナザレから来たことを知っているという意味である。41-42節には「ある人は『キリストはまさかガリラヤからは出て来ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか』と言った」と記されている。当時、イエス・キリストの誕生がベツレヘムにおいてであることは知られていなかった。キリストご自身、生まれた地のことを何も言われない。「ナザレのイエス」と呼ばれるままに、彼はナザレの生まれであると見られていた。そして、ナザレから良いものが出るはずがないと人は信じていた。
 このエルサレム人には、もう一つの思い込みがある。「キリストが現われる時には、どこから来るのか知っている者は一人もいない」と言っていた点である。 これは当時かなり広く信じられていたことのようである。旧約外典に幾つも実例があるが、キリストは来るというより現われる、すなわち忽然と神秘的に出現する。あるいはその時まで隠されていた天から降って来るのだ、あるいは海の中から湧いて出るのだ、と考えられたからである。そのように考える方が有り難いと思われた。ナザレのイエスは出自を知られ過ぎているから有難味がなく、メシヤにはなれないというのであろう。
 この点について四つのことを言わなければならない。第一に、イエス・キリストが神秘な出現をされるという空想には何の根拠もない。我々に知ることの出来ない数々の点があるのは確かであるが、彼は人間を救うために全き意味での人間、人と異ならず、血肉を具えた、我々の一人のような者として来たりたもう。故郷がどこか、親がだれか、を強調する必要はないが、人間にあることは罪をほかにして全部あった。ご自身「人の子」という呼び方をされたのは、単なる「人」という意味ではないが、その意味も確かにある。
 第二に、彼は父なる神のもとから来たということを、我々のしばしば聞いている通り強調しておられる。彼が天使のようにフワフワと浮いておられたと空想してはならない。
 地に足のついた人間ではあるが、同時に、神から来た神の子である。これは次の28節で明らかにしておられる点である。
 第三に、キリストのベツレヘムにおける誕生について少しだけ触れる。これは42節を学ぶ時にもう少し深く論じることになるであろう。ヨハネ福音書はベツレヘムでの誕生については何も語っていない。しかし、42節の記述を見れば、福音書記者はベツレヘムで誕生されたことを知っているようである。知っているけれども、強調はしない。それはベツレヘムにおける誕生について詳しい物語を述べているマタイとルカに対立するという意味ではない。ダビデの町に生まれたダビデの子としてのメシヤ、というのと別の面から彼がメシヤであることを証言しようとしているのである。
 第四に、メシヤには隠されており、突如として出現するという一面があるのは事実である。このことは7章の初めの兄弟たちとの問答にも、またその後エルサレムに「人目に立たぬように密かに行かれた」と10節にあるところからも或る程度示される。マルコ伝の9章30節に「それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤを通って行ったが、イエスは人に気付かれるのを好まなかった」と書かれるのもこの面を示す。祭りの半ばに突如として現われたもうたのもそれである。彼はキリストという看板を掲げて歩みたもうことはないから、漫然と見ている人には目に入らない。信仰をもって捉える人にのみ見られるのである。
 さて、人々がイエスはどこから来たかを論じているのに対し、主ご自身が最も重要なことを宣言したもうた。28-29節である。「イエスは宮の内で教えながら、叫んで言われた、『あなたがたは私を知っており、また私がどこから来たかも知っている。しかし、私は自分から来たのではない。私を遣わされた方は真実であるが、あなたがたはその方を知らない。私はその方のもとから来た者で、その方が私を遣わされたのである』」。
 これは16節以下でユダヤ人に答えたもうたのと同じ主旨の言葉である。
 宮の内で教えること自体、公然とご自身を顕すことであったが、主は特に声を大きくして叫んで言われた。これは27節でエルサレムの人が言っていたことに対する応答、あるいは反発である。分かっていると思う者に対し、「あなたは分かっていない」と言われ、「分かっていない者は私に聞かなければならない」と示したもう。
 「彼がどこから来たかを知っている」と思っている者に対して、「救いに関わる事柄は、私が地上のどこで生まれ育ったかでなく、どこから遣わされたかでなければならない」と言われた。この世を越えたところから救いを携えて入って来られたのである。そして「私を遣わされた方をあなたは知らないではないか」と大声で言われたのである。これは立ち返りの促しである。知っていると思う者は知るべきほどのことも知らないのを悟らなければならない。そして「あなた方が知らないその方を私が明らかにするのである」と言われるのである。父なる神が御子を私に遣わしたもうた。私は御子を通じて神に目を向けねばならない。
 

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