◆説教2001.03.04.
ヨハネ伝講解説教第71回

――ヨハネ7:16-24によって――

ユダヤ人は主イエスが仮庵の祭りで説教されるのを聞いて、三つの点で驚いた。一つは、主イエスがエルサレムに来ておられるかどうかが分からなかった時、虚を衝くようにして現われたもうた点である。第二に、その教えの立派さである。彼らが常々学んでいる教えとかなり違うところがある。けれども、神の御言葉の解き明かしであることは明らかであり、その教えの内容に関しては、彼らはただただ敬服するほかなかった。だから、教えの内容をめぐっての論争にはならない。教えの主要部分について受け入れていたとは言えないが、その主要部分については論争を起こせないのである。小さい問題についての揚げ足取りのような議論しか出来なかった。 
もう一つ彼らが驚いたのは、主イエスがラビになるための勉強をしておられなかったのに、このように立派に教えたもうた点である。このことについて、前回も学んだのであるが、もう少し触れて置かねばならない。ユダヤ人たちは律法が神からその民に与えられたものであり、神の言葉であると信じている。だから、この御言葉を適切に解釈して、現実生活に適用して行こうと熱心に努力する。その結果、彼らの律法研究は世代を重ねるうちに次第に蓄積され、膨大なものになる。これは彼らの言葉で「ミシュナー」と呼ばれるものとして集大成されるようになった。これを主イエスが「言い伝え」と呼んでおられたことを我々は福音書の記事によって知っている。 
律法を正しく解き明かそうとの熱意が、「言い伝え」を次第に強化し、これを権威付け、遂に「言い伝え」が神の言葉を凌駕するものとなってしまったことを主イエスは指摘しておられる。つまり、御言葉の解き明かしとしては破綻したのである。このことは主がマルコ伝7章9節で、「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めを捨てたものだ」と慨嘆しておられる通りである。 
我々の間でも、御言葉を正しく解き明かそうとの真面目な努力が積み重ねられ、自分自身も真面目にやっているつもりでいる間に、解釈者の立場が牢固たる砦のようになってしまって、御言葉を素直に聞くことが出来なくなる場合もあることに気がつく。このことは、今日はこれ以上は触れない。 
ナザレのイエスは権威ある律法学者について勉強した経歴をもたない。にもかかわらず、立派に律法を解き明かして教えることが出来たのを見て、ユダヤ人、つまり「言い伝え」を重んじるパリサイ人のことであるが、彼らは驚いた。そこで、彼らの驚きを手がかりにして、ここに示されている重要な事柄に立ち入って行こう。 
主イエスは16節で言われる、「私の教えは私自身の教えでなく、私を遣わされた方の教えである」。私の教えは、先生について学んだようなものではない。すなわち、人間の間で言い伝えられた教えではないのだ、と言われるのである。これは、「学問をしたこともないのに…」という彼らの肚の中の思いを読み取られて、それに対して示された答えである。「ラビのもとで学問を磨き、知識を積み上げた末、神の言葉を解き明かすことが出来るようになったのではなく、私は神から遣わされた者として、神の言葉を解き明かすのである」と言われた。「教え」という言葉を使っておられるが、「啓示」という言い方の方が分かり易いかも知れない。 
今聞いているこの言葉は、イエス・キリストが神の子としてのご自身に関して言われたものであって、我々が自分に当て嵌めることも出来ると思うと、危険な場合もあるから、余程慎重に扱わねばならない。実際、神から遣わされたと確信を持つ説教者が、何事についても「私の教えは私自身の教えではなく、私を遣わされた方の教えである」と熟慮なしに無造作に断言して、自分の教えに権威を持たせようとするならば、教会に混乱を齎らす恐れが十分にあるであろう。 
それでも、神の言葉を解き明かす者は、神から遣わされた者でなければならない、という原理は確立していなければならない。これを忘れると、キリスト教の中にパリサイ派が出来て、神の言葉の権威よりも、神の言葉を解釈する権威の方を上に置いてしまう。 
神の言葉を解釈する立場をユダヤ教の律法学者が何代にも亘って築き上げたのは、立派なことであるように思われたのであるが、実は、御言葉の外側に、御言葉と対立し、御言葉を押しのけ、御言葉の意味を曇らせ、御言葉の力を殺いでしまう巨大なものを作り上げる結果になったのである。その真似をしてはならない。御言葉の外に何か砦のようなものを構築して、それに依り頼んで教えを確立するのでなく、御言葉の主ご自身が遣わしたもうた者が教え、それが聞かれるのである。パウロがIIコリント6章の初めで、「神と共に働く者として、あなたがたに勧める」と言う通りである。 
さて、主は「私の教えは私自身の教えでなく、私を遣わされた方の教えである」と言われたのに続いて、「神のみこころを行なおうと思う者であれば、誰でも私の語っているこの教えが神からのものか、それとも私自身から出たものか分かるであろう」と言われる。 
この17節では、前の節で言われたことを正しく聞く者ならば、仰った通りですと確認せずにおられないであろう、と言われたのである。だから、新しいことが付け加えられたわけではない。ただし、聞いた人が全員そのように確認できるのではなく、確認するのはある者に限られる。それは、キリストを遣わされた父のみこころを行なおうとする者だけである。この言い方は、6章37節で「父が私に与えて下さる者は皆私に来る」と言われ、44節で「私を遣わされた父が引き寄せて下さらなければ、誰も私に来ることは出来ない」と言われたのと似た構造を持っている。ここでは神の「選び」がなければならない、ということをすでに学んだ。 
キリストの語っておられる教えが神からのものであると確認するのは、誰にも出来ることではない。無前提で、自由に来て聞いたのでは、分からないのである。第一、父が引き寄せたまわないなら、誰もキリストに来ることが出来ないから、聞くことも出来ないのである。しかし、今、神の「選び」に立ち入るのではない。神の選びは初めは隠されていて、選ばれた者が召しを蒙るまでは、自分自身にも、第三者にも、私が選ばれているかどうかを知ることは出来ないのであるから、それを議論しても実りは何もない。我々は自分自身の選択力が如何に無力であるかを弁えなければならない。 
主イエスは「神のみこころを行なおうと思う者」と言われたが、これは良き行ないをしようと志を持つ者という意味に取ってはならない。良い行ないをしようという志を持つならば分かるという意味に取ればもっともらしく聞こえるかも知れないが、その程度のことならパリサイ人が考えていた。しかし彼らは自信ばかり膨れ上がって、偽善者になり、神のみこころを行なうことは出来なかった。 
みこころを行なうことについて、6章29節で主の教えたもうた言葉を思い起こさねばならない。すなわち、カペナウムで人々が「神の業を行うために私たちは何をしたら良いでしょうか」と尋ねた時、答えられた。「神が遣わされた者を信じることが神の業である」。 
神が遣わされた者、すなわちキリストを信じる、それは人間の業ではもはやなく、神のなさることなのである。だから、平たく言うならば、信仰をもって私の語る言葉を聞く者は、この言葉が私自身の教えでなく、私を遣わされた父なる神の言葉であると知るであろう、という主旨のことを言われたのである。これは信仰者の持つ判断力を高く評価させるためであるよりは、神からの教えを聞いて、崇めることを示すものである。 
「私の教えは、私自身のものでない」という言い方が強調されることについて、不審に思う人があるかも知れない。「私自身のものでなく」という言い方は、通例、悪い意味では「借り物」を指し、良い意味でも、主人が僕を代理人として遣わす際の「委託物」を指す。説教者は説教する時、「この言葉は私の言葉ではない。私に託された神の言葉である」という姿勢を持するのである。だが、キリストの教えたもうた教えは余所からの借り物ではなく、キリストご自身の教えではないか。確かにその通りである。キリストのものではあるが、父のものである。 
主イエスがこの日の説教の中で言われた「私自身のものでない」は、「父と全く別な個体である私のものではない」ということを言われたのとは違う。私自身のものでないとは、父のものであるという意味が第一にあって、したがって父の子である私のものでもあるという含みがあるのだ。10章30節にあるように、「私と父とは一つである」からである。 
次に、18節に進む、「自分から出たことを語る者は自分の栄光を求めるが、自分を遣わされた方の栄光を求める者は真実であった、その人のうちには偽りがない」。 
主イエスは自分の言葉で教えたもうたのではなかったか。確かに、彼は借り物の言葉を用いないで、ご自身のものを与えたもうた。では、彼は自分を遣わした父の栄光を求めず、己れの栄光を求めたのか。そうではない。彼は自分の栄光を求めたまわなかった。 
自分の栄光を求めなかったとは、教えだけでなく、その生き方全体にも関連して言われたことを見ておかねばならない。すなわち、死に至るまで、十字架の死に至るまで、服従するという歩みを貫きたもうたのである。キリストの教えは、耳で聞いて頭に入って納得する単なる教えではない。聞いた人は教えた方の生き方に倣った歩みをするのである。すなわち、教えられる人も、自分の十字架を負って、教える方の後に従って行く。 
そして、神の栄光を顕すのである。このことについて、21章19節には、「これはペテロがどんな死に方で、神の栄光を顕すかを示すために、お話しになったのである」と書かれていることを思い起こして置きたい。 
主イエスが自分の栄光を求めたまわなかったとは、遣わしたもうた父の栄光を求めたということである。キリストの教えは、教えることによって父なる神の栄光を顕すものであった。だから、今ペテロの最期に触れたように、教えられる人も神の栄光を顕すのである。 
このところも、父と子の関係を踏まえないと意味が汲み取りにくい。ありふれた比喩を用いるならば、父親が息子を使いに出す。その時、息子は自分の誉れを求めず、自分を遣わした父親の誉れを求めるであろう。それでこそ使いの務めを果たすのである。その比喩のように、世に遣わされて来たキリストは、自分の栄光ではなく、父の栄光を顕された。 
19節に、「モーセはあなたがたに律法を与えたではないか」と言われる。モーセの名が突然出て来るように思われて、驚く人があるかも知れない。しかし、ヨハネの福音書では、1章17節に「律法はモーセを通して与えられた」と言われて以来、モーセのことをしばしば引くことによって、キリストの位置を明らかにして来ている。 
主イエスは5章の終わりで「モーセは私について書いたのである」と語っておられた。6章でもご自身の与えるパンとの対比でモーセの与えたマナについて語りたもうた。それらと7章19節との続き具合は良く分からない。5章の終わりから7章の途中に続くという説が当たっているようでもあり、当たっていないようでもある。 
主イエスはご自身が父から遣わされたことについて、父ご自身が証ししたもうということを5章37節で言われた。その次に5章の終わりで「モーセは私について書いた。だから私の証し人になる」という意味のことを言われたのである。そのように、モーセの占める位置は大きい。 
モーセはあなたがたに律法を与えた。「それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者が一人もいない」。――あなたがたが誇りとするモーセは律法を与えたではないか。それなら、あなたがたは律法に従うべきではないか。ところが、あなたがたは律法に従わない。それどころか明らかな律法違反をしている。 
これはユダヤ人にとって、思いも掛けない決めつけであった。彼らは自分たちこそ律法を行なっていると自負していた。イエスは安息日を侵しているではないか、律法違反ではないかと裁いていた。しかし、裁く者が裁かれるという場面を我々はここに見る。 
ユダヤ人たちの中に律法を行なう者が一人もいないと言われるのは、誇張ではない。福音書の多くの箇所でも、使徒書簡の至る所でも読むことが出来る指摘がある。ユダヤ人は律法を守っているつもりであったが、キチンとした基準を当てはめて見れば、彼らは律法について誇りを持っているだけで、律法を行っていないことが明らかになる。 
彼らは律法を行なっていないどころか、真っ向から違反している。その証拠として「あなたがたは、何故私を殺そうとするではないか」と言われる。人々はこの唐突さに驚いたのである。しかし、この予告通り、彼らは罪なきイエスを殺したのである。これほどまでハッキリした律法違反があろうか。 
ところが、群衆は答える。「あなたは悪霊に憑かれている。誰があなたを殺そうと思っているものか」。これは「群衆」の言葉である。これまで主イエスと論争するのはユダヤ人と書かれた人、つまりパリサイ派であった。群衆は中立、あるいは主イエスに好意的に書かれていた。だが、今や群衆も敵にまわる。悪霊に憑かれ、一切の判断が狂っているというのである。 
「あなたは悪霊に憑かれている」。これは最大級の冒涜の言葉である。主イエスとパリサイ人との対立に際して、どちらかといえば好意的な立場に立とうとする群衆が彼を殺そうとしていると見るのは、狂人の被害妄想ではないか、と言うのである。彼らは主イエスの霊である聖霊を冒涜するつもりはなかったのであろうが、聖霊を汚す者は永遠の罪に定められる、ということを考えなければならない。これはマルコ伝3章で、エルサレムから来た律法学者がイエスは悪霊どもの頭によって悪霊を追い出している、と論じた時、主が発したもうた警告である。 
「誰があなたを殺そうと思っているものか」と彼らは反論した。確かに、この時点で、群衆はイエスを殺そうとは思っていない。自分たちがイエスを殺すことになるとも全く予想していない。しかし、自分で気がつかなかっただけで、神の子を十字架に付けて殺す予備行動を始めていたのである。 
「イエスは彼らに答えて言われた、『私が一つの業をしたところ、あなたがたは皆それを見て驚いている』」。 
ここで言われた「一つの業」は明らかに5章の初めに記されていた安息日のベテスダの池の傍での奇跡の事である。人々が驚いたのは、38年癒されることのなかった人が癒されたことと、この癒しが安息日になされたことであった。パリサイ人はこれを見た時、不治の病人が癒されたことを喜ぶのでなく、安息日に業が行われたことで怒った。その段階で群衆は怒っていなかった。しかし、怒ったパリサイ人と結果的には殆ど違わないことになった。主イエスはパリサイ派と群衆とを同一視しておられる。うわべで裁く人たちである。 
22節に言われる、「モーセはあなたがたに割礼を命じたので、あなたがたは安息日にも人に割礼を施している」。これは主イエスの言葉として記録されている。モーセが命じたということについて注釈をつけたのは福音書記者である。正確に言えば、割礼はモーセに始まるのでなく、父祖アブラハムから始まった。 
生まれて8日目に割礼の儀式が執り行われる。8日目でなければならないから、安息日であっても行なう。それは恵みによる再生を示すのであって、労働ではない。主は38年寝たきりになっていた病人の癒しを、医療行為としてでなく人間の再生として位置づけておられる。我々が今日与るのもこの再生の恵みである。 

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