◆説教2001.02.18.◆ |
――ヨハネ7:15-17によって――
主イエスがエルサレムの宮で教えたもうた機会は、これが初めてではない。2章の終わりの部分に、「過ぎ越しの祭りの間、イエスがエルサレムに滞在しておられた時、多くの人々は、その行われた徴を見て、イエスの名を信じた」と書かれているくだりに、「教えがなされた」とは言われていないが、説教なしで奇跡だけを行いたもうたと見ることは出来ない。その教えがどういうものであったかは全く分からないが、聞く人々に良く分からず、猛烈な反発があったのは確かである。恐らく彼らは主イエスの教えが律法破壊の教えだと取ってしまったのである。 次に、5章で、安息日にベテスダの池のそばで奇跡を行なって、38年間起きられなかった病人を癒したもうた出来事に続いて、ユダヤ人の挑戦に応じるためであるが、対論をし、それが対論というよりは説教になって行ったことがある。そこでも、彼らは主の語られる御言葉を素直に聞くことをしないから、ますます対決の度を深めた。 それらの場合は、説教として始まったと言うよりは、説教になって行ったのであったが、5章14節では、説教として語り始めたもうたのである。この時も結論的には対決がいよいよ深まるのであるが、初めのうち、ユダヤ人は感心して聞いたらしい。 この時の説教がどういうものであったかは良く分からないが、基本的に何であったかを示す二つの手がかりがある。一つの手がかりは、15節にあるユダヤ人の言葉である。「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識を持っているのだろう」。このユダヤ人は律法研究を最も熱心にやっていると自負するパリサイ派に属する者であろうと推定されるのであるが、彼らの驚くほかない充実した律法の知識があった。ただし、主イエスの説教が律法の教えであったと受け取るならば、甚だ不十分であろう。それはその次の言葉から明らかになる。 もっと大事な手がかりは、16節で主イエスご自身が語っておられる言葉である。「私の教えは私自身の教えではなく、私を遣わされた方の教えである」。 キリストの教えは神からの教えである。神が御子を通じて直々に語っておられるものである。そのように御子自身が言明しておられるのである。律法学者が良く研究して律法を教えたのと非常に違う。しかし、主イエスのこの時の説教のうちのかなりの部分には律法解釈が出て来た。 律法というものは福音の光りの前には姿を消して行く影とか行燈のようなものに過ぎないという見方は、当たっていなくもないが、廃止されたもので、無視して良いという意味ではないから、論ずる時にはよく注意しなければならない。律法が重んじられると、それだけ福音が退くかのように、福音と律法とが矛盾することはない。 19節に「モーセはあなたがたに律法を与えたではないか」と言われる通り、律法はモーセから来る。これはヨハネ伝1章17節でも教えられたところである。そのモーセについて主イエスは「モーセは私について書いたのである」と5章46節で言われた。だから、モーセの教えた律法と、主イエスの教えとが対立すると捉えることは良くない。モーセとモーセの律法はキリストを証ししたのである。 さて、15節のユダヤ人の言葉であるが、ここでは三つのことが読み取られる。一つは、先に言ったように、この時の説教の中で、主イエスは律法にかなり触れておられたらしいことである。律法学者も敬服するほど主イエスは律法に通じておられた。かつてパリサイ派の律法学者であったパウロがローマ書の初めで言うように、福音はイエス・キリストに関するものであり、これは律法と預言者に約束されて、成就した。だから、律法は大事な位置を占めている。 福音書をただ読んでいるだけでは、イエス・キリストが律法について教えたもうたことに思い至らないかも知れない。ユダヤ人が伝統的に守って来た律法の教えとは別な、それを否定するような教えがなされたと解釈している人が多いようである。しかし、少し身を入れて読むと、彼が弟子たちと民衆に律法の正しい読み方と行ない方を教えておられたことはハッキリ見えて来る。天地が過ぎ行かぬまでは律法の一点一画も破られず、全うされなければならない。 第二は、その律法解釈がユダヤ人から言っても素晴らしいものであったことである。すでに3章で見たように、パリサイ派の指導者であるニコデモが主イエスの教えを受けるために夜訪ねて来ている。パリサイ派はことごとに主イエスに対立したかのように受け取られ勝ちであるが、この派のトップになるような人はナザレのイエスを尊敬していた。にもかかわらず、彼の指導力はこの派全体を変えて行くだけのものではなかった。 ルカ伝20章39節に「律法学者のうちの或る人々が答えて言った、『先生、仰せの通りです』。彼らはそれ以上何も敢えて問い掛けようとはしなかった」と記される。これは他の共観福音書にも書かれているが、受難週の宮における説教の中で律法学者との討論があり、学者らが討論に勝てなかった時の結論である。 ただし、ここでも、議論では負けていながら、ユダヤ人はナザレのイエスを殺してしまった。 そして、第三に、本式の学問をしたことがない人だのに、よくぞこれだけ深い解釈が出来たものだとの驚きである。学歴のなさを嘲っているように取ることも出来なくない言い方であるが、そうであるかどうかは良く分からない。この驚きは好意になって行くことも出来たであろうが、実際は悪意に凝り固まって行く。 当時、ユダヤ人の間で、学問とは、律法を読み書きし、その解釈を考え、解釈をめぐって議論することであった。学者になる訓練は専らエルサレムで行われていた。幾つも学校があって、それぞれ一人のラビが教えた。したがって、高度な勉強をしているのがどんな人であるか、その道の人にはすぐに分かった。ナザレ人イエスはエルサレムのどの学校にも在学していなかった。 例えば、タルソのパウロ。彼は海外から帰国したユダヤ人であって、名門の学校でガマリエルのもとに学び、キリスト教に入信する以前にユダヤ人社会ではすでにかなり重んじられていた。それと比較すると、ナザレのイエスにそのような経歴がないことは明らかであった。 しかし、ユダヤ人社会で人を教えるのに、そのような学歴が必要であったかどうかは分からない。人々が主イエスに「ラビ」と呼び掛けていたのは確かである。「ラビ」とは教師に対する尊称である。ユダヤ人の間では、普通の人でも子供のうちから聖書の読み書きが出来、聖句を暗唱し、自由に引用出来るような教育を受けていた。その教育が済んでいる人なら、安息日に会堂で聖書朗読をし、解き明かしをする資格があったのである。特別な学歴はなくても、正しく教えることが出来れば、「ラビ」と言われたのである。したがって、少なくとも我々の生きる社会ほどには学歴や学問のありなしについての偏見はなかった。 「そこでイエスは彼らに答えて言われた、『私の教えは私自身の教えではなく、私を遣わされた方の教えである』」。 15節に書かれているユダヤ人の言葉に対する答えである。主イエスのこの答えは二段階から成っていることが読み取られる。第一は、「この人は学問をしたことがない」と言っている言葉に対する応答である。学問をしたことがないとは、どこかの学校で、どれかの先生に教えられ、その教えを受け継いでいるというのでは確かにない。つまり「私は人から教えられず、神から教えられた」と言われる。 先生の教えの受け売りでないという点について、現代人の感覚と違うということに触れて置きたい。先生の教えを受け売りするのは現代では恥ずべきこととされるが、昔、ユダヤ人の間では先生の教えの受け売りは何ら恥ずべきことではなかった。むしろ、正しく伝統を継承していることが尊ばれていたのである。すなわち、モーセが先ず教え、モーセの教えを忠実に引き継ぐ者が解き明かしをし、その解き明かしの言い伝えを忠実に守って行くのが正しい教師であると考えられていた。 「言い伝えが大事か、神の言葉が大事か」という論争があったことを我々は知っている。マルコ伝7章13節に、主はパリサイ人に向けて「あなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神の言葉を無にしている」と言われた。イエス・キリストの教えは、今日学ぶところでもそうであるが、人間の教えの中に埋没してしまった神の言葉の地位を回復するものであった。 第二段として「私の教えは私の教えではなく、私を遣わされた父の教えである」と主張したもう。この第二段がここでは重要である。 この7章15節は、5章の終わりに続いているという説がある。続けて読んで見ると、たしかに、続き具合はかなり良い。原稿の順序が入れ替わってしまうことは今でも珍しくないが、そういうミスが起こったと考えることは十分出来る。ただ、14節に始まる仮庵の祭りの説教との繋がりを考えると、5章に無造作に続けるわけには行かない。そこで、5章に繋がるのは15節から24節までというふうに修正されるようになった。その他、いろいろ複雑なことを併せて考えなければならないので、組み替えれば初めの形になるとの主張に対する疑問も増えて行く。我々は順序の組み替えをしないで、そのままの順序で読んで行くことにしたい。 「私の教えは私自身の教えではない」と言われる時、いろいろの意味を汲み取らねばならない。だが、先ず第一に、最も単純なこととして、「私がここ、神殿で教えている教えは、神が私をここに遣わして語らせておられるものである」という含を聞き取ることにしたい。 宮のうちで人々を教えることは、当時普通に見られた風景である。場所柄を弁えない不遜な行為と見て攻撃することは出来なかった。教えをする場所はいろいろあった。主はいろいろの場所で教えたもうた。だから、これはその一つであって、巷に立って説教するのと同列のことである。しかし、それだけでないものがある。マラキ書3章1節に「あなたがたが求めるところの主は、忽ちその宮に来る」と預言されていることを思い起こさねばならない。それは終末の到来の予告であった。誰かが宮の中で終わりの日の接近を説くということは何度かあったであろうが、「あなたがたが求めるところの主自身が宮に来て教えている」と言われるのである。 「仮庵の祭り」が旧約の歴史の中で、終末の待望の祭りとして祝われたことにはすでに触れた。この祭りの半ば過ぎて、主イエス・キリストは宮において公然と語ってご自身を顕したことは、終わりの時は既に現実になっていると告げたものである。 第二に、今教えているご自身と、ご自身を遣わされた父との関係を明らかにしておられる。ここに関する限りは全く5章19節以下、特に30節以下の教えの続きと見てよい。同じ教えである。「私の裁きは私のものでなく、私を遣わされた方の裁きである」と言われた。「私の証しは私の証しでなく、私を遣わされた方の証しである」という意味のことを言われた。 「私の教え」と言われるが、キリストが来ておられて、そのキリストから他のラビたちからは決して聞くことが出来ないような教えが与えられるということではない。むしろ、「私の教え」とは私そのものと考えれば分かり易い。あるいは私のもたらす救いと言い直せば分かり易い。「私そのものを受け入れることが私の教えを受け入れることであり、私の教えを受け入れることが救いである」という主張がここにある。これはユダヤ人には恐らく全然分からなかったと思うが、すでに学んだ6章の教えから我々にはハッキリ聞き取られる。 「神は昔は天使を通じ、あるいは預言者を遣わして教えたもうたが、今、この終わりの日には御子において我々に語りたもう」とへブル書の冒頭に述べられるのと同じことである。 最後に、その教えの内容であるが、前回触れたように、祭りの終わりの大事な日に主イエスが大声で叫ばれたこと、それは37節以下に述べられているが、「私から命の水を受けて飲め」、さらにまた、8章12節にある「私は世の光りである」、この二つを頂点、また目標として展開された教えである。それは救いの教えである。救いを説明する教えではなく、その教えを受け入れることが即ち救いであるような教えである。 この時の教えは、律法の引用がふんだんに盛り込まれたものであったと先に見た。したがって、律法に従う行ないにも当然触れた。如何に生きるか、如何に隣人を愛するか、という問題が語られたであろう。けれども、究極には、教えの内容は「キリスト自身」なのである。だから、教えに従うとは、キリストを受け入れることである。6章28節で言われた通り、「神が遣わされた者を信じることが神の業である」。これは「神の業を行うために何をすれば良いか」との問いに対する答えである。キリスト自身を提示し、このキリストを受け入れよ、と命じるのがキリストの教えの骨子である。細々したことはキリストに従って行く中で自ずと明らかになって来る。 キリストが何者であるかを論じておれば救われるというのではない。しかし、信仰の要点はキリストであり、キリストを受け入れることである。無から有を起こしたもう父は、死人を起こして命を与える力をお持ちであるが、その力を御子にソックリ与えてそれを行使させたもうた、と5章で学んだ。キリストを受け入れる者はこの力に与るって永遠の命を得るのである。 「神のみこころを行なおうと思う者であれば、誰でも、私の語っているこの教えが神からのものか、それとも、私自身から出たものか分かるであろう」。 この教えが私から出た教えであってはいけないのか。私から出た教えであっても、神からの教えと一致すれば良いのではないか。………教えに関してはそれで良いのである。 だが、ここでは教理の項目を論じるようなことをするのではない。ここで「教え」とはキリストの存在そのものを指しており、また神から授けられる救いの力を指している。 キリストの存在そのものが神から出ているか、いないかをハッキリさせようとしておられるのである。神から出たとは神と本質が同じということであるが、ここでは本来神にある命と力が十全に御子に移されたかどうかを明らかにしようとする。 かつて偽預言者は、神から遣わされたのでないのに、神から遣わされたと人を欺いて語った。彼らは神から出たのでない言葉を偽って神の言葉だとして語り聞かせた。偽りであるから話しにならないが、その教えはしばしば、本当の預言者の言うことよりも本当の預言らしい、と人からは思われた。人間の感覚で尤もらしいと感じられることは往々にして過ちを犯すのである。 では、どう解決すれば良いか。我々も神から出たのでない教えを神から出たように信じてしまうことがあるのではないか。主は「神のみこころを行なおうとする者なら分かる」と言われた。ここで「神のみこころを行なう」ということが何なのかがハッキリしていなければならない。自分では神のみこころを行なっているつもりでいて、キリストを殺してしまった人がいるのである。「神の業を行なう」とは、6章29節の言う通り、「神の遣わされた方を信ずること」、神の遣わされた方の言葉に服従することである。 「神のみこころを行なう者」とは命を得るためにキリストに行く者のことである。それはさらに、「父がキリストに授けたもうた者」とも呼ばれ、「選ばれた者」とも呼ばれる。そこには確かさがある。その確かさが信ずる者には注がれるのである。 |