――1:15によって――
前回の14節で「私たちはその栄光を見た」と証言された。また「それは父の独り子としての栄光であって、恵みとまことに満ちていた」とも証しされた。イエス・キリストの弟子である福音書記者の証言である。この証言は使徒たちが先ず語ったものであるが、使徒たちの後の時代の我々にも共通することを前回学んだ。キリストが来臨されたから、その事実を見た者は証言する。使徒に始まり、この証言は世の終わりまで続けられる。我々も証し人の中に加えられる。
思い起こすが、使徒行伝1章22節のペテロの言葉がある。「ヨハネのバプテスマの時から始まって、私たちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終私たちと行動を共にした人のうち、誰か一人が私たちに加わって、主の復活の証人とならねばならない」。ペテロは、主の証人となる者には、ヨハネのバプテスマの時から、昇天の日まで、終始主と行動を共にしていることが条件だと言った。つまり、イエス・キリストの事実をズッと見て来たことが大事なのである。ヨハネ伝でも19章35節に「それを見た者が証しをした。そして、その証しは真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたがたも信ずるようになるためである」と言う。見た者が証しし、証しを聞いた者が信ずる。こういう基本構造が示される。 ここで、証しに関するもう一つの点に短く触れておくのが良いと思う。今見た使徒行伝1章の記録のところで、主イエスの弟子たちはイスカリオテのユダの脱落後の補充をした。では、12という數を揃えて、証し人としての活動が開始されたか。そうではなかった。彼らはなお何日か、ひたすら待たなければならなかった。聖霊が降るのを待ったのである。主は「聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、私の証人となるであろう」と言われた。つまり、聖霊を受けなければ、証人としての働きは出来ないのである。このことは、ヨハネの第一の手紙の5章6節で「証しをするものは御霊である」と言うのと通じている。なお、今引用した手紙では、「証しするものは、水と血と御霊である」という言葉が続くのであるが、水と血の証しについては別の機会に学ぶことにしたい。とにかく、見たならば、見たことについて証言できるのであるが、証言者は御霊を受けて仕上げられる、という点に触れて置くのは余計なことではない。御霊による証しに触れることは、問題を徒に煩瑣にするのでなく、むしろスッキリさせる。とにかく、キリストの弟子たる者の証しについて我々は大要そのようなことを学んでいる。 ところが、この福音書記者は、自分たち弟子たる者、さらに弟子の弟子たる者たちの証しだけで十分とは考えず、キリストに先立つ、バプテスマのヨハネの証言が、特別な重みを持つことに人々の注意を喚起する。ここで、我々はもう一度、6節7節で学んだところに戻って行かねばならない。「ここに一人の人があって、神から遣わされていた。その名をヨハネと言った。この人は証しのために来た。光りについて証しをし、彼によって全ての人が信じるためである」。 6節7節で一人の人間のことが語り出されるのを唐突に感じた人がいるであろう。永遠の御言葉に対する讃美の中に、いきなり人間に関する事が挿入されたからである。しかし、ここでこの言葉が入ったのは、ヨハネの証しの意味の重大さに基づく。唐突と言えば、今日15節で聞くところも強引に割り込んで来た感じである。すなわち、前回学んだ14節と次回に学ぶ16節を結び付けて読めば、文章の流れがスムースである。初め14節から16節に続く文章を書いて、著者は添削の段階で15節を挿入しなければならないと感じたのではないか。証し人としてのバプテスマのヨハネの重要性を何としてでも分からせようとしているらしいことが読み取れるのである。「父の独り子としての栄光」ということを語った直ぐ後に、これに関連する証しをしていたヨハネの言葉を挿入しなければならないと考えたと解釈される。我々も、バプテスマのヨハネの証し人としての位置の独自性を捉えておきたい。先ず、彼以前の証し人と比較して見る。 ヘブル人への手紙の著者は12章の初めに「私たちは、このような多くの証人に雲のように囲まれている」と言う。その証人とはアベル、エノク、ノア、アブラハム以下の旧約の信仰者たちである。「彼らは約束のものを受けなかったが、遥かにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり、寄留者であることを自ら言い表わした」と11章13節は言う。それらの旧約の証人と、バプテスマのヨハネの異なる点は何か。旧約の証人たちは約束のものを受けなかったが、約束が確かなことを、それを待ち望む信仰によって証しした。すなわち、来たるべきものの確かさの故に、彼らは故郷を捨て、家を捨て、この世の快楽を捨て、命も捨てたのである。――それでも、彼らは来たるべきものが何なのか見ていない。約束を信じることしか出来なかった。 次に、主イエスに召されて、その後に従った弟子たちの証しと比べて見る。彼らも証しのために遣わされたではないか。確かにそうだ。ヨハネ伝の終わり近くになって、イエス・キリストが20章21節で言っておられる、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」。使徒たちは意気に感じて伝道に駆け出して行ったのではなく、キリストから遣わされたのである。それは、いちいち聖書を引くまでもなく、証しのための派遣であった。彼らの場合、何を証しするかはハッキリしている。地の果てまで「私の証し人となる」と主は言われた。 それなら、バプテスマのヨハネと主イエスの弟子たちは同類ではないか。同じ点もある。しかし、6節に「神から遣わされていた」と述べられた点は重要である。主イエスの使徒らは主イエスから遣わされた。バプテスマのヨハネは神から遣わされた。神から遣わされたことと、キリストから遣わされたこととを対立的に見る必要はない。キリストは初めから神とともに在られたからである。しかし、使命の遂行に関しては、神から遣わされたヨハネと、キリストから遣わされた使徒たちとは違う。 使徒たちは初め12人に限られていた。12という數に、イスラエルの回復、さらには神の国の樹立という意味が象徴されているからである。それでも、使徒の數は事実上12人に限定されるものではなかった。パウロのような人も使徒のうちに加えられる。これが際限なく増え拡がると理解することは通常はない。パウロは自分を使徒のうちの一番小さい者と呼ぶが、謙遜でこう言ったのではなく、文字通り使徒の末尾に加えられたという意味であろう。使徒をそれ以上増やさず、使徒時代はゼベダイの子ヨハネの死によって終わったと見、使徒職は恒久的に継承されるのでなく、一世代で終わるというのがキリスト教会の一般的認識である。ただし、ある意味で、現在も使徒的な務めは機能しているし、今日も明日も真の信仰者は使徒的使命を帯びている。我々は現代における使徒なのである。 ところが、今見た使命の継承という理解を、バプテスマのヨハネと我々の関係に当て嵌めることは出来ない。ヨハネの使命は全くヨハネ限りである。如何なる意味でも我々が引き継ぐとは言えない。譬えれば、新しい星を発見した人が発見を告げる。人は誰でもその星を見ることが出来るが、発見者になることは出来ない。そのように、バプテスマのヨハネと同じ使命に立つ人はいない。まさに、この特別な職務のためにヨハネは神から遣わされた。 「神から遣わされていた」とは、神が、永遠の言葉である御子キリストを遣わしたもう計画の一部として、ヨハネの派遣が組み込まれているという意味でもある。彼は「荒野で呼ばわる者の声」であった。謂わば、暁の近づくのを最初に告げる叫び声であった。長い闇の時代を通じて、人々を励まし、慰め、「希望を捨てるな、今に朝が来る」と告げる預言者は少なからずいた。それらの預言者の務めは貴い。しかし、彼らは暁の光りを告げる第一声を発する者ではなく、その叫びを上げる特権はヨハネのものであった。そして、明るくなってしまえば、その声の意味は消え失せる。キリストが来てしまえば、ヨハネの叫びは使命を終える。 あるいはまた、バプテスマのヨハネの位置は、花婿の到着を婚宴の設けられる家の門前で待っている人になぞらえることが出来るであろう。彼は花婿が間もなく来ることを知っている。というよりも、教えられている。いや、もっと適切な比喩を用いるならば、ヨハネは花婿の駕篭が行く少し 今日、15節で聞く言葉はこれである。「ヨハネは彼について証しをし、叫んで言った、『私のあとに来る方は、私より優れた方である。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この人のことである」。 ヨハネの証言のかけがえのない独一性は2点ある。第一は「私のあとに来る方」と言った点である。25節でも繰り返される。その前の預言者たちは「やがて救い主が来る」と確信をもって語った。しかし、「私の後に」とは言わなかった。ヨハネだけが「私の後に来る方」と言い得た。つまり、キリスト派遣が始まり、その露払いとして、ヨハネは一足先に出発したのである。キリストはつねに「来たるべき者」と捉えられていたが、ヨハネのようにハッキリと示す人はいなかった。 ヨハネの証言のもう一つの重要点は、「私よりも先におられた」と言っているところである。この証言もヨハネの独特の、他に例を見ないものである。確かに、後には、教会の中で「キリストは初めからおられた」と告白されるようになったが、ヨハネが言うまでは、誰もこれを語らなかった。ヨハネの証言以前には、キリストは、漠然としか捉えられなかったのである。 「後に」と「先に」という二つの言葉がこの証言では特徴的である。これは時間的な前後関係と、空間的前後関係、あるいは上下関係、それらを兼ねあわせた意味を持つ言葉である。時間的に先なる者は序列からいっても上に立つことになる場合が多い。だから、私よりも先におられたことは私の上に立ち、私よりも優れた立場に立たれるという意味になる。私はその方の靴の紐を解く値打ちもない。 イエス・キリストに出会った人は、特別な悪意をもって彼を拒絶するのでない限り、彼の内に秘められた超越性・永遠性を、少なくとも、なにがしか感じ取った。「私よりも優れた方」という印象は多くの人が抱いたのである。「私を見た者は父を見たのである」とキリストご自身が言われる通りである。だから、キリストが先におられたことも、経験を踏まえてよく考えれば、納得するであろう。キリスト以後の人についてはそういうことがあった。 ヨハネはしかし、キリストの先に行く。彼の証言者としての人生経験の中にはキリストとの出会いはなかったのである。ヨハネが最初にイエス・キリストを見たのは、29節に書かれている出会いの時であるか、もしくは、32節以下に書かれている主イエスのバプテスマをお受けになった時である。29節に言う、「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方に来られるのを見て言った、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。「私の後に来る方は私よりも優れた方である。私よりも先におられたからである」と私が言ったのは、この人のことである。私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現われて下さるそのことのために、私は来て水でバプテスマを授けているのである』」。ヨハネがこの言葉を言う前にイエス・キリストの洗礼があったのかどうかはハッキリしないが、「私はこの方を知らなかった」と言っているのは正しい。 今見た通り、15節のヨハネの言葉の意味を明らかにするのは、30節31節のヨハネの言葉である。「私は彼を知らなかった」とは、まだ見ていなかったということであろう。33節にも「彼を知らなかった」と言われる。証言すべき対象を知らずに証言するわけはないから、神によって証言すべき内容は知らされていた。しかし、その方にまだ会ってはいなかった、と言うのである。だから、31節で「私はこの方を知らなかった」と言うのと、26節で「あなたがたの知らない方」というのとは、同じ言葉であっても意味が違うのである。 さて、「神から遣わされた」と言われるなら、ヨハネは、遣わされる前に、神のもとでキリストを見ていたのではないか。そうではない。ヨハネは永遠者ではない。生まれる前に神と共にあったのではない。ほかの証し人はキリストに出会って、見たことを証しする。ヨハネは見ていないが証しする。どうしてそういうことが出来るのか。「神から遣わされた」からである。証しすべきことを神が直接に教えたもうたのである。それをどういうふうに教えたもうたかは我々の論ずべきことではない。とにかく、ヨハネは特別なのだということを見ておきたい。 ところで、15節に記されているヨハネの言葉はいつ語られたのか。30節に書かれた事件の前であることは明らかである。すなわち、ヨハネがその使命である証言を始めた日からこれを繰り返し語っており、これがヨハネの証しの精髄だと見れば良いであろう。だから、15節ではヨハネが「叫んで言った」と書いたのではないかと思われる。30節では「叫んだ」とは言っていないのである。この言葉をヨハネが大声で叫んだかどうかはどちらでも良い。これをヨハネの叫びとして受け取ることが重要なのである。 先に見たように、この言葉は、キリストが「私よりも先におられた」と証しする点で独特なものがある。キリストがもうすぐ来られると証ししたのは、ヨハネの特色の最たるものとされるが、キリストが来られた後は、この証しは意味を失った。しかし、キリストが私よりも前におられたという証しは、キリストが来られて後も力を失わない。 ヨハネの証言の中で最も有名で、分かりやすいと思われているのは、外の福音書にも共通して出てくる、27節にある「私はその人の靴の紐を解く値打ちもない」という言葉である。この言葉は全く真実であるが、主人と奴隷の関係になぞらえられ、あるいはそれ以上だと言われるだけで、ただ偉い御方と見る、相対的な比較に置き換えられる恐れがある。ところが、「私の後から来る御方は、私よりも先におられた」と言う時、これは相対的比較としては捉えられないのである。 我々は繰り返し繰り返し、肉体をもって来られた日のイエス・キリストに目を向け、十字架の死に至るまでの彼の御生涯に思いを馳せる。これがどんなに大事な信仰の修練であるかは今強調する必要もない。だが、今日の学びによって注意を促されるのは、我々の思いが肉を纏いたもうた日の主イエスに帰って行くだけで、それ以上に、それ以前に遡らないならば、欠けがあるということである。ヨハネより「先に」おられたキリストを、先に来たヨハネが証言していることの意味は大きい。 人となりたもうたキリストの、人間としての御姿を思い起こすだけでも、我々の胸は熱くなって来るし、勇気づけられる。しかし、単なる人間イエスでは、罪と死という根本的な問題の解決を齎すものではない。世に来る前に存在しておられたキリストの把握がなければ、キリスト信仰は人間イエスへの思慕へと委縮して行くのである。 キリストを思うとは彼の片鱗を掴むことではない。全キリストを捉えなければならない。肉体を纏って現われたもうたことも重要であるが、その前からおられた彼を把握しなければならない。勿論、地上を去って行かれた後の彼が、約束したもうた通り、世の終わりまでいつも共におられ、今も共におられることを確認していなければならない。だが、それとともに、ヨハネよりも前におられたことを受け入れていなければならない。 1999.06.13. |