◆説教2001.02.04.◆

ヨハネ伝講解説教 第68回

――ヨハネ7:1-9によって――
 今日学ぶ箇所の主題になっているのは、6節と8節に繰り返される「私の時はまだ来ていない」との主の御言葉である。「私の時」という言葉には初めて触れるのでなく、2章4節でカナの婚宴のさい、主イエスは母マリヤに「私の時はまだ来ていない」と言われたことを我々は記憶している。それも肉親に対して語られたものであった点で似ている。
 言葉遣いが全く同じとは言えぬが、ここで言う「時」は四つの福音書全体の謂わば要石のような意味を持つものである。
 「私の時が来ていない」。だから「私は今回はエルサレムに行かない」と言っておられたのに、10節によると「人目に立たぬように、ひそかに行かれた」。それでは、時が来たのか。或る意味では時が来たと言えるのである。だから、ひそかに行って、祭りの半ばになってから人々の前に姿を現わしたもうた。主はタイミングを読んでおられた。しかし、本来の意味の「時」はまだ来ていなかった。30節に「イエスの時がまだ来ていなかった」と書かれている。「時」と言っても、別々の意味のものがあることを知らなければならない。
 さて、1節から本文に入って行くが、「そののち、イエスはガリラヤを巡回しておられた」。「そののち」というのは、6章の終わった後に続くのではないかも知れない。並び替えた方がスッキリすると言われる。理由は幾つか挙げられるが、我々の聞き取るべき内容と特に関わりはないから、我々の手にする今の形の聖書で読んで行き、6章の終わりに続く時期と見ておく。
 群衆も弟子も離れて行ったことは、6章の終わりで見た通りであるが、そののち、主イエスはガリラヤでの我が使命はもう終わったとは言われなかった。ガッカリもせずに働き続けておられた。5章17節で、「私の父は今に至るまで働いておられる。私も働くのである」と言われた通り、彼は働き続けたもう。
 「ガリラヤを巡回された」その巡回は、言葉としては単純であるが、ただ歩き回っておられた、時を過ごしておられた、それだけをいうのではないと理解したい。言葉にはないが、伝道しておられ、同時に、手元に残った弟子たちを連れて行って教育しておられたということでもある。11章54節に「そのためイエスは、もはや公然とユダヤ人の間を歩かないで、そこを出て、荒野に近いエフライムという町に行かれ、そこで弟子たちと一緒に滞在しておられた」というところのユダヤ人の間を歩かないで、の「歩く」はここの巡回と同じ言葉である。
 この7章では、仮庵の祭りのための上京をされたのだが、祭りが終わるとまたガリラヤに戻って巡回を続けられたと考えられる。次の上京の機会は次の祭りであった。
 9章には生まれつき盲人であった人の目を開ける奇跡が記されているが、これもエルサレムに祭りのために行かれた機会の出来事に違いない。エルサレムだということは「シロアムの池」という地名から確定される。祭りのため以外はエルサレムに行かれなかったと見られるから、この時も祭りがあったのであろう。何の祭りかは確認出来ないが、10章22節に書かれている「宮潔め」の祭りではないかと推定される。季節は冬である。
 とにかく、大部分の時間をガリラヤで過ごし、祭りの時にはエルサレムに上られた。しかし、7章の初め以後、21章の復活の後の顕現に至るまで、ガリラヤでの出来事の記事はヨハネ伝にはない。それはガリラヤにおられなかったことを意味するのではないと思う。特筆するような事件こそなかったが、主はガリラヤで同じ調子で民衆を教え、奇跡も行ない、また弟子を訓練しておられたということなのだ。
 「ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡回しようとはされなかった」と記されるが、ユダヤに行けば彼を冒涜者と見るユダヤ人の殺意が待っていた。だから、キリストの時、すなわち贖いのための小羊として十字架につくべき時が来ないうちは、祭りの季節以外はエルサレムに行くことを差し控えておられた。エルサレムに行けば時でないのに殺されるおそれがある。それを避けようとしておられた。ガリラヤでの圧倒的な人気は冷めたとはいえ、人々の好意は持続しているから、身を守ってくれたのである。10節で、主イエスが宮で教えたもうたと言う時、安全であったのは、彼の身辺を護衛するガリラヤの人たちがかなりいたからであると考えて良かろう。
 2節に移る。「時に、ユダヤ人の仮庵の祭りが近づいていた」。6章4節に「時に、ユダヤ人の祭りである過ぎ越しの祭りが近づいていた」と書かれていたが、同じような書き方である。その時から丁度半年経ったと見てよいだろう。
 「仮庵の祭り」はユダヤでは「過ぎ越し」及び「五旬節」と並ぶ重要な祭りであった。
 「仮庵」とは読んで字の如く、仮の住まい、仮小屋、あるいは天幕のことである。出エジプトの民が荒野で仮の住まいに宿ったことを後々まで覚えるために、ユダヤの暦の7月15日、7月10日の「贖罪の日」の5日あとの15日から8日間、この祭りを守った。「取り入れの祭り」という呼び方もあった。古い時代には各自自分の家を離れて仮小屋を作って住んだが、後の時代には仮庵を実際に作ることはしなくなる。しかし祭りの意義はむしろ強調されるようになっていたということである。秋の収穫の時期とも重なる。しかも時代を経るにつれて、終末の到来を待ち望む祭りという要素が強まって来る。終末に集められるというイメージが重なるからであろう。これはゼカリヤ書14章に現われている。大勢の人が全国から、そして海外からも離散した先々から、ユダヤ人がこの祭りに参加したようである。規模から言うと過ぎ越しよりも大きい祭りになっていた。そのような仮庵の祭りを7章の出来事の背景として考えたい。
 3節、4節、「そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った、『あなたがしておられる業を弟子たちにも見せるために、ここを去り、ユダヤに行ってはいかがです。自分を公けに現わそうと思っている人で、隠れて仕事をする者はありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をハッキリと世に現わしなさい』」。
 主イエスは自分を公けに現わすことをしておられず、弟子たちにも奇跡を見せておられなかったのであろうか。私的に求めて来る者にだけ癒しの奇跡をされたのであろうか。
 そうではないと思う。彼は逃げ隠れるようにして、ひそかに伝道されたわけではなく、また家に引き籠っておられたのでもない。ただ、活動の地が辺境のガリラヤであった。
 また、多くの群衆が集まることはなくなっていた。
 「兄弟たち」というのは弟子を指す場合がある。復活された主イエスはマグダラのマリヤに「私の兄弟たちのところに行って、こうこう伝えよ」とお命じになった。これは明らかに弟子のことである。しかし、ここではイエスの肉親である兄弟である。従兄弟なども含むと見て間違いではないが、ガリラヤのナザレに住んでいた人であろう。イエスの兄弟たちのことは2章の12節に「そののち、イエスは、その母、兄弟たち、弟子たちと一緒にカペナウムに下って、幾日かそこに留まられた」と書かれていた。弟子たちはその後イエスと行動をともにするが、母と兄弟は離れてナザレに帰るのであろう。
 兄弟というのと弟子とは違うと言ったが、その頭の中は弟子も兄弟も同じであったと思われる。この世の基準にしたがってものを考えている。
 兄弟たちは祭りが近いから自分たちと一緒に行こうではないかと勧めたと見ることも出来なくないが、一緒に行くことではなく、イエス独自の使命の遂行のために、田舎ではなく都に行くべきではないかと言ったのである。
 この兄弟たちは「あなたがしている業を見せるため」と言っている。奇跡を行なって、それを多くの人に見せなさい、という意味であろう。説教によって民衆を教えることは殆ど考えていないようである。ここに彼らの無理解と浅薄さが示されている。14節には、「イエスが宮で教えたもうた」と書いているし、続いて、ユダヤ人が教えを聞いて「驚いた」と言う。奇跡でなくても人は驚いたのである。
 兄弟たちが「自分を公けに現わす」と言ったのは、片隅のガリラヤではなく、エルサレムの桧舞台でなければ、公けにならないと理解していたからであろう。「弟子たちにも見せるために」とは、すでに弟子になっている人たちに見せることよりも、見せて弟子にするという意味が強いのであろう。
 かつて旧約の多くの預言者は国の片隅で預言しないで、エルサレムに出て来て、宮に集まる人々に預言を聞かせた。神の御旨を伝えるからには、一人でも多くの人に聞かせるような場所を考えるのが当然ではないか。これは今日でも正論として通る議論である。
 しかし、これはこの世の理論である。この世の理論としては間違っていないであろう。
 この世の常識に逆らわなければならないと頑固に考える必要はないであろう。さらにユダヤの場合、エルサレムは宗教生活の中心である。エルサレムで認められた権威がないと通用しない。けれども、それが常に真実であるとは言えない。
 7章にはキリストの出身地が問題になっている記事がある。41-42節である。「キリストはユダヤのベツレヘムの生まれでなければならない」という主張は、ユダヤ人の間にかなり広く、また根強くあったようである。マタイ伝とルカ伝はイエスの誕生の地がベツレヘムであることを詳しく説いているが、ヨハネ伝ではベツレヘムは殆ど無視されていると見て良いであろう。勿論、マタイとルカが世間で信じられているところに合わせるためにベツレヘムにおける誕生を語ったのではないし、ヨハネがベツレヘムでイエスが生まれたことを知らなかったのでもない。真理を場所に結びつける意味は余りないと思っているからヨハネ伝はイエスのベツレヘムにおける誕生を語らない。むしろ、ヨハネ伝では見落とされ勝ちであるヨルダンの荒れ野やサマリヤが重要なのである。
 この4節に「公けに現わす」という言葉があるが、「パレーシア」というギリシャ語が用いられる。13節の「ユダヤ人を恐れてイエスのことを公然と口にする者はいなかった」とあるところの「公然と」も同じ「パレーシア」である。今日学ぶこれらの文章ではさほど重要な役割を果たしていないが、新約聖書の中では見落としてならない言葉である。すなわち、福音は大胆に語られねばならないという場合の「大胆」とか「はばからず」と訳される言葉がこれである。
 11章14節の「イエスはあからさまに言われた、『ラザロは死んだのだ』」と言われたところの、この「あからさま」もパレーシアである。16章25節のあからさにも同じである。18章20節の「私はこの世に対して公然と語って来た」の公然とも同じである。すなわち、明瞭に、という意味と大胆にという意味が重なっている。
 キリストご自身、公然と自らを現わす存在であられたが、彼が語りたもう時も公然と語られた。だから、我々が彼について宣べ伝える時も公然と大胆に語る。福音はそのように語らなければ命を得させる言葉としては響かないし、伝わらないのである。語ることが聴衆の反感を呼び起こすと分かっていても、恐れずに、大胆に語る。そして、公然と語られる言葉によって信じた者らは、信仰を公然と告白する。言葉において、また態度において、公然と信仰は表明されるのである。そのように、公然ということばが連鎖をなして我々の救いに関わっている。
 我々の生活には公的な部分と私的な部分がある。私的な部分については人に語る必要はまずない。公的なことは隠してならない場合が少なからずある。信仰はプライヴェートな問題でなく、この公的な方に属する。なぜなら、我々の所属に関することだからである。どの国に属するかは重大事とされているが、我々が地上の国に属するか、神の国に属するか、我々の主が誰であるか、は我々の公的生活の最も重要な根幹である。これは明らかになっていなければならない。
 ところで、5節に、「こう言ったのは、兄弟たちもイエスを信じていなかったからである」と言う。彼らは自分の兄弟が偉い人だということは知っていた。この兄弟を出世させたいという気持ちはあった。邪魔しようというつもりはない。しかし、肉親としては愛していても、救い主として信じる者ではなかった。信じる者が増えれば良いと思っているが、自分は信じようとしていない。そのような俗物である。
 「そこでイエスは彼らに言われた、『私の時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている』」。初めに言っておいたように、非常に大事なことが語られたのである。
 ここをズッと軽い意味に取ろうとする人もいる。「私はエルサレムに行く日を決めている。その日はまだ来ていないからガリラヤにいる。あなたがたはいつでも行けるのだから行きなさい」というふうに読んでしまう人がいる。
 ここで「時」という言葉はギリシャ語では「カイロス」である。先ほど、2書4節で主イエスがマリヤに「私の時はまだ来ていない」と言われたことに触れたが、そこで用いられている時という語は「ホーラ」であって、ここと同じではない。この章の30節に「イエスの時がまだ来ていなかった」というところの「時」は「ホーラ」である。しかし、「ホーラ」も「カイロス」も「時」と訳すほかない言葉で、同義語と見るべきである。
 違いを論じていると混乱が起こる。主イエスはギリシャ語で教えておられたのでないから、ギリシャ語の違いを論じ立てても全く意味がない。ただ福音書記者はギリシャ語で書いたのであるから、言葉を使い分けることは考えたに違いない。しかし、「私の時」を表す言葉が使い分けられたとは考えられない。例えば、マタイ伝26章18節に主イエスが弟子に命じて過ぎ越しの用意をさせたもう時、かねて話してある人の所に行って「先生が私の時が近づいた」と言わせておられる。この時は「カイロス」である。
 主イエスご自身がその時を何時と考えておられたかはヨハネの福音書を材料にして的確には指摘出来ないが、過ぎ越しの時期に合わせるよう予定しておられたに違いない。彼の地上の生涯の歩みはその時を目指しているように読みとることが出来る。
 一方、「あなたがたの時はいつも備わっている」と言われたその「時」は特別な重い意味を持つものではない。いつでもある時、日常的な時である。人生には一回的な時があるのではないかという議論はここで持ち出す必要はないのではないか。たしかに、我々にも逃してならない時がある。時を知るキリスト者として、それを空しく過ぎ去らせることのないようにしたい。それでも、我々の時はキリストの時と到底同一の意義は持ち得ない。
 キリストの時と我々の時との違いは、贖い主なるキリストと贖われる我々の違いに基づく。彼は世の救い主である。我々は彼の救いに与る方である。彼はただ一度で贖いを全うしたもうた。しかも、彼はさらに「世はあなたがたを憎み得ないが、私を憎んでいる」という違いを指摘したもう。言葉を換えて言えば、「私は憎しみを受けて殺され、それによって贖いを成し遂げる。あなたがたは憎まれるに価しないから憎まれない。あなたがたは世と同質だ。だから、あなたがたの時はつねにある」と言われる。
 「私が世の行ないの悪いことを証ししているからである」と言われたのは、例えば、2章13節以下にあった宮潔めの事件である。宮に商売人を入れることについて、いろいろ問題があったようだが、人々はそれを指摘し得ない。イエス・キリストは神の子であればこそ、神礼拝の中に潜む不正を摘発出来た。しかし、宗教上の権威と見られている人たちは自分たちの悪が示されたとは思わず、問題をすり替えて、主イエスを冒涜者として糾弾したのである。ここにはこの世との激突があった。
 キリストの時、そして我々の時、これは常に思いめぐらすべきものである。これによって我々の救いを確認し、生かされた我々のなすべきことを決定するのである。
 


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