◆説教2001.01.21.◆

ヨハネ伝講解説教 第67回

――ヨハネ6:64-71によって――
 「しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。――これは我々を震え上がらせ、心の底まで冷え切らせる申し渡しである。我々はこうして集まって御言葉を聞こうとしているが、「あなた方の中には信じない者がいる」と言われると、突き飛ばされたように感じ、聞こうとする意欲を失う人もいるであろう。
 39節で「私を遣わされた方の御心は、私に与えて下さった者を、私が一人も失わずに、終わりの日に甦らせることである」という御言葉を聞いた。「一人も失わない」というこの御言葉は我々にとって暖かい、力強い、慰めの言葉である。こういう言葉ばかりであれば、心地よく聞ける。だが、主イエスは時々心地よくない言葉をも語りたもう。主が語られるのであれば、我々は聞かなければならない。
 それはどういう主旨で語られたものなのか。――信じて救われる者がある。その救いは全く確かである。しかし一方、信じない者もおり、彼らの滅びも確かである、ということを教えておられるのであろうか。それもある。我々の救いも滅びも神の意志決定のもとに置かれており、我々の力や願いではどうにもならない。それ故に、全く揺るがないのである。これは大事な教えである。
 福音書記者は、64節でそれに続けて、「イエスは、初めから、誰が信じないか、また、誰が彼を裏切るかを知っておられた」と注釈をしている。初めから事は決まっていたのである。決まっていたことがのちほど明るみに出るだけである。そのように読みとることは間違っていない。しかし、ここで教えられるのはそれだけであろうか。
 主がこのことを語りたもうたのは、一般論、原則論を教えるためではなかったという事情に留意したい。一般論としてこうであると言われるだけであれば、そこから、救われる者と滅びる者の区別を考える好奇心が刺激されたり、もう決まっているからと投げ遣りになったり、無責任になったりしかねない。
 むしろ、主は従う者の一人一人に個別的に配慮された点を見たい。すなわち、これまで弟子であると思われていた人々が去って行ったり、十二弟子の中で枢要な地位を占めていると思われていたイスカリオテのユダが裏切るという出来事に出会う時、ほかの弟子たちは深刻に動揺するであろう。「自分も彼と同じになるのではないか」と不安に駆られる人は少なくないのである。自分の救いについて疑い出したならきりがない。そして、その不安は意味のある修練ではなく、そこからは何も良きものは出て来ない。
 13章の18節以下にも同様の主旨の言葉がある。「『私のパンを食べている者が私に向かってその踵を上げた』とある聖書は成就されなければならない。そのことがまだ起こらない今のうちに、あなたがたに言って置く。いよいよ事が起こった時、私がそれであることを、あなたがたが信じるためである」。14章29節でも同じく言っておられる。「今、私はその事が起こらない先にあなたがたに語った。それは事が起こった時にあなたがたが信じるためである」。
 前もって言って置くのは「あなた方が信じるため」であると言われる。信じるとは「私がそれである」と信じること、すなわち、イエスがキリストであると信じることである。何故なら、キリストは聖書に予告されている通り、苦難を受けて、その務めを全うしたもうからである。しかし、この「信じる」はまた、躓きに遭っても倒れないで、信じ続けるという意味である。信仰を貫くことが出来るように前もって言っておくのである。
 そこで、これと似たもう一つの主の言葉を聞いて置きたい。16章1節に「私がこれらのことを語ったのは、あなた方たが躓くことのないためである。人々はあなた方を会堂から追い出すであろう。更に、あなた方を殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う、そういう時が来るであろう」と記されている。つまり、あなた方は人々から異端者として断罪され、会堂から追い出され、迫害される時が来る。迫害だけならば忍耐によって持ちこたえることが出来るかも知れない。しかし、迫害の苦難だけでなく、多くの人の信じることに反対する自分が間違っているのではなかろうかとの疑いが内に起こって、確信を失ってしまう場合があり得る。主イエスはそういう場合に備えて、我々のために配慮しておられるのである。
 「あなた方の中には信じない者がいる」と主イエスが言われた言葉を受けて、ヨハネは「信じない者」だけでなく「裏切る者」がいるという指摘をここから引き出した。信じないで去って行く者がいることと、主を裏切る者がいることとは、踏みとどまる者の受ける打撃について見れば似ている面があるが、非常に違う事柄である。
 非常に違う事柄であることについては、64節よりも70、71節で学ぶ方が適切であろう。
 64節では前からの続きで、信仰をもって御言葉を聞くことが主として論じられていると思われる。すなわち、「私があなた方に話した言葉は霊であり、また命である」。これに続いて、あなた方の中には霊なる言葉を霊による信仰をもって聞き取ることをしない人がいる、と言われるのである。
 「人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない」。人々は肉と霊の区別も良く分かっていないのであるが、実際、肉しか求めなかった。彼らは海の向こうで主イエスの手からパンを受けて非常に感激し、この人こそ我々の王たるに相応しいお方だと見たのであるが、このパンも、彼らの見解も、「肉」という一言で括られる。
 パンが与えられる事はそれだけでは肉的なことである。出エジプトの民は荒野でマナを食べたが、これは「人の生きるのはパンでなく神の口から発する全ての言葉による」という霊的な真実を示すためであった。しかし、人々は目を高く上げて、肉であるマナ以上の物をそこに読みとろうとはしなかった。だから神の与えたもうたパンであるマナを食べたのであるが、死んで行った。
 主は「先祖の求め、食べ、感謝したマナに目を固着させてはならない」と教えたもう。
 食べて一時的に満腹しただけで、食べることによって命を獲得することは出来ず、やがて死んでしまう肉の食べ物でなく、それによって生きる「命の言葉」を受けなければならない。そして、命の言葉を受けるとは、だれでも主イエスに近づいてその言葉を聞きさえすれば良いというものではなく、言葉を霊として受け入れなければならない。すなわち、信仰をもって聞き取らなければならない。
 その信仰は神から贈られる賜物である。信仰のある者とない者の違いはどこにあるか。
 善良な人や賢い人でなければ信仰に到達出来ないのか。いや、その人の素質や環境は信仰を持つことと無関係であるということを聖書は教えるし、我々は経験的にも知っている。信仰は神が恵みとして与えたもうものである。熱心に求める者がそれを獲得することがあるのだが、熱心に求めることがすでに神からの賜物である。
 「それだから、父が与えて下さった者でなければ、私に来ることが出来ない、と言ったのである」。
 「信ずる」とは「キリストに来る」ことと同じであると6章ですでに学んだ。そして、キリストに来ることは、父がその人をキリストのものとして与えておられたのでなければ起こり得ない。
 さて、主イエスがこのように教えられたため、多くの弟子が去って行った。彼らはもはやイエスと行動をともにすることはなかった。どうしてか。考え直して戻って来ることはなかったのか。実際、そういう実例を見ることが出来るではないか。例えば、ペテロが誓って「その人を知らず」と言ったのに、信仰の復興をしたではないか。
 確かに、信仰には浮き沈みがある。全く沈没したとしか見えなかったけれども再度浮上して来る場合がある。それは、主が彼を捉えておられる綱が人の目に見えなかっただけである。我々には見えないから、また必ず浮かび出ると楽観視してはならない。沈んだままで二度と浮かび出ない場合の方が多い。だが、今、信仰の復興があるのかないのか、と議論しても始まらない。父がキリストに与えた者しかキリストに来ないし、来たように見えても離れて行く、ということを確認する以上のことは出来ない。
 そこで、イエスは十二弟子に言われた、「あなた方も去ろうとするのか」。これは彼らの決意を確かめるためである。あなた方もあの人たちと同じではないのか、と考えさせられたのである。この問いかけに触発されて、ペテロは自分たちと去って行く人たちとの違いに気付かせられた。
 シモン・ペテロが答えた、「主よ、私たちは誰のところに行きましょう。永遠の命を持っているのはあなたです。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じまた知っています」。「私たち」と言っているが、「私は」とは言わない。つまり、ペテロは十二弟子を代表してこう言ったのである。ペテロのこの言葉は有名であるだけでなく、我々の心に沁み通る。ペテロの告白としてもう一つ、他の福音書の記すものがある。ピリポ・カイザリヤ地方に行った時、主からあなたは私を誰と言うか、と尋ねられてペテロが答えた告白、「あなたは神の子キリストです」と述べたものである。これに相当する告白である。
 「主よ、私たちは誰のところに行きましょうか」。つい今しがたまで一緒にいた多くの人が去って行ったあとの寂しい気持ちが籠められている。誰のところへも行きません、という決意も籠められているが、同時に、行くところがない、心細さも読み取れるのである。ただ、ペテロのこの時の気持ちを推し量っても意味がないから、益を受けるもっとシッカリした読み方をしたい。そのためには、ペテロの言葉の内容をさらに掘り下げることと、これに答えたもうた主イエスの言葉を捉えることが必要である。
 「永遠の命の言葉を持っているのはあなたです」。この言葉は、特にこの6章で主イエスの教えたもうた言葉に応答したものであることを確認しよう。去って行った人々は永遠の生命について幾らか関心があったかも知れぬが、結局、永遠の命ではなく、今日明日の命、食べれば満腹するがまたひもじくなるパン、そのパンに支えられる朽ちる命しか求めていなかった。
 主イエスは27節で「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くが良い」と言われたが、人々はその言葉を心に留めなかった。つまり、彼らが主イエスに期待したのは、肉的なパンに過ぎなかった。彼らは永遠の命を求めず、日々のパンを求めるだけである。
 日々のパンだけに関心のある人にとっては、ナザレのイエスは余り興味がない。何故なら、主イエスは確かにパンの奇跡を行なって大群衆を養いたもうたけれども、そういう徴しはごくたまにしか行ないたまわなかった。徴しを見て信じる人には絶大な意義を持つ出来事であるが、朽ちる食物にしか関心のない人にとっては、他へ行って食物を求めた方が良かったのである。
 ペテロは、永遠の命へと養う言葉が、他のどこにも、他の誰のところにもなくて、ナザレのイエスにあることを把握した。「永遠の生命」や「終わりの復活」は敬虔なユダヤ人の間では教えられて信じられていたが、それを切実に求める人は僅かであり、信ずる人も終わりの日に甦りが行われるという教理を信じるだけであった。この福音書で読んだ通り、ペテロはイエスの弟子になる前は、バプテスマのヨハネの弟子であった。ヨハネの所で永遠の生命についてどれほど教えを受けたかは分からないが、ヨハネの弟子になる前から永遠の生命を求めていたと見て良いであろう。そして、イエスと出会って、ここにこそ永遠の生命がある、との確信を固めつつあった。
 ペテロがどこまで捉えたかは分からないが、「信じ、また知っています」と言うのであるから、その信仰が「知ること」、「認識」と結びついた、ただ熱心に信ずるというだけのことに満足する信仰でなかったことは確かであろう。
 「神の聖者」であると信じる。これは神から遣わされた者、しかも単なる使いでなく、単に使命を授かって、それを担っているというだけでなく、神ご自身の「聖」を体現したお方として遣わされて来ていると信ずる、という意味である。
 主イエスがこれに答えたもうた言葉はさらに重要である。第一に、ペテロがどんなに真剣にまた真実に語ったとしても、その告白の言葉を受け取って下さる方がおられないなら、それは独り言に終わる。信仰の言葉は独り言ではない。
 第二に見なければならないのは、主のお答えの中味である。ペテロの言葉の中には、「私があなたを選びました」という含みがあった。信仰が決断であるからには、あるものを選んで、他のものを捨てるということがあって当然なのであるが、自分の決断だけを強調すると、もっと大事なことが見えなくなる恐れがある。「あなたがた十二人を選んだのは私ではなかったか」という御言葉は、見落としてならない重要な点を我々に思い起こさせる。
 彼が選びたもう、ということこそ重要であって、私が選んだということを中心にしては実りはないのである。繰り返し学んでいるように、父なる神は命の源泉であられるが、その命と命の配分の権能を子に委ねて、子を世に遣わしたもうた。その御子を受け入れる者は、御子から命を受けるのである。それが救いである。
 その御子が「選ぶ権能」を持っておられるという点がここで学ぶべき眼目である。父なる神が選ぶ権能を持ち、その決定に従って御子が救いを遂行したもうという理解は間違いではないが、父なる神と子なる神との格差を意識し過ぎては信仰の確かさが曇ってしまう。5章26節に「父はご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた自分のうちに生命を持つことをお許しになった」と言われるように、命の源、命と救いに関する権限は全部御子に移行した。だから、父が選びたもうように御子も選びたもう。
 ここで「選ぶ」と言われたのは、弟子として、特に十二弟子として、務めに選ぶことと、救いに選ぶこととを重ね合わせたものである。
 「その選ばれた内の一人が悪魔である」という御言葉について聞く人は、その時は全く何のことか分からなかった。質問も出来ないほど分からなかったのである。ユダ自身も自分のことが言われているとは知らなかった。
 十二人の弟子を選ぶ時、ユダを選んでしまったのは、キリストの選択の不完全の証拠であろうか。悪魔であり、あるいは将来悪魔の器になる者を、見損なって、十二という聖なる数の中に誤って受け入れたのか。そうではない。ユダ本人も知らないことを主イエスは見ておられた。先ほども引いたが、「私のパンを食べている者が私に対して踵を上げた」という聖書は成就されねばならない。そのことのために、イスカリオテのシモンの子のユダが、キリストの食卓において、キリストのパンに与る人のうちに加えられねばならなかった。
 それでは、そののちも、主の食卓に連なる者のうちから裏切り者が出るのか。確かに、今、主の食卓に連なる者は、全ての試練を経て確実さを証明されたのでないから、今後脱落することはあるかも知れない。しかし、この中からユダが出ることは決してない。
 ユダは、後にも先にも、只一度しか現われない。彼の出現の機会はもう済んだのである。キリストはすでに渡されたまい、苦しみを受けて任務を全うしたまい、その栄光を回復したもうた。もはや繰り返される必要のない贖いが成就したのである。ユダの出番はもうない。
 主はサタンをさえ用いて救いの御業を成し遂げたもうたのであるから、我々は彼の御業の確かさを思わなければならない。「私はその一人も失わずに終わりの日に甦らせる」という約束に固く立つようにしよう。


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