◆説教2001.01.14.◆

ヨハネ伝講解説教 第66回

――ヨハネ6:60-66によって――
 60節には弟子たちのうちの多くが主イエスに躓いたことが書かれている。「弟子」とわざわざ書いている点に注意して置こう。これまで、主イエスに対立するのは「ユダヤ人」と呼ばれる人々であった。これはパリサイ派をその中心とする主イエスに対する敵対的なグループのことと見て良いのであろう。この対立関係は2章に書かれていたエルサレムの宮潔めで始まり、5章にあった安息日の癒しでさらに険しくなったが、対立はユダヤにおいて起こるだけで、ガリラヤにおいては人々は友好的であった。ところが、6章にいたってガリラヤでも対立が起こるのである。
 59節には「これらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられた時に言われたものである」と記されていたが、これはカペナウムの会堂でこれを語りたもうたという説明であるとともに、その時以来、会堂で教えることは出来なくなった、という事情を反映している。
 さて、ここでは「ユダヤ人」でなくて「弟子」たちが離反する。これまで批判者とは勿論、単なる群衆とも区別された弟子たち、キリストを受け入れ、その教えを学び、キリストについて来た人たちが離反して行ったのである。これは主イエスの生涯における悲劇的な一挿話というものではなく、彼にとっては極めて重要な事項である。詩篇41篇6節に「私の信頼していた親しい友さえも私に背いてくびすをあげた」とあるが、主イエスはこの言葉を引いて、ヨハネ伝13章18節で「私のパンを食べていた者が私に向かってその踵を挙げたとある聖書は成就されなければならない」と言っておられる。人から受け入れられないだけでなく、受け入れていた者にも背かれるのは、キリストがキリストであることと深く結びついている。
 弟子が去って行くことが最も厳しい形で示されるのは、弟子の中核をなす十二人の一人イスカリオテのユダの裏切りであった。ただの「弟子」たちは大部分去ったが、67節にあるように「十二弟子」は去らなかった。「弟子」と「十二弟子」は違うのである。それは結果的に違いが明らかになって来たということとは別である。もともと別の部類の人であった。その違いは70節に示されている。「あなたがた12人を選んだのは私ではなかったか」。すなわち、イエス・キリストから学び、彼について行くのが弟子であるが、他の弟子たちは自らの選択としてイエスについて来た。だが、12人は主イエスによって立てられた。このことは15章16節で繰り返される。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだのである」。
 それならば、その12人の中から裏切り者が出たということはどういうことなのか。主イエスの選択が間違ったということか。そうではない。64節に「イエスは初めから、誰が信じないか、誰が裏切るかを知っておられた」と書かれ、すぐ後の70節に「あなたがた12人を選んだのは私ではなかったか。それだのに、あなたがたのうちの一人は悪魔である」と言われたと書かれている。ユダのことはこの後も何度も取り上げなければならない事柄であるが、キリストが選びたもうたことは確かである。そしてキリストの選びは決して失敗ではない。しかも、選びによって決定していたからと言って、ユダの責任が免れるということにはならない。
 この「選び」ということが非常に重要であって、12人という限定された人々が選ばれた事情だけでなく、我々の一人一人が信仰者として生きているのも、選びによることについて考え、捉えておかねばならない点であり、この6章で2回に亙って言及されるユダのこととも関係がある。ユダのことは後ほど改めて問い直すことにして、今はユダヤ人と弟子の区別にだけ留意しておけば良いであろう。
 「私が選んだ」ということと非常に深い関連を持つのは65節の「父が与えて下さった者でなければ、私に来ることが出来ない」という言い方である。「父が私に与えて下さった者」という言葉は37節にも38節にもあった。内容的に「選び」と重なり合うもので、救いの確かさを目指す言い方である。
 「離反した」と言ったが、離反については66節に書かれている。「それ以来、多くの弟子たちは去って行って、もはやイエスと行動を共にしなかった」。そこまでは、41節にユダヤ人が「呟き始めた」と書かれていて、61節に弟子たちまでが「呟いた」こと、また「躓いた」ことが記されている。呟きと躓きとは同じであるとは言わないが、一つのことの両面である。
 弟子たちがどういうことで呟いたか、また躓いたかを次に見なければならない。60節に、「これはひどい言葉だ。誰がそんなことを聞いておられようか」と言ったと記される。主イエスの語られた言葉に躓いたのである。
 「ひどい言葉」というのは分かり難いということでもあるが、聞くに耐えない、聞く方としてはワザワザ躓きを仕掛けられたと感じるほどのマガマガしいものであった。
 ここまで、事情を理解するのは平易であった。その次の段階を理解するのは必ずしも平易ではない。「それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるか」。
 これは何を言おうとされたものであろうか。もちろん、難しいところを読みとったなら深い意味がある。
 「前にいた所に上る」という言い方は、「前にいた所から下って来た」ということを前提にし、それと対をなしている。この対比を一括して捉えるのが、このところを理解する鍵である。
 「前にいた所に上るのを見たら、どうなるか」と言われたのは、「下って来たことについてさえこれだけ躓いているなら、まして上って行くのを見たら、どんなに躓くであろうか」という含みで言われたものであることが分かる。
 ここで思い起こされる主イエスの言葉がある。3章13節で聞いたのだが、「私が地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」と言われた。その言い方と似ている。というよりも、同じことを言っておられると解釈されるのである。
 言葉としてはかなり違うが、言葉の構造として似ているのは1章51節、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使いたちが、人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」である。
 「上り下り」という対になったテーマが重要である。天が開けたから、単に交流が可能になっているというのでなく、天と地の、また神と人との交流が現実となっていることが示されるのである。1章51節では、御使いが人の子の上に上り下りするのであるが、6章では人の子が下って来て、また上って行く。「人の子」を外して神が下りまた上るのではないし、人が上って行くのでもない。人の子が下って上る。そこに救いが現われる。これがヨハネ伝の中心テーマである。
 エペソ書4章9節に「さて『上った』と言う以上、また地下の低い底にも降りて来られたわけではないか。降りて来られた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られた方なのである」と言われる。ここにも「上る」、「下る」の対句がある。言い方が似ていると言えば似ているし、ここでもキリストのものが我々に与えられることが語られるのである。だが、エペソ書の「下る」は「陰府に下る」こと、最も暗い、最も呪われた、最も絶望的な領域に下ることであって、ヨハネ伝では地上に下るである。矛盾するわけではないが、言わんとすることが別であるから、ここでは混同しないようにする。
 さて、地上に「下る」ことであるが、38節に、「私が天から下って来たのは、自分の心のままを行なうためではなく、私を遣わされた方の御心を行なうためである」と言われた。それに直ぐ続けて、「私を遣わされた方の御心は、私に与えて下さった者を、私が一人も失わずに、終わりの日に甦らせることである」と言われた。
 人の子が「下る」というのは、「遣わされる」という言い方と同じ内容であることが分かる。その下るのは、御使いが天から降りて来るような単純な下り方ではない。天使は天にいた時のままで降りてくるし、そのまま天に上って行く。しかし、人の子イエス・キリストは御父のもとにあられたそのままで下りて来られるのではない。
 「キリストは下って来る時、変質する」というならば、これは間違った言い方である。
 すなわち、「イエス・キリストは昨日も今日もとこしえまでも変わりたもうことがない」と言われるように、下りて来られても、上って行かれても、変わるわけではない。ただ、変わると言えば変わる。姿が変わるのである。彼は栄光を捨てて下りたもうた。我々の間で繰り返し聞かれる機会の多いのは、ピリピ書2章の言葉であろう。「キリストは神の形であられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、却って、己れを空しうして僕の形を取り、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、己れを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。
 そのように低められた形で下りたもうたから、復活によって栄光の形を回復して天に上りたもうたのである。
 み姿の変化について、マタイ、マルコ、ルカともに山上の変貌と言われる記事の中でみ姿の変わったことを語っている。すなわち、高い山の上で、三人の弟子にだけ、それも極く短時間だけ栄光の姿を示された。そして同時に雲の中から「これは私の愛する子である。これに聞け」との声が聞こえた。そのあとで、主イエスは三人の弟子に山の上で見たことを、人の子が死人の中から甦るまでは誰にも話してはならないと固く口止めされた。すなわち、復活と昇天を限定のもとで味わわせ、それは口外すべきことでなく、心に留め置くべきであるとされたのである。
 ヨハネ伝には山上の変貌の記事はなく、ヨハネ伝における言い方は、姿・形が変わることでなく、もう一段踏み込んだ言い方になっている。すなわち、1章14節にあった「言葉は肉となった」という表現である。それはヨハネ伝の最重要テーマであると言って良いが、今日学んでいるのもそのテーマに沿ってである。弟子たちの躓いたのは主イエスの言われた言葉についてであったかのようであったが、実は、要するに受肉の奥義についてであった。
 ユダヤ人が「この人はどうして自分の肉を私たちに与えて食べさせることが出来ようか」と論じ合ったことを52節で読んだが、弟子たちも同じ躓きを感じていたであろう。自分の肉を与えて食べさせるとは、何という野蛮な言い方であろうかと彼らは感じたかも知れないが、そこはもっと良く整理して言えば、神の受肉、神が人となってご自身を与えること、それに躓いたのである。
 下って来たことが躓きなら、まして上って行くのを見たなら、なお大きい躓きとなる、と主イエスは言われたのであるから、下って来ることについての躓きと、上って行くことについての躓きと、二重の躓きがあることが示されている。
 躓きとはキリストを受け入れられないことと言い換えて良いであろうが、下って来られた神の子を受け入れられない躓きと、上って行かれた人の子を受け入れられない躓きとがある。下って来られたキリストを迎え入れることでも躓きを感じている人が多いのであるが、主イエスのなしたもう大いなる業と、主イエスの真実、その豊かな人間性の故に、下って来られたことを受け入れている人はまだいる。しかし、上って行かれた彼を信じて受け入れる人はズッと少ないようである。多くの人たちはキリストの栄光をお伽話としてしか聞かない。そのお伽話に好意的な人と侮蔑的な人との違いはあるが、好意的な人でも信じて受け入れているわけではない場合が多い。
 次に63節で主の語られた言葉は、ユダヤ人にも、弟子にとっても、ますます難しいものであった。「人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。我々にとっても決して平易ではない。
 「肉は何の役にも立たない」と言われたその「肉」は、「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに命はない」と53節で言われ、「私の肉はまことの食物」と55節で言われたその「肉」を指すものではない。「霊」と反対の意味しか持たない「肉」である。具体的に言えば、昨日、海の向こうで人々に分け与えたもうたパンや、先祖が荒野で食べたが死んでしまったマナを指すほか、およそ人間的な把握の仕方一般を指す。信仰をもって捉えないことである。
 人々はまたも昨日のようなパンが与えられることを欲しているが、それは命を与えるパンではない。食べた時には満腹するが、また空腹になる。命が与えられるのではなく、感覚的な満足があるだけである。では、命を与えるパンは何か。「人を生かすものは霊である」と言われる。それでは、27節で「永遠の命に至る朽ちない食物」と言われた物、33節で「神のパンは天から下って来て、この世に命を与える」と言われ、35節と48節で「私が命のパンである」と言われ、51節で「私が与えるパンは世の命のために与える私の肉」であると言われたものは「霊」であるのか。そうなのだ。そのように受け取らねばならない。
 「私の肉は霊である」と主が言われた言葉はないのであるが、ここではそういう意味に解釈するならば、事柄が明らかに見えて来る。混乱を起こさないために「霊」の説明をしなければならないが、ここで「霊」とは霊的な受け入れ方、もっと単純に言えば、信仰をもってキリストを受け入れることが教えられている。64節に「あなたがたの中には信じない者がいる」と言われ、話しの筋が良く繋がらないという感じを持つ人がいるであろうが、これは「私があなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」と言われたのと続いているのである。すなわち、霊なる言葉を与えられるなら信仰が生じるのであるが、その信仰がない。そして、信仰のないところに命もない、と言われるのである。
 先ほど、「肉」という言い方は、凡そ人間的な把握の仕方、営み一般が意味されていると述べたが、「霊」はその逆である。だから、霊による我々の営み、特に霊に導かれてキリストを受け入れることを指すと考えるべきであろう。
 コリント人への第二の手紙3章17節に「主は霊である」と教えられているのを思い起こそう。平易な言葉ではないが、力強い宣言として胸に刻まれている。ここで言う「主」は、勿論、主イエス・キリストのことである。霊は聖霊である。たしかに、主と主の霊とは区別しなければならない。混同してはならないのであるが、主が主としての現実の力を発揮したもうのは、御霊においてである。霊と切り離して主を論じても空虚な観念であるから、「主は霊である」という言い方が必要になって来る。主イコール聖霊と定義づけているのではないが、この言い方が必要になる。したがって、「主」抜きで霊を実感しようとしても無意味である。
 今、「人を生かすものは霊である」と聞く時、キリスト抜きで、キリストの肉ぬきで、霊によって生かされることを考えるようなことがあってはならない。しかしまた、霊抜きでキリストの肉について論じても、空しい議論である。霊においてキリストの肉を捉えること、それは霊的なことであり、それによって我々は命を得るのである。


目次へ