◆説教2001.01.07.◆

ヨハネ伝講解説教 第65回

――ヨハネ6:52-59によって――
 前回ひとわたり学んだところを、もう一度さらに掘り下げて聞き取ることにする。先ず、「どうしてこの人は自分の肉を与えて食べさせることが出来るか、ということで、ユダヤ人らが互いに論じあった」と書かれているが、この問題を巡って、二つ、もしくはそれ以上の相対立する立場があったと思われる。「どうして出来るか」と言い合ったというのであるから、出来る・出来ないの議論があったのかも知れないし、どういうやり方があるかを論じ合ったのかも知れない。議論の内容については我々にはついに分からないが、熟考すれば少しは見えて来る。
 彼らはその前日、海の向こうの丘陵の草原で、5000人の群衆と共に主イエスからパンを頂いて食べ、約束の王国が来たのではないか、とひどく感動したのである。彼らは彼を立てて王にしようとした。しかし、彼がそれを拒否されたので、カペナウムまで追って来たのである。したがって、かなりの程度の尊敬と期待を主イエスに対して持っていた。彼らが「呟いた」とあるのは、従順でなかったことを示すのであるが、全面的な対立ではなかった。
 だから、彼らの間で論争があったと書かれているが、少なくともその一方は、主イエスに対して何とか尊敬を保とうとして議論したのではないかと考えられる。つまり、昨日パンを与えて食べさせてもらったことについては全く敬服しているのである。だから、「私が私の肉を与えて食べさせる」と言われたのは、パンを与えて食べさせ、飢餓と貧困から解放し、幸福を齎す、という意味の暗喩なのだと受け取ろうとした。
 さて、パンの奇跡のところで少しだけ触れたが、この奇跡に用いられたパンと魚は、主とその弟子の一行のその夕べの食事として携えて来た物であったと読み取る余地がある。ヨハネ伝では一人の子供がこれを提供したと書いてあるから、主が弟子たちに提供させたもうたと読むのは無理であるが、同じく五つのパンと二匹の魚を分かち与えられたと伝えるマタイ伝14章やマルコ伝10章の記事には、少年による提供のことは出ていない。マタイ伝では、弟子たちが「私たちはここにパン五つと魚二匹しか持っていません」と言っている。明らかにご自身の一行の食事を差し出させたもうたと取れるのだ。それが事実であったと敢えて主張する人がいても可笑しくない。
 「私の肉を与えて食べさせる」とはこういう意味なのだ、と解釈した人がユダヤ人の中にいたかも知れないのである。それなら全く良く分かる。人の物まで取って食べようとする世相の中で、自分の食事を人に差し出すという美しい行為がなされる。これは感動的な美談ではないか。その感動だけで満腹した人もいるだろうし、内々自分の食べる分を隠し持っていた人も恥ずかしくなって自分の弁当を人にも勧めるということになったかも知れない。それは奇跡と同格の驚くべき事件だと言う人もあろう。
 我々の間にも、パンの奇跡の真相はこういうことであったと主張する人が出て来るかも知れない。そういう解釈なら、奇跡を信じたくない人にも受け入れられる。奇跡も信ぜず、キリストが神の子であることも、主であることも、救い主であることも信ぜず、十字架も、復活も信じない、けれども、ナザレのイエスの人柄に何か心を惹かれるという人はいつの時代にもいる。
 そういう解釈を好む人にとっては、今問題になっている主の御言葉は真っ向からの躓きであった。そこで、この躓きを回避させようとして、善意というか悪意というか、巧みな説明を試みる人が、昔もいたし今もいるのである。そういう状況の前に我々は今立つのである。そこで見えて来ることを今日は学びたい。
 パウロはガラテヤ書5章11節に「十字架の躓き」がなくなってしまうことはキリスト教にとって致命的な禍いであることを警告している。「キリストの肉を食べる」とは、まさにこの躓きであった。主イエスはこの躓きを飽くまで躓きのままでおこうとしたもう。
 主イエスがご自身を犠牲として捧げたもうたことを「美しい話し」として語ろうとする人と争う必要はないかも知れない。しかし、その美しさが十字架の躓きを見えなくさせるものであるなら、我々は断乎としてそれと戦わねばならない。
 「私の肉を与えて食べさせる」ということを暗喩として受け取ろうとする試みを主は拒否したもう。彼らに対する彼のお答えは、その主張なのである。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者には、永遠の命があり、私はその人を終わりの日に甦えらせるであろう」。
 この言葉を躓きのないように、謂わば無毒化して、洗練された言葉にして、読んでおこうとする誘惑に警戒しなければならないことはすでに指摘された。「キリストの肉を食べる」とは、あからさまな躓きなのだ。だからこそ、ここで大半の人が去って行ったのだ。この躓きから目をそらさせないで引き留めるのが主の御言葉である。
 躓きであるのは、先ずこの言い方そのものが躓かせるからである。「これはヒドイ言葉だ。誰がそんなことを聞いておられようか」とパリサイ人でなく、弟子たちが言ったのである。それと共に、語られている事柄、キリストの十字架が躓きである。
 人を躓かせることがないように、と我々はしばしば注意を受けている。我々の無神経な言葉によって人が躓くと言われるから、気をつけなければならない。しかし、福音そのものが十字架の躓きを含んでいるのだから、福音の真理をハッキリ聞かせようとすると、躓く人が出ることはあるのだ。それで、人を躓かせることがないようにと気を遣って、福音をキチンと語ることを憚る人が実際に出て来る。躓きになる要素を取り除いて置けば、受け入れられやすくなる。だが、信仰は立ち上がらない。これは躓きを与えるよりもっと悪い。福音を十全に語らないという罪のほかに、自分は良いことをしているという思い上がりがあるからである。福音は「大胆に」宣べ伝えるべきである。聞く人に躓きを乗り越えさせる力を主が与えたもうという確信がその大胆さを生む。その確信なしで、オズオズ語っていたのでは、福音は伝達されず、信ずる者は生まれないのである。
 そのように、躓きを恐れることは要らないが、躓きを与えるのが本物の福音宣教なのだと開き直るのも粗暴である。躓きはあるが、福音がない場合があるではないか。主のお言葉は誠実に受け取られなければならない。
 そこで、この御言葉に向かうのであるが、主がここに言われたことを文字通りに取ると、迷路にはまってしまうのは事実である。キリストの肉体は地上を離れて天に去って行ったから、ここ地上にはない。とすれば、彼の肉を食べることの出来ない我々は滅びるほかないということになるのか。そこで、主のご意図が良く分かるように、ここを読まなければならない。
 さて、54節では「キリストの肉を食べ、キリストの血を飲む者には、永遠の命があり、その人は終わりの日に甦えらせられる」と言われるが、44節では、「私に来る者を、私は終わりの日に甦えらせる」と言っておられる。また40節では、「子を見て信ずる者を、私は終わりのの日に甦えらせる」と言われる。これらの言葉を並べて見ると、キリストを「食べる」ことと、キリストに「来る」ことと、キリストを「信じる」こととは、殆ど同じ重さを持つ謂わば同義語だということが分かる。
 ということは、「信じさえすれば食べなくても良い」というふうに言い換えるべきだという意味か。そうではない。食べることに意義がある。だが、「食べても信じなければ空しい」ということは言うまでもない。「信じる」とは、何でも聞いたことをウノミにすることではなく、神が我々に御子を与えたもうた恵みと真実とを信じることである、と教えられた。「食べる」とは「信じて食べる」ことであって、信じないでただ食べるだけ、機械的に食べる、肉的に食べる、あるいは迷信的に、魔術的に食べることではない。そのような食べ方では益にならない。「主の体を弁えないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自ら裁きを招く」と戒められている通りである。
 それでも、「食べる」という躓きを伴う言葉を主は敢えて用いたもうという点に注意を向けねばならない。
 すでに学んで来たように、主がこの時教えたもうた教えは、ユダヤ人との決定的断絶を引き起こしたのみでなく、キリストに付き従う者のこの後の時代に守るべき「聖晩餐」の規定に向けられている。ここでは、「私を記念するためにこのように行ないなさい」との制定の命令は与えられていない。しかし、その命令への備えがあることは容易に理解出来るであろう。
 「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」。
 これを踏まえて、「私の記念としてこのように行なえ」との制定が行なわれたと受け取るべきである。だから、今日、聖晩餐への備えとして、それも、たまたま聖晩餐と関係ある御言葉に行き合ったからというのでなく、聖晩餐への道として備えられた教えであるから、これを学ぶのである。
 今日、我々はここで聖晩餐に与るのであるが、この聖晩餐の意義を、これが「主の死を示す」と言われ、「私を記念するため」と言われて制定された、主イエスの最後の晩餐と結び付けて捉えなければならないのは勿論である。しかし、思い起こさなければならないのはそれだけでなく、主がカペナウムで教えたもうたことも、その前日、海の向こうの丘の上でなさったことも、さらに、モーセに率いられた出エジプトの民が荒野でマナによって養われたことにまで遡って、それら全体を貫いて、聖晩餐の意義を把握しなければならない。
 いや、以前に遡るだけでは十分でない。「来たるべき日」に我々の目を向け、今後起こるべきことに我々の思いを拡張しなければならない。すなわち、主イエスは最後の晩餐で、「私の父の国で新しく葡萄酒を飲むその日」と言っておられるが、この最後の晩餐は、記念、思い出となるだけでなく、将来を目指し、来たるべき日の先取りをしている。だから、キリストの民は、聖晩餐の中で、主の再び来られる日に思いを向け、「我らの主よ、来たりませ」と信仰の確認をして来たのである。
 今、大まかに見たように、初めからとは言わないが、神の民が荒野へと呼び出されて以来、世の終わりの救いの完成に至るまでの救いの歴史は、神から与えられた食物を食する食事の歴史と重なっており、それが聖晩餐の礼典の中に集約されて見られるのである。ここで救いが最高潮に達するというのではないが、謂わば、救いの歴史の軸がここで見えるのだ。
 救いの歴史が御言葉に導かれるということを我々は常々学んでいる。主がご自身の肉を与えて食べさせたもうたことを記念する所において、救いの歴史の軸が見られるという説明は、納得出来たような気を起こさせるものであるとしても、分かったような分からぬような曖昧さを残している。あのマナが与えられた事件の時にも、「人の生きるのはパンのみによるのでなく、神の口から出る言葉による」ということを分からせるためにこれが行なわれた、と注釈が与えられたのである。すなわち、御言葉なしで食べる儀式をするだけでは、何の意味もない。
 しかし、食べることを軽んじてはならないということを今日は学ぶのである。「食べる」ことが謂わば鍵になっている。食べることと信ずることとが結び付くという事情はすでに見た通りであるが、その結び付きについてさらに理解を深めたい。
 一つのヒントを与えるものとして、ヨハネ伝の最後の晩餐の記事で、13章であるが、主が弟子たちの足を洗いたもうた出来事を思い起こしたい。ペテロは恐縮して、「足を洗って頂く値打ちもありません。そう言って頂いただけで結構です」と断わる。ペテロは足を洗って貰わなくても、主イエスのご意図は分かっているつもりであった。しかし、分かったつもりというのは危険だ。主は彼をたしなめて、13章8節で、「もし今、私があなたの足を洗わなければ、私とあなたとの関係はなくなる」と言われた。
 主がご自身の肉を私に差し出して、「取って食べよ」と言われる。その時、私が「主よ、食べなくても結構です。あなたの恵みと、あなたによって果たされた贖いは、私にはもう分かっております」と答えても、主は「それでは、あなたは私と何の関わりもない者になってしまう」と言われるであろう。分かったと感じられれば良い、というのではない。わかったと感じるところにはまだ確かさはない。救いが分かったと感じる時に、幸福感があることは事実であるが、それだけではやがて立ち消えになる。
 主がこの6章で繰り返し説いておられるのは、「私がその人を終わりの日に甦えらせる」という約束である。ここには最終的な確かさが示されているのである。生きている間は信仰によって充実していたが、死んでしまえば無に帰するではないか。それは止むを得ない、というのではいけない。「生きている間、充実しておれば、それで十分ではないか」と考えている人がいるかも知れないが、その満足は間違っている。実際、若い時は甲斐甲斐しく働いて力に満ちていた人も、やがて衰え果て何も出来なくなる。その時にも、なお充実を維持しつつ死ぬことが出来るか。
 主は我々に束の間の満足感を味わわせるために世に来たりたもうたのではない。束の間の満足感ならば、海の向こうの丘の上で5000人の群衆にパンを与えて十分に食べさせたそのことで完成した。しかし、主はあの事件を完成とは全然見ておられない。「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが私を尋ねて来ているのは、識しを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くが良い。これは人の子があなたがたに与えるものである。
 父なる神は、人の子にそれを委ねられたのである」。主は我々に永遠を与えるために来られた。一切の空しさに打ち勝つものを受け取らなければならない。
 「この世の生活でキリストにあって単なる望みを抱いているだけだとすれば、私たちは全ての人の中で最も憐れむべき存在となる」とパウロはIコリント15章19節で言う。明日消えてしまうはかない望みでも、今日それを持って、生き甲斐を感じているなら、それだけマシではないか、と言う人が多いのであるが、パウロは「最も憐れむべき存在」だと言う。空しさの中に生まれて、生きて、死ぬのが憐れむべきことであるのは一般の人と同列であるが、クリスチャンと称する人がそれに加えて、生きている間、空しい望みを抱いて、それで自分自身を誤魔化していたなら、自分の惨めさを認めないだけに、二重に惨めなのである。
 我々は他の人よりもマシな生き方をしているつもりであるかも知れない。そういう自己満足もしくはプライドが我々の所謂「キリスト教的生活」を支えているのかも知れない。しかし、束の間の精神的満足は、自分が満足感を持つだけで、実際は最も憐れむべき存在かも知れないではないか。
 「終わりの日に私が甦えらせる」。死の時が来て、一切が死に呑み込まれて、その人について記憶する人もいなくなり、それで終わりであるかのように見えても、「私が甦えらせる」という言葉は残っているのである。
 「終わりの日に私が甦えらせる」という確かな約束を捉えなければ空しいのであり、惨めである、ということをここで十分教えられたい。そして、終わりの日の甦りの単なる識しでなく、むしろ保証として与えられるのが人の子の肉を食べることである。
 すでに「人の子」という呼び名について我々は繰り返し見ているのであるが、今、人の子がその肉を与えて食べさせる、と言われるところで、「人の子」という言葉の意味が我々に迫って来る。ここでこそ、人の子であられることが最も意味深く捉えられるのである。
 さらに、ヨハネ伝の初めに「言葉は肉となった」と聞いたことの再確認がここでなされるのである。人の子の肉を食べる。その肉は永遠の言葉が結び付いたその肉である。だから、人の子の肉を食べることによって永遠を受け取るのである。
 


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