◆説教2000.12.17.◆

ヨハネ伝講解説教 第64回

――ヨハネ6:52-59によって――
 「そこでユダヤ人らが互いに論じて言った、『この人はどうして、自分の肉を私たちに与えて食べさせることが出来ようか』」。
 「互いに論じる」という言葉は、言葉として特に大きい意味を持つものではない。先に、41節42節で、ユダヤ人が「つぶやいた」というところで、この言い方の聖書における用い方について考えることを促された。「つぶやく」という言葉自体は簡単な、読み過ごされるような表現であるが、聖書全体から考えて見れば、荒野のイスラエルの不従順と結び付く。
 「互いに論じる」はそれよりはズッと穏やかな言葉である。出エジプト記や民数記を見ると、荒野でイスラエルがモーセと言い争うくだりが何度も出て来る。その「言い争う」は、ヨハネ伝の今日のところで「論じる」と訳されているものに当たると考えられるが、荒野でイスラエルはモーセと言い争った。言い争いと呟きは関係の深いものらしいことが分かる。カぺナウムでユダヤ人は主イエスと言い争ったとは書かれておらず、彼らは自分たちの間で論じあった。だから、これだけでは敵対的とは必ずしも言えないのではないかと思われる。
 しかし、59節に「これらのことは、イエスがカぺナウムの会堂で教えておられた時に言われたのである」と書かれているところから考えて見なければならない。会堂で教えておられたのである。安息日であったのであろうか。それ以外の日に会堂で教えることがあったのかどうか、我々には分からない。安息日の礼拝で説教しておられた時、人々が礼拝の中で議論を始めたということのようである。
 とにかく、キリストは会堂で説教しておられる。その説教の途中で、彼らは説教を聞かないで、説教者をそっちのけにして、互いに論じあった。それがどういうことかを考えるのは難しいものではない。彼らは不遜であったと言って良いと思うが、主イエスの言われることが分からなくて困惑していたことも確かであろう。
 この時のユダヤ人たちの困惑ぶりに理解を示す必要はないが、我々自身にも同じ困惑の穴に陥る危険はあるのであるから、この事情をしばらく考えておこう。「自分の肉を食べさせる」とは、ユダヤ人たちにとっては思いも及ばぬ、野蛮とも何とも表現できない忌まわしいことであった。
 食べて良いものは律法によって決まっていた。食べていけない物も律法で決まっていた。律法のこの食物規定は、主イエスによって廃止され、信仰をもって食べれば全ての食物は清いとされた、と一般に考えられており、その理解はそれで良いと思うが、食物についての一切の制約が廃止されたと見ることは軽率である。我々は自分の欲望や好みの赴くままに食べるのでない。神が許したもう物を食べるのである。すなわち、野菜や果物は食べて良い。動物の肉も食べて良いが、肉を血のままで食べてはならない。つまり、生きたまま、命のあるまま、食べることは許されない。全ての動物や家畜は人間の支配のもとに委ねられたのであるが、命は神に直属しているからである。
 だから、まして人間の肉を食べることは起こり得ないし、考えることも出来なかった。
 想像するだけで身の毛がよだつのである。人間の肉と血は、当然、神に属するものである。それを食べることは殺人であり、人間冒涜であるに劣らず、神聖冒涜なのである。
 それは人類の共通感覚にとって最も忌まわしい行ないであった。極度に飢えた時に人肉を食べる事件が時に起こり、それが知られると世界中の人が衝撃を受けるということを我々も知っている。
 未開人の中には、人肉を食べる風習を持つ部族があり、それは「食人種」と呼ばれて恐れられ、最低の野蛮人として軽蔑される。ただし、彼らは日常茶飯事として人を殺して食べる獰猛な習性を持つのではなく、宗教儀式として人肉を食べる。彼らは食べる人肉を聖なる肉として食べ、新しい力を受けると理解している。この肉を食べることによって聖なる境地に到達出来ると彼らは思い込んでいる。だから、これを極度に野蛮な風習と考えない方が良いかも知れない。弁護しようとは思わないが、或る意味で人間の肉体を神聖視していると言えるかも知れない。文明社会の中で人々の生き血をすすって、すなわち他の人を搾取して、豊かで優雅な生活を営む者があるが、それよりは幾分誠実であるかも知れない。
 聖書の学びから随分外れてしまったようだが、ユダヤ人がここで語っている言葉の背後には、彼らの一般的人間感覚があって、「人間の肉を食べる」という言い方そのものを拒絶するのである。また、キリスト教会の初期、教会では人肉を食する秘密の儀式を行なっていると噂を立てられ、侮蔑されたという事実があるが、これも一般的人間感覚を背後に持つ。主イエスがカぺナウムで受けたもうた誤解を、キリスト者は世界の至る所で受けるのである。
 そのような誤解にまともに答えて弁明する必要はないかも知れない。ただ、我々自身が誤解の中に嵌まりこまない注意は必要であろう。今「誤解」と言ったのは、ユダヤ人がここで言っているような見解のことではない。むしろ、人肉を食べることを聖なる儀式として行なっていると開き直って主張する、その主張のもとになっている誤解である。
 すなわち、「イエス・キリストの肉を食らう」と言われることについて、我々が理解なしで、ただ有難く思っているだけでは、野蛮人が人肉を食べて、それで祝福にあずかったと感じる迷信と同じである。「主の体を弁えないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自らに裁きを招く」と警告されている言葉を忘れないでおきたい。
 ところで、「自分の肉を私たちに与えて食べさせる」というところにある「食べる」という言葉は、この時代においては「人肉を食べる」という言い方の中で用いられた、という説がある。その説が正しいとすれば、ユダヤ人は人肉を食べるという最も忌まわしい行ないについて主イエスを非難したと取ることが出来る。しかし、その説が正しいかどうか、確かめる術もないので、これ以上深入りしないで置く。
 また、この「食べる」という言葉は、ムシャムシャと、あるいはグチャグチャと食べるというニュアンスがあると言われる。そうかも知れない。そう受け取った方が良いだろう。すなわち、これは生々しい、上品でない言葉なのである。
 ここで「食べる」という表現が比喩的に使われていることに我々は気付いている。しかし、比喩だとか象徴だとかいう理解は、なるべくしないように差し控えて来た。そう言ったなら、分かりやすいかも知れないが、分かったとしても何ということはない。我々の内的生命はそれで充実するわけではない。キリストを食することが極めてリアルに語られているのに、そのリアルさが抜けてしまって、それで「分かった」と言っていても、殆ど意味がないのである。
 「食べる」と言われるのは象徴だとしても、象徴としてはいろいろな物を用いることが出来る。肉と血という生々しい物でない物を用いて、その結果、生々しさがなくなって行き勝ちである。現に我々の聖晩餐は生々しさを抜き去ったサラッとした儀式になっている。さらに、その結果として、キリストが肉体を取りたもうた現実性も、キリストの死の現実性も、殆ど覚えられなくなる危険がある。我々の贖いを確認することが薄れ去らないために、「食べる」ということの重い意味をシッカリ捉えて置こう。
 さて、ユダヤ人は言う、「この人はどうして自分の肉を私たちに与えて食べさせることが出来ようか」。……もし、主イエスがどのようにしてご自分の肉を与えて食べさせるかを説明なさったなら、彼らはもう少しは抵抗なく理解出来たかも知れない。しかし、多少分かったとしても、彼らは結局信じようとしないのであるから、依然として平行線を辿るほかなかったであろう。だから、主イエスは彼らの疑問に答えるような言い方はされず、ご自身の言わんとすることを主張したもう。それを聞こう。
 「イエスは彼らに言われた、『よくよく言って置く。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者には、永遠の命があり、私はその人を終わりの日に甦らせるであろう』」。この言葉が非常に力をこめて語られていることは誰にも分かるであろう。
 「どうして食べさせることが出来るか」。「そんなことはできないではないか」と論じている彼らに対して、ただ「私を食べよ」、「私の肉を食べなければ命はない」とだけ答えられる。
 この厳かな宣言は、「人の子の肉を食べよ」、「人の子の血を飲め」との命令である。
 「私の言っていることの意味が分かればそれで良い」と言われたのではない。意味も分からずに、キリストの肉を食べてはならないのは今聞いた警告の通りである。そんなことでは未開人の食人儀式と同じ迷信になってしまう。しかし、「意味が分かれば食べなくても良い」というふうに解釈するのは主の御心ではない。「食べる」ことは救いのために必要であると言われている。
 「私の肉を食べる」という言葉で主の言わんとされた事柄の内実が、「信仰をもってキリストを受け入れること」なのだ、というふうに我々はここまでの学びの間で読み取って来た。その読み方で間違ってはいない。だが、「信じれば良い」と言われたのとは違う。「食べる」ということ「飲む」ということが強調されている。「食べる」という言葉をそのままに受け取ってはならないのであるが、しかも、これを他の言葉に置き換えないで、あくまで「食べる」ことに固着しなければならない。この事情を理解するために、我々は主が制定された聖晩餐を正しく理解すれば良いであろう。主イエスは「取りて食らえ」と命じたもう。「主旨が分かれば、食べても食べなくても同じである。食べなくても宜しい」とは言われないのである。
 次に、主イエスはご自身の肉を「食べる」ことと、イスラエルの先祖が荒野でマナを食べたこととを対比させておられる。49節で言われたことを受けて、58節では、「天から下って来たパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者はいつまでも生きるであろう」と言われる。そこから、「食べる」ということの我々における意味が明らかになって来る。まことのパンを「食べる」ことは永遠の命の獲得なのである。
 神が荒野でイスラエルにマナを日々与えたもうたのは、「人の生きるのはパンのみによるのでなく、人は主の口から出る言葉によって生きる」という真理を悟らせるためであったと申命記8章に記されている。では、御言葉によってこそ生きるということが分かったなら、マナを食べなくても用が足りた、ということになるかというと、そうはならない。神の言葉によらなければ生きられないということが分かっても、40年に亙ってマナを食べたのである。
 では、昔、その日その日マナを食べた人が一日一日の命を得たように、キリストの肉を食べた人は不死の命を獲得したのか。然り。58節で、「天から下って来たパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者はいつまでも生きるであろう」と言われる。
 ところで、この御言葉を根拠にして、キリスト教会の中で、聖晩餐のパンは不死の霊的な糧であるという迷信的解釈が生まれ、今日も幅を利かせているが、その解釈は行き過ぎまた逸脱である。「このパンを食べる者はいつまでも生きるであろう」と言われたのは確かであるが、この言葉の意味をハッキリさせるために、主イエスは44節でも54節でも「私はその人を終わりの日に甦えらせるであろう」と言われる。キリストの肉を食べたからには死なない体になる、とは言っておられない。食べることによって、終わりの日の甦りの保証が獲得される、と言われたのである。謂わば、現金を貰ったのでなく、約束手形を受けたのである。この約束は確かであるから、我々は約束だけで満足出来るのである。それが見ずして信ずる信仰である。その信仰が究極の救いを受け入れさせ、救いを固くするのである。
 「終わりの日に甦えらせる」。それが永遠の生命の成就であって、「信ずる者には永遠の生命がある」と言われる場合の「永遠の生命」は、或る意味ではすでに始まっているが、未だ完全に成就しているわけではない。あるいは、永遠の生命は内にあるが、外にハッキリ現われているわけではない。だから、永遠の生命を約束され、或る程度それを味わっておりながら、我々は死ぬのである。そして、終わりの日が来て、死人は甦る。
 永遠の王国はそこに実現する。
 「食べる」という言葉がここでは特色あるものであることを教えられて来たが、重要さにおいてさらに大きいのは次に出て来る言葉である。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は私におり、私もまたその人におる」。ここにある「おる」という言葉が重要なのである。我々がキリストにおり、キリストが我々におられる。これは15章で葡萄の木と枝との関係を譬えとして、「私におれ」と命じたもうのと同じである。15章では口語訳聖書で「私に繋がっている」という言葉がしきりに語られるが「繋がる」と訳されるのは、6章で「おる」と訳されるのと同じ動詞である。
 これを「繋がる」と訳すのは適切だとは思えない。「繋がる」というと、別々の物があって、何かの媒介を持って来て繋がらせるという感じを受けるが、「おる」というのは、媒介による繋がりを言うのでなく、端的に一体であること、内在していることを指す。たしかに、我々が主におると言う場合、御霊の媒介、御霊による結び付きを考えて良いであろう。しかし、ここは第三者としての御霊が介在するというよりは、「主が霊となって我がうちに住みたもう」と理解する方が良い。
 このことで、さらに触れて置くべきは、10章38節と14章10節11節で、「父が私におり、私が父におる」と言われる言葉である。これは「父と私は一つである」と言われるのと同じである。父と子が一つであるという最も根本的なことがあって、それが根拠となって、御子と我々とが一つであること、すなわち我々が救いに与ることが確かになるのである。
 私がキリストにおり、キリストが私におる時、キリストのものはとりもなおさず私のものである。これをキリストの祝福が御霊を通して私の賜物となる、と解釈しても良いし、そう解釈した方が適切である場合が多いのであるが、キリストが私に「おる」とは、もっと直接的なことを言う。
 ここまで学んで来たのはキリストを「食べる」ことであったが、それは、「キリストが私におり、私がキリストにおる」に至るための過程、道程である。「キリストが私におり、私がキリストにおる」境地に到達するのは、ほかならぬ「食べる」こと、つまり「我が記念としてこのように行なえ」と言われるようなやり方で食べることによってである。
 キリストと一つとなるためには、キリストに見習ってその後を追って行くとか、独り部屋に籠もって祈りに励むとか、御言葉を学ぶとか、深く瞑想するとか、いろいろの道があると言われる。それらの道は邪魔になるから放棄せよと言うのではない。しかし、主イエスご自身が定めたもうた道は、「私を食べよ」という道である。「皆このように飲め」という道である。これを他の事に置き換えるわけには行かないのである。
 キリストの肉を食べるのは、一人一人自分の部屋に籠もって、キリストの肉をそこに持ち込んで食べるのではない。キリストはその民を呼び集めて、その集いの中でご自身に与らせたもうのである。
 


目次へ