◆説教2000.12.10.◆ |
――ヨハネ6:46-51によって――
今日先ず聞くのは「神から出た者のほかに、誰かが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである」との主の御言葉である。すでに1章18節で、「神を見た者はまだ一人もいない」ということを聞いた。これは我々には良く分かっていることである。我々は神を見ることが出来ないのであるが、だからといって、我々の信仰に致命的欠陥があるとは思っていない。むしろ、主が栄光をもって再臨される日までは、我々が信じて歩む歩みは「見ずして信じる」、「見ていないが、信じている」という特徴を帯びている。見ることと信じることとは、今この時の間では矛盾すると言って良い。 なるほど、マタイ伝5章8節に「心の清い人たちは幸いである。彼らは神を見るであろう」という御言葉があって、「神を見る」ことこそ最高の祝福であると教えられる。言葉を換えて言うと、神について一生懸命に考え、いろいろと論じて、神とその御業について分かっているような顔をし、人々を教えているけれども、自分の心が清くないため、神を見ることが出来ない人よりも、心きよらかに、慎ましく生きている人の方が神の国に近いのである。 「神を見る」とは神との直接の交わりである。神について考える人は少なくない。他の人と神について論じ合う場合も少なくない。それは神のことを全く思わない世俗的な生き方よりは余程真実であり、また真実な生き方として世間から尊敬と称賛を受ける。けれども、朽ち行く物を求めるよりも理に叶っているということは一応考えられるとしても、考えられるというだけで、そこには確かさはない。自分がそう思っているというだけである。例えば、「この病気は必ず治る」と自分に言い聞かせていても、本人がそう思うだけで、全然治らない場合もあるではないか。神を求めたり、神を思ったりするだけでなく、神を見なければ、全く空しいかも知れない。 ヨブ記の終わりでヨブは叫んでいる、「私はあなたの事を耳で聞いていましたが、今は私の目で、あなたを拝見いたします」。これが波乱万丈のヨブの生涯の到達点であった。「神を見る」とは、失われた祝福の完全な回復である。だから、人間の感覚をもって捉えるには余りに高貴でいます神を見ることが出来なくても当然なのだ、いやむしろ、それで良いのだ、と開き直るのは正しくないであろう。顔と顔とを合わせて神を見る日を憧れるのは当然なのだ。しかし、何もかもが壊れてしまっている人間の状態、また神と人との関係の中で、「見る」ということだけが突出して回復するのは、神のみこころに副わない奇怪な状態ではないか。もし、我々のうちに「神を見た」と叫ぶ人がいたなら、その人は異常ではないのかと疑われて当然であろう。それが悉く間違っているとまでは言い切れないとしても、殆どの場合、それは妄想なのだ。 人間の全き回復に至らせる道を神は「見る」ことからお始めにならない。「見る」のはゴールインである。非常に遠い彼方であると思ってはならないが、今はまだそこに至っていない。人間の回復の道は「信仰によって義とされること」から始まる。あるいは「御言葉を聞いて信ずること」と言っても良い。これが唯一の確かな回復の道である。「神を見なければならない、見なければならない」と焦っていても、決して確かな道に登ることは出来ない。むしろ、非常に危険な崖っぷちを歩くのである。神は我々のために安全で確実な道を備えて下さった。それは我々においてすでに始まっている。だから、我々は回復した人間だと到底言えないような欠陥だらけの生き方をしていながら、にも拘わらず救いの道の到達点を確認している。 そのように、我々は見ていない。我々は「見る」ことでなく「聞く」ことに全力を傾倒している。神を見ることの出来るお方は一人しかない。しかし、全き意味で神を見ておられる方が、我々にはついておられ、我々のものとなっておられ、謂わば我々に代わって神を見ておられる。彼が見ておられることで我々は満足すべきである。満足すべきであると言われるのは、何ら誤魔化しではないし、諦めでもない。それが確かであることを今日は学ぶのである。 1章で「神を見た者はまだ一人もいない」ということを聞いた時、続いて教えられたのは「ただ父の懐にいる独り子なる神だけが、神を現わしたのである」ということであった。「見る」という形ではないが、神について知るべきことは全てイエス・キリストにおいて「現わされ」ている。だから、見ていないけれども、啓示されたままに知っているのである。 さらに、我々はイエス・キリストにおいて神の代用品を見るのではなく、子なる神を見ていると教えられる。神でない者が神に代わって、神について我々に教えてくれるというのではなく、「独り子なる神」が神自身として神を現わしたもうたのである。 ヨハネ伝14章で学ぶことであるが、主イエスが弟子たちと最後の晩餐をしておられる時、ピリポが「主よ、私たちに父を示して下さい。そうすれば私たちは満足します」と求めた。その時、主は答えて言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は父を見たのである。どうして私たちに父を示して欲しいと言うのか。私が父におり、父が私におられることをあなたがたは信じないのか」。こうたしなめておられる。 ピリポが父を見たいと願ったことは理解出来るが、共鳴してはならない。「こんなに長くあなたと一緒にいるのに、分かっていないのか」という叱責は我々にも当て嵌まるのである。見なくても満足出来るということが、キリストの教えを受けた者には分からなければならない。 「私を見た者は父を見たのである」。これで決着がついているのである。直接に父を見るのではないが、見て知るべき内容の全ては、御子を知ることによって、その言葉を聞くことによって獲得されたのである。 「見る」という言葉について論じるべきことはまだいろいろある。「見る」という言葉が含んでいる味わいについて詳しい説明を聞くことは有益である。また、日本語の聖書で「見る」と訳されている言葉は、幾通りかあることにも触れておいた方が良いであろう。それはハッキリした意図をもって使い分けられている。その違いを味わうことも無益ではないが、その違いに触れることは今は省略して良い。何故なら、1章18節で見たことも、6章のここで見るのも、14章で聞くのも、皆同じ「ホラオー」という動詞だからである。この語が後三つの語とどう違うかは今のところ論じる必要はない。それよりは、見ると聞くがどう違うか。見ると信ずるがどう違うかを考えた方が益がある。しかし、それも今は省略して良かろう。 47節に「よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある」と言われる。「よくよくあなたがたに言っておく」との前置きを伴う御言葉が特に大事な宣言であることは言うまでもない。今聞くこの宣言の重点は「信じる」ことによる永遠の生命の獲得の確かさにある。そして、ここには信じることへの呼び掛け、励ましがある。「あなたがたは信じることをしない」と容赦なく裁きたもうのであるが、信じよとの呼び掛けを止めたまわない。 だが、その前に、「信じる」とは何なのかを確認しておきたい。何でも良いから信じていれば良いという意味は全くない。人間を二分して、何かを信じている人と、何も信じていない人とに分けることは一般に行なわれており、それはそれで良いかも知れない。 しかし、聖書のこの個所で教えられるのは、とにかく信じさえすれば永遠の生命が得られる、ということではない。ここで「信じる」と言われるのは「キリストを信じる」ことである。キリストを信じること、したがってまた、キリストによって父を信じること以外に、信仰は、固有の意味では存在しないのである。実際、我々が何かを信じることは、出来そうであるが、信じたからといって確かさがあるわけではない。確かさのない、確かだと思っているだけのこともある。極端な言い方だと思われるかも知れないが、「信じる」と言われていることの実体は空想・妄想に過ぎないのである。信仰の確かさはキリストにおいてのみ成り立つ。 信仰によってキリストを受け入れる者にこそ永遠の生命がある。すなわち、キリストにのみ永遠の生命の約束と成就があるが、そのキリストを受け入れるとき、キリストのものが私のものとなるのである。そして、キリストを受け入れるのは信仰によってのみである。 「私が命のパンである」との35節で一度聞いた御言葉が、48節で繰り返される。「命のパン」とは、まことの命、すなわち永遠の命を養うまことのパンという意味であり、荒野のマナと対比される。すなわち、「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下って来たパンを食べる人は、決して死ぬことはない」と言われるのである。 荒野のマナはユダヤ人にとって子々孫々忘れないように語り継ぐべき歴史であった。すなわち、人は荒野に入って行けば、野垂れ死にするほかないのであるが、神はエジプトの豊かさを捨てたご自身の民を奇跡をもって養いたもうた。自分たちが神の民であるという誇りが31節にあった彼らの言葉に表われている。 彼らの持っている理解に対する答えは、先に32節以下に一度出ているが、本格的には49節50節に示されるのである。内容的にはほぼ同じことが語られると言って良いが、前段で「私に来る」と言っておられたのに対して、後段では「私を食べる」という言葉が使われる。 主はここで荒野のマナをけなしておられるわけではない。ただ、マナの意味をよく弁えず、それが与えられたのは自分たちの民族の卓越性を示す証拠であると受け取っているその態度の問題を指摘しておられる。 マナが与えられたのは、一日一日の命を繋ぐためではなく、来たるべき「まことのパン」、永遠の生命に養うべきパンを指し示すためであった。だからユダヤ人は荒野のマナを思い返すごとに、来たるべきまことのマナを慕い求めるべきであったにも拘わらず、まことのパンには目を開かず、実際に求めたのは昨日海の向こうで与えられたようなパンを今日も与えて欲しいと要求するだけであった。 「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが死んでしまったではないか」と言われる。 ここでは、先祖たちが罪の故に死んだことは取り上げなくて良いかもしれない。彼らが最短距離の道を通らずに、40年もかけて荒野を経めぐった後に約束の地に入ったのは、主なる神に反逆した世代を荒野で死に絶えさせるためであったという厳粛な事実がある。彼らの罪を贖うことを神はなしたまわなかった。 彼らを生かすために天からのパンが与えられたが、それは超自然のものではあったが、地上の命、自然的な命、肉体の命を一日養うだけの糧に過ぎなかった。彼らの思うべき命が永遠の命ではなく、朽つべきものでしかなかったことを我々としても考えなければならない。「永遠の生命」という言葉を彼らは知っており、それを真剣に求めている人もいた。けれども、永遠の生命を求める人も、それを獲得するために何をすれば良いかが分からず、福音と無関係に、律法にしたがって良き行ないに努める以上のことはしなかった。だから、永遠の生命を求めていても、確かさはなく、空しくあがくだけで、息切れがしてしまった。 「永遠の生命」とは我々の信仰箇条の中でも最後の条項として出て来るのであって、最も重要な条項ではないと言えるかも知れない。それは信ずべきことと言うよりは、信じる者に与えられた約束、あるいは信じた結果と見ることも出来る。しかし、そうであるとしても、約束が与えられた以上、その約束を信じて受け入れなければならない。信じるだけで良いのだ。永遠の生命が得られなくても良い、と思うべきではない。 新約聖書の中に、「永遠の生命」は数多くの個所で語られているが、最も多く語っているのはヨハネの福音書である。我々はすでに永遠の生命について何度も聞いたのであるが、この6章は最も詳しい。 だが、荒野のマナの不完全さの指摘は分かるとしても、完全なパンであるとして示されたのは彼らの思い及ばぬ、そして到底受け入れられないものであった。すなわち、私が命のパンである、私を食べることによってあなたがたは生きるのである、と言われたのである。私に来るというだけでは足りないと主イエスは見ておられる。 「神のパンは天から下って来て、この世に命を与えるものである」と33節で言われた時、「食べる者に命を与えるまことの食物」という意味が含まれていると見ることが出来る。それとともに、「食べる人」にではなく「この世」に命を与えるという意味も籠められている。 「命を与える」とは、地上の食物が食べる人の命を維持するというのと同列に考えられてはならない。ここには「命なき者に命を与える」、すなわち、これを受ける者を「死から命に転換させる」という意味、また「ご自身の命を与える」、つまり「人類の死を引き受けることによって、交換にご自身の命を与える」という意味がある。51節の「世の命のために与える私の肉」という言葉は、世の命を贖うための十字架の死という出来事を前もって語っている。 「世の命のために与える私の肉」と言われた時の「肉」、これは6章では初めて出て来るものである。すでに見たように、主イエスは十字架の死について語っておられる。肉を与えるとは、肉体を生贄として捧げて、贖いを全うするという意味を籠めて言われたものである。 この肉について、さらに二つの点を考えたい。第一は、1章14節の「言葉は肉体となり、私たちのうちに宿った」と言われたことである。この「肉体」と訳されたのは、6章51節で「肉」と訳されたのと同じ言葉である。言葉が同じだというだけでなく、意味が同じ、すなわち、一貫して読まなければならない。 つまり「言葉が肉体となったのは、その肉体をこの世の罪の贖いとして捧げるためである」という意味がある。罪ある肉を贖うためには、贖うお方が肉とならねばならなかったのである。「肉体となる」とは単にマリヤの胎に宿ることだけを指すのでなく、人間として生きた一切を含む。人間を贖う者は完全な意味での人間でなければならず、人間の姿を摂っていたというだけでは人間の確かな救いは出来ない。 第二に考えねばならないのは、次回、52節以下で改めて学ぶことであるが、ご自分の肉を食べよと言っておられるくだりである。これが後の教会の聖晩餐を暗示して語られたものであることは言うまでもない。聖晩餐の度に読まれるIコリント11章の所謂「制定語」では「取りて食らえ。これは我が体なり」の言葉の「体」、これはヨハネ伝6章の「肉」、すなわち「サルクス」という言葉でなく、「ソーマ」である。その違いを取り上げることは今はしなくて良いと思う。 聖晩餐がキリストの肉を食べる禍々しい儀式であるというわけではない。「信じる者には永遠の命がある」と言われるところにおける「信じる」は「それを食べる者は、いつまでも生きるであろう」と言われる言葉の中の「食べる」と同義語である。したがって、キリストの肉を食べるとはキリストを信じて受け入れることにほかならない。ただし、「食べる」ということが空しく語られるのでなく、信じる者は確かに食べなければならないのである。 |