◆説教2000.12.03.◆

ヨハネ伝講解説教 第62回

――ヨハネ6:41-45によって――
主イエスが「ナザレのイエス」と呼ばれていたことは広く知られる通りである。ナザレはガリラヤの町であるから、ガリラヤ人は主イエスをユダヤの人以上に身近に感じることが出来た。ガリラヤには彼の父母を知っているという人も少なくなかったようである。そのことが42節の記事から窺える。「これはヨセフの子イエスではないか。私たちはその父母を知っているではないか」。
 ナザレの人であり、父母が知られていることは、ガリラヤの人々がナザレのイエスに親近感を持ったことと関係している。ユダヤの人々と比較すれば直ちに明らかになる。我々が既に見てきたように、ユダヤでは主イエスは受け入れられなかった。それに引きかえ、ガリラヤでは人々は好意的であった。
 しかし、ガリラヤの人々がイエス・キリストを受け入れやすい条件に恵まれていたと受け取っては間違いである。或る意味で接近しやすかったと言うことは出来るが、結果的には殆ど皆離れて行く。接近しやすさが却って躓きや妨げとなったのである。「その父母を知っている」と言ったのに続いて彼らの言うのは、「この人は『私は天から下って来た』と、どうして今言うのか」との疑問である。つまり、「お前の素性は分かっている。お前はベツレヘムからナザレに移って来たヨセフの息子ではないか。天から下って来たなどとは、飛んでもない大法螺吹きではないか」と言おうとしたのである。
 全然手掛かりのない環境から出発するよりも、キリストについての多くの予備知識を与えられている状態から出発するほうが、イエス・キリストへの本格的接近に際して遥かに有利ではないかと考えられる。或る意味では確かにそうである。ところが、実はそうでな一面がある。主イエスが「私は天から下って来たパンである」と言われたことが彼らには躓きになった。このお言葉が何のことか分からなかったというのではない。分からなければ躓きもなかった。彼らは分かったつもりだった。十分分かったつもりだから、拒絶した。その父母を知っていたことは実は大きい不利であったとさえ言える。そのことを今日は学ぶのである。
 他の三つの福音書には、主イエスが故郷ナザレを訪問して、そこで人々と衝突された記事が出ている。預言者は故郷で受け入れられないという体験をされる。故郷の人々は知っているだけに反発も大きい。今日ヨハネ伝で学ぶこととやや似た反応である。ヨハネ伝では4章44節に「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われた。ここで言う「故郷」はナザレではなく、ユダヤであることはすでに触れた。
 もっと大きい枠で見るならば、主イエスと共通の民族、共通の文化の中に生きた人は、キリストを理解する上で非常に有利であったように思われるのであるが、ユダヤ人は却ってキリストに躓いたという事実がある。ユダヤ人は来たるべきキリストを迎えるための特別な民であったのであるが、ユダヤ人の中でキリストを信じた人は比較的少数で、多数者はキリストを十字架につけて殺し、その福音に反発し、福音は異邦人に受け入れられて世界に拡がって行った。ただし、これはパウロがローマ書11章で言う通り、神がその民を捨てられたことを意味するものではない。
 とにかく、良く知っているはずの者が却って肝心の点を捉えられず、躓いてしまうということが一般にある。このことは我々キリスト者に対する警告となる。知っていると思う者は倒れぬよう心せよ、と我々は注意を促される。良く知っているつもりのその知り方が問題なのだ。パウロはIIコリント5章16節で「かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい」と言うが、キリストを知る本当の知り方が何であるかをよく弁えねばならない。それは霊によってキリストを知る知り方である。
 ところで、イエス・キリストの父母や、生活環境を知ることが無意味であるとは言えないではないか。マタイとルカの福音書の初めの章にはイエスの両親のことが比較的詳しく書かれている。それを知ることは勿論無意味ではない。彼の育ったナザレという村がどんな所か見るために訪ねて行くのは、マイナスではないであろう。彼のおられたのがどういう時代であったか、彼の生活された環境がどうであったかを調べることも、或る意味では理解を深めるに有意義なことと見なければならない。
 だが、そのような学びを積み上げて行けば、イエス・キリストについて真実に知る認識に到達するのか。――そうではないということをハッキリ見定めて置こう。17章3節に「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることであります」との主イエスの御言葉が記されているが、キリストを知ることは、永遠の生命を得ることなのだ。しかし、ガリラヤの人々がイエスを知るに好都合であったという時の「知る」は、キリストに関するものであったとしても、「永遠の生命」と関わりのない、朽ち行く知識に過ぎなかった。すなわち、先にパウロの言った「肉によってキリストを知る」という言葉に触れたが、肉によってキリストを知る知識を幾ら増し加えても、永遠の生命に近付けない。
 ただし、ひとたびキリストを霊によって把握したならば、あるいは父に引き寄せられてキリストに来たならば、その後で、彼を肉によって知ることには意義がある。彼は肉において来たりたもうたのであるから、肉体となられ、人間関係の中におられた彼を知ることは決して無駄ではない。ただし、知る順序がある。知ることが永遠の命であるような知り方が先である。
 「霊によって知る」と言ったその知り方はまた、44節で「私を遣わされた父が引き寄せて下さらなければ、誰も私に来ることは出来ない」との言葉で教えられる知り方である。これが今日学ぶ肝心の点である。またこれは言い換えれば、次の45節にあるように「神から教えられる」知り方である。自分から知って行くのではない。
 神によって引き寄せられなければキリストに来ることが出来ない、ということは、求めて、努力して、その結果キリストを知るに至るというのではない、ということである。
 人間の自発性、人間の功績、努力、それらは救いにおいて何の役にも立たない。このことを確認しなければならない。「引き寄せる」という言葉はなかなか調子の強い言葉で、不本意であっても来ざるを得ない強制力があるという含みがある。圧倒的な、拒むことの出来ない恵みとして与えられるのである。
 「神によって引き寄せられる」ということを視点を変えて言い直したのが、45節の「預言者の書に『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者はみな私に来るのである」という御言葉である。強制的という含みがあると言ったが、鎖に繋いで引き寄せるのでなく、御言葉の教えの力で来ざるを得なくさせるのである。すなわち、教えに心から服従して来るのである。
 預言者の書に言うとはどの個所を指すのであろうか。イザヤ書54章13節に「あなたの子らはみな主に教えを受け」というのを初め、同様の趣旨の言葉は沢山ある。すなわち、終わりの日のことである。その日が来るまでは、神は僕である預言者を通じて教えたもう。しかし、終わりの日が来れば神が直々に教えたもう。だから教えは徹底する。「引き寄せる」という表現も適切なのだ。
 イエス・キリストがここで言わんとしておられるのは、それまでは神の代理人が教えるのであるが、その日、すなわち終わりの日には、神が直接介入して来られるということである。神は御子を遣わし、御子のもとに来るべき者を皆来させたもう。では神が直接働きかけたもうとはどういう仕方か。「神に教えられる」と言われている通り、神の教えによって御子のもとに来させるのであって、見えない絆に結ばれて引き立てられて来るとか、見えざる御手に導かれて、というふうには考えない方が良い。こういう表現を我々は割合良く用いるのであるが、我々の知恵が足りなくてこういう言い表わしになる。
 では、神ご自身が教えるとは、正しくはどういう教え方か。それは御子において神が教えたもうという教え方である。キリストの教えはかつての預言者の教えの系譜を受け継ぐやり方でなく、「神の国は来た」と宣言されるものであり、神が顔と顔を合わせて我々に語り掛ける語り方である。「私と父は一つである」と言われる通りである。したがって、御子に引き寄せられるとは、御子の教えによって起こる。悔い改めが今起こるのである。こうしてみもとに来た者を、御子が引き取って、終末の日の甦りまで、一人も洩れなく導いて、救いを完成させたもう。
 知るということについてもう一つ、10章14節で、主イエスは「私は良い羊飼いであって、私の羊を知り、私の羊はまた私を知っている」と言われる時の、羊が羊飼いを「知る」知り方、信頼して随いて行くこと、それが我々のキリストを「知る」知り方である。
 ガリラヤの人たちは、自分らはナザレのイエスを知っていると思ったが、それは本当の知り方ではなかった。では、そのような知り方は悉く却けるようにしなければならないのか。そうではないと思う。カぺナウムの人々は「自分たちは知っている」と自信を持っていた。慢心した。そのように、知っているという慢心になるような知り方、これが有害なのである。
 彼らはもっと謙虚になるべきであった。彼らは「自分はイエスについて何程のことを知っているであろうか」と自己検討することが出来たし、またすべきであったのに、それをしなかった。ここで比較に上げるのが適切だと思われるのは、エルサレムのニコデモである。彼はナザレのイエスについて知っていたわけではないが、自分がまだまだ知らないという自覚は持っていた。パリサイ派の律法学者の中で最も権威あるラビであると人からは見られていたが、自分では学びがまだまだ足りないと自覚していたから、無名の田舎教師イエスを訪ねて来た。
 それでも、ニコデモのように謙虚さと真理探求の熱意があれば真理に達することが出来たということではない。主イエスはニコデモに「誰でも、新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」と言われる。あなたはまだ生まれ変わっていないし、神の国を見ていない、と言われたのである。ニコデモの態度はカぺナウムのパリサイ人より確かに立派であったが、「知る」ことについての弁えがあったというだけで、永遠の命には達していない。だから、ニコデモを比較に上げることはここで打ち切ろう。イエス・キリストを知ることが永遠の生命の獲得であるような、そういう知り方を求めたい。
 さて、41節ではユダヤ人がイエスについて「呟き始めた」と述べている。そして43節には、主イエスの言葉として「互いに呟いてはならない」という戒めが記されている。人々の対応は呟きとして纏められる。「呟き」は露骨な反抗の叫びではない。また、52節で見るような「互いに論じる」こととも違う。呟きは反抗であるが、反抗していることに自分でも気付かないほどのものである。だから、ブツブツ呟いたことを自分でも忘れてしまう。しかし、神の前では露骨な反抗と同じである。そのようなものである。
 呟きは神の前においては典型的な反抗である。このことを思い起こさせてくれるのは出エジプトの歴史である。出エジプト記ではイスラエルの反抗を「呟き」と呼ぶのが通例であることを思い起こそう。イスラエルが紅海を越えて荒野に入り、3日間荒野を歩いたが水が得られず、メラに着いて水があったが苦くて飲めなかった。時に民はモーセに呟いた、と出エジプト15章24節に記される。その後間もなくシンの荒野に進み、食べ物がなくなる。そこで、イスラエルの会衆はモーセとアロンに呟いたと16章の初めに書かれている。人々は神に逆らったつもりはない。モーセに対して呟いただけだ。それも、大声で罵るのでなく、呟くだけであった。だから、悪いことをしたつもりでなかった。
 カぺナウムにおける人々との対論は出エジプトの荒野のパンをめぐってなされていたが、聖書を忠実に読むなら、呟きであることにこそ注意しなければならない。今、出エジプトの時のマナに優る物についての議論がなされている。主イエスは「私は天から下って来たパンである」と言うことによって、昔マナが与えられたのは、来たるべき日に与えられる真のパンの徴としてであって、真のパンとは私である、と言われる。それに対する答えが呟きであった。主は彼らに向けて、「あなたがたの今しているのはあなた方の先祖の罪である呟きそのもの、いやもっと悪いものではないか」と言われるのである。自分で気付かないだけで、神への反抗なのである。
 ガリラヤのユダヤ人にとって躓きであったのは、主イエスが「私は天から下って来たパン」であると言われた点である。もし「地から上がって行った」と言われたなら、彼らはまだ納得して受け入れたのである。彼らは前日、海の向こうで、イエスを王にしようとした人たちである。イエスこそ自分たちの上に立てられるべき人であり、自分たちは彼に服従すべきであると思っているのである。
 このユダヤ人が主イエスに対して傲慢であるのは我々の感じている通りである。しかし、その傲慢さは彼らの性格の欠点としての傲慢さではない。イエスが王になることを承諾してくれるなら、従順に従う覚悟があるのだから、傲慢でなく謙遜なのだ。だから、この人たちが如何にも傲然とした態度をとっていたと想像しないほうが堅実であろう。
 我々よりももっと素直で謙遜であったかも知れないのだ。
 自分たちの中の誰かを上に立てて、その人に従うことについては、全然抵抗はないのである。そういう人にはむしろ憧れを感じ、ついて行く。「天から来た」ということに躓くのである。すなわち、同じ地上にいるではないか、というのである。
 どういう点が問題か。「天からの恵み」、「天からの助け」、というような言葉を人々は好んで使うのではないか。たしかに、人々は天からの恵みを有難がる。それは地上のものが儚いと悟っているからである。けれども、彼らの言う天からの恵みは、実に抽象的にまた曖昧に考えられているのであって、何か良いことがあると「天からの恵み」と言う。しかし、抽象的でなく具体的な天からの恵みはキリストを与えられることなのだ。それだのに、天からの恵みとはイエス・キリストであると言われると、彼らは途端に硬直する。
 下から上に登るのは、人間の本能の中にある憧れである。それが人間の獣にまさる特質だと言って良い。人はその本能に従って自己自身を向上させ磨き上げる。自分で自分を越えて行く。こうして精神文化を築いて来た。「宗教」というものはそれである。それはそれで良い。しかし、下から上へ、という方向を取る限り永遠の命に達することは出来ない。どんなに高い山に登っても、地上に過ぎず、天に達することは出来ないのと同じである。
 大事なのは44節で言われる御言葉である。「私を遣わされた父が引き寄せて下さらなければ、誰も私に来ることは出来ない」。下から上へという努力が放棄されなければならない。上から来た恵みに身を委ねるほかない。
 自分を向上させ、自分で自分を乗り越え、妨げになる自己があればそれを砕いて、ついにキリストに来るのではないのか。……そうではないのだ、とキリストご自身が言われる。意外な感じを持つ人がいるかも知れない。自分に満足していたのではキリストに行き付けないが、自分を越えてこそキリストに行けるのではないのか。……そうではない。自分が自分を乗り越えている限り、どこまで行っても地上の王国であって、神の国ではない。朽ちざるものは上から来るのである。我々はそれを信仰と悔い改めをもって受け入れるのである。


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