◆説教2000.11.19.◆

ヨハネ伝講解説教 第61回

――ヨハネ6:37-40によって――
「父が私に与えて下さる者は皆、私に来るであろう」。――この言葉はこの章の65節でもう一度繰り返される。そこを64節から読むと、こう記されている。「『しかし、あなた方の中には信じないものがいる』。イエスは初めから、誰が信じないか、また誰が彼を裏切るかを知っておられたのである。そしてイエスは言われた、『それだから、父が与えて下さった者でなければ、私に来ることは出来ないと、言ったのである』」。この言葉によって多くの人が決定的に主イエスのもとを去ったことが次に書かれている。重大な言葉である。
 「私に来る」という言い方は、前回35節で見たように、「私を信ずる」という言葉で置き換えることが出来るものである。「帰属する」と言ってもよいと思う。そして、その35節で、「私」は「命のパン」であると言われた。すなわち、このパンによって人は生きることが出来る。「命」とは「救い」の意味である。その「救い」に与るには、キリストに「来る」こと、キリストを「信ずる」ことによるのである。「キリストを信ずる信仰による救い」、これは我々の信仰にとって最重要な教理である。そのことについて、今日はさらに踏み込んで教えられる。
 さて、「父が私に与えて下さる者は皆、私に来る。そして私はその人を一人も失わずに、終わりの日に甦らせる」。――この言葉は、イエス・キリストの前に来ている者に、その立っている場所を、遥か起源にまで溯って明らかにすると共に、またズッと先、その人の死と終末の日の復活まで下って、救いの結末を照らし出すのである。そうすることによって救いの計画の発端から成就までの全貌が示される。救いはそのようなものとして捉えなければ、確実に把握したことにならないのである。
 「私はあなたを求めてここまで来ました」というような言葉は、どんなに深い思い入れをもって語られたとしても、ここでは余り意味がなくなるということに注意したい。キリストの前まで来た人は、自分が魂の遍歴を重ねてここまで辿り着けたことを感謝を籠めて、あるいは満足し、あるいは気負いを持って述べるかも知れない。彼らがそのように感じるのはもっともな事だと一応言える。魂のことやキリストのことをまるで考えなかった時代と比べれば非常に違った、深みのある人生がある。
 しかし、そのような人に対して、主イエスの言葉は概ね冷たい。「よく来た、よく来た」と言って迎え入れることはされない。例えば、ニコデモが「あなたは神から来られた教師だということが私には分かっています」と言って訪ねて来た時、主は「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」と言って突き放したもうた。富める青年が走り寄って「善き師よ、永遠の生命を受け継ぐためには何をしたら善いでしょうか」と問うた時、主イエスは「何故、私を善き師と言うのか」と突き放しておられる。
 彼らには、それぞれ、ここに来るまでの紆余曲折がある。それなりに真剣であったと言って良いと思う。彼ら自身もまたその経緯を感慨深く回想しているであろう。これは人間仲間では立派な文学の素材になるであろう。しかし、その感慨に溺れていては、自己満足になり、独りよがりになり、永遠の救いは見えなくなってしまう。
 今聞くキリストの言葉は、彼らがここまで来たことを、もっと広い見地から位置づける。それでこそ確かな救いが見えて来るのである。それが今日37節で学ぶ救いの言葉である。「父が私に与えて下さる者は皆、私に来る。そして、私に来る者を私は決して拒まないで、一人も失わずに、終わりの日に甦らせる」。
 謂わば、主はこう語られたのである。「あなた方が私に来るまでに、あなた方の中でどういうことがあったかを、私は知っている。しかし、それをさも大いなる事であるかのように取り上げるには及ばない。あなた方が私に来たことに関しては、もっと大事なことを見なければならない。それは、あなた方が自分で判断して来たのでなく、父があなた方を私に来るよう定めておられたことである。しかも、あなた方が私に来たのは父の定めであるから、私はあなた方を一人も失われないようにするし、あなた方は一人も洩れなく終わりの日の復活に与るのである」。
 このことは38節で、「私が天から下って来たのは、自分の心のままを行なうためではなく、私を遣わされた方の御心を行なうためである」と言われるのと結局は同じである。
 彼は父の御心を行なうために遣わされて世に来られた。3章17節で学んだ通り、「神が御子を世に遣わされた野は、世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためである」。
 ここに見えて来るのは「救いの確かさ」である。現在の心地よさを追い求める人にとっては、何の意味もない言葉かも知れないが、確かな救いを求める者にとっては、今感じる甘美な喜びや充実感が、やがて薄れて行き、この世のさまざまの試みの中で消えて空しくなること見えていなければならない。感覚で何かを感じて満足するのでなく、自分の経験の枠を越えたところにおいて、救いの確かさを捉えなければならない。
 エペソ書1章4節に「神は、御前に聖く傷なき者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあって私たちを選ばれた」と説かれている。これは今日の個所で「父が私に与えて下さる者はみな、私に来るであろう」と言われる言葉の内容と重なり合うのである。
 ヨハネ伝のここでは「選び」という言葉は使われないが、我々が事柄を分かりやすく捉え直すために、「選び」とか「予定」という聖書用語を用いることは全く適切なのである。「選び」という言葉に関して思い起こされるのは、ヨハネ伝15章16節の「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである」という言葉であろう。「あなた方が選んだ」という立場が逆転して、「あなたがたは選ばれた」ということが明らかにならなければ、救いは確かでない、と言われるのである。今、6章で学んでいるのは、「あなた方が来た」という立場が逆転して、「御父があなたがたを私に与えたもうたからあなた方は来させられた」と捉え直さなければ確かさはない、ということである。「選び」という言葉にはそのような含みがあるのだから、「選び」をここに持ち込んでも、何ら支障がないばかりか、言わんとする事柄をいっそうハッキリさせることが出来るであろう。
 父が私に与えて下さる者は「皆、来る」と言われる。……この「来る」はニコデモや海の向こうから追い掛けて来た人が「私は来ました」と言おうとする時の「来る」とは違う意味合いがあることに気付く。「私が来ました」と言っている所では、自分しか見えていないのではないか。自分を見失わないことも大事なことの一つには違いない。けれども、それしか見えないとなると問題である。「皆、来る」、その「皆」が見えなければならないと言うならば、それは厳し過ぎる要求であろうが、少なくとも同時代の、同じ地方のキリストの民のキリストのもとに来る集まりの全部は頭に入れていなければならない。
 主イエスはここで、キリストに来た全ての者たちによって構成される「救いの共同体」を指し示しておられる。すなわち、「聖なる公同の教会」である。「父が私に与えておられた人たちは皆くる」。……皆が私において一つなる交わりを作り上げる、ということが示唆されている。自己中心的な救いの理解ではこれがなかなか分からない。そういう捉え方はここでは却けられねばならない。
 「皆、来る」の「皆」は「全部」であるから、非常に広い範囲に我々の目が開かれなければならない。それは勿論あらゆる人というのとは違う。父が私に与えておられない人はこれには含まれない。多数者と比較すれば少数者と言うほかないであろう。しかし、父が私に与えておられる者は皆である。我々はその範囲を自分の判断の狭さに則って局限してはならない。あらゆる国人、あらゆる時代が視野に入っている。
 「私に来る」という時の「私」、これが事柄の核心であるのは言うまでもない。全ては神の定めの通りになる、と多くの人は考えている。救いが神の定めた計画通りに成就すると言って良い。一般論としてはそれで間違いないが、それで納得出来るというだけで、救いの確信にはならない。我々に教えられているのは、5章21節にあるように「父が死人を起こして命をお与えになるように、子もまたその心にかなう人々に命を与えるであろう」との教えである。命を与える全権が御子によって行使されるようになったのである。そこで、救いの全権が行使されるのを我々は御子においてハッキリ見ることが出来る。
 もっと分かりやすい譬えがある。10章に「私は良い羊飼いである」という有名な言葉がある。この譬えをここに重ねて理解を堅固にすれば良いであろう。すなわち、御父は羊の群れを養っておられたが、その群れをソックリ御子に渡したもうた。群れの羊は御子のものとなったから御子に来るのである。ただし、今言ったのは、神の民であると自任していたユダヤ人がキリストの管轄のもとに置かれたと取らない方が良い。現実のユダヤ人はキリストのものではなかった。だからキリストに来なかった。
 神は全く確かな方であるけれども、神、神、神とどれだけ熱心に論じても、確かさを増すことにならないで、言葉が空転し、どんどん空疎になって行く。つまり、人間のうちにある罪が、神の確かさを人間に届かせなくさせているからである。この事態に対して神が講じておられる解決は、人間の罪の贖いのためにご自身を捧げたもう御子に一切の確かさを委ねて、実行させるということであった。
 この「私」について、今日は三つのことを読み取らなければならない。一つは「私に来る者は皆、父が私に与えておられ、私の所有と支配と指導のもとに置かれた者だ」というキリストの主権宣言である。17章10節に「私のものは皆あなたのもの、あなたのものは皆私のもの」という言葉があるが、そこでハッキリ示されるように、神の羊の群れはキリストの群れとなった。そして、羊はそのことを良く知っているから、キリストにしか行かない。キリストにのみ方向づけられている。キリストのほかに主はない。
 ここで「私に来る」と言われている同じことが、44節では「私を遣わされた父が引き寄せて下さらなければ、誰も私に来ることは出来ない」と少し違った言葉で言われる。羊は主人が代わったからといって、必ず新しい主人のもとに来るわけではない。我々には判断力がないのだ。初めは戸惑いがあった。だから、初めは父が主イエスに「引き寄せて」下さるのである。キリストの民はキリストを信じるのであるが、信じることが出来ない場合もあるのではないか。そのことについて心配は要らない。来るべきほどの者は父なる神が引き寄せて下さるから必ず信ずるのである。
 「引き寄せる」と言っても、綱をつけて、強制的に引いて来るような来させ方ではない。御言葉によって召されて、御霊の働き掛けによってキリストを求め、キリストに来て、御言葉に聞き従い、悔い改めて福音を受け入れ、生まれ変わり、信仰を告白するという通常の道を経てキリストの教会に属するのである。
 第二に、「私は、私に来る者を決して拒まない」との約束である。彼は自分のものになった者をもう一度吟味して、不適格者を排除することはなさらない。5章30節に「私は私自身の考えでするのでなく、私を遣わされた方の御旨を求めている」と言われる通り、父は御旨の遂行を御子に命じて群れを託したもうたのであるから、その群れの中から御子の判断によって排除される者は一人もいないのである。
 第三は、「父が私に与えて下さった者を私は一人も失わずに、終わりの日に甦らせる」との保証である。先の「来る者を拒まない」とここの「一人も失わない」は同じことではない。前者はキリストが別の判断によって除外することはない、という意味である。
 後者はこれを失わせようとする力に対してキリストが身をもって守るという意味である。
 救いの実行機関である御子は、託されたことを完璧に果たしたもうのである。39節にも40節にも「私を遣わされた方のみこころ」と言われるが、このみこころをイエス・キリストは遂行したもう。これは彼にその職務遂行の能力があるというだけでなく、彼が職務完遂のためにあらゆることをなし、如何なる犠牲も厭わないと言われるのである。3章14節15節では「人の子も上げられなければならない。それは彼を信じる者が全て永遠の命を得るためである」と言われている。また、ここで「善き羊飼い」の譬えを思い起こすべきであろう。「善き羊飼いは羊のために命を捨てる」。十字架の死による救いの達成である。
 「一人も滅びないで永遠の命を得る」という言葉は、3章16節にもあったが、ヨハネ伝福音書の特徴ある言葉である。召された者は多いけれども、本当に救われる者は少ないという教えではない。約束のもとにある者は全部、救いの完成を味わうことが出来、洩れる者は一人もいない。
 勿論、「子に裁きを行なう権威をお与えになった」と5章27節の言うことも真実である。
 しかし、御子が救いの業を遂行する中でどうしてもうまく行かない場合が生じて、それを吐き出すということはない。救いの計画と実施は一貫している。始まった業は中断しないのである。
 10章26節で「あなた方が信じないのは、私の羊でないからである」と言われた。確かに信じない者もいる。それは彼を信じさせる主の御業が力不足であるという意味ではない。初めから選ばれた者の数に入っていなかったのである。ただ、それは我々には隠されている。その人たちのことを問題にしても空しい議論になるから今は考えない。
 今日学ぶのは「一人も失わずに終わりの日に甦らせる」こと、その確かさである。キリストに属し、キリストに来ているならば、必ず失われないで救いは全うされるのである。教会の宣べ伝えるのはこの確かな約束である。だから我々は確信をもって応答する。
 40節で「永遠の命を得る」ことと、「終わりの日に甦る」こととが結び付けて語られるから、終わりの日に甦って永遠の命に生きると言っておられるように取られる。しかし、5章24節には「私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の命を受け、また裁かれることがなく、死から命に移っているのである」と言われ、ここでは、すでに永遠の命を生き始めていると言われる。永遠の命に生きる生き方がこのように二通りの仕方で提示されている。だから、二通りの道を教えられたと見るべきである。
 ここでは終わりの日の甦りについて学んでいる。11章にあるが、ベタニヤのラザロが死んだとき、姉のマルタは主イエスが「あなたの兄弟は甦るであろう」と言われると、「終わりの日、死人の甦りの時に甦ることは知っています」と答える。それはユダヤ人の間で広く信じられていた終末信仰の表明であるが、主イエスはマルタの答えを却けて、「私は甦りであり、命である。私を信ずる者は死んでも生きる」と宣言したもうた。明らかにこの時、主イエスは終わりの日の甦りでなく、この歴史のさ中において死人の甦りが起こることを主張され、その徴しをラザロの死後4日目の復活によって示したもうた。
 11章では確かに「死人の甦り」を歴史の中のこととして、すなわち主イエスの三日目の甦りの前兆として示しておられるが、今日学ぶ6章39節40節では、一般にユダヤ人の間で信じられていたように、終わりの日のこととして教えられている。5章28節29節にも、「このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちが皆、神の子の声を聞き、善を行なった人々は、生命を受けるために甦り、悪を行なった者は、裁きを受けるために甦って、それぞれ出て来る時が来るであろう」と、終末のこととして教えておられた。
 甦りがどこで起こるかでなく、誰が甦りを来たらせるかが説かれていることの眼目である。これは5章21節に「父が死人を起こして命をお与えになるように、子もまた、その心にかなう人々に命を与えるであろう」と言われたのと同じである。その業が始まっていることを宣言しておられる。
 


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