◆説教2000.11.12.◆

ヨハネ伝講解説教 第60回

――ヨハネ6:32-35によって――
 神は命の源泉であられる。全ての生けるものは神によって生かされ、神から命を支える糧を得る。また、たとい糧が手元にあっても神の許しなしでは食べることは出来ないから、命は神のうちにあり、神から自立することは出来ない。一般に人は漠然とこれらの事情を考えているが、確信ではない。だが、神はこのことをご自身の民にハッキリ知らせるため、その民を荒野に引き出し、彼らに日ごとに命の糧であるマナを与えたもうた。この出来事は単に出エジプトのイスラエルとその子孫の実地教育であったのみでなく、全ての生ける者に対する証しであった。すなわち、神の契約に与り、神に従う民は、荒野においても飢え死にしないで生きることが出来た。
 ただし、こうして生きることが出来た命は、奇跡という手段によって、恵みとして与えられる食物によるものであったが、「永遠の命」ではなかった。人々は自分のマナを来る日も来る日も、手抜きせずに集めねばならなかったし、このようにして命を支えられた者も、ついにはことごとく死んで行ったのである。
 したがって、「永遠の生命」を求める者は、やはり神からパンを求めなければならないのであるが、かつてのマナと同じでない「朽ちない食物」として求めるのである。イエス・キリストはガリラヤの海の向こうの丘陵の上で、過ぎ越しの間近になったある日、人々の求めなければならない食物が何であるかを徴しによって示したもうた。すなわち、五千人の群衆に配られたパンは、それ自体では朽ちる食物であったが、朽ちない食物があることを指さしていた。
 これは12人の弟子を動員して配給されたのであるが、この12人が命の糧を与えたのではなく、主イエスご自身が祝福してパンを割きたもうところから、命の糧が溢れ出て、全員に隈なく行き渡ったのである。彼こそメシヤであり、彼こそ命の源泉であり、彼こそ贖い主でいますことが、この徴しによって示された。しかし、人々はこの徴しがあっても見ようとせず、パンによって満腹する幸福感で満足するに留まった。だから、翌日にはまたパンを所望した。34節に彼らは主イエスに言う、「主よそのパンをいつも私たちに下さい」。彼らはまだ分かっていないのである。
 彼らは「朽ちる食物のために働くな」と戒められたにも拘わらず、朽ちる食物の追及を止めなかった。だから、主イエスとの対話はことごとに食い違い、ついに決裂するのであるが、このような出発点から出た者はこうならざるを得ないのであろうか。そうではない。我々は4章にあったサマリヤの女のケースを思い起こしている。主イエスが、「この水を飲む者はまた渇くであろう。しかし、私が与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがないばかりか、私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き上がるであろう」と言われた。すると、女は「主よ、私が渇くことがなく、また、ここに汲みに来なくて良いように、その水を私に下さい」と言った。
 サマリヤの女とカぺナウムの男たちの考え方、物の言い方はソックリ同じであったが、一方はキリストに仕えてサマリヤ伝道の中心人物になる。どうしてこういう違いが出たのかという問題には今日は触れないで置く。地上のことしか考えられない者にも、上に登る道は開かれるのである。天よりのパンという難しい教えにタジタジとなる人にも、間もなく道筋が見えて来るのである。
 主イエスは26節で、「あなたがたが私を尋ねて来ているのは、徴しを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである」と決めつけたもうた。彼らの求めが肉的感覚に基づいて、そこから少しも脱け出ていないことを主イエスは見抜いておられる。――徴しを見たなら、肉的感覚を離れて、まことの食物に向かって霊の目を開かなければならないのに、彼らは今なお朽ちる食物にしか思い及ばなかった。だから、いろいろ聞いた後の34節でも、「主よ、そのパンをいつも私たちに下さい」としか言えないのである。つまり、彼らは「徴し」があったのに、それを見ようとはしなかったから、徴しの指し示すものに思いを高めることも出来なかった。
 では、彼らは何を考えねばならなかったのか。先ず、荒野のマナに立ち返らなければならなかった。31節に見られるように、彼らは先祖たちの荒野の体験を民族の誇りとして語り継いでいるようであるが、この出来事についてキチンと学ぶことはしていなかった。先ず、「荒野」という場所の考察が必要である。荒野に立って見なければ、食物がどこから来るかが明確には意識されない。食物は食料庫から出て来るとか、食品店から買って来るとか、畑から収穫されるとか、自分の勤労の結果であるとか、枝葉末節のことに目が行ってしまう。しかし、荒野に行けば、そこでは食べ物の齎される経路はことごとく絶たれているのであるから、神から来ることを知らぬわけには行かない。
 命も、命の糧も、神から来る。神が命の源泉であられるから、命だけでなく命を養う糧も神が与えたもう。荒野では一切の途中の手続きが消されて、神から来ることだけが良く見えるのである。実際、イスラエルの民は、何もないことを体験し、主なる神がマナを降らせることによって養いたもうことを見た。32節で主イエスは言われる、「よくよく言っておく、天からのパンをあなた方に与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、私の父なのである」。どこかからパンが来れば良いというのでなく、神を待ち望むほかないことを、ここで学んだのである。
 主イエスの前にいる群衆は、先祖が荒野で養われたマナは、モーセによって与えられたと考えていたようである。主はそれを訂正させたもう。「よくよく言っておく」と厳かに申し渡したもう。モーセは命を与える源泉ではない。まことの食物が神から来ることを教えた教師に過ぎなかった。それも大事な役目であったが、もっと大事なものがあった。主イエスがマタイ伝5章25節で言われた通り、食物よりは命の方が重要である。だから、その「命」に思いを向け、これをどう受けるかを考えなければならない。
 ヨハネ伝5章26節で主イエスは、「父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになった」と言われた。これを思い起こそう。父が生命の源泉である。モーセは生命の源泉にはなれない。だから、天からのパンを荒野で与えたのは、モーセではなく御父なのである。そして次に、御父は御子をも生命の源泉とし、そこから生命が伝達されて行くように定めたもうた。
 主の前に来ている民衆は、モーセとイエスの比較のことで頭が一杯だったようである。
 イエスは立派な教師であるが、モーセを越える偉い者なのかどうか、これが彼らの間で問題になっていたらしい。31節で「『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてある」と彼らが言うのは、神が語りたもうた言葉の引用として受け取るほかないが、人々はモーセが天からのパンを先祖たちに与えたというふうに解釈したがっていたようである。それを知っておられるから、主イエスは「天からのパンをあなたがたにに与えたのは、モーセではない」とハッキリ言われたのである。
 モーセのことを考えている彼らは、モーセが与えたのはこれまで人々の食べたこともなく名も知らなかった「天よりのパン」であったが、イエスの与えたパンは、地上の貧しい大麦のパンに過ぎなかったではないか、とも論じていたのである。
 それに続いて、「天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、私の父なのである」と言われる言葉に注意したい。すぐ前のところで「天からのパンをあなた方に与えたのはモーセではない」と言われた。これは過去の出エジプトの時のことである。それを与えたはモーセでなく御父であった。次に「天からのまことのパンをあなた方に与えるのは、私の父である」と言われる。ここでは「与えた」でなく「与える」と言われる。
 「与えた」は過去形である。「与える」は現在形で、出エジプトの時のマナとは別の場合を指し、それが今なされていると言われる。
 天からのパンを与えたのがモーセであるとすれば、話しはそれきりで完結し、永遠の命への手掛かりもない、ただの昔話である。その時でも、与えたのは御父であった。永遠の生命が与えられたのではないが、生命の源泉であられる神からパンが来た。それは来たるべき日に「まことのパン」が与えられるという約束を示唆するものであった。
 では、その「まことの食物」は何か。今、5章26節で見たように、命の源泉である父は、命を与える権限を御子に移して、御子もまた命の源泉であるようにされ、信ずる者が御子によって生命を獲得するように救いの道を確立されたのである。荒野のパンは天からのパンであり、それ自体奇跡的なパンであったが、命の源泉ではなく、それを証ししただけである。一時的満腹感を得、力を得ることが出来たが、明日になると飢えてしまうような仮の食べ物であった。「まことの食物」とは、仮の物ではなく、永遠の命に養うもの、という意味である。そして「まことの食物」の実体は、父から与えられる御子である。
 「まことの食物」という言い方は、今見たように、仮の、その場限りの飢えを凌ぐ食物とは違って、永遠の生命を養う食物であるが、これにはまた、それ自身が「真理」であるもの、という意味が含まれる。「まことの食物」とはまた、約束の成就された真理、充実、永遠性、完全性、朽ちざるものという意味があるように思われる。
 33節には、「神のパンは、天から下って来て、この世に命を与えるものである」と言われるが、これも「まことの食物」の説明である。まことの食物でない食物は、天から来たものでもなく、天上的な真理を内に持ってもおらず、そこにいた人々の飢えを凌ぐものであったが、朽ち行くもの以上の何物も与えることは出来ない。また、「まことの食物」はイスラエルだけを生かすのでなく、「この世」を生かし、救う。
 このことを教えるのが35節の御言葉である。これが今日学ぶことの眼目であるから良く聞こう。イエスは彼らに言われた、「私が命のパンである。私に来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」。そのパンは後程また食べ直さなければならないようなものでなく、決定的な充実・転換を齎す。これを食べる者はもはや飢えることはない。ここには永遠の生命を獲得させるパンということが言われている。
 人々はパンを求めてやって来た。それもパンを呉れるならば誰でも良いというのでなく、パンを与えてくれるナザレのイエスを追い求めたのである。彼らの熱心は評価して良いかも知れない。彼らはほかのことを差し置いて、連日主イエスを追い掛けている。しかし、それは朽ちる食物のための努力に過ぎなかった。
 どこが問題なのか。彼らは「朽ちるパン」しか追い求めないと主は言われるのであるが、それは、食べてその場では満腹するが、また飢えてしまう物質に過ぎないからいけないのであろうか。そのように解釈して全く間違いとは言わないが、十分な理解になっていない。彼らが主イエスからもっと違う物を求めようとし、ひもじさを我慢しながら霊的な教えを追い求めておれば良かった、と取るならば、それもおかしな解釈になってしまう。
 肝心のところは、キリストからパンを求めるのでなく、キリストから与えられる物によって生きるのでもなく、キリストを手段として命の充実を図るのでなく、キリストそのものを求め、キリストそのものによって生きることである。「私が命のパンである」と彼は言われる。57節では、「私を食べる者は私によって生きる」と言っておられる。人々は驚いて「これは聞くに堪えない言葉だ」と言った。しかし、ここが大切である。
 「パン」という言葉に関心を固着させ過ぎて、大事な点を見落とす恐れがある。パンは命を維持する手段であるという点を考えて、命の手段よりも「命そのもの」に目を向けて、パンの形も色も今しばらくは見ないようにして置く方が正確な理解に役立つであろう。つまり、こういうことである。父がご自分のうちに生命を持ち、それを人々に与えたまい、それが荒野のマナに表明されていたが、父はご自身がそうであるように、御子もご自身のうちに生命を持つようにされ、御子を生命の源泉とされ、その御子を「まことのパン」として人々に差し出したもう。そこで我々はキリストそのものを受け入れるのである。それが永遠の生命である。5章24節で主は言われた、「よくよくあなた方に言って置く。私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の命を受け、また裁かれることなく、死から命に移っているのである」。このことが起こるのである。
 ここにパンの伝達でなく、命の伝達の道筋があることに焦点を当てて見ると分かりやすい。ところで、本来、父なる神からその民に伝達されるべきであった「命」が、伝達されず、伝達が阻止され、永遠の命でない命しか持てないようになったという深刻な事態があることを思い起こそう。すなわち、人間の罪が命の伝達を決定的に損なったのである。
 神は人をエデンの園に住まわせ、園の中央には「命の木」を置きたもうた。アダムはエデンにいる限りいつまでも「命の木」とともに住むことを約束されていた。しかし、彼は罪を犯したので、園の外に追い出され、命の木の実を食べることが出来なくなった。
 だから、人はその日以来、命をつなぐための糧を労働によって生産しなければならなくなったのであるが、それだけでは朽ち行く命を何とも解決出来なかった。すなわち、人間に必要なのは、その日その日の食物ではなく、罪からの贖いである。彼にはその贖いがやがて与えられるという約束が示された。その約束を人々は過ぎ越しの祭りを祝うことによって確認した。この贖いを得させるのが「まことの食物」である。主は51節で、「私が与えるパンは、世の命のために与える私の肉である」と言われるが、世の命を贖うために私はこの体をいけにえとして捧げる、と言われたのである。「命のパン」には養いだけでなく、贖いのための犠牲という意味が含まれている。
 先ほど、パンが与えられる経路をしばらく無視して、命そのものが与えられる経路を見たのであるが、これは最も基本的なことを理解するために取った一時的手段であって、「天からのパンを食べる」、あるいは「私の肉を食べる」という言い方は、聞き慣れない人にとってはいささか奇抜過ぎて、抵抗を感じるところであるとしても、やはり大事である。すなわち、命が源泉である神から来るように、御子から来るということが良く分かったとしても、その理解には不確かさや曖昧さが付き纏うのである。この不確かさを乗り越えるのは、パンを食べるという確認方法である。51節で主イエスは言われる、「私は天から下って来た生きたパンである。それを食べる者はいつまでも生きるであろう。私が与えるパンは、世の命のために与える私の肉である」。パンを食べることによって一切の不確かさを振り切ることが出来ると教えられるのである。
 「永遠の命に至る朽ちない食物を求めよ」と言われると、人は納得するかもしれない。
 しかし、納得しただけでは何一つ確かなものはない。その食物が何であるかが確認され、その食物を実際に食べなければ、永遠の生命は単なるお話しに終わるのである。
 そこで、「私が命のパンである」と言われる。だから「私を食べなければならない」と言われるのである。そして、「私に来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」。これが「まことの食物」の「まことの食物」である所以である。
 では、私を食物として食べるという表現はどういう意味か。次の36節に、「あなたがたは私を見たのに信じようとはしない」と言われるから、「私を食べる」とは、「私を信ずる」というのと同じであると理解することが出来よう。さらに、これは「私に来る」という言い方で置き換えられる。キリストに来て、キリストとともに生きて、永遠の生命を生き始めるのである。それは我々において始まっているのである。
 


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