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ヨハネ伝説教 第6回

――1:14によって――

 「言葉は肉体となり、私たちのうちに宿った」。――ヨハネの福音書を学び始めて、ここまでは、福音書の序論を読んで来たようなものであった。序論はまだ18節まで続くが、今日聞くところは、序論の結びに入っており、14節は福音書の全内容を一言で纏めたものと言える。
 あるいは、導入部が終わって、主題が提示されたと見ても良いであろう。ここまでもズッと永遠の御言葉への讃歌であったが、ここで讃歌が絶頂に達するとも言える。あるいは、これまでは原理的・抽象的な理論であり、第三者的に述べられたが、今聞くのは、実際の出来事、我々に関わる事であると言える。
 「我々」という言葉が、ヨハネ伝でここに初めて出て来ることに注意を促される。もちろん、これまでの所で「我々」を読み込むことは出来たし、そうすべきであった。例えば、3節、「全てのものはこれによって出来た」。これを「我々も言葉によって創造された」と受け取るべきであった。9節の「全ての人を照らすまことの光りがあって、世に来た」。これも「我々をも照らすまことの光りがあって、世に来た」と取らなければならない。自分自身を脇に置いて、誰であっても構わない一般論として光りに照らされることを論じていては意味がない。
 そのように、どんな御言葉も自分に関わりあるものとして聞くべきであるが、今日学ぶところにある「我々」という言葉は、もっと直接的な身近な関わりを持つものである。「言葉は肉体となり、全てのもののうちに宿った。全てのものはそれを見た」と言っているのではない。「我々」のうちに宿ったのであり、「我々」がそれを見たのである。「我々」はもはや、いてもいなくても良い見物人ではなく、立会人でもなく、たまたまいた第三者でもなく、当事者なのである。「キリストが我々のうちに住みたもう」こと、「キリストの栄光を見た」ことは我々にとってよそごとではない。
 もっとも、「我々のため」という捉え方は分かりやすい。それだけに、分かりやすさに甘え、また溺れ、福音の解釈が救われる者の自己中心的なものになり、自己を尺度の基準にした考えになり、神の大目的を見忘れ、その栄光が見えなくなり、神をさえ自分の尺度で測るという上下転倒の錯誤を犯す恐れがあるから注意したい。しかし、我々が我々の立場を踏まえることは当然であろう。
 ところで、ここに言う「我々」は誰を指すのであろうか。この福音書を書いたゼベダイの子ヨハネ、また彼と共にいた弟子たちを先ず指すことは間違いない。2章11節に「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行ない、その栄光を顕わされた。そして弟子たちはイエスを信じた」とあるのは、弟子たちが主イエスの栄光を見た最初の体験の機会であった。そして、最後の晩餐の時、ヨハネ伝17章24節で、主イエスは「天地が造られる前から私に賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」と祈っておられる。主イエス・キリストは終始、弟子たちに栄光を見させようとしておられる。
 では、栄光を見たのは、限られた弟子だけであったか。そうではない。11章40節で、主ご自身ベタニヤのマリヤに言われる。「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。そして、マリヤたちは信じて栄光を見た。では、そこに居合わせた人は見たが、そこにいなかった者は見ないのか。確かに、ラザロの復活の事件を見ることはない。けれども、信じたならば誰でも主の栄光を見るのである。パウロはコリント人への第二の手紙3章18節で、「私たちは皆、顔覆いなしに、主の栄光を鏡に写すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行く」と言った。我々も皆、栄光を見るのだ。
 さて、「言葉が肉体となった」こと、これは「神が人となった」と言っても同じである。すなわち、「言葉は神であった」と1節で言われたのであるから、「神が肉体になった」と言っても良いわけである。そして、「肉体」というものについては、後でもう少し詳しく見たいと思うが、「人」というのと大体同じ意味である。
 ところで、「言葉が肉体となった」、もしくは「神が人となった」というのは、必ずしも分かりやすくない言い方である。事実、キリスト教の歴史の中で、多くの誤解と反発がこの言い方をめぐって生じている。大きく別けて二つのグループになるが、一つは、言葉が肉体となる、あるいは神が人となることに躓くのである。そういうことはあり得ない、と考える。すなわち、神と人とは全く性質が違い、次元が違う。神が人を顧み、手を差し伸べたもうことはあるとしても、神が人となることはあり得ないのではないか。特にユダヤ人のように超越的な神を信じる人たちは、神が人となるということを冒涜と感じていきり立った。だから、ご自身が神の子であると言われる主イエスを、神の神聖に対する冒涜の罪で裁いて十字架につけたのである。
 それと若干違う問題であるが、「肉体となる」ということに対する執拗な反抗がある。ヨハネの第一の手紙、4章2節に「イエス・キリストが肉体を取って来られたことを告白する霊は、全て神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、全て神から出ているものではない」と言う。つまり、キリストが肉体を取られたことを信ずるまいとする「グノーシス」と名乗る異端がこの時はびこったのである。キリストを信じるけれども、肉にならない霊的なキリストを信じるのだと主張する。
 神が人となった、ということをズッと軽い意味に受け流して、分かりやすいように人間の姿をして出て来て下さった、というくらいの意味に取って置きたい人は今でも少なからずいるのである。「キリスト仮現説」と呼ばれる。しかし、今学ぶ事柄には我々の救いと滅びが掛かっていることに留意しよう。キリストが肉になられなかったなら、我々の救いはなかったのだ。コロサイ書1章21-22節に、「あなたがたも、かつては悪い行ないをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。しかし、今では、御子はその肉の体により、その死を通して、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、み前に立たせて下さったのである」と言う。キリストが肉体となられなければ、我々と神との和解は開けなかったのである。
 もう一つの読み違えは、「言葉が肉体となる」の「なる」についての錯誤であるが、「言葉」がもはや「言葉」でなく、「肉体」、あるいは「肉」になってしまったと取り、神が神であることを止めて人となってしまった、と読む人がいるのである。「なる」という動詞をそのように「変化する」の意味に受け取ることは通常行なわれている。しかし、ここに関する限り間違った読み方であることは、文章の続きを見れば明らかである。「我々はその栄光を見た」と言うではないか。単なる肉になってしまったものに栄光はないであろう。まして、父の独り子の栄光がただの肉にあるわけはない。
 「言葉が肉となった」とは、言葉が言葉であることを止めないで、また神が神であることを止めないで、「肉を摂取した」、「肉の中に入った」、「肉を纏った」という意味である。教会用語としては「受肉」と言う。これは変化してこうなったのでもなく、合成された、結びついた、また半々にしたものを合わせた、というのではない。合わさったなら、切り離されたり、混同されたりする時があるであろう。そこには栄光はない。また、半分の神、半分の御言葉ならば、栄光はない。全き神が全きままで全き人になられたのである。この事情は我々の信仰告白で簡単な言葉で「まことの神にしてまことの人」と言う通りである。
 我々は、キリストの復活が、単に霊の現象として立ち現れたことではなく、「体の甦り」、「肉体を具えた復活」であることを確認している。キリストの昇天も、肉体と切り離されていない。「あなたがたが見たように、またおいでになるであろう」と昇天に際して御使いが告げたように、再臨のキリストは肉体を具えて天から降って来られる。当然、今、天にあって父の右に座したもうキリストも、肉体を持った主である。「神を見た者はまだ一人もいない。ただ父の懐にいる独り子なる神だけが、神を顕わしたのである」と18節が言うように、神を見るのは独り子なる神においてである。そして、我々に見えるように示される独り子なる神は、人となりたもうた神、肉体となった言葉である。キリストにおいて神と人とは分離も分割もされないのである。
 それでこそ、キリストは仲保者の務めを全うしたもう。全き人であるから、我々に代わって負い目を償うことも出来た。さらに重大なこととして、ご自身の「肉」に与らせることこそが救いであると彼は教えたもう。6章51節で言われる、「私が与えるパンは、世の命のために与える私の肉である」。いずれ6章で詳しく学ぶのであるが、言葉は肉体となり、その肉体に我々は与る。それが救いである。聖晩餐の行なわれるごとに確認しているのであるが、肉となりたもうた主が肉を我々に与えたもう。それなくしては救いの確かさはないのである。
 「肉体」という言葉について整理をつけて置きたい。我々の使う聖書用語では、普通、「肉」と「体」あるいは「肉体」を使い分ける。「肉」は悪いニュアンスを持ち、「体」は必ずしも悪くない。例えば、ローマ書7章18節に、「私の内に、すなわち、私の肉の内には、善なるものが宿っていないことを私は知っている」と言う。同じローマ書12章1節には、「あなたがたの体を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として捧げなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」と言う。このように「肉」と「体」は対照的なのだ。普通、新約聖書のギリシャ語語彙として、肉は「サルクス」、肉体は「ソーマ」が用いられる。
 その常識はそれで間に合う場合が多いが、今学んでいるところでは少し用心して置きたい。ここで「肉体」と訳されたのは「ソーマ」でなく「サルクス」なのである。だから「肉」と訳したほうが良いかも知れない。「サルクス」必ずしも悪なのではないことに一言触れて置かなければならない。確かに、我々の現実においては、肉が直ちに、汚れ、罪、神への反逆、という意味になる場合が殆どである。だから、肉すなわち罪というのが常識になっている。しかし、順序立てて正確に言えば、神は初めに肉を良き物として造られた。しかるに、その良き物に具えられていた本来の善は、人の堕落によって失われた。善の欠如だけが現実となる。そこで、今や肉は悪しきことのみを欲し、自己追求に耽り、神の栄光に反発する。
 神である言葉が、肉を取りたもうたが、それは本来の「肉」であって、汚れと無縁の「肉」である。ところで、「言葉が肉体を取る」手続きはどのようにしてなされたのか。これについてヨハネ伝は全く沈黙している。特別に深いわけがあって論述を省略したのではないと思う。すなわち、「我々はその栄光を見た」と言う。それで十分だったのだ。我々も肉体となったキリストの栄光を見、それで十分だと思っている。
 しかし、言葉が肉体を取るとはどういうことか知りたい人に隠す必要はない。すなわち、我々が教えられ、告白しているように、「聖霊によって」、「処女マリヤの胎から」、肉を受け取り、人間性を具えられたのである。マリヤからの誕生についてヨハネ伝では語られていないが、「母マリヤ」が主キリストの死の場面に登場している一ことで、彼女の胎からの受肉と出生はハッキリ示されている。
 ヨハネ伝がマリヤの処女であったことについて言及していないので、我々も今は処女マリヤにおいて起こったキリストの受胎の秘義については触れないが、言葉が受肉した事実そのものについては黙っていず、確認して置かなければならない。世の初めから言葉が肉体になっていて、それがマリヤの胎内で大きくなって、生まれ出たというのではない。言葉が肉体となる事件は世の初めからでなく、歴史の半ばにおいて、マリヤにおいて、ただ一度起こったのである。
 「肉体となった」とは単に肉という物質を採り入れ、単に肉体の形をもってご自身を示された、すなわち見せかけの上で人間であったということではない。肉体となったとは、肉としての空間を占めただけでなく、人間としての本性と全条件を具えておられたということである。見せかけが人間と少しも違っていなかったというのではなく、中味が我々と同じだったのである。
 人間性というものについて、我々はこれが何か忌まわしい物であるように考えることがよくあるが、人間性必ずしも汚らわしいのでなく、本来は良きもの、潔いものとして創造された。それだのに、罪に落ちた人間の人間性が汚れたのである。
 次に、「我々のうちに宿った」とはどういうことか。キリストが私の内面に住まいたもうことを指したのではない。今、彼が我々のうちに、御霊によって住みたもうことは確かである。しかし、それは肉体をもって住みたもうことでなく、御霊によって住みたもうのである。ここで「我々のうちに宿った」と言われるのは、我々の一人となって、我々の間に入って来られたことを言う。
 「言葉が肉体となった」ことと、それが「我々のうちに宿った」こととは事柄としては同じではないが、結びついており、意味を補っている。肉体となった御言葉が我々のうちに宿るのでなければ、我々が神の子の栄光を見ることは出来なかったのである。我々は人間であることの条件の一つに、人と共に生きる、人々の間に行き来する、交わりのうちに生きる、言葉を交わす、という要素があることを知っている。人間の形をしているから、人間の遺伝子を持っているから、人間だということにはならない。
 「宿る」とはテントを張って住むという言葉である。ここでは仮住まいという意味はない。そこから思い起こすのは「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全く拭いとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが既に過ぎ去ったからである」との黙示録21章3節の言葉である。これが終わりの日の至福の状態である。
 むかし神の幕屋は「会見の幕屋」と呼ばれた。神がそこで会見したもう。出会ってくださる。そこで神の栄光に出会う。それが幸いである。神が人と共に宿ることは旧約においては祝福の極致として描かれていた。例えば、ゼカリヤ書2章10-11節に言う、「主は言われる、シオンの娘よ、喜び歌え、私が来てあなたがたの中に住むからである。その日には、多くの国民が主に連なって、私の民となる。私はあなたがたの中に住む」。そのことがイエス・キリストにおいて実現したのである。肉体を取ったキリストにおいて神は我々のうちにやどりたもうた。
 「我々はその栄光を見た」。これも神が人と共に住まいたもうことと結び付けて理解しなければならない。栄光が見られて、分かったというだけでなく、救いの体験である。
 「それは父の独り子としての栄光であって、恵みとまことに満ちていた」。――「父の独り子」という言葉はこの福音書記者特有の表現であって、他の福音書、また他の使徒の手紙には出て来ない。この言い方には、一つには、父から生まれ、父の本性と栄光を生まれながら具えているという意味がある。もう一つ、神の栄光を顕わす点で並びなきものであるという意味がある。
 「恵みとまこと」これは17節に再び現われる。我々の心に刻みつけたい言葉である。旧約聖書にしばしばある「憐れみとまこと」と言うのと同じである。出エジプト記34章6節で主なる神御自身が言っておられる。「主、主、憐れみあり、恵みあり、怒ること遅く、慈しみと、まこととの豊かな神」。ここで分かるように、「恵みとまこと」は、人間の側から神に奉った賛辞ではなく、神御自身の自己確認の言葉である。「恵みとまことに満ちていた」とは人となった御言葉の神性を示すのである。見て、そういうものとして悟ったというのではなく、恵みとまことの充満に照されたのである。

1999.06.06.


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