◆説教2000.11.05.◆

ヨハネ伝講解説教 第59回

――ヨハネ6:28-33によって――
 28節、そこで彼らは言った、「神の業を行なうために私たちは何をしたら良いでしょうか」。
 これは27節で、主イエスが「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」と言われたことに対する応答である。人々の問う「神の業」は、ここでは「神のなしたもう業」という意味ではなく、「神の求めたもう業」のことである。それは「永遠の命に至る朽ちない食物のための働き」と主が先に言われたものを指している。
 それでは、人々は主イエスに「朽ちる食物」しか求めないことをたしなめられて、「私たちは思慮の足りないことをしておりました。今からは永遠の命に至る朽ちない食物のための業をしたいと思いますから、それをどのように行なえば良いかを教えて下さい」と言ったのであろうか。
 ユダヤ人の間では、律法の命じる「行ない」を果たすことが神の民の義務の業であるという理解が広く受け入れられていた。と同時に、「律法に従うべきであることは確かであるが、自分たちの律法解釈と先祖からの解釈の言い伝え、また律法学者の教えてくれる解釈では、まだ何か足りないのではないか。新しい解釈が、新しく出現した教師たるイエスによって教えられ、これまで知られていなかった新しい業が示されねばならないのではないか」。そのように考えて訪ねて来る人が、多数とは言えないとしても、ある程度いたことを我々は知っている。3章に出て来た律法学者ニコデモの求めが何であったかは分からないが、それであったと解釈して差し支えない。
 また、マタイ伝19章16節以下、またマルコ伝10章17節以下、またルカ伝18章18節以下にある、道を求めて駆けよって来た富める青年も同じであろう。彼は「永遠の生命を嗣ぐためには何をなすべきでしょうか」と尋ねている。先祖以来の教えは正しいのだけれども、何か足りないものがあるのではないか。その足りないところを解いてくれるのがナザレのイエスではないか、と期待したユダヤ人は少なくなかった。海の向こうからカぺナウムまで、主イエスを追ってきたユダヤ人もそうだったのではないか。25節にある「先生」という呼び掛けの言葉、これは「ラビ」という語であるが、主イエスをラビの一人と見ていたらしい。
 そのように読むのも一つの読み方であろう。そして、このように解釈する人々は、ユダヤ人らが不十分ながら、彼らなりに真面目に求めて、質問しているのに、主イエスが初めから「攻撃的」とさえ言えるほどの厳しい調子で答えておられるのは、もっともらしいことを言う人々の本心を見抜いておられたからであって、そうされたのは当然であると受け取っている。
 しかし、その考察は少し浅いのではないか。主イエスはすでにこの問いに対する答えを出しておられたのである。にも拘わらず、ユダヤ人らはそのことに全然留意しなかった。すなわち、主は「永遠の命に至る朽ちない食物」について語られた時、引き続いて「これは人の子があなたがたに与える物である。父なる神は、人の子にそれを委ねられたのである」と言っておられるのである。
 すなわち、「永遠の命に至る朽ちぬ食物」はイエス・キリストが持っておられる。彼の内にある。昨日、海の向こうの丘陵の青草のうえで、5000人の人々に祝福してパンを分かち、奇跡によって養いたもうたように、永遠の命に至る食物は彼が手ずから分け与えたもう。いや、後にますますハッキリして来るように、イエス・キリストそのものが永遠の命に至るパンである。神の子であり人の子であるキリストを求めることが、永遠の命に至る道である、ということはすでに明らかに示されていたのである。
 主イエスがユダヤ人らの求めに対してギスギスした答えをされ、話が噛み合わず、対話がぎこちなく進められ、ついに決裂した、というふうに見るのは適当ではない。答えを出しておられるのに、それを素直に聞かない彼らが、いよいよ頑なに対立的になって行く次第がここに読み取れるのである。
 29節が重要である。「イエスは彼らに答えて言われた、『神が遣わされた者を信じることが神の業である』」。
 「神の業」は上に述べた通り、人々から問われた時には、「神の求めたもう業」という意味である。しかし、人々から問われて、主イエスが答えたもうた時の「神の業」には、もう一つのもっと重要な意味が加えられている。それは、「神のなしたもう業」である。「神の業」という言葉がこの意味で用いられて例として思い起こされるのは、9章3節である。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それともその両親ですか。イエスは答えられた。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ、神の御業が彼の上に現われるためである」。この盲人において神の業がなされて、目が開かれるという奇跡が起こった。肉の目が開かれたことをそれだけのこととして受け取ってはならない。これを踏まえて、心の目が開かれることを思わねばならない。ここでも、神の御業が現われる。簡単に言うと、信仰こそは神のなしたもう業である。
 神の遣わしたもうた者を信じることは人間の業ではない。人間の判断力から言っても、選択力から言っても、永遠性を捉えることは出来ない。また、実行力から言っても、信仰へと飛躍することは出来ず、信仰を貫くことも出来ない。キリストを追って来た5000人が散ってしまって、12人しか残らなかったように、一時的にキリストを追い求めることは出来るのだが、持続しないのである。彼らの信仰は一時的なものに過ぎなかった。
 それは信仰と似て非なるものである。永遠の生命に到達する信仰ではなかった。それが「朽ちる食物のための働き」と言われるものである。後で見るように、44節には「私を遣わされた父が引き寄せて下さらなければ、誰も私に来ることは出来ない」と主イエスは教えておられるのである。
 何か崇高なものに憧れを感じて追い求めて行く、その位のことなら、普通の人間にも出来るかも知れない。しかしマタイ伝15章13節でも言われるように、「父なる神の植えたまわぬ者は皆抜かれる」のであって、彼らの一時的信仰は持続しない。一時的に満足感を味わうことは出来るとしても、永遠の救いには何の関わりもない。
 神の業が我々のうちになされ、頑なな心が神への恐れを知り、神の与えたもう光りによって真理の光りを見、御霊によって照らされて真理を捉え、御霊によって信仰を与えられて、キリストを受け入れる、ということが起こらないならば、イエスは素晴らしい方であるというだけで終わるのである。
 「神が遣わされた方を信じることが神の業である」という言葉は、こういう形ではヨハネの福音書に初めて出て来たものであるが、その主旨の教えを主イエスは一貫して説いて来られた。特に、5章でエルサレムのユダヤ人との論争の中で同じようなことを主張しておられる。21節で「父が死人を起こして命をお与えになったように、子もまた、その心にかなう人々に命を与えるであろう」と言われた。それに続いて、24節では「私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の生命を受け、また裁かれることがなく、死から命に移っているのである」と教えたもうた。
 生かす権能は父が本来持っておられるが、それが父から子に託されて、御子は地上に遣わされたもうた。この御子を信じることによって、永遠の命が得られるのである。これが繰り返し教えられている「命の道」である。
 「御子を信じる」こと、ここに永遠の生命に至る門の扉を開く鍵がある。ここには重点が二つある。一つは「信じる」ことであって、「行ない」ではないということである。
 もう一点は漠然と神や神の恵みを信じるのでなく、神の遣わしたもうた「御子」を信じることである。先にも触れたように、ユダヤ人の中には律法を行なうことによって永遠の生命に到達できるという信念があり、それとともに、原理的にはそうであるが、自分たちの知っている業では何か足りないのではないかという不安があった。だから、これ以上に「何をしたら良いのですか」と求めたのである。主はそれに対して、「何かをするのではなく、信じるのだ」と答えたもうた。また、「あなたの前に立つこの私を信じるのだ」と言われる。
 パウロはローマ書3章28節で「人が義とされるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるのである」と言うが、ヨハネ伝のここと、言い方は違っても、言わんとすることは同じである。「義とされる」という言葉を「永遠の生命」と置き換えれば良い。「義とされる」ということと「永遠の生命」を同一視することは乱暴な扱いであるが、行ないによらず信仰によるという点では同じ主張である。
 では、「信仰」は何を信じることなのか。「神を信じる」と言うべきか。確かにこれは正しい答えである。ではあるが、多くの実例によって知られるように、「神を信じる」と言っている人、それも口先だけでなく心を尽くして神を信じ、神に従おうと努力している人が、必ずしも永遠の生命の約束の確信に到達しているわけではない。「神」というものを漠然と憧れている他宗教の人たちに確信がないのは言うまでもないが、まことの神を教えられたイスラエルの中にも、永遠の生命についての確信が必ずしもなかった事情は我々の見て来た通りである。
 神を信じるのは間違いではないが、キリストを遣わしたもうた神を信じるのでなければ確かさはない。これは神の遣わしたもうたキリストを信じることと言い換えても良い。
 再びパウロのローマ書を思い起こすのであるが、3章26節には「こうして神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」と記される。「イエスを信じる者を」と言われる。信仰者とは単に神を信心する者ではなく、キリストを信じる者のことである。
 「神を信じる」ということがなお不確かであるとはどういう理由か。特に取り上げなければならないのは、人間の罪が神との間を隔てているため、神と人との結び付きが出来ないからである。すなわち、神ご自身が中に立ちたまい、人間を罪の中から贖い出し、和解したまわないならば、神と人との交わりは成り立たないのである。神の贖いは旧約の民に約束されていたとはいえ、彼らによって確実に把握されていたわけではなかった。だから、イエス・キリストにおいて贖い主なる神に出会わなければならない。
 ところが、神を信じるということに関してならば抵抗を感じなかったユダヤ人は、ナザレのイエスを信じることには非常な抵抗を感じる。「言葉は肉体となって我らのうちに宿りたもうた」ということを彼らは信じようとしない。これはこれまでの所で見たことではあるが、ここでも繰り返される。
 そこで彼らは言う、「私たちが見てあなたを信じるために、どんな徴を行なって下さいますか。また、どんなことをして下さいますか」。
 これと似た言葉を思い起こす。2章18節である。「ユダヤ人はイエスに言った、『こんなことをするからには、どんな徴を私たちに見せてくれますか』」。主イエスは神の子としての権能をもって宮潔めをされた。ユダヤ人はその権威を持つことを徴によって示さなければならない、と主張する。
 「あなたを信じるためには徴が必要である」と言うのである。徴ならば、彼らは昨日、海の向こうの草原で徴を見たのではなかったか。5章36節で主イエスは「私にはヨハネの証しよりも、もっと力ある証しがある。父が私に成就させようとしてお与えになった業、すなわち、今私がしているこの業が、父の私を遣わされたことを証ししている」と言われた。これは安息日にベテスダの池のそばで38年間起きられなかった病人を癒したもうた奇跡を指す。
 キリストが神から遣わされたことについての徴なら、あるではないか。昨日行なわれたパンの奇跡は確かに徴であった。しかし、26節で主イエスが言われた通り、彼らはパンを食べて満腹したけれども、徴は見なかったのである。徴があっても見ない。見ようとしない。それでいて、「徴を見せてくれ、見せてくれ」と要求するのである。
 彼らが昨日の奇跡を忘れたわけではない。次の31節に、「私たちの先祖は荒野でマナを食べました」と言っているところから分かる。先祖が荒野で毎日マナを食べたような奇跡が、連日起こらなければならないと言っているのである。昨日の一回のパンの奇跡は徴と呼ぶに足りないというのである。
 我々の理解しているように、ガリラヤの湖の東の丘陵で5000人を養いたもうた徴はこれだけで立派な徴である。我々はその徴を繰り返し、ここに神の国の到来の陰また前触れを読み取ることが出来るのである。彼らも出エジプトの時の荒野のマナを思い起こすとともに、メシヤの来臨の日にあると約束されている天国の祝宴を味わうべきであった。
 ところが、彼らは昨日の奇跡では満足していなかった。「私たちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてある通りです」。
 荒野のマナの奇跡よりあらゆる意味で遥かに規模が小さいではないか、と言っているらしいのである。彼らが特に言いたいのは「天よりのパン」ではないかと思われる。昨日のパンは天からのパンではなく、貧しい少年の持っていた粗末な大麦のパンではないか。
 それが40年に亙って続いた。ただ一回の食事ではモーセによる荒野のパンを越えることは出来ない。あなたはモーセと肩を並べることが出来る神の器ではない。
 この人たちの無理解を批判しても意味はない。我々の目を研ぎ澄まし、見るべきものを見なければならない。我々の間で今分かたれるパンは小さい徴である。しかし、主が「これは私の体である」と言われる。私がキリストの体に与っていることをここで確認するのである。彼は私は命の水である、と言われたようにまた、まことのパンであると言われる。この水を飲む者は永遠に渇くことがないように、命のパンに与る者は永遠に生きるのである。


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