◆説教2000.10.15.◆

ヨハネ伝講解説教 第57回

――ヨハネ6:16-21によって――
今日ヨハネ伝で学ぶ出来事の大切さは、すでに触れたところであるが、四つの福音書に共通して記録され、証言されている。この出来事を経験したのは十二弟子だけであって、パンの奇跡のように五千人の証言者がいるわけではないが、十二人にとってはパンの奇跡に劣らない、いやそれ以上の経験であった。
 この出来事の記事には欠損があるらしく、不分明な所が多い。そこで、想像力によって補って、福音書記者の書いた以上に細かく、また明確に描き直したいと思い立つ人がいるであろう。だが、そうすることは殆ど不可能である。我々の知恵が貧しいからである。また、この夕方から翌日までの経過を整理して、タイムテーブルに書き直して見たところで、何かの益が得られるわけではない。
 ただ、聖書に記されたのは無駄話でないのだから、書かれていることを見落としのないように捉えて置く必要はある。これをハッキリさせるために、マルコ伝6章45節から52節に記された平行記事を重ね合わせるのが有効であると思う。そのところを読んで置こう。「それから直ぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。夕方になった時、舟は海の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。ところが、逆風が吹いていたために、弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを御覧になって、夜明けの4時頃、海の上を歩いて彼らに近付き、その傍を通り過ぎようとされた。彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。みんなの者がそれを見て、怖じ恐れたからである。しかし、イエスは直ぐ彼らに声を掛け、『シッカリするのだ。私である。恐れることはない』と言われた。そして彼らの舟に乗り込まれると、風は止んだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである」。
 ベツサイダとカぺナウムの食い違いがあるが、隣り合っている町であるから、違いを今は無視しても許されると思う。マルコ伝を読み合わせて、かなりハッキリして来た。まだ良く分からない部分があるが、我々に語りかけられていることから掴み取るべきものが何かを知るには十分ではないか。
 記録はキチンと押さえなければならないが、記録は事実を示すものであるから、我々は事実そのものに目を向けよう。物語りを詳しく知るというだけでなく、事実そのものが我々の魂に刻みつけられなければならない。その事実は十二弟子にしか経験されなかったが、そのような経験が彼らにだけ与えられ、群衆に与えられなかったのは、彼らの帯びている使命と関わりがあることは確かである。その使命の遂行を助けるために、彼らにこの事実の経験が与えられた。
 彼らがこの後、この経験を謂わばなぞるような出来事に遭うということを思い起こそう。すなわち、教会に対するローマ帝国の迫害である。使徒たちは次々に殺された。皇帝の像を拝礼しないキリスト者も殺された。波に翻弄され、まさに沈もうとする小舟、これは教会なのである。こういう解釈が定着し、その解釈を代々の教会は受け継いで来た。この解釈は現代の我々にとっても全面的に受け入れることの出来るものではないであろうか。現代の教会も、まさに沈没しつつあるように見える。一挙に転覆して沈没するかも知れない。余り知らされていないだけで、そういう事例は少なからず起こっている。また、一挙に沈むのではないとしても、少しずつ沈んで行く事例がある。今日の日本の教会は殆どその状況なのである教会は謂わば嵐の中で沈没しそうな小舟である。だから、「シッカリ励まなければならない」と掛け声を掛けることも大切であろう。だが、もっと大切なことを今日教えられなければならない。
 そのような危殆に瀕した教会を救ったのは、舟の中の人の必死の努力ではなかった。彼らのうちには漁師をしていた者が何人もいたが、その熟練した技術をもってしても、何とも出来なかった。舟を助けたのは、舟の外から近づきたもうたお方であった。このお方、ここに我々の目を第一に向けなければならない。と同時に、このお方が、あり得べくも思われない方法によって、奇跡によって、教会に近付き、そして助けたもう。しかも、これが、過去にあったお話しではなく、我々が今経験しつつある事実だということが今日学ぶことの眼目である。
 十二弟子にだけ与えられ、群衆には与えられなかった経験だと言ったが、我々が群衆の立場にいて、破滅する舟を陸から見るような、傍観者であると思ってはならない。我々も弟子たちとこの経験と確認を共有するのである。
 お話しならば歴史から幾らでも拾い上げることが出来る。例えば、56年前までの日本では、「いまに神風が吹くから勝利の日まで頑張ろう」と、大真面目なアッピールがされていた。800年余の昔、元の軍勢が二度にわたって日本を攻め取ろうとして大艦隊を組んで来襲した。その時、ちょうど台風の季節であったために、台風に襲われて、船が多く沈んだ。日本人はそれを喜んで、「神風が吹いた、日本は神が守ってくれる神の国なのだ」と有頂天になった。人々は太平洋戦争の末期、日本軍が至るところで勝ち目のない戦いの果てに全滅していた時、「また神風が吹く」と期待した。
 かつてあった出来事がまた起こるのではないかと考えることは出来る。それが確かに起こるのだと思い込むように自分自身を説得することも出来なくはない。しかし、確かであると思い込むことが出来るということと、確かにそうなること、現実に起こるということとは全く別である。それは単なる空想に過ぎない。
 ことが起こるまでは、単なる空想と、確かな期待とは、外面上、全く区別出来ないであろう。だから、神風が吹くことを夢見ながら死に絶えて行った人を嘲笑ってはならないのであるが、かつてあったから明日起こらないとは言えない、という理屈を立てて、だから明日それが起こるのだと決めつけ、人にもそう思い込ませることの愚かさ、偽り、空しさ、軽薄さ、誤魔化し、そう思い込まずには心の安らぎが得られない人間の悲惨さに目を瞑ってはならない。
 世間一般でそのような軽薄なことが言われているだけでなく、教会こそこの過ちを起こしやすいのである。その教会にとって今日学んでいることは安心感を膨らませる格好の材料である。
 預言者エレミヤの時代に、人々は、「神がこのユダの国とエルサレムを助けたもう。バビロン軍の包囲はやがて解かれ、エルサレムの栄光は回復する。それを信じない者は不信仰であり、神を冒涜する犯罪者だ」と言っていた。それは如何にも本当らしく聞こえたのである。けれども、本当らしく思われることと真理そのものとは別なのである。教会は本当らしく思われることを宣べ伝えて人々に安心感を与えるのではなく、本当のことを宣べ伝えて、悔い改めと信仰に励ますのである。
 嵐に玩ばれる小舟が教会であるとの認識はすでに定着し、吟味し直す余地のないものであるが、教会には主の助けがあることを安易なお話しにしてしまってはならない。ところが、実際は、教会が、この出来事を安易なお話しに作り替えて、虫の良い解決期待と現実逃避の口実にすることがある。そういう悔い改めのない期待を語り続けるうちに、教会がますます衰退して来たというのが、ありのままの事実ではないだろうか。
 だから、「かつてこういうことがあった、これからもあるであろう」というお話しによって、一時的安心感を与えることで済ませないようにしなければならない。これはまた、主は必ず来られるのであるから、意気阻喪しないで、歯を食いしばって待っていよう、と励ますこととも違う。
 では、どうすれば誤魔化しでない、生命に溢れた真理をここから読み取ることが出来るか。――その秘訣は決して難しいものではない。すなわち、この出来事を、かつてあった事、だから今後もあるであろう事、としてだけ捉えるのでなく、むしろ、今、我々のただ中で、この教会において、起こっている事実として把握すること、これが秘訣である。「私はいつもあなたがたと共にいる」と主は約束されたが、その約束が真実であることは確かなのである。
 我々が今日、説教に引き続いて行なおうとしている聖晩餐は、主がここに来ておられることを示し、我々はそれを確認しつつこれに与るのである。
 「主はともにいます」。「インマヌエル」。これが確認すべき中心的事項である。福音書の嵐の海の奇跡には、海の上を歩かれたという出来事と、嵐を鎮めたもうたという出来事とがある。ここでは後者ではなく、前者だけである。嵐が収まらなくても良いと言うわけではないが、それは二の次である。嵐が吹き猛っても、主は共にいますのである。主がともにいますならば、嵐が吹き荒れているかどうかは大した問題ではなくなる。
 海の上を歩くなどとは荒唐無稽の作り話であると言う人はあろう。その説明を求められると、我々も言葉につまるのである。これは奇跡なのだと言う以上のことは我々には出来ない。しかし、奇跡物語りを信じていることが信仰なのではなく、現実に味わっている事実として確認しているのが信仰である。それが信仰の現実である。
 主が海の上を歩きたもう場面を想像しても、殆ど益にならないであろう。大事なことは、主があらゆる困難を排除して、「私はあなたと共にいる」との約束を実現したもうということである。
 信仰の現実とは、今に良いことがあると当てにする、あるいはそれを信じて苦しくても待ち続けることではなく、今すでに約束が成就していると確認していることである。キリストが世に来られたのはそのためであったのではないか。
 キリストが来てともに歩みたもうという体験は、キリスト者には常時あるべきものであるが、時に失われることがある。その時に危機が来る。
 「すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった」と17節に書かれているが、彼らだけで先に向こうに行かせるよう、主イエスが命じておられた。だから、彼らは言われた通り舟を出した。その時点では何の不安もなかった。だが、嵐が吹き始めて、主のおられないことの不安に気付いた。これが危機である。その危機が主イエスの来たりたもうときに解消する。これがこの出来事の筋書きである。
 ただし、主イエスが近付いて来られるのを見て、弟子たちはもう安心だと喜んだのではなかった。先ず「恐れた」のである。主不在の恐れ以上の恐れを感じたのである。幽霊が来たと思ったからである。そのように、あり得べくもないことが起こって、それを恐れるということはあるであろう。だが、事実が何であるかが分かるに及んで、恐れが喜びに変わるのである。
 ここで特別に関心を集中して読まなければならないのは、このお方が語りたもうた御言葉である。20節に「するとイエスは言われた。『私だ、恐れることはない』」と記されている。
 恐れの中にいた彼らへの語り掛けであるから、「恐れるな」と言われたのは当然である。我々はこの言葉が聖書の中でしばしば聞いていることを思い起こさずにおられない。
 神が立ち現われたもう時、人々は神不在のもとにおける恐れ以上の恐れを抱かずにおられないのであるが、その神が「恐れるな」と言われる。それが福音なのである。イザヤ書43章5節に言われる、「恐れるな、私はあなたと共にいる」。
 「私である」と主イエスは言われる。ほかの者がこのようにして近付いて来るならば、恐れなければならないかも知れないが、私なのだ、と言われる。この一言の重さを我々は知っている。
 しかし、さらに詳しく見たい。「私である」と訳されているギリシャ語は「エゴー・エイミ」である。直訳しにくいが、「私は私である」という言葉になるであろうか。エゴーは「私」、エイミは「私がある」という語である。実際にこの言葉が用いられた場合について意味を確かめた方が分かりやすいであろう。
 9章に、主イエスが生まれつきの盲人で乞食であった人の目を安息日に開きたもうたという事件がある。その人について8節9節に言う。「近所の人々や、彼がもと乞食であったのを見知っていた人々が言った、『この人は座って乞食をしていた者ではないか』。ある人々は『その人だ』と言い、他の人々は『いや、ただあの人に似ているだけだ』と言った。しかし、本人は『私がそれだ』と言った」。この本人の言った言葉が「エゴー・エイミ」である。すなわち、自己確認の言葉、アイデンティティーの現われなのだ。
 ヨハネ伝の中には「私は何々である」という言葉が特徴として出て来る。「私は世の光りである」、「私は良き羊飼いである」、「私は命である」、この6章では「私は天から下った生けるパンである」という言い方がしきりに繰り返される。それらはいずれも大切な言い方であるが、「私は私である」という言い方はもっと基本的であると言えよう。
 同じような意味の言葉は聖書の至る所にある。イスラエル王アハブがエリヤを探させる時、王の家の家令オバデヤが道でエリヤに会う。オバデヤは伏して挨拶し、「我が主エリヤよ、あなたはここにおられるのですか」と言う。エリヤは答える、「そうです。行って、あなたの主人に、エリヤはここにいると告げなさい」。――エリヤが言った「私がここにいる」。これはエゴー・エイミではない。ギリシャ語訳ではただ「エゴー」であるが、意味は同じ自己確認の言葉である。
 もっと相応しい言葉を旧約の中に探すならば、イザヤ書58章9節の「あなたが叫ぶ時、『私はここにおる』と言われる」であろうか。いや、言葉としてもっと近いのは、出エジプト記3章でモーセがホレブで神と出会って、その名を問うた時、神は答えて言われた、「私は有って有る者」である。旧約聖書のギリシャ語訳では「私は有って有る者」は「エゴー・エイミ」になっている。だから、海の上を歩いて近づきたもうた主イエスが語られた言葉は、モーセに現われたもうた主なる神の名乗りたもうたのと同じ言葉であったと見て良いであろう。
 恐怖のドン底に落ちている弟子たちに現われたのは、キリストの幻でも幽霊でもない。
 キリストの代理人でもない。キリストそのものなのだ。そればかりでなく、逃げも隠れもしないキリスト、自己確認つきのキリスト自身である。
 人間を相手にする時、相手が責任を回避し、曖昧にし、責任を受け止めるべきその人自身が一体何であるかが分からなくなって行く場合が多いという経験を持つ人は少なくないであろう。しかし、主なるキリストを相手にする時、彼は決して責任を曖昧にしたまわない。私は私である、と言われる。
 そのお方に出会う時、我々も私は私である。私は全存在をもってあなたに応答します、と言わざるを得ない。自己確認したもうお方に対する「我信ず」との告白が、我々の自己確認の出発点になる。
 


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