◆説教2000.10.01.◆

ヨハネ伝講解説教 第55回

――ヨハネ6:1-14によって――
「その後、イエスはガリラヤの海、すなわちテベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。すると、大勢の群衆がイエスについて来た。病人たちになさっていた徴を見たからである」と1節2節に記されている。6章はヨハネ伝における重要な章である。ここに記される出来事も、ヨハネ伝の出来事のうちの最大なものの一つである。もう一つの最大事件は11章にあるラザロの復活である。
 6章の記事の舞台となっているのはガリラヤである。その場面は二つであって、一つは五千人の給食の行なわれた丘陵地の青草の上であり、もう一つは、59節に記されている通り、カぺナウムの会堂である。「イエスがカぺナウムの会堂で教えておられた時」と書かれているから、会堂で説教された機会であった、と言うのであろう。そうだとすれば、これは安息日のことであったかも知れない。22節には「その翌日」と書かれているから、パンの給食の奇跡の行なわれた翌日、それが安息日であったのであろうか。この点はよく分からない。すなわち、安息日はその前夜から始まっているのであるから、海の上で嵐に遇われたのは安息日になる。安息日に旅行されたことはあり得ない。
 前の章で読んだユダヤ人との論争は、安息日にベテスダの池のほとりで行なわれた癒しの奇跡に引き続いて、エルサレムにおいて行なわれたものであった。その後、主イエスはガリラヤに戻って来られ、宣教活動をされたのである。その前にガリラヤに来られた時のことについては、4章45節に「ガリラヤに着かれると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」と書かれていたが、ユダヤでは歓迎されず、ガリラヤで歓迎されたというハッキリした違いがあることに、その時に気付かせられた。
 4章でガリラヤ人の歓迎に遇われたことの次に、5章1節には「この後ユダヤ人の祭りがあるので、主イエスはまたエルサレムに上られた」と書かれていた。そのエルサレムでユダヤ人との衝突があった次第を5章の中で読んできた。6章の初めの「そののち」という一語は、そのことの後という意味であって、ユダヤにおけるユダヤ人との対決ののち、またガリラヤに帰って来られたことを指している。人々の歓迎を受けたという記録は省略されているが、そうであったことは確かである。「それから湖の向こう岸に渡られた」というのは、湖のこちらから、つまり恐らくカぺナウムから渡られたことを指すのである。そして2節に「大勢の群衆がイエスに随いて来た」とあるのは、ガリラヤの人々が主を慕って追い掛けて来たという意味である。
 「病人たちになさっていた徴を見たからである」と書かれているのは、海の向こうに渡る前に、カぺナウムで癒しの奇跡が行なわれたことを示しており、癒しの奇跡が単独に行なわれることはまずないと思われるから、そこでは説教がなされたと見るべきである。人々は主の言葉と徴に圧倒されたから後を追って来たのである。だが、その御言葉と徴についての記録は全部省略されたのである。すなわち、この6章ではもっと決定的に大事なことを読まなければならないから、省略したのである。なお、この後日のことを述べると、7章1節でも「ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡回しようとはされなかった」と書いている。主イエスの巡回伝道はこの後もガリラヤを主としたものであったと考える他ない。
 ガリラヤの人はいつも主イエスを歓迎し、ユダヤの人はいつもイエスを排斥していたようであるが、それももう終わりであることを知らされる。この6章の終わり近く、66節には、「それ以来、多くの弟子たちは去って行って、もはやイエスと行動を共にしなかった」と書かれている。この弟子はガリラヤ人であったに違いない。ユダヤ人だけでなく、ガリラヤ人も背き去る時が来たのである。6章はそのような転換点を示している。
 転換点があったということは、これまで随いて来た人たちの気付いていなかった重要な事項が示されたからである。では何が示されたのか。新しい教えか。そう見ることも出来るし、ユダヤにおいてユダヤ人に示されていたのと同様のことが示されたと取ることも出来る。ここでも主イエスの論争相手は41節、52節に「ユダヤ人」と呼ばれている。
 「ユダヤ人」というのと60節以下に出ている「弟子たち」というのと別々の者を指すと考えられるが、弟子の大部分もここで主を棄てて行ったのである。この6章にある「ユダヤ人」はユダヤで主イエスを殺そうとしていたユダヤ人とは別人であるが、それと同じ名称で呼ばれる。本質的に同じだからである。
 ガリラヤの人々は、熱心に追い求めて主イエスに随いて来た。その数、男だけで五千人と10節に書かれている。すなわち、ガリラヤにおいて主イエスを慕い求める動きの盛り上がりはここで最高潮に達した。そして、その最高潮の時期にこの運動は瓦解した。彼らの求めるものと、主イエスの与えたもうものとは全く食い違っていたからである。彼らが何を求めたかというと、15節で見ることが出来るように、人々は主イエスを捕えて王にしようとしたのである。このことの意味はそこに行ってから詳しく見るが、要するに、世俗の求めで随いて来たのである。――したがって、我々も、正しくない方向でイエス・キリストを求めていたならば、ここで突き放されて、主イエスのもとを去って行くことになる。そのような危機的な要素を孕んでいるのが第6章である。
 ガリラヤがこの事件の舞台であるが、すでに一度述べたところであるが、5章の終わりから6章の初めにかけての主イエスの足跡を辿って見ると、エルサレムから恐らくカぺナウムに行かれ、説教と癒しをしておられた。その期間は短くはなかったらしい。というのは、5章にあったエルサレム行きは祭りのためであり、6章の事件は過ぎ越しの祭りの直前であったからである。5章の祭りが何かは分からないが、過ぎ越しか、仮庵かどちらかである。その時に論争があってガリラヤに帰って行かれたのであるから、1年もしくは半年の後に、6章の事件はあった。このカぺナウムから舟で、「ガリラヤの海の向こう」とここに書かれた個所に行かれた。そして、そこからまたカぺナウムに戻っておられる。人々も24節にあるようにカぺナウムに戻る。そこで衝突が起こっている。その衝突の行なわれた場所は59節にあるようにカぺナウムの会堂である。
 ガリラヤ湖のことを「テベリヤ湖」と呼んでいるのはヨハネ伝だけである。湖の西岸にテベリヤという町がローマ皇帝ティベリウスの名を取ってヘロデによって建設された。
 そこからこの名が起こった。主イエスの時代にこの名があったかどうかは疑問であると言われるが、名前に意味があるわけではないので今は触れないで置く。
 ヨハネ伝には、他の三つの福音書にない出来事が次々と出て来たが、6章にあるパンの給食の奇跡、それと嵐の夜の海の上を歩きたもうた奇跡とが結び付いて、(ただし、海の上の奇跡はルカ伝にはなく、パンの奇跡だけである)、他の福音書と共通している。マタイ伝14章13節以下とマルコ伝では6章32節以下に、パンの給食の奇跡とそれに続く海の上を歩まれた奇跡が、ヨハネ伝の記述とほぼ同じように記されている。なお、マタイ伝15章32節以下とマルコ伝8章1節以下に7つのパンによる四千人の給食というもう一つのパンの奇跡が記録されている。ルカ伝では9章11節以下に5つのパンと2匹の魚が分かたれ、余りが12籠になったという記事がある。伝えられた出来事は四つの福音書とも同じである。だが、ヨハネ伝では、パンの奇跡はその後の論争の糸口に過ぎない。その論争の焦点になっているのは、41節で言うように、主が「私は天から下って来たパンである」と言われたところである。
 五千人の給食は大事件である。人々の感動は最高潮に達した。それは世俗的な感動に過ぎないのであるが、ここには飢えている民が食べ飽きるという徴があるのみでなく、神の国が来ていることの徴でもあった。
 5章の中で見たように、主イエスは「私は一切の裁きの権威を授かって父から遣わされた」、「私を信じない者は裁かれた」と言っておられる。それがユダヤ人の躓きになった。今度の「天から下って来た生けるパンである。それを食べる者はいつまでも生きるであろう」という6章51節の主張も、天から遣わされたというのと同じ方向である。ご自身の内にこそ命があると言われる点も同じである。しかし、また一面、ここでは私は私の肉をあなたがたに与えて食べさせるということが教えられ、人々はこの点で逆の意味の躓きを持ったのである。
 ナザレのイエスを王とすることで人々は一致出来た。パンを与えられて、この方を王とすることでは異議がなかった。すなわち、地上の王の最大の務めは民衆の生活の保証であるからである。しかし、彼の与える物が永遠の生命であり、彼の肉体を食べることによってその生命を獲得出来るという教えは人々の躓きでしかなかった。
 我々にとっても躓きの機縁となるという意味のことを先に述べたが、主がご自身の肉を与えて食べさせたもうことが躓きになるのである。今詳しく論じることはしないで、6章のテキストを追って行く中で深く学びたいが、ここで重要なのは主がご自身の体を差し出したもう聖晩餐の奥義である。ここで追随者の多くが去って行ったのである。
 1節から見て行くが、「海の向こう側」というのは、カぺナウムの反対側、湖の南であるように思われがちであるが、そうではないらしい。人々は舟に乗ってカぺナウムを離れたもうた主イエスを追って陸路を行ったのである。舟は海岸線に沿って進み、ズッと陸から見えていたのである。したがって、主が舟から上がられたのはカぺナウムの東の荒野であろう。そこは丘陵地帯になっている。
 この時が過ぎ越しの間近だったと4節で指摘しているのもヨハネ伝の特色と言うべきであろう。何のために時期についての指摘の言葉を挟んだのか。その意図は明瞭とも言えないが、パンを割いて与えることは、単に食物を与える憐れみの業ではなく、この御業が過ぎ越しと重ね合わされるのではなかろうか。我々の聖晩餐も過ぎ越しの成就という意味をもって執行されるのと無関係ではない。
 主イエスと弟子たち、またこの群衆はこの年の過ぎ越しには上京しなかったのであろうか。この後主がエルサレムに行きたもうたというふうにはヨハネ伝の記録を見る限りは読み取れない。
 主が年ごとに過ぎ越しの祭りをエルサレムで守っておられたことは確かである。だから、この時もユダヤに行かれたと考えることは十分出来る。書かれていないだけではないのか。また、過ぎ越しの時期にエルサレムに行かれなかったとすれば、かなり重大な決定であるから、福音書に書かないではおられなかったではないか、とも考えられる。さらに、次の7章の2節には「仮庵の祭りが近付いていた」と書かれる。過ぎ越しの祭りの直前から仮庵の祭りの直前まで、半年間「ガリラヤを巡回しておられた」と7章1節に述べられるだけである。では、どういうことになるのか。それは分からないのである。そして分からないことは分からないままにしておく他ない。
 さて「イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた」。山というのはカぺナウムの東にある丘陵である。「山に登って座につかれた」とは、マタイ伝5章の初めの記事を思い起こさせる。座について教えたもうたのである。弟子たちを教えたのではなく、弟子たちと共に、すなわち弟子たちを助手に使って群衆を教えたもうた。その教えの内容は書き留められていない。
 5節、「イエスは目を上げ、大勢の群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、『どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか』」。
 すでに多くの人がみもとに集まって教えを受けていた。その上さらに多くの人が続々と集まって来つつあった。どこかに運動の組織者がいて、カぺナウムの東の丘陵地帯に集まれ、と指示を与えたのではない。人々は指示されないのに自発的にあるいは本能的に集まって来たのである。
 マタイとマルコによる五千人の給食の記事には、主イエスが舟に乗って寂しい所に引き籠ろうとされたが、舟から上がって大勢の群衆を見て、彼らを深く憐れんで、教えまた癒したもうたということが言われているが、そのことをヨハネ伝の6章でも考え併せることが出来るであろう。
 人々にパンを与えたもうたのは、単に飢えた者に食物を与えるだけのことでなかったのはこの後の話しの展開から明らかである。「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働けばよい」と27節で言われるが、しかし、「パンよりもっと大切な物があり、私はそれを上げるから、パンはなくても我慢せよ」とは言われなかった。飢えている人々の惨めさを主は無視されない。彼らを深く憐れみたもう。それがパンの奇跡である。
 ピリポに尋ねておられるのは彼を教育するためであった。ピリポがどういう人柄であったかは掴みにくいのであるが、かつてナタナエルを主のもとに連れて行ったことがあり、12章20節でも数人のギリシャ人を主イエスに引き合わせることをしている伝道熱心な人である。その彼に、地上的な考えから脱却することを教えておられるのである。
 「どこからパンを買って来て、五千人に食べさせようか」。キリストの使徒として将来多くの人を集めねばならない者は、必要な時には多くの人々を食べさせるだけの手腕がなければならないという含みがあるのだろうか。そうではない。パンを買って来る店などはない。昔、モーセが荒野でイスラエルの民を飢えから救うために、ただ祈る他なかったように、神の助け以外に解決はない。
 「200デナリのパンがあっても、銘々が少しずつ頂くにも足りますまい」。この答えは全く空しいものである。200デナリの資金を用意することも出来ないし、金があっても人々を食べ飽きさせることは出来ない。ピリポの発想はそういうものでなく、モーセのことに飛躍すべきであった。
 ピリポの空しい答えと比べれば、アンデレの申し出の方がまだ現実味がある。「ここに大麦のパン5つと、さかな2匹とを持つ子供がいます。しかし、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」。空想の中にだけある200デナリのパンよりは、手元にある5つのパンの方が現実性に富むのである。しかし、アンデレもこの人数には何にもならないと判断する。
 他の福音書では、この所でパンを提供したのは弟子たちになっている。すなわち、13人分の食事として用意して来たものである。それを主は提供させたもうた。ヨハネ伝ではそれを提供したのは一人の子供である。子供が13人分のパンを持って来ているとはどういうことなのか。それは分からない。兎に角、パンを差し出したのは子供であった。しかも、貧しい提供物であった。大麦のパンとは小麦のパンを食べることの出来ない貧民の食事である。しかし、それが主に用いられて大きい業をなすのである。小さくても捧げなさいという教訓をここで汲み取ることは有益であるが、そこに注意が行き過ぎると天上的な奥義に関する教えが聞こえなくなるから注意しなければならない。
 主イエスは感謝してパンを割き、人々に配られた。それは聖晩餐であった。我々も今日、このようにして聖晩餐に与るのである。
 


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