◆説教2000.09.17.◆ |
――ヨハネ5:45-47によって――
先に39節で「この聖書は私について証しをするものである」という主イエスの御言葉を学んだ。今日学ぶところにある「モーセは私について書いたのである」との御言葉は、それとよく似た主旨の教えである。これが今日学ぶべき一点である。もう一点、今日の聖句から学ぶのはモーセの意義についてである。
与えられた45節以下47節のテキストを順を追って見て行くが、先ず、「私があなたがたのことを父に訴えると考えてはいけない」と言われる。私はあなたがたを訴えるようなことをしないのだ、と言われる。 「訴える」という言葉は「裁判をして貰うために裁判所に誰それを何々の罪状について告訴する」という意味で用いられるものである。直接にはその人を裁かないで、裁くことを求める。心のうちで裁いていると言えるのであるが、自分では裁かず、裁きを裁判所に委ねるのである。そういう訴えを私はしない、と言われる。 「私は訴えない」と言われる意味を理解する手始めに、ここまでに学んだことを整理するならば、第一に、5章22節で「父は誰をも裁かない。裁きのことは全て子に委ねられたからである」と教えられたことを思い起こしたい。これは45節で「私があなたがたを父に訴えるのではない」と語られることと結び付くのである。父は子に裁きをことごとく委ねたもうたから、父が裁くことはない。だから、父に向けて、「彼らを裁いて下さい」と私が訴えることもない。 それでは、父は裁かず、子が裁くのか。ところが、3章17節で聞いたように、「神が御子を世に遣わしたもうたのは、世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためである」と言われているではないか。確かにそうだ。このことはシッカリ踏まえて置かねばならない。しかし同時に、22節で主イエスの言われる通り、裁きの権限は御父から御子に委ねられている。御子に裁きの権能があることを信じなければならない。では、どういう権能か。9章39節に「私がこの世に来たのは、裁くためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」と言われる。 その裁きがどういうものであるかについて、主は直ぐ続いて「もし、あなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あならがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と仰せになった。すなわち、ここで主が言っておられる裁きは、その人々の行ないについての裁きではなく、彼らの不信仰についての裁きなのだ。行ないについての裁きの実例は、8章にある姦淫の女の記事で改めて学ばせられるが、その場面で結びとして主は言われる。「私もあなたを罰しない。行きなさい。 今後はもう罪を犯さないように」。……裁きの権限を只一人持っておられ、それを行使することの出来るお方が、「私は罰しない」と言われる。「裁かないで赦す」という意味である。行ないについての裁きが遂行される実例である。 さて、それでは、不信仰に対する裁きはどうなのか。それについては「信じない者は、すでに裁かれている」と3章18節で言明したもうた。すでに裁かれていることは、裁かれた当人にもまだ分かっていない。その隠されたことを明らかにするために、主は一つの徴をお示しになった。すなわち、生まれつき見えなかった者が見えるようになったという9章の徴である。この徴は漫然と眺める人にとっては奇跡事件である。奇跡に触れて恐れを催し、信仰へのキッカケを掴む人もいるが、好奇心を満足させられるだけで終わる人が多い。しかし、この徴は意味を読み取るべきものである。すなわち、見えない人が見えるようになったという現象の奥に、見える人が見えなくなるというもっと本質的な事柄が読み取られなければならない。さらに、そこから、見える・見えないという言い方によって暗示され・表象されているのは、信仰・不信仰という根源的な事態だということに気付かなければならない。自分は信仰者であると思っている者の不信仰が暴き出される。 それがキリストによる裁きである。勿論、行ないについての裁きが廃止されたと考えてはならない。それは終わりの日に実施される。そのことは今日学ぶ中でも忘れられてはいない。「あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である」との御言葉の中に行ないについての裁きの意味も含まれている。モーセの契約は主として行ないに関する契約であって、行ないを規定した律法が与えられ、民はそれを守ると約束し、主なる神は、これを守る者は生きる、と約束し、ここに契約が成立した。だから、律法の規定通り行なわない者はモーセによって告発される。――そのように、行ないについての裁きがなくなったと言ってはならないのだが、今日学ぶところでは、特に不信仰、つまり神から遣わされたキリストを信じないこと、その裁きが焦点になっている。 「私があなたがたのことを父に訴えると考えてはいけない」と主イエスが言われたのを言い直すなら、こういうことである。ユダヤ人はイエスがキリストであると信じもせず、また、神がイエス・キリストに裁きの全権を委ねたもうたとも信じていない。彼らは神が裁きたもうとしか考えない。そこで、神の法廷に、ナザレのイエスがユダヤ人の間における自分の不遇を訴えようとしていると彼らは想像しているのである。勿論、彼らは主イエスが正当でない我が儘な訴えをしていると考えた。 この考えを覆す厳かな言葉がそこで語られる。「あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である」。「あなたがたが読んでいる聖書をまともに読むならば、自分が訴えられていることが分かるではないか」。ユダヤ教の神学者が殆ど考えつきもしなかった新しい教えがある。それが我々キリスト者の旧約解釈になっている。 「頼みとしている」という言葉は「望みを置く」、「期待する」という言葉である。モーセが執り成してくれるという期待を言っているが、この言葉の意味を明らかにするのは次の46節である。「もし、あなたがたがモーセを信じたならば、私をも信じたであろう」。つまり、彼らはモーセに望みを置いているが、モーセを信じていない。そのような望みの置き方は、安易な期待、「当てにする」、「頼りにする」という程度のものである。 ユダヤ人は、当然のことであるが、神の裁きを忘れていなかった。神は全地を裁きたもう。イスラエルも裁かれる。しかし、自分たちは神の裁きを恐れなくてよい。何故なら、モーセが執り成してくれるからであると彼らは考えた。 そのように考えるのは、必ずしも身勝手な空想ではなく、モーセが神とイスラエルとの仲立ちであった事実を知るからである。モーセはイスラエルが直接神の栄光の前に立つに堪えないので、仲立ちとなって神の律法を山の上で神から受け取って、山を下りて人々に伝えた。それだけでなく、民の訴えを神に伝えたし、民の罪について執り成しをした。例えば、出エジプトの民がカデシ・バルネヤで神に背き、モーセとアロンを石で撃ち殺そうと反乱を起こし、神が怒って疫病をもって彼らを滅ぼそうとされた時、モーセは執り成しをして言った。「どうぞ、あなたの大いなる慈しみによって、エジプトからこのかた、今に至るまで、この民を赦されたように、この民の罪をお赦し下さい」。これは民数記14章19節の言葉である。神はモーセの執り成しを聞き上げられたのである。 ユダヤ人はモーセの律法を持つことを異邦人に対して誇りとしていたが、その誇りには安易な安心感が結び付いていた。すなわち、神の裁きが現われる時、諸国民は裁きに曝され、何も彼らを掩うものがないが、イスラエルはモーセの執り成しによって庇護されるというのである。彼らがそのように考えることが全く間違いであったと言う必要はない。しかし、それよりもっと大事なことがある。イスラエルはモーセを頼みとしているが、モーセはその本来の務めからイスラエルを訴えるのである。何故なら、モーセは律法を彼らに与えたからである。 1章17節で教えられた通り、「律法はモーセを通して与えられ、恵みとまこととはイエス・キリストを通して来たのである」。この短い言葉の中に沢山の深い意味が含まれることを我々は知っているが、先ず、モーセにおける律法の制定を注視しなければならない。律法が与えられたということは、これを守り行なうのでなければ裁きを受けるということを当然意味しており、律法の不履行についてモーセが訴えを起こすという含みが初めからあったのである。 律法の不履行についての訴えと言ったが、それは二つの面においてである。第一に、先にも述べたように、律法の命じる「行ない」を果たしていないことについて訴えが起こされる。第二は、ここで特に語ろうとするところであるが、律法の証ししている目標を無視すること、つまり「キリスト」を信じないことについての訴えである。この第一のことは、聖書のここを読む時、第二のことの陰に隠れ勝ちであるが、先ず見ておかなければ、第二のこともキチンと捉えられなくなると思われる。 「モーセが訴える」と45節で言われたことを詳しく論じるのはローマ書の2章であろう。 「神は各々に、その業にしたがって報いられる」。その行ないというのは、銘々が自分で考えて善と判断するところを行なうことというのではない。何が善であるかは良心に照らしてある程度万人に分かるかのようであるが、甚だ不十分な形でしか掴めない。そこで神はご自身の民には「書かれた律法」を与えておられる、だから、神の民は、何をなすべきか、何をしてはならないかを、ハッキリ知っている。 それだけに、何をすべきかを知っている者が、それを行なわないならば、知っていない人が行わなかったよりもっと大きい罪であるから、もっと厳しく裁かれる。「律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によって裁かれる」とローマ書2章12節は言う。 「律法によって裁かれる」とローマ書が言うところは、もっと正確に言うならば、律法によって訴えられ、また、律法によって有罪の証拠を示されて、神によって裁かれ、刑罰を課せられる、と言うべきであろう。律法が裁くという言い方は、間違いではないが、簡略形である。 さて、「モーセが訴える」とここヨハネ伝5章で主イエス・キリストが言われる時、その特に言わんとされた意味は、イエス・キリストを信じない不信仰について、モーセが訴えるという点にある。この点はローマ書2章でも言われていなかったわけではない。すなわち、律法なき者が律法なしで裁かれ、律法を持つ者が律法によって裁かれると論じた結びに、「これらのことは、私の福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事柄を裁かれるその日に、明らかにされるであろう」と言われるところに含まれているところから読み取られる。ただし、非常にハッキリしているとは言えないであろう。 それと比べると、ヨハネ伝の方では論旨がハッキリしているのである。「モーセの予告していた、神の遣わしたもうキリストを受け入れない不信仰は、モーセによって神に訴えられる」と言われる。 これはユダヤ人の多くにとっては心外な非難であったようである。いや、今日クリスチャンと言われる人たちにとっても、意外な感を持たれるかも知れない。「律法はモーセを通して与えられ、恵みとまこととはイエス・キリストを通して来たのである」との言葉がキリスト教では一般に受け入れられているが、これを、モーセとキリストとの対比として読んでいる人が多い。モーセの中には結局救いがないから、そこで躓いて、謂わば、それに反発し、弾き飛ばされるようにして、イエス・キリストの福音のもとに来なければならないという解釈がキリスト者の間でも通常好んでなされている。 その読み方が分かり易い場合があり、一面の真実を衝いていることは事実である。しかし、モーセに手引きされてキリストに至る、という道があることも、主イエスが教えたもうたように、キチンと押さえておかなければならない。律法と福音を対立的に捉えるのが、分かり易いと言われているのは、非常に問題である。福音を明らかにしようとする余り、律法の重要なところをワザと無視し、律法が神から来たことを殆ど没却するのは、明らかに聖書の正しい読み方からの逸脱である。 イエス・キリストご自身は、キリストとモーセ、福音と律法を対立として把握するようには教えておられない。むしろ「モーセは私について書いたのである」と決定的に語りたもう。言葉を換えて言えば、旧約と新約の連続性である。連続とはいえ、ベッタリ同一なのではない。ある意味の断絶がある。旧約にある約束よりも、新約で成就したことの方が中心にならなければならない。 だが、モーセがキリストについて書いたとは、どういうことであろうか。第一に、律法全体がキリストを目的としているのである。旧約の人々がそのことに気付かなかったとしても不思議ではない。すなわち、律法の目標がキリストであることは必ずしもハッキリ教えられていないからである。しかし、キリストの民である我々としては、律法の目標がキリストであるという原理に固く立っていなければならない。ローマ書10章4節が「キリストは全て信ずる者に義を得させるために、律法の終わりとなりたもうた」と言う通りである。 「律法の終わり」とは、律法がキリストの来られたところで終わってしまった、ということではない。マタイ伝5章17節で主イエスが「私が律法や預言者を廃するために来た、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである」と言われる通りであって、律法はキリストにおいて成就した。すなわち、律法はその完成であるキリストをもともと指し示していたのである。 モーセがキリストについて書いたということの第二点は、明らかに来たるべきキリストを指し示す預言をした事実である。申命記18章15節以下でモーセは言う、「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞のうちから、私のような一人の預言者をあなたのために起こされるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。これはあなたが集会の日にホレブであなたの神、主に求めたところである。すなわちあなたは『私が死ぬことのないように、私の神、主の声を二度と私に聞かせないで下さい。またこの大いなる火を二度と見させないで下さい』と言った。主は私に言われた、『彼らが言ったことは正しい。私は彼らの同胞のうちから、お前のような一人の預言者を彼らのために起こして、私の言葉をその口に授けよう。彼は私が命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう』。彼が私の名によって私の言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、私はそれを罰するであろう」。 神が直接語られたならば、聞く人は神の声に堪えられない。そこで、人間の声で御旨を取り次がせたもう。その務めに最初立てられたのはモーセであった。その次に、謂わば第二のモーセと言うべき一人の預言者が遣わされると約束される。神に従おうとする人はこの預言者に聞き従わなければならない。 その一人の預言者とは誰か。旧約の歴史に数々登場する預言者たちも神から遣わされて御言葉を語った者として聞き従うべき教師であった。モーセのこの預言はある程度イザヤとかエレミヤ、その他の預言者たちにも通用する。しかし、神がモーセを通じてここで語られたのは、旧約のモーセに対応できる一人の、比類なき預言者イエス・キリストであることは疑問の余地がない。「モーセは私について書いた」。書かれたことによってキリストを証しするモーセの証しは、長い世紀と、様々な危険に耐えて残ったのである。律法学者はこの書かれた証しに奉仕する務めにあったが、彼らは書かれた事柄についに目を開かなかった。我々はキリストに目を開いている。そこから命を受けている。 |