◆説教2000.09.10.◆

ヨハネ伝講解説教 第53回

――ヨハネ5:40-44によって――
40節で、「しかも、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようともしない」と言われるところは、一読しただけでは何を言おうとしたのかが掴めないかも知れない。これは、先の節の主旨の続きであり、ここで決着がつけられる。いわば、こう言われたのである。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、私のもとに来ようとしないのであるから、あなたがたの聖書研究は結局、永遠の命を獲得するものとならない。なぜなら、聖書の全内容の目標また眼目は私なのだからである。もし、永遠の命を得たいなら、聖書が証ししている主題であり、「我は命なり」と言うことの出来る唯一の救い主なる私に来なければならないのに、来ていないではないか」。
 単に無知なためにキリストに来ないのではない。知ったとしても「来ようとしない」のである。彼らが来ないのは意志的な態度決定なのだ。彼らはすでにイエスを亡き者にしようと合意し、敵意を抱いているのである。
 ユダヤ人らの聖書研究は熱心であった。聖書の中に永遠の命があると信じてこれを懸命に調べた方針も間違っていなかった。しかし、主は言われる、「あなたがたは文字を調べ、表面の意味に拘り、徒に煩瑣に掘り下げて行くだけではないのか。文字と格闘し、知恵を絞るだけでは命は得られない」。
 この警告は我々の聖書研究にも当て嵌まるところがあるのではないだろうか。聖書は命の御言葉であると信じて誠心誠意読まなければならない。だが、聖書を熱心に読んでいながら、命に達することが出来ない場合が今日でもあるのだ。文字からは命が得られない。御言葉を与えて、これを書き記せと命じたのは神であるから、この文字が無意味なものだと言ってはならないのであるが、文字を読み取るのでなく、文字が示しているお方を読み取らなければ、何にもならない。文字はキリストを示し、証ししている。命は神の遣わされたキリストのもとに行き、彼から受けるのだ。だから、キリストを受け入れなければならない。「キリストを受け入れる」とは、先に「キリストに来る」と言われたのと同じ意味になるが、キリストが私の内に留まりたもうこと、彼とともに生きること、そして行って実を結ぶことである。
 そこで一つの段落が付いて、次の論点に移る。41節に「私は人からの誉れを受けることはしない」と言われる。私は人から誉れを与えられる必要のない者である、と主張されるのである。ここから主イエスの御言葉は攻撃の調子を帯びる。これは第一に、ご自身のうちに命の源泉があるということについての明言であり、第二に、それからの逸脱についての審判である。
 「私は人からの誉れを受けることはしない」と言われたが、我々が主イエス・キリストの誉れを宣べ伝えまた讃美するのは筋違いであるとか、それが無駄なことであると考えてはならない。主がここで言われるのは、人から誉れを与えられることが彼の権威の基礎なのではない、ということである。つまり、人でなく、父なる神が栄誉を私に与えたもう、ということを語っておられるのである。
 ここで「誉れ」と言われるのは、普通「栄光」と訳されるのと同じ言葉である。そう訳しても良い。
 8章50節に「私は自分の栄光を求めてはいない。それを求める方が別におられる。その方はまた裁く方である」と言われるが、そこでは「栄光」と訳していて、今学ぶのとほぼ同じ意味である。神は、その遣わしたもうた御子に栄光が帰せられることを欲しておられる。すなわち、神が御子に託したもうた務めが人々によって貴ばれるべきであり、そうでない場合には、御子を受け入れない者に裁きが行なわれる、と言われるのである。
 人類社会の中には、実質は何も優れていないのに、人からだけ誉れを帰せられて、栄誉ある地位に就いている者が少なくない。社会の秩序を保つための申合せとして、こういうことが必要である場合もあろうから、敢えて否定しなければならないものでもない。
 人間は上下関係を作って、上に権威らしきものを立てて置かないと、気持ちが安定しない動物なので、架空の栄誉に過ぎなくても、本当の栄誉を持つことにしてある人を、権威として立てるのである。これは、良いとは言えないとしても、政治的秩序に関しては一概に却けるには及ばない仕組みであると思うが、我々の救いに関しては、そのような手続きは全く意味をなさないどころか、大きい危険である。
 キリストは人からの栄誉を受けたまわない。人から栄誉を受ける必要はない。人は彼に栄誉を与える資格を持たない。彼は神からのみ誉れを受けたもう。だから、彼にのみ我々の救いの道がある。
 ここで、主の言っておられることから少し逸れるのであるが、触れて置かねばならないのは、我々の救いに関し、人から誉れを帰せられているような宗教上の機関を制度化することは必要がないということである。例えば、キリスト教の一部では、教皇とか、大司教とか、司教とかいう教会の機関に人為的に誉れを与えて、尊厳な地位に持ち上げ、その権威に依り頼んでおれば安心する、というような慣習が行なわれているが、人によって誉れを与えられる者は、この世の生活では安心や便宜の拠り所になるかも知れないが、永遠の救いには何の意味も持たない。
 さらに言うならば、我々の教会で、人によって誉れが与えられる者を有難がっていては、救いに益がないということも弁えておかなければならない。御言葉を宣べ伝える者を尊重することは決して間違いではないが、それはその人が神から派遣され、また神に命じられている務めを正しく遂行している限りにおいて起こる結果であって、務めを正しく果たしているとは言えないのに、当面の混乱を避け、教会のうわべの秩序を維持するために、便宜上、建前として、誉れを帰して置くということではいけないのである。神の与えたもう誉れと、人間の思惑で誉れを帰することとをすり替えてしまってはならない。主の教会の秩序を重んじなければならないが、それは人工的な誉れに依存しているものではない。
 次に、「しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている」と言われる。「神を愛する愛」と訳されているのは、直訳すれば「神の愛」という言葉である。「神を愛する愛」とも取れるし、「神が愛して下さる愛」あるいは「神から来る愛」ともとれる。――これは、我々が手にしている口語訳のように、「神を愛しているならば、神から、神の名によって遣わされたキリストを受け入れざるを得ないのに、神を愛していないから、キリストを受け入れない」と言われたと取ることも出来るし、「神が与えたもう愛があなたがたの中にないから、あるいは、あなたがたは神から愛されていないから、神の贈り物であるキリストを受け入れることが出来ない」とも取れる。恐らく、前者の解釈の方が適切であろう。
 「愛がない」と言われた時の「愛」は包括的な意味で言われたものある。神に対する当然の姿勢、義務の一切をいう。神に正しく向いているならば、神から遣わされるお方が来られる時は、直ぐに分かって、それを信じ、受け入れる。しかし、イエス・キリストが神から遣わされて来た時、人々はこれを受け入れなかった。43節の前半で「私は父の名によって来たのに、あなたがたは私を受け入れない」と言われる通りである。「父の名によって来た」とは、父の名を帯びて、父の正式の代理として、私的な資格でなく、父の遣わされた者として来た、という意味である。だから私を受け入れないのは、父を受け入れないことなのだ。
 「それは神に対する愛がないからである」と言われると、彼らは猛然と反発するであろう。「我々は神を愛しているからこそ、神の戒めを守り、聖書を読み、祈りをしているではないか。いや、それだけでなく、神を愛すればこそ、安息日の戒めを破り、自分が神と等しい者であると言っているナザレのイエスを断罪しているではないか」と言ったのである。
 ユダヤ人が神を愛しているつもりでいたことは確かだ。そのために随分努力していたことも事実だ。しかし、神を愛していたというのは本当であろうか。「そうではない」と主イエスは宣告したもう。神を愛しているつもりになっている独りよがり、神を愛しているらしく装うため躍起になっている偽善、それと、本当に神を愛していることとは別である、ということが、キリストの前でこそ明らかにされるのである。今日でもそうである。
 ここで主イエスの指摘したもうた現実は、神を愛そうとしているけれども、まだ不十分だというのではなく、むしろ、その逆の方向に走っている。ハッキリ言えば、神を愛するのでなく自分を愛しているということなのだ。実際は十分自身を愛しているのに、神を愛しているつもりになっている自己欺瞞が、神の遣わしたもうたキリストの前では明らかになるのである。
 神を愛しているかどうかは、神から遣わされたキリストを愛するかどうかによって、誤魔化す余地なく判明する、と言っておられるのである。これは、「父を知る者は子を知る」、「父を信じる者は子を信ずる」、という大原則と基本的には同じである。
 「しかし、キリストを知らない者は、キリストを愛することが出来ないではないか。例えば、旧約の信仰者はキリストと出会っていないのであるから、キリストを愛することも出来なかったではないか。その人が神を愛していないと決めつけるのは酷ではないか」と反論されるかもしれない。けれども、この言いがかりは二重の反論を受けなければならない。第一に、旧約の人でも、まことの信仰者であるならば、約束されたキリストを希望において捉え、彼を愛していたのである。8章56節に言われる、「あなたがたの父アブラハムは、私のこの日を見ようとして楽しんでいた。そして、それを見て喜んだ」。
 もう一つ、主イエスがハッキリ「父の名によって来た」と言っておられる点を直視しなければならない。彼は得体の知れぬ自称預言者ではないのだ。勿論、そのように自らを神からの預言者であると名乗るものは、いつの時代にも、どこの世界にもいた。主イエスはそれとは全く違う。これまでに教えられて来た通り、証しがあるからである。人々はそれでも信じなかった。
 疑問としてはもう一つ、「あなたがたの内には神の愛がない」と言い切って良いのかという疑問があるかも知れない。我々を例にとれば、我々はキリストと出会っても、なかなか彼を愛するようにはならなかった。長いこと彷徨って、やっとキリストを愛するようになった。それなら、主イエスの前にいる人たちも、待っておればそのうちにキリストを愛するようになるのではないのか。……成程、そういうことはある。その時はその時で道が開かれるのであるが、今、「彼らに愛がない」と断定するのは性急ではない。
 なぜなら、18節で見たように、彼らはイエスを殺すよう計画しているからである。態度が決まっていないのではなく、すでに決まっているのである。
 ここでも我々は現代に生きる自分自身に対する警告を受け入れなければならない。神を愛することは漠然と分かっているつもり、また実行しているつもりであるかも知れない。だが、それが本物であるかどうかを検討し、識別しなければならない。それを識別するためには、キリストを愛しているかどうかを見きわめるのである。
 神を信じさえすれば良いのであって、キリストが分からなければ分からなくても良い、という暗黙の了解をしている人がクリスチャンの中に多いようであるが、それは主がここで教えておられることとは非常に違うのである。キリストを知らなくても神が分かっているという思想と、キリストを信じることと神を信じることとが一つである信仰とは別のものである。
 次に進もう、44節、「もし、他の人が彼自身の名によって来るならば、その人を受け入れるのであろう。互いに誉れを受けながら、ただ一人の神からの誉れを求めようとしないあなたがたは、どうして信じることが出来ようか」。
 「彼自身の名によって来る」とは、父の名を帯びないで、父から遣わされないのに、やって来て教える、という意味である。預言者エレミヤの時代を思い起こせば良く分かるであろう。神から遣わされたのでないのに、神から遣わされたと名乗る預言者が多数いた。彼らは「主はこう言われる」と預言し、その内容はエレミヤの預言と真反対であった。エレミヤは「神はその民の不信に怒り、罰したもう。エルサレムはバビロンによって滅ぼされる。人々はバビロンに捕え移される」と預言する。彼以外の自称預言者は「神は恵み深いから、滅びは来ない。神はエルサレムを助けたもう」と預言する。人々はどちらの預言が本当なのか戸惑う。そして、多くの人は好ましい方を受け入れる。それは「滅びは来ない」という方である。その方が本当らしく思われるからである。しかし、神の名によってそのように語ったのは偽りであって、神はそれらの偽預言者に御言葉を与えておられなかった。彼らの預言は彼らの妄想あるいは願望であった。
 偽預言者が自分の妄想ないし願望を主の言葉として語った時、人々は喜んで聞いたのである。真の預言者の語ることは聞きづらかったのである。人々は真の預言者であるエレミヤを迫害し、偽預言者たちを歓迎し、これに預言者としての誉れを与えた。「人からの誉れ」である。この福音書では12章43節に、優柔不断な人たちについて「彼らは神の誉れよりも、人の誉れを好んだ」と言われたが、こういう好みは広く行き渡っている。
 こうした取り違えは決して珍しくない。主イエスがここで言っておられるのも、その時代にこれに該当する偽預言者がいるということのように思われるのであるが、「互いに誉れを受けながら」と言われる実情はよく分からない。人々から尊敬されているパリサイ派のことではないかとも推察される。彼らは宴会の上席や市場で敬礼されることを喜んだと言われるが、尊敬されていたわけである。そのことが暗に言われているらしい。
 7章18節に「自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分を遣わされた方の栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない」といわれるのは、偽教師と真の教師の区別を示すものであるが、今学ぶのと幾つか似たところがある。
 「ただ一人の神からの誉れを求めようとしない」とは、神の審判を受けて義であると宣告される誉れを求めていないことである。すなわち、イエス・キリストを信ずる信仰による義を受けないことである。ここで「ただ一人の神」という言い方があるが、申命記6章4節にある「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛さなければならない」の戒めにあった「唯一」の主を受けたものである。その神から誉れを求めるとは、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛することに懸かっている。「その愛がないではないか」と主は言われるのである。
 現代にもこの警告が当て嵌まることを我々は当然考えなければならない。神から遣わされたのでない預言者が、人からの誉れを受けているのである。彼らは聴衆を満足させる聞きやすい話しをし、喜ばれるが、それを聞くことによっては救いは来ないのである。
 その教えを聞いていても悔い改めが起こらないのである。
 「そういうあなたがたは、どうして信じることが出来ようか」。人と人との間で誉れを与えあっていれば、その時は平和であるかも知れない。しかし、まことの信仰はそこにはない。神の栄光に目を向け、神から来られるキリストの栄光を捉えなければならない。


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