◆説教2000.09.03.◆

ヨハネ伝講解説教 第52回

――ヨハネ5:37-39によって――

イエス・キリストは御自身についての証しとしては、彼を遣わした父による証しと、御自身の行なう業による証明だけが第一義的なものであると言われた。ユダヤ人が徴しを求めたのに対する答えがこれである。ユダヤ人であるパウロが、Iコリント1章22,23節で「ユダヤ人は徴しを求めるが、我々はキリストの十字架を宣べ伝える」と言ったのも、そこにこそ神の力が現われているからである。人間の働きによる証しは第一の地位を神に明け渡さなければならない。 
この第一義的な証しが、バプテスマのヨハネの証しと対比して強調されることを33節以下で学んだ。そのことを思い起こしたい。ヨハネは1章7節で言う通り「証しのために来た」人である。証しのためにだけ来た比類なき証し人である。にも拘わらず、主の言われたように、神のなしたもう第一義的な証しは、ヨハネの証しよりもはるかに強力であり、ヨハネの証しはもはや証しと言うに足りないほどである。 
我々は、自分もまたキリストの証し人としてこの時代の中に遣わされていることを忘れてはならないが、自分が証し人であることの意味がそれほど素晴らしいものではないという事実を弁えたい。勿論、だからといって、証しの業と言葉をないがしろにして良いわけではない。だが、主は「私は人の証しを受けない」と34節で言っておられるのである。我々の務めである証しは一生懸命に実行すべきであるが、それをさも重要な業績であるかのように思い上がらないように慎みたい。 
教会の教師たちが「証しだ、証しだ」と励ますことは偽りの指導ではないが、自分が生活の中で今の時代に立てている証ししか眼中になくて、第一義的な証し、神の立てたもう証しが見えなくなってしまうようなことでは本末転倒である。第一義的な証しをシッカリ捉えてこそ、我々の立てる証しもシッカリしたものとなる。 
前回、36節で「今、私がしているこの業が、父の私を遣わされたことを証ししている」という御言葉を学んだ。業そのものが証しになっているのである。今日は、それに続いて、37節で「また、私を遣わされた父も、御自分で私について証しをされた」と語られるところを学ぼう。 
父が私を遣わされたのであるから、ご自身が私を遣わしたということが、事柄自体によって当然証しされるのである。派遣しておいて、派遣していないかのように装うことは出来ない。遣わした者は遣わされた者がどうしているかを常に掌握しているが、その関わり方そのものが、遣わしたことの証しになっている。だから、神の遣わしたもうたキリストと出会った者は、キリストにおいて神と出会う。 
我々がナザレのイエスを「キリスト」として受け入れるのは、単なる信念ではなく、ましてや推定ではなく、研究の結論でもなく、人々の証しによって心を動かされたからでもなく、人々の説得によって心を変えたからでもない。我々にもキリストを遣わされた御父からの直々の証しがあったことを確認していなければならない。そうでなければ、分かっているつもりのことが分からなくなる時が来るのである。実際、自分ではキリスト者であるつもりになって、充実感を味わっていたけれども、何かの試練が襲って来たならば、あるいは試練と呼ぶにも足りない小さい躓きで、信じているつもりだったことがフト分からなくなってしまい、信仰が一挙に崩れ去り、信仰なしで生き始めることになる、という前例が少なからずあるのである。 
6章の66節に描かれている非常に印象的な場面があるが、「それ以来、多くの弟子たちは去って行って、もはやイエスと行動を共にしなかった。そこでイエスは十二弟子に言われた、『あなたがたも去ろうとするのか』。シモン・ペテロが答えた、『主よ、私たちは誰のところに行きましょう。永遠の命の言葉を持っているのはあなたです。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています』」というくだりがある。 
「弟子たち」が去って行ったのである。反対していたパリサイ人が去って行ったのでも、遠巻きについて来た群衆が去って行ったのでもない。十二弟子以外の弟子の多くは去って行った。さらに言うならば、残った十二人のうちからも去って行く人が出る、と主イエスはこの時続いて語られるのである。辛いことであるが、こういう事態が代々の教会の中で繰り返し起こっている。 
その辛いことをどうすれば予防、あるいは回避出来るか、ということは我々の考えと努力の及ぶところではない。「父の植えたまわぬ者は皆抜かれる」と主イエスはマタイ伝15章13節で言われるからである。我々が最善の努力をしても、抜かれる者は抜かれる。 
では私自身はどうなのか。人に宣べ伝えておきながら自分は棄てられる場合すらある、とIコリント9章27節は警告しているではないか。それでは、我々は限りなく不安に陥るばかりであるのか。 
父からの証しを捉えているかどうか、それが救いと滅びの分かれ目になる。だから、御父からの証しをシッカリ捉えなければならない。人々が私のためにしてくれる信仰の励ましとしての証しは無用のものではない。そのようなものによって我々の信仰が辛くも支えられることもあろう。しかし、人の支えを当てにしていては結局挫折するのである。我々の目を神に向け、神の証しから信仰の支えを受けなければならない。 
それでは、御父の証しとは何か。……先ず、先に少し触れたように、御子が遣わされていること自体が証しになっている。キリストが遣わされて来ていることの他に証しが添えられるというのでなく、キリストにおいて神と出会うということがすでに証しになっている。初めからそのことがよく捉えられるわけでは必ずしもないが、総括の時にはこの点を第一に押さえておこう。 
次に、神の証しの出来事を見たい。先ず、神が直接に私に語り掛けて下さる場合がある。例えば、マルコ9章7節にあるが、高い山の上で、3人の弟子がしばらくの時間、主イエスの栄光の姿を見た。それに続いて「これは私の愛する子である。これに聞け」という声が聞こえた。これは典型的な場合である。 
実際にこれと同じ出来事に出会わなければならないのか。……必ずしもそうではない。 
しかし、神からの証しを受けたと自分で思うだけでなく、本当に受けたことの確認をしていなければならない。確かでなければ、確信と思っていたものが吹き飛んでしまうのである。通常その確認は聖霊によってなされる。Iコリント12章3節に言われるように、「神の霊によって語る者はだれも『イエスは呪われよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことが出来ない」。 
もっとも、真実には神から御霊を受けていないのに、「イエスは主である」と言う人がいるかも知れない。昔のように、「イエスは主である」と告白すると、直ちに身に危険が及んだようなところでは、本気で信じていなければ、「イエスは主なり」とは言えなかったのに、今では、危険がないので、いとも軽々と信仰の告白を語ることが出来る。 
では、今ではIコリント12:3の聖句は意味を失ったのか。……そうではない。昔は、こう語ったとき、即刻、試練に遭わなければならなかったが、今でも、この告白は必ずいつか試練に曝されるため、御霊によらなければこうは言えなくなる。この御霊はキリストを証しさせるために御父が遣わしたもうのである。 
人々の間では証しが客観的でなければならないと理解されている。そこで、神から独立した立場で主観を交えずに証しする時にこそ、正当な証しであると考えられ勝ちである。人間の事柄ならその理解で良いであろう。しかし、すでに見た通り、神こそが最上の証し人である。証しは確かでなければならないが、神以上に確かな存在はない。この神が「私がキリストを遣わした」と証ししたもうならばこれ以上の証言は要らないのである。 
もう一つ、神の証しを受ける道として、「聖書」を通じて神の証しの声を聞くということがある。このことは今日39節で新しく学ぶ重要な教えである。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は私について証しをするものである」と主イエスはハッキリ言われる。御父ご自身の証しの他に、聖書の証しがあると教えられるのではない。聖書の証しは、神の証しである。 
「聖書」とここで言われているのは、当時の言い方に従ったものであるから、旧約聖書を指すことは確かであるが、我々がこれを新約聖書にまで拡大しても何ら支障はない。 
すなわち、ここで「聖書」と言われるのは、「神の言葉としての聖書」、「書かれた神の言葉」という意味である。 
聖書が非常に古い時代に書かれた書物であることは言うまでもない。それらを書いた人たちの名前が知られている場合が多いことも確かである。直ぐ後でも、46節には「モーセは私について書いたのである」と言われるが、モーセが著者の一人であるのは良く知られているところである。しかし、モーセの書であるから神の言葉でないと言ってはならない。神がモーセに書かせたもうたのである。 
「神は昔、いろいろな場合に、いろいろな方法で先祖たちに語られた」とヘブル書の冒頭に記されている通り、昔は神はイスラエルの先祖たちに直接の託宣を授けたもうた。 
けれども、その時代であっても、神が毎日毎日全ての人に、直接に語り掛けておられたのではない。親が聞いた言葉が子に語り伝えられる場合、聞く子はそれを親の教えとしてではなく、神の言葉として聞いたのである。そこには御言葉への信仰と御言葉への服従があった。親に対する従順があっただけではない。 
アブラハムが甥のロトを伴ってハランの地を出発して神の示したもう地に向かった時、ロトはアブラハムに従ったのではなく、アブラハムから聞いた主の言葉に従ったのである。 
アブラハムの子イサクの生涯には神の託宣が与えられた機会は極めて少ないのであるが、それは神の言葉を殆ど与えられなかったという意味ではない。彼は神から父に与えられ、父から教えられた御言葉を、神からの御言葉の反復として聞いていたのである。父からの「伝承」という形であったが、その中身は神の言葉であった。 
語り伝えられた言葉がやがて「書かれた言葉」に変わるが、同じように人々は「書かれた神の言葉」を「神の言葉」として聞いたのである。勿論、文字を読んで悟るだけではない。そこには御霊の証しがあってこそ現実であり確かなのである。 
以上のことを踏まえて、今日与えられている聖書テキストの学びを進めて行くが、37節後半、「あなたがたは、まだその御声を聞いたこともなく、その御姿を見たこともない」と書かれている。この言葉がどういう意味でここに挿入されたかは、すでに語ったところから明らかになっている。「あなたがたは見ていない」ということは、1章18節の「神を見た者はまだ一人もいない。ただ父の懐にいる独り子なる神だけが、神を顕したのである」を連想させる。しかし、この場合は独り子が世に遣わされて来ていることについての問題であるから、「あなたがたは神を見ていない」とは「私を見れば良い」に繋がるのではない。「あなたがたはまだ聞いていない。しかし、聖書を読めば、そこから神の声を聞き取ることが出来る」と言われたのである。 
「また、神が遣わされた者を信じないから、神の御言葉はあなたがたのうちに留まっていない」と言われる。「神が遣わされた者」とはキリストご自身のことである。キリストが神の言葉を語っておられるのに、信じて受け入れることをしていないならば、神の言葉は彼らのうちに留まらない。 
3章34節に「神がお遣わしになった方は神の言葉を語る」と教えられたが、神が遣わすことと、遣わされた者によって神の言葉が語られることとは一つである。神は物言わぬ物体を遣わしたのでなく、御言葉を語る代理人を遣わしたもうたのである。だから、神から遣わされた方に聞かなければならない。かつての時に語られ、今文字に書かれている御言葉を今聞き取るためには今遣わされて来ている方の声を聞くべきである。 
「御言葉が留まらない」とは、「なるほど聖書を調べてはいる。そして一応御言葉を聞いてはいる。だが、聞いた言葉は留まっていないで、過ぎ去って行く」という意味であろう。「神の言葉が留まらない」とは、永遠の生命がない、という意味である。神の言葉を聞くとは一過性の経験ではない。言葉は留まらなければならないものである。人間の言葉であってもコロコロ変わるような言葉は本物ではない。神の言葉は単にそれ自体が変わらないのみでなく、言葉はそれを受け入れた人のうちに留まり続け、その言葉が聞く人の命になるのである。今日は御言葉と御言葉を聞くことについての非常に重要な教えを聞いているのである。 
彼らは聖書が神の言葉であることを一応知っているのである。「聖書は神の言葉である」とパウロがテモテに与える手紙の中で言っていることは広く知られている。これはパウロの教えではない。パウロもまた祖母から信仰を教えられたテモテも、馴染んでいたユダヤの教えである。 
だから、パリサイ人らはその御言葉から永遠の生命を受けることが出来ることも知っていた。さらに、その永遠の生命を受けようとして、聖書を読んでいた。パリサイ派の中でも真剣な探究者は、例えばニコデモのように、永遠の生命を求めて主イエスの教えを受けに来た。「聖書を調べている」とここに言われているが、ただ読むだけでなく、聖書研究をしているという意味である。主イエスはそこまでは認めたもうた。しかし、彼らは聖書から読み取って受け入れるべきことを受け入れていないから、永遠の生命は彼らのうちに留まらないのである。聖書を読んだことが空しかったと言えば、衝撃的過ぎるかも知れないが、彼らはせいぜい地上に生きている間、聖書を座右に置き、毎日繙いて精神修養をしていただけであって、永遠の救いには何の意味もなかった。 
我々はここで、聖書を読んでも永遠の生命がうちに留まらないような読み方に対する警告を聞き取らなければならない。ユダヤ人、特にパリサイ派は熱心にかつ真剣に聖書研究をしていたのである。彼らが詰まらない人間であり、偽善者であったという見解が我々の間ではなかなか根強いが、聖書を学ぶ熱心さにおいては彼らの方が上だと認めた方が良いかも知れないほどである。 
彼らほど熱心でなくて良いと言っては間違いであるが、聖書をどう読むかをシッカリ学び取ろう。 
神の証しを受けるべく神に向かわなければならないということを先に示されたが、神に向かう時、神から私に差し向けられたキリストに向かい合わないわけには行かない。聖書を読むとはそういうことである。聖書が立派な教えを書いた書物であるという程度の理解に留まってはならない。聖書はキリストを証しする。第一に予告の形で、第二に記録の形でキリストそのものを証しすると共に、キリストが父なる神から遣わされたことを証しする。 
こうして、キリストの言葉が私のうちに留まり、御言葉による永遠の生命が私のうちに永続するのである。 
 

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