◆説教2000.08.20.◆

ヨハネ伝講解説教 第51回

――ヨハネ5:30-37によって――
「私は自分からは何事もすることが出来ない。ただ聞くままに裁くのである」。――「私は……出来ない」という主イエスの御言葉は、如何にも消極的である。例えば、下級役人が責任を問われて、「自分は上からの命令に従ったまでだ。だから、責任がない」と言い逃れをする場合と似たような調子を感じる。
 確かに、御子は御父に従属しておられる。その関係をここから読み取らなければならない。御子はご自身の栄光を求めず、ただただ御父の栄光を求めたもうのである。しかし、「消極的」という印象は、読み返しを重ねているうちに次第に払拭されて行くであろう。むしろ、積極的な意味が浮かび上がって来るのが感ぜられる。すなわち、「私のすること、私の語ること、私の裁きは、父の業、父の言葉、父の裁きそのものであって、誤りない」との主張が明らかに示される。上からの命令に従ったまでだ、と言って責任逃れを企てる人には、自己がない。顔が見えない。しかし、「私は聞くままに裁く」と言われるこの言葉では「私」の自己確認がハッキリしているし、こう語りたもうお方の顔が見えるではないか。なお、「聞くままに」というのは「父が語られるのを聞いてその通りに裁く」という意味であって、裁判官が被告の言い分を良く聞くという主旨ではない。
 我々自身の状況と比べて見ればよく分かるのではないだろうか。「私は自分からは何事もすることが出来ない。ただ聞くままに裁くのである」という言葉は、一見、我々にも言えそうに思われる。確かに、我々には自分から何かを行なう権能はない。そして、父なる神が誤りなき審判者であられることは確かである。それなら、誤りなき裁きをなしたもう神に従って、神の子とされている我々も、神の裁きを遂行するために、人を裁くべきではないか。――そうではないのである。マタイ伝7章の1節に記されている通り、我々には「人を裁くな」と命じられている。少なくとも、Iコリント4章5節の言うように、主が来られるまでは「時に先立って裁いてはならない」という制約のもとに置かれている。
 何故、我々が裁いてはならないのか。明らかな罪が今の時代と今の人々に現実にあるではないか。罪を罪と定めることを怠っていたならば、罪を助長することになるではないか。なるほどそうであると考えられる。だが、落ち着いて考えて見れば分かるが、我々が裁きを遂行するならば、必ず誤りを犯すのである。マタイ伝13章の譬えにある通り、毒麦を抜こうとして、良い麦まで抜いてしまう。それほど我々の判断は不確かなのである。しかもその上、裁きをしなければならないと言っている我々自身が、裁きを猶予されているだけで、本当は裁かれなければならない罪人だという事実がある。それを忘れて、他の人を裁こうとする時、罪を増し加えていることを知らなければならない。
 イエス・キリストは我々と全く違うのである。彼は神の子として神性を持っておられる。だから、彼の下す審判には過ちは何一つない。そして彼には父から裁きの全権が委ねられている。
 そういうわけで「私は自分からは何事もすることが出来ない」という、誰にも言えそうな言葉は、神の子キリストのみの語り得たもう言葉であることがハッキリした。
 つまり、平たく言えばこういうことである。ユダヤ人たちは主イエスが勝手な振る舞いをしていると見て、憤慨して彼を断罪した。例えば、安息日にしてはならないことをされるのを裁いた。また、彼らの判断からすれば言ってはならないことを言われた。そこで彼らは主イエスを冒涜者として非難する。それに対してイエス・キリストは、「私のしていることは神の業そのものであり、私の語るのは神の言葉そのものである」とたしなめておられるのである。
 しかし、イエス・キリストのこの諭しによって、ユダヤ人が心を入れ替えたわけではない。16章2節に「あなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちが神に仕えているのだと思う時が来るであろう」と言われるが、勿論、イエス・キリストを殺した上でその弟子を殺すことを指すのである。そしてこれが神に仕える道だと確信している。そのように、対決が多少とも緩和されることはなく、今後も続く。だから、今日読むのは戦いである。真理を拒む人に対して主イエスは真理を説き続ける戦いをなしたもうた。
 さて、30節の主の御言葉は、19節で「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることは出来ない」と言われたのと内容的には同じである。先の時は第三者的に言われたが、ここでは一人称で語っておられる。内容的には同じであるが、主張は今度の方が強くなっている。「父なる神の御業そのものを私において見るべきである」と言っておられるのである。
 同じような意味のことを主イエスは最後の晩餐の席上で語っておられる。「私が父におり、父が私におられることをあなたは信じないのか。私があなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父が私のうちにおられて御業をなさっているのである」。14章10節の言葉である。これは主イエスが最後まで繰り返しておられた教えである。それほど重要であったし、弟子たちになかなか浸透しなかった教えである。だから、我々もこの教えをシッカリ聞き取るようにしたい。
 このところヨハネ伝で引き続いて学んでいるテーマは、キリストにおける父なる神の業、その意志、その計画、その栄光である。ナザレのイエスという人物が如何に立派なお方であられたかを評価しようではないか、というような話しではないのだ。神の子が人間イエスとして来たりたもうたことに意味がないというのではない。ナザレのイエスのなさった業は人間の業という側面を持つから、これを人々は見ることが出来る。その衝撃や感銘を語り伝えることも出来る。そして、ここから目が開かれる。こうして神の救いが我々に差し出されているのを捉えることが出来る。
 しかし、その際、人間として立派な業を見、励まされて、我々もそれに見習って良き行ないに励もうというようなことではない。神の業が、肉体を採って来たりたもうたイエス・キリストにおいて示され、また行なわれたということが大切なのだ。短く言えば、「私を見た者は父を見たのである」ということである。
 すでに1章18節で、「神を見た者はまだ一人もいない。ただ、父の懐にいる独り子なる神だけが神を顕したのである」と教えられた。これがヨハネ伝で基調をなす教えであることを我々は知っている。「私を見た者は父を見たのである」という御言葉はその同じ基調である。これは12章45節、14章9節でも語られていて、これこそ聖書理解の鍵になる言葉と言えよう。ピリポが最後の晩餐の時、「主よ、私たちに父を示して下さい。そうして下されば私たちは満足します」と言った時、主イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は父を見たのである」。ピリポがこんなに長く主イエスとともにいながら、まだ分からなかったとは、我々にも分かっていないことを示唆すると考えなければならない。こういう言葉があることは知っているが、本当の意味では分かっていないということもあろう。
 ベテスダの池において、安息日に、38年も病気の苦しみの中にいた人が癒されて起き上がって、自分で床を取り上げて帰って行った。素晴らしい人間解放である。そういう感動的な出来事が人間の世界の中で起こった。それが我々の生活の隣り合せのところで起こり、いや我々もその解放に与り、それどころか我々も解放者になって行く。たしかに、そういうこともここから読み取らなければならないのだ。単なる奇跡物語りとして感心していてはならない。
 しかし、一番大事なのは、それが「私の父は今に至るまで働いておられる。私も働くのである」と言われるお方の業であるということである。神がこの安息日に力強く活動しておられることがこれによって示されるのである。これはキリストにおける神の業である。キリストのなさることを見て、神の業を悟らなければならない。したがって、この業をなしたもう方の語る言葉を「神の言葉」として聞かなければならない。キリストは神について語りたもうたのでなく、神の言葉そのものを語りたもうたのである。
 だから「私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の生命を受け、また裁かれることがなく、死から命に移っているのである」と言われるのである。キリストの言葉を聞くとは、神の言葉を聞くことであって、それによって救いに入るのである。
 そして、キリストの言葉を聞いても信じない者はすでに裁かれたのである。
 「そして私のこの裁きは正しい。それは、私自身の考えでするのではなく、私を遣わされた方の御旨を求めているからである」。
 「信じない者はすでに裁かれた」という言葉を聞いても良く理解出来ないどころか、反発を感じると言う人に対してこれが語られるのである。見えざる神が裁きたもうということであれば、ユダヤ人は黙って引き下がったかも知れない。しかし目に見え、手で触れるところにいる、自分と同じような、いやもっと卑しいのではないかと思われるナザレの田舎者が言うことを、信じて受け入れるのは彼らには苦痛であった。この困難さは彼らの傲慢さのみに理由づけるべきではないであろう。彼らがもっと謙虚な人間であったとしても、ナザレのイエスを信じることはやはり困難であった。我々においても同じ困難さがあることを自覚して置こう。
 その困難を越えさせるために、主イエスは幾つかのことを語りたもう。第一に、「私は私自身の考えで裁くのではなく、私を遣わされた方の御旨の達成を求めているからである」と言われる。ナザレのイエスがパリサイ派の誰かと対論したならば、相手は決して屈服しない。実際は言い負かされてしまったのであるが、それでも敗けたとは認めていない。だから弁論で勝てないなら、策略によって相手を倒そうとした。こうして、主イエスを策略によって十字架につけ、自分たちは正しいことをしたと思ったのである。
 それに対して、主イエスは、「私は私自身の考えでこれをしているのではないから、あなたは私と対決するのではなく、私を遣わされた神と対決していることを悟らなければならない」と言われたのである。彼らは確かに、神が相手では太刀打ちできないことを心得ているはずである。
 しかし、ナザレのイエスが神から遣わされたことを彼らは認めないであろう。そこで、第二に、そのことを認めさせるために、有力な証し人の証しによってことを明らかにしようとされる。31節では、「もし、私が自分自身について証しをするならば、私の証しは本当ではない。私について証しをする方は他にあり、そして、その人がする証しが本当であることを、私は知っている」と言われるのである。
 自分についての証しを立てても、人は通例それを証しと認めてくれない。自分のことを言うのは証しにならないとされているのだ。証しは最低二人の他者によって立てられなければならない。二人以上の証言が合致してこそ、その証言の正しさが認められるのである。一人だけ、しかも本人自身が証ししても人は認めない。
 では、「私について証しをする人は他にいる」と主イエスの言われるその証し人は誰か。ここでは単数が使われるから、証しをする人たちがいろいろいると取るべきではないであろう。律法では二人以上の証人というふうに規定している。最小限二人、多い分は差し支えない。ヘブル書12章1節には「このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、一切の重荷と、絡みつく罪とをかなぐり捨てて、私たちの参加すべき競争を、耐え忍んで走り抜こうではないか」と呼びかけるが、雲のような多くの証人に囲まれていることはそれだけ大きい励みである。
 しかし、今ここでは多くの証人でなく、ただ一人加われば十分だとされる。すなわち、御子を遣わされた御父一人だけで良い。ここで証人は、主イエスと、彼を世に遣わした父と二人だけである。34節に「私は人から証しを受けない」と言われるのはそのことである。主イエスが神から遣わされた神の子であることを、我々は信じ、信じることを証ししているが、我々の証しが有効だとは言えない。神によってこそ証しされるのである。
 我々はキリストの証し人であると自覚し、人をもキリストの証し人にしようと大いに努力している。それが間違っているということではない。だが、それとは「証し人」の意味が違うのである。
 バプテスマのヨハネの証しについて33節で語りたもう。「あなたがたはヨハネのもとへ人を遣わしたが、その時彼は真理について証しした」。これは1章19節以下に記されていた出来事を指して言われたのである。あの時、ヨハネは真実を語った。ただし、真実ではあるが、その証しはハッキリしなかった。何故なら、その段階でヨハネはまだキリストと出会っていないからである。彼は「私のあとにおいてになる方は私よりも遥かに偉大である」、「私の後に来る方は水によらないで聖霊によってバプテスマを授けたもう」としか証言できなかった。つまり、キリストが神であることについては証言出来なかったのである。1章7節に「この人は証しのために来た」と言われ、確かに彼は証しのために来て、使命の通り証しをしたのであるが、御父が御子について証しされるのと比べれば、その証しの力は遥かに劣ったのである。「私にはヨハネの証しよりも、もっと力ある証しがある」と主は言いたもう。
 「ヨハネは燃えて輝く明かりであった。あなたがたは、しばらくの間その光りを喜び楽しもうとした」。イエス・キリストはここでヨハネに高い評価を与えておられる。バプテスマのヨハネはその時代、夜明け前の暗黒のもとでは、唯一輝く明かりであった。だから、エルサレムの宗教的権威は彼が何者であるかを調査するために委員を派遣した。
 結局、キリストでないと分かっただけであった。しかし、そのキリストの前に遣わされた者であることが証しされたのであるから、ヨハネの後に来たる者に注意すべきであった。しかし、彼らはヨハネの証言を結局聞かなかった。
 ヨハネの証し以上の証しがなされても、人々は父の証しを受け入れないのではないか。
 そこで第三に学ぶ事がある。御父の証しの他にもう一つの証しがあるというのである。
 それは主イエスの行なわれる業である。御業が証しであることを主はヨハネ伝でしばしば語っておられる。例えば、10章37-38節に、「もし私が父の業を行なわないとすれば、私を信じなくても良い。しかし、もし行なっているなら、たとい私を信じなくても、私の業を信じるが良い。そうすれば、父が私におり、また、私が父におることを知って悟るであろう」と言われる。そして、今36節ではこう言われる、「父が私に成就させようとしてお与えになった業、すなわち、今私がしているこの業が、父の私を遣わされたことを証ししている」。
 キリストの業がキリストを証しするとは、比類なき奇跡が彼の絶大な力を証明しているという程度のことではない。「遣わされたことを証しする」業であると言われるのである。その業とは癒しの奇跡だけではない。それも御業の一つには違いないが、キリストの業とは、十字架に挙げられるに至るまで従いたもうた業である。そこでは確かに、彼が御父から遣わされたもうたことが証しされている。チラッと見ただけでは分からないが、地上における彼の御業を継続的に追って行くならば、彼が父から遣わされたことを見ないではおられなくなるのである。聖なる晩餐が示すのもまさにその業である。全ての証しがパリサイ人においては結局無効であったが、我々には父の証しと御業の証しは絶大な意義を持っているのである。


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