◆説教2000.08.13.◆

ヨハネ伝講解説教 第50回

――ヨハネ5:27-29によって――
「そして子は人の子であるから、子に裁きを行なう権威をお与えになった」。……この御言葉は難しい感じを与え、読む人を当惑させるかも知れない。「人の子」だから裁きを行なう権威を持つ資格があるというのは、どういうことか。「子」といわれるのが父なる神との関連で言われたその「御子」であることについては疑問の余地もない。御子は神から出たまことの神であるから、神として裁きの権能を行使したもうことについては問題はない。「人の子だから」と言われるのは何故であろうか。
 「人の子」という言葉はごく一般的には「人間」という意味である。イエス・キリストはまことの人間となりたもうたのであるから、「神の子」であるとともに「人の子」でもあられた。血肉を具えておられた。喜怒哀楽の情も持っておられた。しかし、その意味でこの文章を読み解いて行こうとしても、良く理解出来ない。人間だから裁きを行なう資格が神から与えられるとはどういうことか。むしろ、人間であれば正しい裁きを行なう資格がないから裁きを行なう権威は受けられない、と言うべきではないか。そこでまた考え直さねばならない。
 「人の子」という言葉を、主イエスがご自分を指すために用いられた例は、ヨハネ伝ではこれまでに3回ある。すなわち、1章51節、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。3章13節と14節、「天から下って来た者、すなわち人の子のほかには、誰も天に上った者はない。そして、ちょうどモーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない」。
 今上げた三つのいずれも、文脈に「天」との関わりが述べられていることに気付く。「神の子」なのだから天から下って来たのは勿論だと考えられるが、「人の子」という言葉はそれを言うのではない。キリストの出自、その本質、その性質、その尊厳が何であるかを示すためだけでなく、実際に天から下って来られ、または天に上げられる場面、あるいは天から御使いが彼の上に下って来る情景を考えなければならない所でこの「人の子」という言葉が用いられている。
 つまり、旧約聖書の中にあった「人の子」の特殊な用い方を思い起こさなければならないのである。それは何か。ダニエル書7章にある「人の子のようなものが天の雲に乗って現われる」と言われるその個所における「人の子」である。
 ダニエル書のこの個所は、終わりの日のメシヤの来臨を予告するものとしてユダヤ人の間では受け入れられていた。主イエスがヨハネ伝のこの個所で「人の子」という言葉を使われたのはその意味においてであり、ダニエル書の預言の続き、その成就という意味を籠めて言われたのである。だから、終末が来ているということを念頭に置いて学ばなければならないのである。
 ダニエルの預言を信じている人々は、そこに描かれているような、黙示録的な出現をするキリストを待望していた。聖書にそう書かれていたのであるから、そのように信じるのは当然であろう。しかし、キリストの実際の来臨はそれとはかなり違うものであった。全ての人の目が恐れに満ちて、あるいは喜ばしい期待をもって天を仰ぎ見ている中で、誰もが見ないわけに行かない眩い輝きを帯びて、約束されていたキリストが雲に乗って降りて来られる、というようなドラマチックなものではなかった。実際は、キリストは誰も知らないうちに生まれて来ておられたし、人目につかない低く卑しい姿を取っておられた。三十歳を過ぎても人に知られなかった。ヨハネ伝1章29節で学んだように、バプテスマのヨハネの証言で「見よ、あれが世の罪を負う神の小羊である」と聞かせられるまでは、キリストは来ておられても、誰にも知られたまわなかったのである。
 誰にでも分かるような、他の人と違う際立った形でキリストが来られたのではなかったのであって、彼が語りたもうた御言葉、また彼について証言する人の言葉を、信仰をもって受け入れる人だけが彼を真実に知ることが出来るという形で、キリストはこの世に来られた。
 では、旧約聖書に示されていたキリストの来臨の情景は嘘っぽいお話しとして破棄されたのか。そうではない。破棄されてはいない。それはキリストを信じる者たちの心の中に生き続ける。すなわち、彼が世の終わりに天から再び来られる日の有り様がこうであると信仰者たちは教えられているのである。使徒行伝1章11節でキリストの昇天の後に、御使いは言った、「ガリラヤの人たちよ、何故天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有り様で、またおいでになるであろう」。
 「あなたがたが見たのと同じ有り様」とは、皆の見ている前で、雲に包まれて天に上られたことを指す。去って行かれる時は栄光の御姿であった。雲に包まれる輝くお姿は、主イエスのご生涯には見られなかったものである。ただ、例外的に、マタイ伝では17章、マルコ伝では9章、ルカ伝では9章に、いずれもペテロのキリスト告白の後で起こった出来事として記されるが、高い山の上で、三人の弟子にだけ、それも限られた極く短時間、栄光の御姿を見させたもうた事がある。そこにモーセとエリヤが現われて、主イエスのエルサレムで遂げたもう最期について語り合ったとも書かれている。つまり、十字架の苦難の予告がなされたのが、栄光の場面であった。それ以外、彼はつねに栄光を隠して、謙って歩みたもうた。
 そのように、人々がどんなに想像力を拡大しても、現実のナザレのイエスと、ダニエル書に予告されていた「人の子」を結び付けることは出来なかった。主ご自身が、ご自分のことを「人の子」と呼びたもうのでなければ、人々の判断力は彼を約束のメシヤとして捉えられなかったのである。
 そこで、27節のお言葉の意味は明らかになる。主イエスの言わんとされたのはこういうことである。「あなたがたは、ダニエルの預言によって、人の子が天の雲に乗って来て、神の御座の前に進み、主権と栄光と支配を賜わり、その国は終わることがないということを教えられているであろう。あなたがたは認めていないが、私こそがその『人の子』なのだ。だから、私は全ての支配権を父から受け、したがって全ての者に対する裁きを行なう権能を受けているのだ。私がすでに来ているのであるから、あなたがたは預言者の言っていた終わりの時がすでに来ていることを知らなければならない」。
 そこで、続いて、「このことを驚くには及ばない」と言われる。3章の7節で主はニコデモに、「あなたがたは新しく生まれなければならないと私が言ったからとて、驚くには及ばない」と言われたのを思い起こす。主の御言葉を聞いて、理解を越えているため、その意味を測りかねて、戸惑っている時に語られる言い方である。驚き、たじろいではならない。私の言うままに信じなさい、という意味が含まれている。
 「このこと」とは以下のこと、つまり28節後半と29節の内容と見ることも出来るし、この前に言われたこと、つまり25節と26節に言われたことと取ることも出来る。意味はそれほどは違わないが、28-29では復活のことが語られる。もっとも、裁きにために甦ると言われるから、甦りと裁きが語られる。25-26では死人が生かされることと裁きとが語られるので、結局どちらでも良いのであるが、約束されていた驚くべきことが起こる終わりの日が来たことを言われたのである。「終わりが来ている」と言われて、驚くことはない、言われた通りに信じなさい、と説いておられるのである。
 「終わりが来た」という言い方は今日学ぶ御言葉の中にはないのであるが、その意味は籠められているのだから、よく見ておきたい。ヘブル書の冒頭に、「神は、昔は、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子によって私たちに語られた」と言われる。御子によって語られる時、それは終わりの言葉である。決定的な・最終的なことが語られたというのである。預言者たちによって預言されていたことが、御子によって成就したのであるから、今は「終わりの時」である。
 主は「死んだ人たちが神の子の声を聞く時が来る。今すでに来ている」と先に25節で言われた。28節以下では、そのことを更に説明して「墓の中にいる人たちが神の子の声を聞く時が来る」と言われる。終わりの日の死人の甦りのことをあなたがたは聞いていたが、それが現実となっている、と言われるのである。すなわち、ダニエル書12章2節には「地の塵の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。そのうち、永遠の生命に至る者もあり、また恥じと、限りなき恥辱を受ける者もある」と記されているが、その預言を受けて、預言されたことの成就の時になったと主イエスは言われたのである。
 「人の子」という言葉がダニエルの預言にあることと、死人の甦りもダニエル書に記されていることは偶然の一致ではない。主がここで語られる教えはダニエル書の終末預言との関連においてなされるのである。
 死んだ者が甦るということをユダヤ人の多くは信じていた。サドカイ派は受け入れなかったが、彼らは死人の甦りを教える書を聖書の中に入れることを認めなかったからである。「墓の中にいる者」とは死人のことである。死人とは25節で見たように、生きているというが実は死んだ者の意味である。なお、25節では「死んだ人たちが神の子の声を聞く時が来る。今すでに来ている」と言われたが、28節では、「墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞く時が来るであろう」と言われただけで、「そうだ今来ている」とは言われなかった。死人の甦りの時は始まっているが、全ての死人が裁きのために甦る時にはなっていないのである。
 「死人の甦り」については、旧約聖書のうち古い時代に書かれた書では語られていない。大ざっぱに言って、後期に書かれた書になるほどハッキリ述べられる。聖書の正典とされていない後期の文書にはもっと繁く出て来る。そこで、このようになったのは、イスラエルの中に死人の復活という思想がだんだん発展したからではないか、あるいは、「永遠の生命」とか「死者の復活」という考えが外国から輸入されたからではないかと解釈する人がいる。
 しかし、歴史的に発展したことは確かであるとしても、初めになかったものが後で付け加わったという解釈は間違っている。神が万物を造り、これに命を与えて、「生きよ」と言われた時、生を呑み込む死はなかった。したがって、エデンの園において、命には本来終わりはなかった。人間が罪を犯したために、死は世界に入ったのである。しかし、人類のために、罪に勝つ勝利が贖い主によって勝ち取られる時が来れば、死もまた克服される。それが、神の創造と約束を信ずる神の民に最初から教えられていた信仰であった。もっとも、昔はそれがハッキリしていなかった。歴史が進むにつれて次第にハッキリして来たことは確かである。
 さて、死人の復活であるが、「善を行なった人々は、生命を受けるために甦る」と言われる。これは平たく言うならば、こういうことである。神の御旨にかなって生涯を歩んだ人の命は、死によって切断されることがあっても、またその生涯に神の祝福を示す印しが乏しかったとしても、死の後に来る復活によって死は打ち勝たれ、呑み干されて、永遠の生命が祝福として与えられる。
 その逆に「悪を行なった人々は、裁きを受けるために甦る」と言われる。「裁き」という言葉はここでは「断罪」や「刑罰の執行」という意味で言われ、したがって罪を犯した者だけが受けるものである。だが、「審判」ということなら、善人も悪人もその生涯の結末の判定のために等しく受けるものである。だから、「墓の中にいる人たちがみな甦る」と言われる。すなわち、善を行なった人も判定を受けて、永遠の生命を受けるのである。とにかく、死で万事が終わるのでなく、死の後に本当の決着が来る。その本当の決着に備えることが大切である。では、どうすれば良いか。
 主イエスはマタイ伝16章27節で「人の子は父の栄光のうちに、御使いたちを従えて来るが、その時には、実際の行ないに応じて、それぞれに報いるであろう」と教えたもうた。「実際の行ない」が判定の決め手になると言われたのである。これをさらに詳しく具体的に教えたもうたのがマタイ伝25章にある、「いと小さき者になしたこと、またいと小さき者にしなかったことの報い」の教えであるが、ヨハネ伝でここに言われたのと主旨から言って食い違ってはいない。
 パウロもローマ書2章6節以下に、「神は各々に、その業にしたがって報いたもう。すなわち、一方では、耐え忍んで善を行なって、光栄と誉れと朽ちぬものとを求める人に、永遠の命が与えられ、他方では、党派心を抱き、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。悪を行なう全ての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、患難と苦悩とが与えられ、善を行なう全ての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、光栄と誉れと平安とが与えられる。何故なら、神には、偏り見ることがないからである」と言っている。
 これらは聖書にある基本的な教えであるから、素朴にその教えを聞いて従えば良いのであるが、「だから、良い行ないをしなければならない」と結論するのでは、聖書のメッセージを十分読み取ったことにならない。神が行ないにしたがって報いたもうのは真実であり、我々が良い行ないに励まなければならないのも全く疑いないことであるが、その程度の読み方では、罪ある業しか行なえない人間に対する神の絶大な憐れみは聞き取れないままで終わるであろう。すでに24節で学んだように「私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信ずる者は、永遠の命を受け、また、また裁かれることがなく、死から命に移っているのである」と言われた。まして、良い行ないによって永遠の生命を勝ち取るべきだという教えがあると取ってはならない。
 ここでは、「行ないに対しては報いがある」という低い尺度で見てはならない。「御子を信じる者が救われる」という教えをこそ聞き取らなければならない。
 行ないに応じて報いられることについては、二つの点を押さえておけば良いのである。
 第一に、神の義なる支配をシッカリ弁える必要があるということである。この世では不義が横行している。不義な者ほど栄えているのではないかと思われるほどである。これでは義なる神が世界を統べ治めたもうとは思われないかも知れない。しかし、神は義なる審判者であられるから、損なわれた正義を審判によって回復したもうのである。
 第二に、我々の人生は一度しかないから、一刻一刻を、かけがいのない時として真実に生きるように願わなければならないということである。
 墓の中から甦って出て来ても、裁かれることしか残っていないことが分かって、慌ててもう一度人生をやりなおそうと願う人があろうが、それはできないのである。御子を信じるべき時に信じなかったから、恵みの時は過ぎ去ったのである。25節で「今すでに来ている」という御言葉を学んだが、すでに来た恵みの時は、信仰をもって捉えなければすでに過ぎ去ってしまう。取り返しがつかないのである。それが3章の18節に「信じない者はすでに裁かれた」と言われた意味である。
 今は恵みの時である。主がそう言われる。その時のうちに恵みを捉えなければならない。


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