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ヨハネ伝説教 第5回

――1:9-13によって――

   「全ての人を照らすまことの光りがあって、世に来た」。これだけで一つの福音的な宣言である。我々は、ここで己れの救いを捉えたと言えるのである。まことの光りが、彼方にあるというのでなく、すでに世に来た。全ての人はそれに照らされた。救いは成就したのではないか。しかし、この世にとっては、その通りには行かないことが示される。
 光りが来たならば、闇の中にある全てのものは照らされる。闇は光りに勝てない。では、全てが光りのうちに包まれ、闇はなくなり、滅びから救いへの転換が起こったのか。そうではなかった。闇は闇である故に光りを悟らないどころか、光りを拒絶する。5節の「闇はこれに勝たなかった」と訳されているところは、「闇はこれを悟らなかった」と訳す方が良いのではないかという説があると述べたが、そう考える余地が十分ある。闇である世は光りであるキリストを拒絶し、十字架につけて殺したのである。
 物理的な闇なら、光が当たると消える。しかし、闇に譬えて示されているのは「罪」であって、光が当たると反発する。パウロはローマ書7章9節に「私はかつては律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、私は死んだ」と己れの体験を語っている。ここで言う「律法」また「戒め」、これを「光り」に置き換えて読んで見れば良い。律法また戒めは悪なのか。決してそうではない。パウロはそれに続く12-13節に、「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。では、善なるものが私にとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現われるための、罪の仕業である」と言う。
 我々にはそれぞれ身に覚えのあることであるから、これを聞いて、とても理解し難い深遠なことを教えられているとは感じない。朝、光りが射して来ると、闇のうちにあった万物は光りの中に躍り出る。そのようにキリストが来られて人々が歓呼する。そういう現実もある。しかし、それと逆の現実もある。光りが射して来ると、闇はますます濃くなるのである。罪や不信仰の闇には頑なさがある。光りが射していない時にはまだ柔軟さが残っており、闇の中で光りに憧れていたのに、光りが照ると猛烈に反発する。
 イエス・キリストが来られた時、闇はドンドン消えて行ったのか。そうであったという事実と、そうでなかった事実とがあったではないか。彼を素直に心から受け入れた人もいるが、キリストに対して執拗に反発する人もいたのである。こうして遂に彼は十字架につけられて殺された。福音書の物語りは、光りが射してきたために闇がなくなったという事実だけでなく、光りが射して来たため闇がますます黒々とし、ますます猛々しくなった事実をも示している。光りが照ることによって闇の抵抗が始まる。しかし、結局、闇は光りに勝てない。キリストが勝利されるのみでなく、彼を信ずる我々も勝利者になる。ただし、その勝利は安易なものではない。
 今、「光り」と「闇」という二つの比喩だけで論じていたが、比喩に頼らなくて済むところは、福音書に描かれた実際の場面を思い起こして考えた方が良く分かるであろう。「まことの光りがあって世に来た」と言われる前に、7節に「この人は証しのために来た。光りについて証しをし、彼によって全ての人が信じるためである」とあったことを踏まえて、考えよう。
 まことの光りが世に来たのは、ヨハネの証しの取り次ぎによってである。ヨハネの証しなしでキリストが登場したもうたのではない。そのヨハネの証しとは19節以下に語られていることであるから、そこに行った時に学ぼう。その証しの頂点になるのは、29節の「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という証言である。
 謂わば、芝居の口上役が先ず出てきて、口上を述べて、そこに主人公が登場するように、ヨハネの証しなしでイエスがいきなり登場されることはない。だから、ヨハネ伝でも他の福音書でも、バプテスマのヨハネの言動について先ず語り、それからナザレのイエスについて語る。ヨハネの活動以前にも神の子イエス・キリストは生まれておられ、ナザレで生活しておられたのであるが、ヨハネがヨルダン川で活動を開始するまでは全く知られていないのである。だから、ヨハネ伝ではキリストの誕生も、幼少時代の事も全然扱わない。ヨハネ伝でイエス・キリストの姿を具体的に描き出すのは1章29節が最初である。「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方に来られるのを見た」。
 「全ての人を照らすまことの光があって、世に来た」。「まことの光り」という言葉はこの福音書の記者の特徴的な言い方である。「光り」という表現にもヨハネ伝の特色がある。8章12節に、主御自身が言われる。「私は世の光りである。私に従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、命の光りを持つであろう」。9章5節では「私は、この世にいる間は、世の光りである」と言われる。そして、それとの関連で、12章36節には、「光りのある間に、光の子となるために、光りを信じなさい」と言われる。
 「まことの」という言葉も、福音書記者ヨハネの好んでよく使った表現である。「真理の」と訳した方が良く分かる場合もある。イエス・キリストは真理でいましたもう。18章37節の御言葉を思い起こそう。「私は真理について証しをするために生まれ、また、そのためにこの世に来たのである。誰でも真理につく者は私の声に耳を傾ける」。このことをピラトの前で言われた時、ピラトは「真理とは何か」と嘯いた。彼には理解出来なかったのであるが、真理など何の役に立つか、という揶揄の意味も含まれているように感じられる。
 「まことの」という形容詞は「まことでない」ものと対照的である。光りと言われているが、まことの光りでないものが世に溢れている。多くの宗教が「光り」というキーワードを好んで用いたことについては、4節を学ぶ時に触れた。光であると自称し、宣伝し、売り込むものは多くあるが、まことの光り、人を欺くことのない光り、言葉だけでない真実の光りは、ヨハネの証ししたものだけである。
 「まことの」という言葉には「本源の」という意味もある。自然界においては太陽が光りのもとであるとされている。すべて光る物は太陽の光りを受けて光るのである。だが、その光りのさらに本源となるものがある。これが「まことの光り」である。
 4章の37節に「『一人が蒔き、一人が刈る』という諺が、本当のことになる」と言われるが、「本当のことになる」というのは、「まこととなる」という言葉であり、ここでいう「まこと」は現実化の力を指す。見せ掛けだけ、言葉だけの光りとは違う。それが来ても、拒否する人がいることは先に語った通りであるが、まことなる光りが来たからには、他の人はともかく我々は、まことをもって、真理に適って、すなわち偽りなしに、誤魔化しなしに、誠心誠意、これと向かい合わねばならない。
 「まことの」とは「真理の」というふうに訳した方が良いように思われる場合があると先に言ったが、この言葉はギリシャ語では真理という名詞に由来する形容詞である。しかし、今はギリシャ語の用法をしばらく措いて、聖書全体ではどうなのかを考えて見よう。聖書全体について言えば、アァメンという言葉を取り上げた方が適切である。イエス・キリストは「アァメンたる者」と呼ばれ、「アァメン、私はあなたがたに言う」、「まことに、まことに、汝らに告ぐ」と言われる。「まこと」とは「アァメン」なのだ。
 この光りは「全ての人を照らす」。万物を照らすと言っても良いのであるが、ここでは全ての物を照らすという意味でなく、全ての「人を照らす」のである。「人を照らす」とは、暗い道を歩いている人を照らすという意味があることは言うまでもないが、それだけではない。
 聖書にある「照らす」という言葉は、我々の日常の言葉遣いにはないが、人の心のうちを照らすという意味を含んでいる。明かりを照らすことによって足元が見えるようにすることもあろうが、その人の目が闇の中でも見えるようになれば、明かりを照らしてもらうのと同じく、躓くことは起こらない。「照らす」とは、したがって、目が見えるようにする、目を明らかにする、認識を与える、認識力や洞察力をつける、悟りを与える、という意味である。
 明かりを照らすことによって対象物がハッキリして来るから、見えるというだけの照らすではなく、見る人が照らされることによって物が見えて来るのである。こちらが照らされると却って見えなくなるというのが日常の理解であるが、聖書の言葉遣いでは、こちらが照らされることによって向こうが見えるのである。エペソ書1章17節に「どうか私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの目を明らかにして下さるように」と言う所の「目を明らかにする」は「目を照らす」である。ここに言われたように、そのように照らすのは御霊の働きである。キリスト教の影響を受けた国の言葉では、「照らす」という言葉にはそのような内的な意味がある。英語で言えば「イルミネート」がそれである。こういう使い方はまだ日本語に定着していないように思う。日本のキリスト者が照らされて獲得する悟りをあまり重んじていないからではないか。
 「世に来た」とは、光りが世に照った、光りが世を照らした、というだけのことではない。「世に来る」という言い方は、ユダヤのラビの間の言い方では、人として世に生きるという意味である。
 「世」という特徴ある言葉がこの福音書でここに最初に出て来る。簡単に言うならば「世界」である。「この世」というふうに言われる場合もあり、ニュアンスは違ってくる。すなわち、「この世」は「彼の世」と対立する。そして彼の世は来たるべき時代とほぼ同じ意味である。すなわち、時代という意味が含まれる。
 世は神の創造したもうた物である。その限り、神の配慮に与っている。しかし、世には様々の側面がある。悪い面がある。例えば、18章36節で主は言われる、「私の国はこの世のものではない」。キリストの御国とこの世とは峻別されなければならない。境界線をハッキリ引かなければならないというだけでなく、次元の違いを確保しなければならない。この意味の世がさらにハッキリ示されているのは、15章18節以下であろう。「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先に私を憎んだことを、知っておくが良い。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世はあなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。却って、私があなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなた方を憎むのである」。「世」という言葉については10節でさらに見よう。
 「来る」という言葉にも重要な意味がある。4章25節でサマリヤの女が主イエスに言う。「私はキリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られたならば、私たちに一切のことを知らせて下さるでしょう」。サマリヤの女もキリストが世に来られることを知っていたのである。11章27節にマルタは言う、「主よ、信じます。あなたがこの世に来たるべきキリスト、神の御子であると信じております」。これらの例から、世に来たことがキリストであることを指すという意味は明らかである。しかし、世は彼を信じなかった。このことが次の10節に詳しく論じられる。
 「彼は世にいた。そして世は彼によって出来たのであるが、世は彼を知らずにいた」。ここでは世が彼を知ろうとしなかった点を特に言おうとしたものである。彼は世に来られて、世に住まわれたから、知ることが出来たのに、世は彼を知ろうとしなかった。「世にいた」という言い方にはそれ以上の意味はないと考えて良い。世は彼によって出来たのであるから、自分の存在の根源である彼を知るべきであったにもかかわらず、知らなかった。「世は彼によって出来た」は3節の繰り返しである。彼によって造られたのに、彼を認めないのが世である。
 11節の「彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった」は10節の言葉をさらに強調したものである。
 自分のところ、自分の家、自分の領地、それはイスラエルの地を指す。自分の民、それはイスラエルの民、この福音書では通例ユダヤ人と書かれる。7章1節に「イエスはガリラヤを巡回しておられた。ユダヤ人が自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡回しようとはされなかった」と言っているところはユダヤとガリラヤの対比を示している。主イエスの弟子は殆どガリラヤ人であり、ユダヤ人は概ね彼を敵視しており、彼の伝道活動も主としてガリラヤでなされた。
 聖書において、ユダヤ人は神の民として特別な位置を持っている。すなわち、神はアブラハムを選び、これと契約を結んで御自身の民としたもうたが、その子々孫々に至るまで祝福を受け継ぐよう定められた。それは一つの民族に対する度を過ごした特権付与ではなかったか。そうではない。全人類が罪に落ち、神を礼拝することを拒否して、人の手で作った偶像を拝むことを喜んだ時、神は偶像を捨てさせるために、アブラハム一族を選びたもうた。
 アブラハムを選んだのは、彼の子孫によって全ての人が祝福されるためであるが、それは彼の子孫が世界の中核となるということではなく、彼の子孫の内から世界の救い主が出るということであり、その子孫はキリストのためにあるということである。それ故、ユダヤ人はキリストの来臨の備えをすべきであった。「自分の民」という言葉があるが、ユダヤ人はキリストのためにこそ存在する特別な民であった。ところが、「自分の民は彼を受け入れなかった」。
 それでは、命に与る者は一人もいなかったのか。そうではない。彼を受け入れた者はいたのである。光りを悟ろうとしない闇、彼を知ろうとしない世、彼を受け入れない彼の民、それが流れとなっているのに、その流れに逆らって、彼を受け入れる者がいたのである。
 「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血筋によらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである」。今日はこの12-13節を結びとして聞くのであるが、これは慰めに満ちた結論である。
 「名を信ずる」という言い方がこの福音書に何度か出て来る。例えば、3章18節、「彼を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じることをしないからである」。20章31節、「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」というところに、イエスの名の持つ意味と力が記される。さて、「彼を信じる」というのと、「その名を信じる」というのとどう違うのか。聖書においては、名は実体であるから、名に救いがあり、彼の名を信ずることと彼を信ずることとの実質は違っていない。では、何故「その名を信じる」と言うのか。名を信ずるとは、その名を持つ人を信じることと同じであるが、その名を唱える、すなわち、その名を告白する、そして、その名を唱えてバプテスマを受ける、この儀式から来た言い方であると思われる。バプテスマは古くは「イエスの名によるバプテスマ」と呼ばれていた。
 その者には「神の子となる力が与えられる」。これは力を与えられて、その力によって、人間が神の子になって行くということではない。神の子となることを恵みとして与えられることである。
 「神の子」という言葉について一言しなければならない。イエスも神の子であり、我々も神の子であるというのか。そう見ても良いのだが、この福音書ではイエスが神の子であるという時と、我々が神の子であると言う時と、子という言葉を使い分けている。Jは神のヒュイオスであり、我々は神のテクノンである。キリストは生まれながらの神の子であり、我々は神の子とされた。第一の誕生によっては神の子ではなく、第二の誕生、すなわち再生によって神の子として生まれたのである。
 その者は血筋によらない。すなわち、アブラハムの血筋、ダビデの血筋、ユダヤ人であることによらずに信仰に入る。肉の欲にも、人の欲にもよらない。すなわち、本人が思い立って、精進して、信仰に入って救いを獲得するというのではない。ただ神によって、上から、御霊によって生まれるのである。

1999.05.16.


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