◆説教2000.08.06.◆ |
――ヨハネ5:25-26によって――
「よくよくあなたがたに言っておく」と主は、24節に続いて25節の冒頭でも宣言される。耳慣れた響きとして素直に聞けるようになることは幸いであるが、聞き飽きた調子として、もはや言葉が魂に響かないようになっていないかどうか気を付けておこう。今朝、もう一度、新しい思いをもって、主が「アァメン、アァメン、私はあなたがたに言う」と言われる言葉を聞くように心を整えよう。 「死んだ人たちが神の子の声を聞く時が来る。今すでに来ている。そして、聞く人は生きるであろう」。……たしかに、これは聞き落としてはならないし、耳には届くが魂に響かない調子になってはならない、大事な宣言であることは容易に理解出来るであろう。 ここで本論に入る前に、「何々する時が来る。今すでに来ている」という言い方に注目して置きたいと思う。これもヨハネ伝特有の、聞き覚えのある主の口から出る響きである。すなわち、前回も触れたが、3章18節に、「信じない者は、すでに裁かれている」と言われた。これは、「信じない者は裁かれる時が来る。そうだ、すでに裁かれる時が来ている」という言い方の省略形である。 4章23節にも、「まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今来ている」と言われた。「時が来るべきである。そうだ、すでに時が来ている」という「時」の捉え方はヨハネ伝特有と言ったが、ついでに触れて置くと、含みは別であるが、同じ言い方が16章32節にもある。「見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、私を一人だけ残す時が来るであろう。いや、すでに来ている」。この16章の言葉は、受難の「時」が始まっていることを語られたものであって、今日学ぶのは、受難の出来事とは直接には関係なく、救いと信仰の時に関わる、一般的な、基礎的な教えである。 「来るであろう」とは、将来起こることの予告である。聖書の形式に則って言えば、旧約聖書を通じて響く一貫した響きである。預言の言い方である。約束の論法と言っても良い。約束は希望を呼び起こす言葉であるから、単にシッカリ聞くだけでなく、聞いて従うだけでもなく、希望によって捉えなければならない。すなわち、これは確かな約束であるから、成就はまだ目に見えていなくても、すでに来たのと同然であると信じることが出来る、という心得を持たねばならない。 「今すでに来ている」とは、来ていることに気付かない者に対して、もう来ているという現実に注意を喚起する言い方である。これがどういう意味を持つのかを考えて見たい。――前項で語ったように、「来るであろう」という約束それ自体が、「来ることは確かである。成就するのは確かである。だから、すでに来たものと見做して良い。むしろそうすべきである」という意味である。神の約束は全く確かで、全く真実であり、期待を裏切ることがないからである。だから、「来るであろう」と約束されただけでも、「アァメン、すでに来たも同様であります」と答えて良かった。 これは、夢と現実を混同した愚人の振る舞いのように人々の嘲笑に曝される場合もあるが、全ての真の信仰者の実際生活に素朴に現われている信仰の基本的性格の一つである。だから、信仰者は艱難の中にありながら、すでに勝利した者のように意気軒高であることが出来る。祈り願ったことは、すでに叶えられたかのように確信するのである。 旧約の信仰者はこれで満足すべきであったし、そうするほかなかった。しかし、新約の信仰は同じではない。8章56節で主は言われる、「あなたがたの父アブラハムは、私のこの日を見ようとして楽しんでいた。そして、それを見て喜んだ」。アブラハムは見ようとしても見ることが出来なかったのではないか、と疑問に思う人があろう。なるほど、そうも言える。マタイ伝13章17節、またルカ伝10章24節も同じであるが、主イエスは言われた、「多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが見ることが出来ず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかった」。アブラハムのような人でも見ようとして見ることが出来なかったものを、あなたがたは見ているのだと主は福音を聴く者の幸いを言われた。 それでは、いったい、アブラハムは見たのか、見なかったのか。――肉の目では見なかった。その点では新約の信仰者と違う。しかし、希望の目では見た。その点では新約の信仰者と全く同じである。だから、すでに喜んだのである。では、アブラハムは何を約束され、何を見たのか。 これは一口では語り尽くせない。彼は全生涯を通じて多くの約束を受けたからである。 彼は御言葉のままに故郷を捨てて、神の行けと命じたもう地を目指した。長い旅路の果てに、ついにカナンの地に到着し、神は「この地をお前とお前の子孫に与える」と約束された。だが、彼に約束されたのがそれだけでなかったことを彼自身は把握していた。 だから、お前の地だと言われながら、その地に家を建てるわけでもなく、主人顔に振る舞うわけでもなく、「寄留者」として幕屋に住んだのである。彼はまた、住んでいる所で、「住めば都」といって満足し、喜んだのでなく、ヘブル書11章10節の言うように、「揺るがぬ土台の上に建てられた都を待ち望んだ」のである。それは天にある、もっと良い故郷、来たるべき神の国であった。 アブラハムにはまた子孫が約束されていた。しかし、彼が百歳になっても約束の子は生まれていなかった。それでも彼は約束を信じて待った。やがて独り子は授かったが、子孫が天の星のように、浜辺の砂のようになるという約束は、彼の生きている間にはついに実現しなかった。その子イサクの子ヤコブに至って12人の子が与えられ、これらがイスラエルの民、神の約束に与る民となるのだが、神の約束されたのは単なる民族の繁栄と発展ではなく、「アブラハムの子」として生まれて来る全人類の祝福者キリストであった。キリストが来臨して約束の神の国が実現する。アブラハムはそれを間近に見ることは出来なかったが、「はるかに望み見た」のである。それが、先に引用した「あなたがたの父アブラハムは私のこの日を見ようとして楽しんでいた。そして見て喜んだ」との主イエスの御言葉の意味である。 旧約の民は来たるべきメシヤを待ち望みつつ生きた。だが、約束の方はなかなか来られなかった。では、キリストの来臨が約束されても、約束の方が来られなかったうちは、ただ待つだけで、待っていた方が来られなければ、待ったのは無駄であったか。そうではない。約束は希望を呼び起こし、希望はまだ来ていないものを既に来たものとして捉えることが出来る。だから、神の約束を受けた者は、紙切れに過ぎない約束手形を後生大事に保管している人のように持っていたというのではなく、「希望」によってすでに救われたのである。そして、何よりも、真実であられる神はご自身の約束したことに希望を持って待つ者の希望を、決して裏切りたまわなかった。我々はキリストの来臨の意義を強調するために、来臨以前が空しいものであったかのように考えがちであるが、空しくはなかった。 ヘブル書11章39節に「これらの人々はみな、信仰によって証しされたが、約束のものは受けなかった」と言われる。旧約の信仰者も信仰者であり、信仰の証し人また模範であって、信仰は望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することであるから、彼らは約束されたことの実現を見ていないけれども、希望によって確認出来たし、はるかにそれを望み見て喜んだのである。 難船して漂流している人々が、いつか必ず救いの船が来てくれると希望して待ちながら、ついに彼らの生きている間には救いの船が来なかったという実話が沢山ある。旧約の信仰者は救い主の到来を待ち望んだのであるが、キリストの現われたまわぬ先に死んでしまったため、漂流中に死に絶えた者と同じ運命を辿ったのか。そうではない。約束したもうた方は、約束を信じる者に、実際に救いを与えたもうたのである。だから、旧約聖書の中にも救いの讃美が満ちているし、アブラハムは喜びをもって約束のものを見ることが出来たのである。 それならば、「時が来る」との約束があるだけで十分だったのではないか。――なるほど、約束を受けてそれを信じた人は救われたであろう。だが、救いはそれ以上には広がらなかったであろう。イスラエルのうちのまことの信仰を持つ人だけが救われて、それ以外の人々はイスラエルであっても、キチンとした信仰を捉えなかった故に滅び失せ、ましてイスラエル以外の異邦人は救いの呼び掛けを聞くことすらないままで滅びたのである。それで当然であると言えば言えるが、それで良いなら、キリストが来られる意味はないのである。つまり、神は真実であり、かつ全能でありたまい、何一つ不義はなく、神の真実を信じる者をご自身の全能を発揮して救いたもう。そして、信じない者は、己れに相応しい滅びに行くのが当然ではないのか。正しく信じなかった者には信じない責任があるのであって、神には何の落ち度もなかったではないか。たしかに、我々には神に対して何も異議申し立ては出来ない。 しかし、神は憐れみ深くあられる。正しく信じようとしない者を見放すのでなく、正しく信じさせたもう。だから、「信じる者は救われる」という一般的真理が宣べ伝えられるだけではなく、「神の遣わしたもうたキリストを信じる者は救われる」という、具体的な、確実性のある、手を伸ばして掴むことの出来る、現実性を備えた福音が成就しなければならなかった。「今すでに来ている」とはそのことの宣言なのだ。今すでに来ているのであるから、今すでに入って行くことが出来るし、今すでに入っていなければならない。ためらっている時ではない。 「今すでに」ということが信心深い人の信仰につねに結び付くことは、信仰生活の経験の中で確認出来ていると思うから、これ以上論じなくて良いが、一般にその確信が単なる思い込みの信念になっている場合が多いので、確信をして確信たらしめている根拠を見て置く必要があろう。 主イエスが「その時はすでに来た」と言っておられるのは、「来たと見て同然なのだと思って良い」という意味ではない。あるいは、「まだ来ていないことが、信仰においてすでに来たことになる」と、分かったような分からないような解釈をすれば良い、というのでもない。主の言われることはもっと平明な現実なのだ。すなわち、「すでに来ている」とは「私がすでに来ているからである」ということなのだ。実例を見よう。 「信ずる者が、ゲリジム山でもエルサレムでもなく、世界中どこででも、霊とまことをもって父を礼拝する時が来る」とは、御子イエス・キリストの名によって礼拝することが出来るからであるが、イエス・キリストがすでに来られたから、そのような礼拝を捧げる時はすでに来たのである。 「信じない者は裁かれる。いや、すでに裁かれた」と言われるのは、父から裁きの権能を悉く委ねられた御子がすでに来ておられるからである。キリストの来臨はある意味で審判の開始を意味する。それは旧約で予告された通りである。 だから、強い信仰の場合、旧約の信仰者であっても、すでに恵みを受けたとの確認をしていたのであるが、新約の信仰者はもっと確実に、「すでに時が来た」ということの根拠を捉えているのである。これがキリストの民の特色である。 その御子が今日の聖句で語りたもうのである、「死んだ人たちが神の子の声を聞く時が来る。今すでに来ている」と。神の子がすでに来ておられ、死人に向けて語り掛けておられる現実があるからである。さてそれでは、その「死人」とは誰のことか。ベタニヤのラザロのことを言われたのであろうか。それは勿論考えて良いことであるが、ここではラザロに関して特に言っておられるのではない。 死人の甦りの実現される「終末」が到来したということを言われるのであろうか。それも当然考えられるべきである。旧約では、メシヤの来臨は終わりの日の到来と重なって描かれているからである。しかし、これまでに死んだ人たち、墓の中に葬られていた人たちが甦る時が今来たというだけのことではない。主は今この言葉を墓の前で語っておられるのではない。 「死んだ人たち」とは、「生きていると自分では思っているけれども、実は死んだと言うべき人たち」のことである。今主イエスの目の前で高ぶっているユダヤ人を特に指していると見て良いだろう。彼らの頑迷さは「死人」に匹敵する。それでも彼らに神の子の声が届いている。もっとも、彼らがここで直ちに生きるというわけではない。 彼らが神の子の「声」を聞くとは、神の子の語りたもう福音を受け入れる、ということであると共に、それが伝言でなく、情報の伝達でなく、書きつけやチラシの文面を読むのでなく、御子自身のじきじきの「声」を聞くのでなければならないという意味である。そして、御子自身の声を聞くとは、御子を遣わされた父なる神の声を聞くことでもなければならない。「声を聞く」という言い方には現実味がある。 今日、教会では説教がなされ、主イエスの言葉が解き明かされる。それで主の言わんとしたもうたのが何であったかは説明されて分かるであろう。それで十分か。十分とは言えないのではないか。主の言わんとされたのはこういう意味だと了解することと、神の子の声を聞くこととは、同じと扱わない方が健全である。御子の語りたもうた主旨を理解することも大事であるが、御子の声を聞き取らなければ死人は甦らない。 御子の声を聞くとは、あたかも御子が語っておられると感じさせるような、キリストの声色を真似た語り方をしなければならない、という意味では勿論ないであろう。説教者その人の声が聞こえるだけであるが、にも拘わらず、御子のじきじきの語り掛けがそこで聞こえるという出来事が起こるのである。隠された御霊の働きによるのである。 「そして、聞く人は生きるであろう」。その理由は次に述べられる。「それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっているのと同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである」。自分の内に生命を持つ御子が、死んだ者に語り掛けることによって、ご自身に与る者となし、ご自身のうちにある生命によって死人を生きた者としたもうからである。 全ての生命の源泉は神である。神は人となりたもうた御子にご自身のうちにある生命の源泉と、その源泉の管理を悉く委ねたもうたので、御子はご自身を死んだ者、また死んだに等しい者に与えることによって、彼らを生きた者となしたもうた。 それでは、御子から遣わされて福音を宣べ伝える者も、自らのうちに御子からの生命を満たして、それを聞く人々に分かつべきであろうか。そうなのだ、と考えている人があろうが、それは間違いである。説教者が、己れの語る福音の命に満ちていなければならないのは勿論であるが、説教者は己れの内にある命を与えることを使命とするのでなく、御言葉を伝えることを使命とし、人を生かす命は御言葉の中にあるのである。説教者は福音を聴く人のために自分の命を投げ出すほどの覚悟で伝道しなければならないのは当然であるが、説教者は自分のうちにある命によって他の人を生かす資格を持たない。 自らの命で他を生かすことが出来るのはキリストだけなのだ。 そのキリストが我々の一人一人にすでにご自身を与えたもうた。そのことが聖晩餐によって示されるのである。 |