◆説教2000.07.23.◆

ヨハネ伝講解説教 第48回

――ヨハネ5:24によって――
 「よくよくあなたがたに言っておく」という前置きで、またも重要な宣言、また教えが与えられる。「私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の命を受け、また裁かれることがなく、死から命に移っているのである」。
 これはキリストの確かな宣言として明らかにされたものである。そして、やがてこうなるであろうという約束や予想ではなく、すでにこうなっていると信ぜよとの命令である。この言葉はまた、イエス・キリストの教えの神髄であると断定してよいであろう。ここではまた、永遠の命を受けること、裁かれないこと、死から命に移っていること、これがどのようにしてなされるかが教えられる。
 「永遠の生命」という言葉は、ヨハネ伝では3章15節以来、何度か聞いて来た。「モーセが荒野で蛇を挙げたように、人の子もまた挙げられねばならない。それは彼を信じる者が、全て永遠の命を得るためである」。4章14節ではこう言われた、「この水を飲む者は誰でも、また渇くであろう。しかし、私が与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがないばかりか、私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き上がるであろう」。同じ章の36節、「刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている」。……それらの個所で、この言葉がどんなに大事なものであるかは十分分かったはずである。だが、これまでの所では、「永遠の命」が主題になっているのではなく、他の事項と関連して説かれていた。だが、今日の個所では「永遠の命」が主題として打ち出されている。だから、ここで詳しく見て置くのが適切ではないかと思う。「永遠の生命」はヨハネの特有の教えではないし、主イエスの特有の教えでもないが、ヨハネの福音書に特に頻繁に現われる語彙である。だから、ヨハネ伝を学んでいる間にシッカリ身に着けて置くべきである。
 思い起こされるのは、マタイ伝19章またそれと平行している他の福音書にある有名な出来事である。「一人の人がイエスに近寄って来て言った、『先生、永遠の生命を得るためには、どんな良いことをしたらいいでしょうか』」。――彼は「永遠の生命」の求道者であった。永遠の生命を受け継ぐ道を探って、あれこれ努力していた。しかし、確信が得られない。それで主イエスのもとに走り寄って尋ねた。こういう人が多くいたかどうかは分からない。しかし、彼の切なる求めをある程度理解出来る人なら、ユダヤ人の中に沢山いたと思う。ユダヤ人は永遠の生命について特別に教えられていた民族であった。
 この言葉は旧約聖書の終末の預言に出て来るのである。ダニエル書12章2節、これは終末についての啓示の典型と言うべきところであるが、「地の塵の中に眠っている者のうち、多くの者は目を覚ますでしょう。そのうち永遠の生命に至る者もあり、また恥じと、限りなき恥辱を受ける者もあるでしょう」。
 「生命」は、神の創造物であると言うことも出来よう。神は無から命を造りたもうた。
 これを土くれに吹き入れると、土の塊は命ある人格になった。光りのなかった所に「光りあれ」と言われると光りが存在し始めたように、命のなかった所に命が存在し始めた。
 しかしまた、神から「生きよ」と命じられて、その御言葉に従った服従が生きることであると説明しても良いであろう。神が「命あれ」と言われると命が始まったのだが、それだけでは、植物や虫に命があると言われるのと同じ程度の生命、謂わば物理的、あるいは機械的な命、魂なき命である。だが、我々の場合、生きること、命と、「信ずること」とが固く結び付いている。「義人は信仰によりて生くべし」と言われる通りである。信仰を抜きにしては、生きるということは把握出来ないのである。だから、「生きる」とは、「生きよ」との命令に対する喜ばしい服従なのである。永遠に生きるとは、単に命が引き伸ばされて、終わりなく続き、いつまでも死なないことを言うのではなく、神の栄光ある尊厳と慈愛に対して喜ばしく応答してやまないことである。すなわち、本当の命は永遠に生きることである。神は「生きよ」あるいは「命あれ」と命じたもう。
 そこで「生きる」ことが始まった。本来の命は、初めがあって終わりのないものであった。しかし、罪によって死がこの世にはいって来て、生まれ出た人がやがて死んで行くことになった、と聖書は教える。永遠の生命はなくなったのである。
 人間の死を自然なものと考えている人が多いが、正確に言うならば、自然ではなく、罪ある自然、罪によって損なわれた自然である。だから、死んで行くのは自然な成り行きであるから、悲しみも恐れもないし、罪も救いも要らないのだと言っている人は、自分を偽ってそう言っているのであって、死の恐怖を誤魔化しているだけである。
 生きるとは、この世で一日一日生き甲斐を覚えつつ生きることと受け取り、その日その日を如何に充実感や達成感を持って生きるか、という生活技術にすり替えている多くの人がいる。彼らは良く生きるためにはどうすればうまく行くかを試みて、うまく行くとそれを人々を教える。例えば、趣味を持つことによって人生が豊かになるとか、ヴォランティア活動によって充実感が得られると教えられると、その教えを喜んで聞いて実行を試みる人も多い。しかし、その教えは流行のモードであって、間もなく色褪せる。死に直面して破綻するのは当然だが、時間が経過しただけで意味を失う。「生き甲斐」というカンフル注射では最早活力を与え得なくなった時、崩壊して行く生をどうして尊厳に保つことが出来るであろうか。他の人の生き方を批判しておれば良いというのではない。我々自身について考えて見るに、信仰を生き甲斐とする生き方にも、信仰を趣味の一種としているに過ぎない場合がありはしないか。永遠の生命という言葉が輝きを取り戻さなければならない。
 「永遠の命」とは命の本来の在り方の回復のことである。神はご自身の栄光を照り映えさせるに最も相応しいものとして人間の「命」を創造したもうた。この命が輝きを失うなら、神の栄光を十分照り映えさせることが出来ない。その創造の輝きを回復して、永遠に神の栄光を喜ぶ者となることが人間の本当の回復である。それが救いである。そのような命はこれまで全くなかったものと言えなくないから、「新しい創造」とも呼ばれるが、本来のものへの「回復」として把握したほうが適切な場合もある。
 そのようなものとしての「永遠の命」、これは「私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信ずる」者に与えられる、と主イエスは語りたもう。この主旨のことがヨハネ伝では繰り返し教えられる。例えば、17章3節、「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、またあなたが遣わされたイエス・キリストを知ることであります」。
 人間には考える能力が与えられているのであるから、永遠の生命について考え、その意義を理解することは出来なくない。巷にいる人を誰彼なしに捉えて、永遠の生命について考えよ、と要求しても無理かも知れない。しかし、普通の人でも、物を考える生活環境を整え、筋道立てて考える訓練を受ければ、「永遠の生命」こそ尊いということを理解するであろう。ただし、そこまでは分かっても、それを求めるかどうかは別問題であり、獲得に至るかどうかはさらに別問題である。とにかく、哲学者の中には永遠の生命を考えた人は幾らもいるのである。しかし、我々は哲学者の弟子に先ずならなければならないのではない。キリストの弟子の道は哲学者の道と違う。「私の言葉を聞く者は」と主イエスは言われる。これはキリストの弟子になることとも言える。また、簡単に言えば、キリストの言葉を聞くとはキリストを信ずることである。キリストの言葉を聞くことが永遠の生命への道になる。キリストがこの世に来て言葉を語りたもう。その言葉を聞く者は、永遠の生命を得るという意味である。永遠の生命への道は「聞く」ことなのだ。
 哲学者が永遠の生命を考えた、と先に言ったが、哲学者が永遠の生命を知的に探求することはあったとしても、自分自身の救いとしてそれを求めたわけでは必ずしもない。そして、哲学者のように知的ではなかったが、永遠の生命を求めて労する人は昔からいたのである。ある人は何かの物質を獲得すれば、永遠の生命を得られると信じて、それを求めて旅に出たり、一生涯錬金術の研究に打ち込んだ。勿論、彼らは求める物を手に入れることが出来ないままで死んだ。それが空しい探求であると批判する人は多いが、それでも、そういう探究者は後を絶たなかった。この人たちのことを考えるのは無駄でないかも知れない。彼らは求めの切なる余り、人生を棒に振って、空しい人生を送ったが、彼らはひたすら何かを求めて生きた。欺かれて空しく生きたのは確かであるが、同じく空しい生涯を送った多くの人たちと比べて不幸だったとは言えないかも知れない。
 我々は永遠の生命に至る確かな道を教えられているのであるから、あてどなき旅に出て行く必要はないのである。そして、主イエスから教えられているのであるから、旅に出て行った人以上の真剣さで永遠の生命を求めなければならない。
 「私に聞け」と主は言われるのであるが、これは、聞いておればそのうちに分かって来る、ということではない。確かに、聞いた当初は何のことか分からないのが普通かも知れない。これまで聞いたことのない教えだったからである。しかし、初めの混乱は間もなく終熄する。聞く姿勢が定まり、聞き続けるようになる。
 聞き続けてどうなるか。聞くことによって内に育まれて行くものがある。これが地上の歩みの続く限り続く。そしてキリスト者としての品性が養われ、キリストに倣う進歩・練達がある。しかし、その進歩や練達によって永遠の生命を獲得するというのではない。聞くことが成り立ったその時、永遠の生命への参入が起こる。永遠の生命が与えられ、それは願望の的であるのでなく、現実となる。すでに現実なのだ。
 なぜ聞くことによって永遠の生命が与えられるのか。それは、「聞く」とは、語り掛けられた言葉を受け入れることだからである。先ほど「生きよ」と命じられる言葉への服従として生きる事が始まると言ったが、ここで機械的な服従を考えるよりは、「生きよ」との言葉が命の伝達であると受け取るならば、もっと分かりやすい。
 「私に聞け」と言われるそのお方がどういう方であるかを見なければならない。25節の終わりから26節に掛けて、「聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである」と言われているところから明らかになるであろう。「私に聞け」と言われる方は、ご自身を与えたもう方である。
 神の民にとって一番大事なのは、聞くことであると聖書は教える。Iサムエル15章22節、「主はその御言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。
 見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは牡羊の脂肪にまさる」。聞くこと、服従すること、信ずること、この三つは殆ど同じなのである。
 「信仰は聞くことによる」とパウロもローマ書10章で言っているが、非常に重要な指摘である。何かを体験して、あるいは何かを見て、納得して、それを積み上げて行くうちに信仰が立ち上がって来るというのではない。信仰のためには見ることは要らない。
 言葉が与えられる時、それを受け入れるとは、その言葉を信じることである。言葉はそれを語る人と結び付いているのであるから、言葉を信ずることには語る人を信じ受け入れるという含みがある。信じなければならないのは言葉であって、語る人ではない、という論法が教会では往々にしてなされる。確かに、土の器が尊い宝を持ち運ぶ。大事なのは宝であって、土の器ではないはずだ。それは確かにそうなのだが、だからと言って、言葉を取り次ぐ人が好い加減なことしか語らない人であって良い、ということにはならない。土の器は土の器なりに精魂を傾けて語るべきことを伝えなければならない。そうでないと、言葉は言葉でないもの、魂の抜けた言葉になってしまう。そのような言葉は人を生かすことが出来ない。ただし、土の器の語る言葉は、自分の言葉ではなくキリストの言葉であるから、語る器が一生懸命に語りさえすれば良いということにはならない。聞く人にキリストとの交わりが起こるように、キリストの言葉を取り次がねばならないのである。
 キリストに聞くとは、キリストにある命に与ること、その命を伝達されることである。
 キリストはご自身の内に持っておられる物をどういう形で伝達したもうであろうか。直接手で触れて、自分のうちにある力を相手に伝えて病を癒したもうた場合もあった。また、直接に触れることはしないが、カナにおられてカぺナウムにいる病人を御力によって癒したもうということもあったが、これらは特殊な場合である。
 イエス・キリストが我々のために定めておられる一般的な伝達手段は言葉であった。彼は語りたもう。彼の御顔を凝視すれば何かが伝わって来るというものではない。彼の言葉を聞かなければならない。それを聞いて受け入れる時、単に彼の口から出た言葉が心に届くというだけでなく、これを語りたもうたキリストそのものが伝達され、私がキリストと共に生きること、キリストの命を持つことが現実になる。すなわち、キリストとともに生き、永遠に生きることである。キリストと共に生きるのであるから、彼が愛したもうたように私も人を愛し、彼が十字架を負って歩みたもうたように私も自分の十字架を負って歩むことが出来る。
 一つ注意を向けなければならないのは、「私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者」と言われている点である。私の言葉を聞いて私を信じる者は、と言っても良いであろうが、私が父から遣わされていることを信じる。つまり、父が御子を遣わして救いをなさしめる、そのような構造の救いを把握しなければならない。キリストと出会って感動するだけで、その奥が見えないようなことでは、永遠の生命には至らない。
 キリストの言葉を信じる者は「裁かれることがない」。前回、22節で、「父は誰をも裁かない。裁きのことは全て子に委ねられたからである」と学んだことをもう少し続けることになるのであるが、父なる神は裁きのことを全部子に委ねたもうたのであるから、父から裁かれる者はもういない。
 では、子から裁かれることはあるのか、というと、3章18節で聞いたように、「彼を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」と教えられた。我々は御子を信じているのであるから、裁かれないのである。裁き主はご自分の命を与えられている者を裁くことはなさらないであろう。「裁かれない」とは、言い換えれば「罪の赦し」を受けたことである。あるいはまた、ローマ書8章1節の「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」というのと同じである。
 次に「死から命に移っている」ということを学ぶのであるが、「移った」というのは所属が変わったことである。死の王国に属していた者が永遠の生命の王国に属する事になった。身柄はもとのままであっても、国籍が変わった。しかも、所属が変わったというだけではない。命を与えるということが実際になされて、新しい命を持っている。
 「死から命に移っている」とは、「やがて移るであろう」ではない。すでに新しい命を生きているのである。ヨハネ伝によくある言い方であるが、「信じない者はすでに裁かれている」。「まことの礼拝をする者たちが、霊とまことをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今来ている」。「目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈り入れを待っている」。「死んだ人たちが神の子の声を聞く時が来る。今すでに来ている」。
 これらの言い方を特殊な傾向の表現と見るだけでは、意味を十分把握することも確信することも出来なくなる。これはイエス・キリストが来たもうたことによって、終末の出来事がこの世に入り込んだことであると捉えなければならない。我々の内にもすでにこの現実が入り込んでいるのである。


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