◆説教2000.07.16.◆

ヨハネ伝講解説教 第47回

――ヨハネ5:20b-23によって――
前回も一通り学んだところであるが、20節に、「父は子を愛して、自らなさることは全て子にお示しになる。そして、それよりもなお大きな業をお示しになるであろう」と言われた。
 父のなさる業を示されて、子がそれを行なう。それは子が父を真似ることを言うようであるが、ここには原型に見習う以上のものがある。すなわち、父なる神と子なる神との間には愛の交流があって、父の本質も、働きも、働きの形も、力も、権能も、栄光も、全てにわたって子はそれを共有し、父と等しく行使する。その一つの現われが、先にベテスダの池のほとりで行なわれた業であった。
 38年の間起きられなかった病人が、安息日に癒されるという出来事である。癒し、それだけでも驚くべき事であり、他の人には真似の出来ない、また前例のないことであるが、これでも子の権威・尊厳を示すにはなお足りないので、それよりももっと大きな業が行なわれるのであると主は言われ、さらに付け加えて「それは、あなたがたが、それによって不思議に思うためである」と注意を喚起される。その「もっと大きな業」に接した時、人々は驚き怪しむほかない。すなわち、今は安息日の掟を破ったと言って憤激しているが、その時はものも言えなくなってしまうであろうと言われる。
 ユダヤ人たちは安息日にあってはならないことが行なわれたので、床を取り上げた人を責めた。ところが、そうせよと命じた人がいるというので、いきり立っている。なるほど、彼らの考えからすれば、安息日は安息日として守らねばならない。安息日を守ろうとすること自体は正しいのであるが、彼らの目の付け所、目標点は間違っていた。安息日が人間の解放の日であることを彼らは見ようとしない。安息日であるという理由で、人間を縛りつけ、安息を味わわせずに置こうとしている。その非人道的な姿勢が問題だということは、まともな感覚を持つ人なら容易にわかる。
 さらに、神を信じている人ならば、この日の意味は人間の手の業を止めることによって神の御業を思い見るにあることを悟っているであろう。ところが、このユダヤ人たちは、そういうことには少しも思いを向けず、ただただ、安息日だから、安息日だから、と言い張って、安息日を矮小化して、神を安息日の外に閉め出している。実際、ユダヤ人たちは安息日を真面目に守ろうとしたにはしたが、却って何がここで重要であるかを見失っていた。彼らが見失ったものを再発見するためには、キリストが「安息日の主」であることに目を高くあげなければならない。
 主イエスは「私の父は今に至るまで働きたもう」と言われる。今も働きたもうから、今日、安息日にこそ働きたもう神の御業を見よ、と言われる。そして、だから、この日には「私も働く」と言われる。つまり、「私が働くことによって、父の働きたもうことが明らかになるではないか」という意味が読み取れるではないか。
 ここまで見て来たところでは、安息日に御業をなさった他の場合と同じ主旨が示されていた。だが、今回はそれ以上のこと、すなわち、父と、子である私とは、同等の本質、働き、力、権能、栄光を持つということが主張される。しかも、それだけでない。今示された以上の大いなる出来事が示される、と言われる。
 それは何か。21節に、「父が死人を起こして命をお与えになるように、子もまた、その心に適う人々に命を与えるであろう」と言われることがそれである。病人を癒すだけでなく、死人を生かすのだと言われる。主イエスの死人を生かす出来事が、ガリラヤのナインの町の傍でも起こった記録がルカ伝にあるが、ヨハネ伝にはそのことに触れていない。ヨハネ伝では、38年の長患いの病人の癒しよりもっと大きい業として、11章にあるラザロの復活事件が語られる。この徴しは一度しか起こらなかったが、その一度で、主イエスに父なる神の権限が与えられていることが十分に示されるのである。
 5章26節には、「父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになった」と述べられている。父こそが全ての良きことの源泉であられるから、キリストが父からそれらを一旦受けて、それを我々に与えたもうと説明されることもある。彼が神と人との仲保者であるとは、こちらからの願いを取り次ぐだけでなく、あちらからの賜物を取り次ぐことでもある。しかも、彼は神なる仲保者であって、人々の中から出たチャンピオンが中間点まで這い登ったのではない。神ご自身が仲保者となられたのだから、彼自身源泉である。月が太陽光線を受けて、それを反射して地球を照らすように、キリストは父から受けた光りを反射して我々に届けるのではなく、ご自身が光りであり、命の源泉、命そのものである。この点をハッキリ捉えておかなければ、救いの確信は月の光りで物を見るような、朧げなものになる。
 ベテスダの癒しの事件が徴しであったように、ラザロの復活も徴しである。出来事そのものに目を向け、そこに固着してしまい、それで終わらせてはならない。それの指し示す目標まで目を高めさせて、それを捉えさせるのが徴しの務めである。つまりキリストが父なる神の権能を十全に行使したもうことを示す徴しがラザロの復活である。だから、生かされたのはラザロ一人であり、そういう事件が常にどこかで起こっているわけではないが、信ずる者は、ラザロの生かされたように、死人を生かす力がイエス・キリストにあるということをそこから読み取って確認するのである。
 ここに「子は心にかなう人々に命を与える」という言葉がある。人を生かす力が託されただけでなく、救いに関する全権が委任されたのである。例えば、神が死人を生かすために御使いを遣わされる場合がある。この場合、御使いは神が御心に適う者として指定したもうた人だけを死の中から救い出すのである。御使いが自分の判断であの人この人を生かすことは許されていない。ところが、御子は「御心に適う人」を生かすのである。救いの実行だけでなく、救いの判断を委ねられるのである。救いの遂行者であるだけでなく、計画者、発起人なのである。
 これは御子が信任を受けているという意味が含まれているし、それほどの権限が委ねられたと見ても良いのであるが、それだけではなお足りないものがあり、むしろ、完全性において父と等しい子の判断が、父の判断と全く一致するから、子は自分の心に適う人を生かすことが出来る、と見るべきである。こうして我々は御子による救いの確かさを捉えるのである。
 さて、「もっと大いなる業」として、今一つ挙げられるのは、22節にあるように「裁き」の業である。「父は誰をも裁かない。裁きのことは全て子に委ねられたからである」。すなわち、子が裁き主としての権限を行使したもうようになったのだ。そして父はもはや誰をも裁きたまわないのである。
 これは重要な転換が起こったことの宣言である。旧約の信仰者は神が裁き主として来たりたもうという理解を持っていた。事実、旧約聖書はそのように教えていた。例えば詩篇96篇13節、「主は来られる、地を裁くために来られる。主は義をもって世界を裁き、まことをもってもろもろの民を裁かれる」。
 これはまことに恐るべき裁きの時として覚えられたのである。しかし、キリストの教えを聞く者には、そのようなものとして神の裁きを理解することはなくなったのである。
 今や裁くために来たりたもうのは、父ではなく、父の遣わしたもう御使いでもなく、御子なのである。それは最早恐るべきものと言うに当たらないと考えるならば正確ではない。人の子は栄光のうちに御使いを率いて来臨され、裁きの座につき、羊と山羊とを分けるように、ある者を右に、ある者を左に分けたもう。それは矢張り恐るべき出来事と言わねばならない。だが、我々はその裁き主を知っている。すなわち、我々にご自身の命を与えたもうほどに我々を愛して下さるお方であると我々は知っているのである。裁きが最早行なわれないと言ってはならない。裁きは行なわれるのであるが、裁きの遂行者は単なる全能者、超越者として義の尺度を当て嵌めたもうのではなく、彼は我々の牧者、我々の兄弟である。我々は恐怖心をもって待ち設けるのではない。喜ばしい信頼だけが求められる。
 では、御子によって裁きが行なわれた実例はどこにあるのか。――命を与えることの実例はラザロのケース一つを挙げれば分かる。だが、裁きはどうなのか。イエスに対して言い逆らうあれほど多くの人がいたのに、彼らがその場で打たれて滅びるというようなことは一つも起こっていないではないか。モーセに逆らったコラとダタンとアビラムは、その一族もろとも、口を開いた地に飲み込まれ、その後、地は再び口を閉じて彼らを封じ込めたという恐ろしい物語りが民数記16章に記されている。神の子に逆らうとはそれより遥かに厳しい処罰に相応しいのであるが、そのような処罰は見られないではないか。なるほど、キリストが裁きたもうた実例を我々は見ていない。
 キリストは、反抗する者のなすがままになられたのだから、やはり無力だったのではないか。あるいはむしろ、彼としては無力に徹しておられ、権力も権威も放棄して屈従し、敗北者の側に敢えて立たれたと理解すべきではないかとか、彼はひたすらに赦すだけであったのではないかとか考える人もいる。しかし、そうではないのである。この世の暴力的現実の前に屈してしまうようなことで、どうして世の救い主の務めを果たし得るであろうか。罪が裁かれずに全て赦されるようなことで義の回復と確立は起こるであろうか。
 ではどうなのか。病んでいる者に手を伸ばして癒すことをなさったように、逆らう者に手を伸ばしてこれを撃つことをどうしてされなかったのか。確かに、そういうことはなかった。まるで権能が全くない者のようであった。すなわち、僕の形と僕の位置を取っておられたのである。また、呪われても呪い返すことなく、ただ祝福を返したもうた。
 彼は罪人を裁いて罰するためでなく、罪人を救うために来られたのである。恵みの救いはつねに裁きに優先している。
 それでも、裁きの権能が彼に与えられていたというのは、空しい言い分ではない。ここで理解すべきことが二つある。一つ、彼が終わりの日に、裁きの座につきたもうことは、依然として揺るがぬ真実なのである。16章11節に「この世の君が裁かれる」と言われるが、栄光の主はサタンを裁いて滅ぼしたもうのである。ヨハネ黙示録の終わりで彼は宣言して言われる、「見よ、私は直ぐに来る。報いを携えて来て、それぞれの仕業に応じて報いよう。私はアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。
 初めであり、終わりである」。裁きの権能をシッカリ捉えよう。
 もう一つ、裁きはすでに行なわれたという点である。これは分かりにくいと言われるかも知れない。ヨハネ伝では3章18節で、「彼を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」と言われた。これも二つの面から理解される。先ず、信じることによって死から命に移るのであって、信じていないとは死の中にいることなのであり、すなわち、裁かれた状態にあるのだ。次に、信じないことはそれ自体恐るべき裁きなのだ。
 裁かれるという言い方は、何かの犯した行為に対する正義による判定のことと考えられている。罪の行ないをしなければ裁かれることはない、と人々は普通考えている。しかし、我々の罪は何かする罪だけでなく、何もしないでも、その状態で存在していることが神の前における罪なのだ。だから何もしないでも裁かれているということをシッカリ捉えなければならない。
 裁きと言うからには、宣告が下され、刑罰が執行されなければならないではないかと思われるかも知れないが、すでに宣告があり、刑罰が執行されている。すなわち、今は呪いでも祝福でもない水準のところにいて、将来、呪いか祝福かに分けられるのでなく、現在、呪いと祝福に分かれているのである。信じない者は呪われているのである。
 現在、信じない者も将来信じるに至ることはあるのではないか。それは勿論ある。10章の16節に、「私にはまた、この囲いにいない他の羊がある。私は彼らをも導かねばならない。彼らも私の声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろう」と言われる言葉は今そむいている者の立ち返りを示唆したものではない。しかし、現在信じている群れの他にも、将来、主の声に聞き従うべき人がいることは確かである。信じる者と信じない者の境界線は流動的なように見える。
 では、同じように、今信じて祝福された状態にある者が、将来救いから脱落することもあるのではないか。――「恐れ戦いて己が救いを全うせよ」とピリピ2章12節にある通り、恐れ戦く緊張をなくしては危険である。それにしても、我々に差し出されている救いの道は確かであって、その道が危険なものだと思ってはならない。キリストの救いは確かであって、キリストに結び付いている限り、救いからの離反・没落はあり得ない。
 キリストを信じるとは彼にあって生きることであり、偽って信じているのでない限り、キリストにあることは確かなのであり、キリストから離れることはあり得ない。ただし、己が十字架を負って彼に従う限りであって、自らクリスチャンと名乗るだけでは不確かである。
 終わりの日が来ない限り救いは確定していない、と言えば言えそうであるが、救いの約束は固く、救いの手段も確かであって、その確かさを信じなければならない。信じないならば滅びるが、信じない者にはまだ機会が与えられることがあると言ったが、これを安易に考えないようにしよう。信じる機会はいつでもあるかのようであるが、決してそうではない。しかも、機会があっても必ずしも捉えるわけではない。むしろ、人間のうちには神に敵対する傾向があって、恵みの時が来ているのに恵みに反発するように傾いていることを承知しなければならない。
 さて、すでに裁かれたことについてさらに学ぶが、9章39節で主イエスは言われる。「私がこの世に来たのは、裁くためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人が見えないようになるためである」。ここで言われていることこそ裁きの現実である。見えると思っている者が見えなくされているのである。それでは、その裁きはどういうものであったか。
 これはユダヤ人がキリストに躓いた事実を指したと考える人は多いだろう。そういう事実があったことを認めざるを得ない。しかし、裁かれるのは頑ななユダヤ人だけに限定すべきか。「私がこの世に来たのは裁くためである」とは、パリサイ人を裁くことについてのみ言われたものであろうか。「見える者が見えなくなる」とはユダヤ人だけのことなのか。我々キリスト者も「見える」と言い張る時、罪を犯しており、現実に裁かれているのである。見えるつもりでいて実は見えていない。それが既に裁かれていることなのではないか。
 最後に23節を学ぼう。「それは全ての人が父を敬うと同様に子を敬うためである。子を敬わない者は、子を遣わされた父をも敬わない」。父は人々に子を敬わせようとされる。そのために徴しが与えられた。子を敬うとは、簡単に言うならば、子を信ずること、御子の尊厳を知ること、彼による救いを重視することである。これ以外にも救いの道があるとは思わないことである。すでに教えられて来たように、父は救いの全権を子に与えて、受肉したもうた御子による救いの道を確立したもうた。しかし、多くのユダヤ人は、父と等しくある子の権能や栄光を認めない。その限り、彼らには救いの道は捉えられないのである。ユダヤ人だけでなく全人類は御子の尊厳と御子による救いの確かさを知ろうとしないので、唯一の救いを示されていながら、これを信じようとはしない。だが我々はこの救いを讃美するのである。
 


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