◆説教2000.07.09.◆

ヨハネ伝講解説教 第46回

――ヨハネ5:19-20によって――
今日学ぶ御言葉は、38年に亙って病の床にあった人を安息日に起き上がらせた奇跡の後で、ユダヤ人がこの御業に真っ向から反対した時、主イエスの語り聞かせたもうたものであるが、その前提を切り離しても、それ自身で意味を持つ大切な教えである。19節にも24節にも25節にも、「よくよくあなたがたに言っておく」(アァメン アァメン われ汝らに 告ぐ)という言葉があるように、これは特別に「アァメン」と我々に確認させるための前置きであり、後に続く御言葉が重要な宣言であり・教えであることを示すものである。この「よくよくあなたがたに言っておく」という言い方は他の福音書にも記録されているが、ヨハネ伝では特に多く、これまでには3章のニコデモとの対話の中で言われていた。
 19節を読もう、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることが出来ない。父のなさることであれば、全て、子もその通りにするのである」。
 ここでは子と父、すなわち子なる神と父なる神との関係が教えられる。これはキリスト教信仰の根幹に関わる教えである。ユダヤ教との決定的な相違点がここにある。したがって主イエスが十字架につけられたもうた最も主要な理由である。さらに、我々の救いの確かさを最終的に確認する決め手である。シッカリ捉えて置く必要がある。
 すでに「人の子」という呼び方を主がご自身についてしておられるのを、1章の終わりの節で読んだ。「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのをあなたがたは見るであろう」。
 3章13-14節にもあった。「天から下って来た者、すなわち人の子のほかには、誰も天に上った者はいない。そして、ちょうどモーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられねばならない」。
 「人の子」という呼び方を主イエスがご自身について意識的に使っておられたことは、他の三つの福音書によっても確認されるが、ご自分が約束されたメシヤであると示す言い方であることは広く知られている。すなわち、ダニエル書7章13節に「人の子のような者が天の雲に乗ってきて、彼に主権を賜わる」と書かれているところに従って、終わりの日に出現する王なるメシヤを人々はこのように呼んで待望していたのである。
 「人の子」には、さらに、「人」、「紛うかたなき人」という意味がある。つまり、半ば神で半ば人の中途半端なものではなく、人のようなものではなく、正真正銘の人間、生身の人間。イエス・キリストはマリヤから生まれたまことに人間であられた。後の世の教会が「まことに神、まことに人」と告白するようになったのは正しい道であった。
 その「人の子」と、ここに用いられる「子」とは、同じお方、イエス・キリストを指すのであるが、その呼び方の意味、概念、捉え方は区別されねばならない。5章27節に、「子は人の子であるから」という言い方がされるが、「子」と「人の子」は別の概念であるけれども、ナザレのイエスにおいて同一の人であることを示している。
 「子」という言葉が、ここに使われる意味においてヨハネ伝に出て来るのは初めではない。3章16節以下に「御子」という言葉が頻繁に出て来たが、「御子」と「子」は全く同じ言葉である。そして5章19節以下がキリストについてよりよく整理された形で述べている。
 これまでに「独り子」という言葉が1章に2度、3章に2度出て来たが、「ただ一人生まれた」という意味の形容詞を「子」につけたものが用いられた。「独り子」も「子」も同じような意味であるが、「独り子」よりも「子」の方がもっと整理された神学的表現である。
 「神の子」という言葉もこれまでに2度使われている。バプテスマのヨハネが「私はこの方こそ神の子であると証しした」と言っている。これは確かに重要な証言である。しかし、主イエスが今日の所で「子」と言っておられる言い方ほどには重要でない。すなわち、父に対する子としてイエス・キリストを把握することを教えられている。
 多くの人が「神さまが救って下さる」という言い方を単純に、また気楽に語っており、それこそ信仰のない人からさえも、受け入れられている。この言い方が間違っているわけではないし、そう信じている人をけなす必要もないが、誰にでも受け入れられる幅広さを持つ半面、そう信じたところで、一時の気休めにはなるとしても、人間の生まれ変わりは起こらず、信仰の確かさはここには成立しない。例えば、神が救って下さるという宗教的願望は艱難に遭うと容易に消えてなくなる。
 今日我々に教えられる主の教えは、そのような不確かな一般的宗教観念を越えさせるものである。「神」による救いではなく、「神の子」による救い、「神の子」を通しての救いが教えられるのである。ここに救いの基い、救いの道があり、これを信じてこそ確かな救いがある。
 もう一つ考えて置かねばならないのは、「人の子イエス」、人間イエスとの出会いの呼び起こす感動に関してである。これまた信仰のない人でも、福音書を素直な気持ちで読むときに十分味わえることである。人の子イエスの真摯な生き方、柔和さ、聡明さ、自己犠牲、苦難と死。これらは人間が誰でも持っている人間性によって、ある程度まで把握出来る。ここには「神さまが救って下さる」という安心感以上の深いものがあるように思われる。けれども、救いの確かさという点から見てどうであろうか。
 芸術性の非常に高い悲劇を見ると心が洗われる。イエス・キリストの受難は文学でも芸術でもないが、悲劇の中で最も質の高い悲劇であることを多くの人は認めている。だから、信仰のない人でも受難劇を見に行き、受難曲を聴きに行って感動して涙を流す。しかし、そこで心が洗われたとしても、時間が経てばまた垢が溜まるのと同じように、繰り返して洗わなければならない。古き人の垢が一時落ちるだけであって、新しい人は生まれていない。ここには救いへの憧れはあっても、救いの確かさがないのである。
 神の子であり人の子である救い主が来て、救いをなしたもうところにこそ我々の救いの確かさがある。
 前回、18節で見たように、ユダヤ人は主イエスが神を「父」と呼びたもうたことの中に、神と自分を等しいものとしておられるのを読み取って激烈に反発した。「私は神と等しい」と言われたわけではないが、そういう意味になると受け取った。これは、神に対する反逆であるが、それなりに筋が通っている。
 「イスラエルよ聞け、我々の神、主は唯一の主である」。これはユダヤ人が毎日聞かせられ、心に刻んでおり、忘れないように手につけて印しとし、家の柱にも、門にも書き記していた言葉であった。だから、ユダヤ人にとって、唯一の神のほかに「神と等しくある者」、「第二の神」とも言うべきものがいることを受け入れるのは全く困難であった。彼らが頑ななまでに先祖以来の一神教的信仰を貫こうとしているのは当然ではないか。そして主イエスが「我のほか何者をも神とすべからず」と命じられていることと矛盾するような教えをされたのに無理があったのではないか。そのような疑問を抱く人は少なくないであろう。
 確かに、ここには決して容易でない問いがある。それでも、難しいからといって、主イエスがご自身を神と等しい者とされたことを棚上げしてしまうならば、あるいは主イエスに食ってかかったユダヤ人の言い分が正しいと思っているならば、我々自身の救いは曖昧になってしまう。
 Iコリント8章6節に「私たちには、父なる唯一の神のみがいます。また、唯一の主イエス・キリストのみがいます」と言うように、神が唯一であることと、キリストが唯一の主であることとは矛盾せず、唯一の真実な救いを成り立たせるのである。
 漠然と「神が救って下さる」と考える位のことなら、どんな宗教でも説いている。既成宗教だけでなく、めいめいが自分の想像力や空想によって作り上げる自家製の私的宗教でも、こういうことは考えるのである。そして、先に言ったように、ここには確かさはないのである。
 イエス・キリストの教えたもうたのは、単純に「神を信ぜよ」という教えではなかった。父である神が、子である神を遣わして、人間のために贖いをなさしめたもうという構造を持つ救い、この救いを信ぜよと言われたのである。これは人々の空想とは全然違う。ヨハネが第一の手紙の冒頭で、「我々が目で見たもの、よく見て手で触ったもの」と言う通り、これは確認された事実なのである。神が上の方で人形を操るようにして人間の救いを操作されるのでなく、神がここに降りて来て、救いを現実とされるのである。
 神がここに来られるとは、空想ではなく、事実である。子が来たりたもうたとはその現実を指すのである。
 三つの点に纏めて置こう。
 第一は、「神と等しき者」である子がここに来たりたもうことである。神自身が来たもうのと等しいことがここで起こるのである。神が何者かを遣わして御計画をなさしめたもうということではなく、神ご自身がことをなしたもうた。神が御使い、あるいは特定の人を遣わして、窮地に陥ったご自身の民を助けたもうことはしばしばある。この場合の助けは永遠の救いとは無関係ではないが、永遠の救いそのものではない。永遠の救いは神ご自身がなしたもう。
 神はまた御言葉の仕え人を遣わして御言葉の宣教を行なわせたもう。その御言葉は救いの言葉であり、神ご自身が語り掛けたもうのと等しいものとして、聞いて、受け入れなければならないのであるが、その言葉は御業そのものではない。ただ、御言葉を信仰をもって受け入れる者にとって、御言葉は力である。パウロが、Iテサロニケ2:23-24で、「あなた方が私たちの説いた神の言葉を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言葉として――事実その通りであるが――受け入れてくれた。そして、この神の言葉は信じるあなたがたの内に働いている」と言うように、信仰によって把握する時、御言葉は全く確かなものであるが、それでも、そこには言葉が働くだけである。神ご自身の働きたもう御業があるというのと同じではない。
 それと比べて、子がこの世に来たりたもうたとは、神についての十分な教えを与えたとか、神を指し示す証しの業を行なわれたという程度のことではない。神の働きそのものがこの世界の中で行なわれたのである。だから現実であり、確かさがある。12章45節に、主イエスは「私を見る者は、私を遣わされた方を見るのである」と言われた。肉体をもって来られたお方を見ることによって、彼を遣わされた方を見たのである。
 先に、今日学ぶ教えは主の行ないたもうた奇跡と余り関係なく学んでよいと言ったが、今日の教えをより深く理解するためには、17節で聞いた「私の父は今に至るまで働いておられる。私も働くのである」と言われた時の「働く」という言葉を思い起こすことが有益であろう。主は「働き」に注目させておられる。キリストの働きを見ることによって、父なる神の働きを知ることが出来るのである。働きとは、私に対して働き掛けられるその働きである。我々が神について頭で考えるよりは、己れ自身が神の働き掛けの対象となっていることを捉えるようにしよう。そして、働きとはつまり我々を救う業である。
 第二に、父と子の関係の秩序を捉えておこう。父と子が融通無碍に入り交じり、父すなわち子、子すなわち父という捉え方をするのでなく、父は父であって子ではなく、子は子であって父ではなく、区別があり、そこには従属の秩序がある。すなわち、父は子に務めを与えたもう。父は子を遣わしたもう。子は父に従いたもう。――ただし、奴隷が主人に従うように権能が絶対的に違うから従うのでなく、子は父と等しい栄光を持ちつつ従いたもう。「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることが出来ない」と言われるように、子は父から自立することなく、あらゆる事において父に従属し、父のなしたもうことをもとにして自らの業をなさるのである。
 しかも、その務めは、遣わされた者が全てそうであるような限定された務めではなく、父のみが行使することの出来る完全な権限を、少しも減ずることなく行使出来る務めである。22節に「裁きのことは全て子に与えられた」と言っておられる通りである。我々は聖書の中にしばしば裁きを行なう御使いが登場することを知っている。この御使いは滅びるべく定められた者を滅ぼすのであって、自分の一存で裁きを行なうのではない。
 けれども御子は裁きに関する全権を託されている。
 裁きとともに、見ておかなばならないのは、それと対応する「死人を起こして命を与える」権能である。命を与える権能を父は子に与えたもうた。このことは11章においてラザロの復活によって良く示されるが、38年病床にあった人が起き上がったのも、命を与える権能の発揮である。
 「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることが出来ない」と言っておられるように、父があくまで原型である。そして子は正確にその原型に則って業をなしたもう。
 第三に、子は受肉した神、人となりたもうた神、人の子となりたもうた神の子である。
 「神は霊である」と主イエスは4章でスカルの女に言われたが、神は霊であって肉ではない。では、肉そのものである人間の救いを霊なる神はどうなさるのか。人が釣り糸を垂れて手を濡らさずに魚を釣り上げるように、神は手を濡らさずに、人を救い上げたもうのか。そうではない。神自身が肉体をもって人々の中に住まいたまい、人間の一人、人の子となって、人の苦しみと、人の罪をことごとく負い、人々にご自身のもつ祝福を伝達したもう。だからこそ確実に伝達されるのである。
 キリストの持つ祝福が人に伝達されるということと、人間の持つ呪いが人となられたキリストによって引き受けられることとが、裏表の関係で結び付いていることを悟らねばならない。
 次に20節に言われる、「なぜなら、父は子を愛して、自らなさることは全て子にお示しになるからである」。……先に学んだ3章35節に「父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった」と言われたのと同じ構造の文章である。「愛する」という言葉の原語がギリシャ語では別であるが、意味の違いはないと取るべきである。神の本質は愛であるから、父と子を結び付ける関係は愛である。
 父なる神と子なる神との関係を理解する時、理詰めで考えて行くと、我々の頭は混乱してますます解りにくくなるかも知れないし、解ったと感じても的外れの捉え方をしているかも知れない。だが、これはそんなに難しいことではない。「愛」という関係を手掛かりに理解すべきであると聖書は教える。
 愛ということを手掛かりにすれば分かりやすい。ただし、その手掛かりは我々のうちにはない。ヨハネの第一の手紙の4章10節に、「私たちが神を愛したのでなく、神が私たちを愛して下さって、私たちの罪のために贖いの供え物として御子をお遣わしになった。ここに愛がある」と言われる。先に神が働きたもうということに思いを向けさせられたが、神の働きとは要するに愛である。御子を我々に与えたもう愛である。子と出会うまでは我々は本当は愛を知らない。しかし、子であるキリストと出会って、愛を知り、これを知ることによって父と子との関係を把握したのである。父が子を愛し、その愛がキリストから我々に及んでいる。このことが解るならば、次に我々も愛する者となるべきであることが解るのである。
 


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