◆説教2000.07.02.◆

ヨハネ伝講解説教 第45回

――ヨハネ5:9b-18によって――
   38年の長きに亙ってベテスダの池の柱廊で臥せっていた病人が直ちに起き上がったのは、安息日のことであった。これは単なる癒しの奇跡ではなく、この安息日に起こるに相応しい、そして安息日の意義を明らかにする出来事であったと言うべきであろう。すなわち、これは人間回復の出来事である。単に肉体の回復であるのみならず、後で明らかになって来るように、罪の赦しと再生が起こったのである。しかし、これを安息日になすべからざることと見る人々がいた。この人たちはすでに主イエスに対して戦いを始めていたが、この出来事に出会って、ついに彼を殺そうと決意するに至った。
 18節に、「このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。
 それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しい者とされたからである」と書かれている。この節で、我々の今日学ぶべき要点が明らかに示される。すなわち、安息日の意味、キリストが父なる神と等しいこと、この二点である。
 安息日をめぐる論争はヨハネ伝ではもう一度、9章で起こる。生まれつき盲人であった人が見えるようになる事件が安息日に起こった。事件の骨子は似ている。ユダヤ人、正確に言うとパリサイ人であるが、彼らの安息日理解と主イエスの教えたもうた安息日の教えは非常に違っていたのである。
 安息日とは週の第七日、今日でいうと土曜日であって、この日、神の民は一切の業を止めて休まなければならないと十戒の第四戒に定められていた。そして、この定めはユダヤ人の間では比較的よく守られたと言って良いであろう。戒めのうち最も大事なのは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる神を愛すること」、また、「己れを愛するように隣り人を愛すること」であった。この最も大事な戒めが遵守されていたとは言い兼ねるが、安息日の戒めは外面に関するものであるから比較的よく守られていたのである。
 最も大事な戒めを疎かにして、安息日規定を守るだけでは、いけないではないか、と言われるならば、それはその通りである。主イエスもルカ伝11章で、パリサイ人が十分の一を宮に納める規定を守るが、義と神への愛をなおざりにしている、と批判しておられる。外面の形式を守っても最も重要なことが出来ていなかったなら、問題である。ただし、安息日についての律法が無意味なものであったと見るならば、その見解は間違いである。
 貧しくて、連日休みなしに働かなければならない人にとって、安息日を守ることは辛いであろう。その日休まずに働けば、それだけ豊かになる。その豊かさを犠牲にすべきか。そうなのだ。生活が樂になることと、神に仕えることとどちらが大事であるかが問われるのである。地上の業をやめることによって人は地上を越えた価値と幸福を思わないではおられないであろう。神は社会全体に網をかぶせるようにして安息日を守らせ、人々の思いを永遠へと高めたもう。
 「ノアの方舟」を思い起こそう。「方舟」には船という意味はなく、むしろ「箱」である。物を容れる箱である。舵も櫂も帆も錨も纜もなく、水に浮いて漂うだけである。目的地を決めてそれを目指して進んで行くことは出来ない。積極的なことは何一つ出来ない。風の吹くままに流され、水嵩が増して来ればそれだけ高く浮き上がり、水が引けば底は地に着くという消極的な道具である。これはまた、全ての動物の番いを閉じ込めて蓋を閉めた、狭く閉じられた空間であった。
 自分はもっと自由でありたい、自由な空気を吸っていたい、広い世界を歩き回りたい。
 だから方舟に入らない、とノアとその家族が言ったならば滅びたのである。彼らは迫り来る破滅を免れるために、神の命令によって方舟に入らなければならなかった。そして大水が過ぎ去り、水が乾いて新しい世界が開けた時に、彼らは方舟を出なければならなかった。
 安息日規定は方舟に似ているのである。安息日を方舟と考えなければならないと指示されているのではないが、この比喩を考えれば理解しやすい。「何の業もなすべからず」と命じているこの規定は、積極的な意味を持たないのではないかと思われるであろう。
 さらに、この規定の窮屈さはどうであろうか。自由を憧れている者にとっては耐え難いほどの不自由なものである。それでも、方舟の狭さに甘んじて耐えたノアたちは滅びを免れたではないか。安息日を守って何もしないという、積極的な意味も見出し難く思われる規定に服することによって、破滅の危機を乗り切ることが出来た。
 いま、安息日規定が消極的なものであるという点を強調し過ぎたかも知れない。これは来たるべき安息との対照をハッキリさせるためにこのように言い表わして説明したためであって、安息日は労働からの解放であるから、確実に安らぎと喜びがあり、箱船に閉じ込められることと同列ではない。それでも、労働の解放は一日で終わり、休息は一時的なもので、将来実現する本当の安息を待ち望ませる雛形に過ぎなかった。
 安息日規定に限らず、食物の規定や捧げ物の規定など、全て「儀式規定」と呼ばれるものは謂わば方舟のようなものであるが、安息日規定がその典型であるから、我々は今はこれだけを取り上げて置く。窮屈さを忍ぶことには意味があった。イスラエルが国を失った後も、神の民としての意識を持ち続けることが出来たのは、安息日規定があって、それを守ったからである。極めて形式的・表面的だと言われ、事実、形式的・表面的であったのだが、その形式によって辛うじて保たれたものがある。
 ユダヤ人、特にパリサイ派がこの規定が守られるように非常な努力をしたことは結局は間違った道に行って落とし穴に嵌り込むことになったが、彼らの努力を嘲笑うのは心なき業である。彼らは律法の安息日規定を正しく守ろうとして、規定の解釈に力を入れた。御言葉によって規定されたのではないが、具体的にどこまでが安息日に許される業であるかを規定しておかねばならないと彼らは考えた。例えば、この距離までなら必要に迫られる場合、歩いても良い、という定めも出来た。床の上に病人を載せて運ぶなら許されるが、人が載っていない床を運んではいけないという規定もあった。生きるか死ぬかの瀬戸際であれば、安息日であっても治療して良い。しかし、命に関わるほどでなければ、治療を安息日の明けるまで延ばすべきであると定められた。これは妥当な解釈である。癒されることを願う人は一日も早い治療を要求するであろうが、医者にも安息が必要である。そして安息とは自分さえ休めばよいというものではなく、みんなで休み、人を休ませ、特に縁の下で労働する人を休ませ、社会の全体が休むことでなければならない。だから、生死に関わることでなければ、一日待つべきである。これも納得できる。
 癒される側にも細かい規定が課せられた。安息日に床を上げて運んではならない。治ったとしても、その日は一日寝ているべきだ。これも尤もな規定ではないか。病気が治ったから直ぐに働けるとは思わないで、働かずに休んでいることによって、安息の有難みを噛みしめることが出来る。
 ところで、方舟は有意義で不可欠なものではあったが、洪水が過ぎ去ったなら、人は方舟を出なければならない。方舟のつとめは終わった。新しい世界が来ているのに、方舟の中に閉じ籠もっているとすれば、話しにならない。
 旧約の時代に安息日律法が果たした役割を過小評価してはならない。しかし、今は過去のことを論じるのではない。キリストが来られて、主権を確立し、神の国は到来し、世界は新しくなったのである。コロサイ書2:16-17節では、「だから、あなたがたは、食物と飲み物につき、あるいは祭りや新月や安息日などについて、誰にも批評されてはならない。これらは、来たるべきものの影であって、その本体はキリストにある」と言う。来たるべき者が来た時、影は消え失せるのである。すなわち、儀式律法は廃止になった。ただし、「我が顔の前に我のほか何ものをも神とするべからず」というような規定は決して廃止にならない。
 方舟はイラナクなったから、方舟から出なければならない。古い儀式から抜け出さねばならない。ところが、ユダヤ人たちは謂わば方舟から出てはならないと主張しているかのように律法の儀式に固執し、そこで主イエスと衝突したのである。
 では、彼らは古い形式を機械的に遵守するように凝り固まっていたということか。実は、古い規定も真実には守っていないのである。すなわち、一切の人間の営みを止めるべきであると言われているこの日、彼らは争いをしてはならなかった。安息の固有の意味から最も遠い、争いごとを起こし、憎しみに心を燃やしていた。彼らがもし、律法への忠実さを守っておれば、安息日に癒された人がいるのを見て、本当の安息が始まったことを発見して喜びに満たされたはずである。
 主イエスとパリサイ人との間の安息日論争は、全ての福音書で取り上げられており、ここにユダヤ教とキリスト教の最もハッキリ見える相違点があること、またこの点が主イエス・キリストの十字架に架けられる原因になっていることは我々は知る通りである。
 さて、出エジプト記20:11には、安息日を守る説明をして、「主は六日のうちに、天と地と海と、その中の全てのものを造って、七日に休まれたからである」と書かれるが、全ての創造を終えて休みたもうた神の安息に参与することが安息日を守る意味であった。
 神とともなる聖なる日である。
 ところが、主イエスは今日学ぶ17節で言われる。「私の父は今に至るまで働いておられる。私も働くのである」。ここには二つの主張がある。一つは、「休みたもう神」と真っ向から対立する「働きたもう神」のイメージを打ち出していることである。律法解釈の対立以上の、神観念の対立があることに注意しなければならない。もう一つは御父と御子の神性において等しいとの主張である。
 第一の点であるが、神が第七日に休みたもうたとは、文字通りに受け取り、神を擬人化して考えるべきものでないことは言うまでもない。神が活動を停止してしまわれるならば、世界は一瞬と雖も存続出来ないではないか。それとも、被造物は機能を停止された神から離れて、自立したというのであろうか。そのような神理解は許されない。
 神は働き続けたもうのである。詩篇121篇4節で「見よ、イスラエルを守る者は、まどろむことなく、眠ることもない」と言われるように、人は休んでも神の活動は休むことなく続けられる。では、神が創造の業を終えて休みたもうたとはどういうことか。それは天地創造の業が神の良しとされる出来栄えに到達したことを表わす。
 天地創造の業は終わったと聖書は記すのであるが、「終わった」と文字通り取るべきか、文字通りには取らなくて、創造の業は今なお続いていると取るべきか。これは我々の理性では十分解明し切れない問題である。例えば、人間が誕生する。その魂は神によって創造されたのは確かであるが、世界の初めから造られていたのか。胎に宿る時に創造されたのか。どちらとも言い切れない。
 新しい創造について旧約聖書も新約聖書も語っているが、「新しい創造」があるなら、古い創造は完結したと見るべきであろう。そして、新しい創造はイエス・キリストにおいて起こることであって、歴史の初めに行なわれた創造と、歴史の中で肉体をもって来たりたもうたキリストにおいて行なわれる第二の創造とは、区別して捉える方が救いの恵みを理解する上では有益である。
 神が第七日に休みたもうたという理解はそれなりに深い意味を持ち、人は神の安息に参与することによって、永遠の日をある意味で獲得するのである。しかし、神が休みたもうという表現には、先に触れた通り問題がある。むしろ、人間の業を停止させて、神が働きたもうという捉え方が重要ではないか。イエス・キリストはここで働きたもう神を明確に示したもうたのである。
 神はこの時も働きたもう。神の子である私も父と同じように今働くのである。そして、私の言葉に服従する者も、今日、安息日に業をなすのは当然である。そのことを証しするために、安息日の癒しが行なわれ、安息日に床を取り上げる作業が行われたのである、と言われたのである。
 神が休みたまい、人間も休む、という構造で旧約の人々は概ね考えていたようである。
 主イエス・キリストは、父なる神が働き、子なる神も働き、子の命令を守るものも働く、という神の国の新しい構造を打ち出したもうた。38年間病の床に臥せっていた人も、新しい神の国の到来の徴しとして立てられている。
 癒された人は、安息日に床を取り上げたことでユダヤ人に非難された時、「私を癒してくれた方の命令だ」と答える。責任転嫁の意味で言ったのではない。しかし、癒してくれたのが誰か、彼はまだ知らない。後で知った時、わざわざユダヤ人のところへ癒したのはイエスだと言いに行く。これも責任転嫁ではなく、証言のためである。
 さて主イエスは宮でその人に出会って、言われた。14節、「見よ、あなたは良くなった。もう罪を犯してはならない。何かもっと悪いことがあなたの身に起こるかも知れないから」。
 ここで、この癒しに罪の赦しと再生の意味があったことが明らかになる。マルコ伝2章にある床に載せられたまま釣り下ろされた病人は「子よ、あなたの罪は赦された」と言われ、その時癒された。これらの事件に共通した罪への言及は、罪が原因で病気になり、罪が赦されると病気が治ったということを示すものではない。癒しは神の業がなされていることの徴しであった。
 「私の父は今に至るまで働いておられる。私も働くのである」。父は何の業をしておられるのか。創造の業ではない。創造の業は一応終わった。今行なわれるのは救いの業である。その救いの業を、ここで私がするのだと主イエスは宣言されたのである。
 第二点に移るが、父と子が神性において等しいという点、これはユダヤ人がそう読み取って決定的な対立に至ったのであるが、その読み取りは当たっていた。彼らは十戒の第一戒に従って、第二の神を認めることが出来ない。神と等しくあると言う者を神に対する冒涜としか見ないのである。キリスト教側でもこのことで弁証が容易でないことを初めから知っていた。
 これは19節以下の教えでさらにハッキリして来るように、イエス・キリストの教えの非常に重要な部門である。キリスト理解の決定的な点である。ただ人間イエスの素晴らしさに目を向けるのみでは、主イエスがここで言っておられることを全然聞き取ることが出来ないし、キリストの救いに現実に与ることは出来ない。
 しかし、イエス・キリストに出会い、彼において父なる神に出会った者は、彼による救いでなければ神の救いはないと確認するのである。すなわち、イエスが神であって、神としての業を行ないたもうのを理解し、納得するのは並大抵のことではないのであるが、召された人はキリストとの現実の交わりを経験し、その経験からキリストが神であられることを確認する。その出会いが今日も礼拝の中で起こるのである。


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