◆Back Number2000.05.07.◆

ヨハネ伝講解説教 第40回

――4:35-38によって――
「人々は町を出て、続々とイエスの所へ行った」と30節に記されている。この人たちは主イエスと出会った一人の女性に勧められて、直ちに反応したらしいが、町外れの井戸のほとりに到着するにはまだ少し時間が掛かる。彼らもまたイエス・キリストとの出会いを経験して、信ずるに至ったのである。その次第は39節以下で読まれる通りである。
 この人たちが来るまで、そう長い時間であったはずはないが、短い時間の間に、主イエスは弟子たちと、重要な事柄について語っておられた。すなわち、ご自身が父なる神に遣わされて世にあって果たすべき「使命」についてであり、また近い将来において弟子たちの果たすべき使命についてである。さらにそれはまた、はるかくだった後の時代に生きる我々の使命にも関わる教えである。
 その教えへの導入の手掛かりとして、食物についての短い対話がある。話が殆ど噛み合っていない。ユダヤから歩きづめに歩いて昼ごろスカルの井戸に着いた時、主イエスは渇いておられ、また旅の疲れを覚えておられた。その上、ひもじくなっておられたであろう。だから、このまま休まず旅を続けることは止めて、主イエスに休んでいただき、弟子たちが食べる物を買いに町へ行った。ところが、弟子たちが買い調えた食物を供すると、主イエスは「私にはほかに食物がある」といわれた。
 弟子たちの受け答えを見ていると、彼らの理解の低さに驚くほかないが、主イエスのされたこと、言われたことも、分かりやすいとは決して言えない。しかし、このトンチンカンな問答から何かを引き出す必要はない。これは本題に入る前置きに過ぎない。だから、何か深い意味を読み取ろうと努めるに及ばない。
 ここでは、主イエスが飢えや渇き、また疲れを克服する奇跡的手段を持っておられたというのではない。また、飲まず食わずに使命のために励まねばならないと促しておられるように見ることも要らない。
 また、人々の常識では、食物とは成長の原因となるものとされ、キリスト者の間でも霊的成長をさせるものを食物に譬えることは我々の知る通りであるが、ここで霊的成長の益になる物は何かを考えることもしなくてよい。
 主イエス・キリストにおいては、食物が使命であり、使命の遂行が食物によって養われることである。それは、神の子たるご自身において起こる例外的な奇跡的な結果ではなく、使命に生きる者に共通することであると知らなければならない。
 要するに、食物についての問答は、大事な主題に移る橋渡し、あるいはキッカケであっただけである。「あなたがたの知らない食物」と言われたが、彼らの知らない事柄へ、今、導き入れられる。
 「私の食物というのは、私を遣わされた方の御心を行ない、その御業を成し遂げることである」。――ここで、主はハッキリした言い方をしておられるのであるから、我々も食物とは何かについて思い巡らすことを打ち切りにして、イエス・キリストが「遣わされた」お方であること、したがって「使命を持っている」お方であること、そしてイエス・キリストによって神の御業が成し遂げられること、それらのことへと我々の思いを高めなければならない。
 「御心を行なう」という言い方は、旧約にも新約にも、聖書では頻繁に現われ、我々にも全く馴染み深い言葉である。例えば、詩篇40:8に「我が神よ、私は御心を行なうことを喜びます」と歌われているのはその典型である。マルコ伝3:35には「神の御心を行なう者は誰でも、私の兄弟、また姉妹、また母なのである」と言われた。我々にとって基本的に最も重要なのが、御心を行なうことである。これは信仰と服従の業である。マタイ伝7:21に「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が皆天国に入るのではなく、ただ、天にいます我が父の御心を行なう者だけが入るのである」と諭された。これは「御心を行なう」ことが見せかけの口先のことであってはならないと教えるものであるが、今、ヨハネ伝で主ご自身「私が御心を行なう」と語りたもう時、その意味はもっとありありとして来る。
 弟子たちは主イエスが神から遣わされて来た方であると認めていた。しかし、「神から遣わされた」とは、彼らの立場から考えての推定であって、単純に神から来たと考えるほかない「偉いお方」、「超能力者」、「尊敬すべき方」という程度にしか捉えられていなかった。今、もっと正確にキリストの使命と御業を理解すべきことを教えられる。
 すなわち、漠然と信じ尊敬するのでなく、彼において成し遂げられる救いをハッキリと把握しなければならない。
 その使命また御業が、我々人類を救うことであるのは言うまでもないが、その救いがどういうものであるかは、これまでよりさらに明らかにされる。すなわち、父なる神が御子を遣わし、ただこの御子によってのみ救いの業を全うしたもうのであるが、御子もその使命を完全に理解し、その使命のために一切を尽くして服従したもう。そして、彼の生き方は、我々に迫って、己れの救いがどのように成就されるかについての正確な理解を促すとともに、我々自身の使命にいっそう忠実ならしめるのである。
 彼が父の御業を「成し遂げ」たもうとはどういうことであろうか。「成し遂げる」とは、単にそれを「遂行」するだけではなく、「完成」することである。彼のなしたもう御業は、父なる神とともに永遠に行なわれるものである。すなわち、神はその御言葉によって御業を行ないたもうが、御言葉は永遠の初めから神とともにある故に、御業も永遠である。受肉後にキリストの御業が始まったのではない。また、地上の業を終えて天に登り行きたもうたことによって働きが終わったのでもない。彼は今も働きたもうし、世の終わりに再び来て世を裁き、すべての支配を父なる神に帰したもうまで御業は続くのである。したがって、御業は多岐にわたっている。
 しかし、今ここでは「遣わされる」こととの関連で語られているのであるから、キリストの御業としては、特に、世に遣わされて、この世において「成し遂げ」られたものを取り上げるべきであろう。すなわち、それは、一つは、十字架において完成した服従であり、もう一つは、この世に対しては啓示の完成である。
 したがって、スカルの郊外の井戸のほとりで、弟子たちに「私を遣わされた方の御心を行ない、その御業を成し遂げる」と言われた時、彼の使命をそのときここで彼のなしておられたこと、すなわち、サマリヤの女に、渇きも・空腹も・疲れも忘れて、伝道したもうたことに限ってしまっては、大事なものを見失う。「成し遂げる」という言葉が重要である。サマリヤの女を相手に道を説くことは、使命の一部には違いないが、むしろ緒についたばかりであって、それがそこで成し遂げられたと見ることは困難ではないか。
 ただし、今、仕上げをしていたのだと言われたように解釈することは成り立たなくはない。最終の刈り入れの時が始まっているという教えがすぐ後に出て来るからである。キリストの来臨が何かを始めるためであるよりも、すでに始まっていた神の御業を完成するためであった。
 「成し遂げる」という言い方について、我々が考えなければならないことは、四つの点にわたっていて、一つは、彼の地上における御業の完成たる十字架と復活である。第二は、我々の救いを完成させることである。或る種の宗教的気分を満喫させた程度に留まってはならない。第三は、6章29節で「神が遣わされた者を信じることが神の業である」と言われたことが示す通り、我々がキリストを信じて受け入れることである。スカルにおける働きは確実に完成に達する過程を辿って行くものであるが、特に今挙げた第三点にある「遣わされた者を信じること」が、明瞭に示されているのである。そして、この時のサマリヤ伝道によって人々がイエスを信じたのは確かであるが、サマリヤの人々の救いが全うされたわけではない。
 第四に考えたいのは、父が始めたまい、私が完成する、という意味である。5章17節に、「私の父は今に至るまで働いておられる。私も働くのである」と言われるように、御父が命令者で、働くのは御子という解釈では足りないであろう。共に働くのである。それも分担して働くのでなく、父の始めたもうたわざを子が完成するのである。後で出て来るが、蒔く者と刈る者とが別である。とすれば、父なる神が蒔いておられ、私が今刈り取るのだと言われたようにとることが出来なくない。ただし、この解釈に無理があるかも知れない。それにしても、彼が伝道を開始するに当たって「時は満ちた」と宣言されたことは真実を衝いておられたものである。成就の時が来ているのである。終わりの時が始まっている。「伝道」という問題について、ここでは非常に重要なことを教えられているのである。それは、伝道とは種蒔きではなくて、刈り入れだと言われる点である。譬えであるから、全てを文字通り取らなくても良いかも知れない。しかし、今から種を蒔いて、シッカリ育てるというのとは明らかに別のことが語られている。
 35節から38節まで、さらに具体的に伝道のことが、「刈り入れ」の「譬え」と「諺」を借りて教えられる。そして解釈は一段と難しくなる。「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでには、まだ4ヶ月ある』と言っているではないか」。――こう言われたのだから、これは刈り入れの4ヶ月前の出来事でなければならないと主張する人がいる。刈り入れられる作物は大麦か小麦であるから、収穫は5月ごろ、その4ヶ月前だと1月頃のまだ寒い時期であることになる。しかし、まだ緑の葉が伸びてもいないその寒い時期に渇きを覚えて井戸の水を飲みたくなるというのはうまく適合しない。「刈り入れまで4ヶ月」というのは現実ではなく諺であろう。季節と一応関係なく、いつでも使える諺で、まだチョット時間があるから、その時が来れば励むが、今は息抜きをしておられるという感じを現わした諺であると思われる。ただし、こういう諺がユダヤにあった証拠は今のところ発見されていない。
 主は続けて言われる、「しかし、私はあなたがたに言う。目を挙げて畑を見なさい。はや色づいて刈り入れを待っている」。――まだその時でない、と言ってはならない。今、畑が色づいているではないか。それを無視して、まだ4ヶ月ある、4ヶ月したら頑張るぞ、と言っているのは誤魔化しではないか。そのように主イエスが言われたと受け取るのは無理がある。収穫の4ヶ月前に畑が色づくことはないではないか。主のお言葉は、終末の時になっているのに、「まだだ、まだだ」と言っているその呑気さを叱責したもうのである。
 季節が何時だったかは考えない方が良い。「畑が色づいた」というのは実際の畑の色を指すのではなく、キリストの来臨そのものが終末を齎すものであるとともに、さらに具体的にはサマリヤ伝道の時期になっているという意味を託したものに違いない。町の方から人々が続々とやって来るのを眺めながら、こう言われたという解釈もある。「色づいた」という言葉から我々が思い描く色彩は黄色であるが、この言葉は「白くなる」という意味である。町から来る人々の通常の服装は白であるから、その情景を描いたのだと見る人もいる。
 「刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。蒔く者も刈る者も、共々に喜ぶためである」。
 「報酬を受ける」とは、刈り入れのために臨時に人が雇われることを指すと見る人もいるが、葡萄園の主人が広場に行って1日1デナリの契約で葡萄収穫の働き人を雇い入れる譬えと結び付ける必要はない。「収穫」のほかに「報酬」があるのは、収穫の喜びを指すのであろう。主イエスはサマリヤの女性に伝道した時、報酬を受ける満足感を味わっておられた。
 刈り入れが喜びになるのは、通常の収穫の場合であれば、ここまでに至る労苦と心配が報いられたからである。種を蒔いたから収穫があるというわけでは必ずしもない。その年の気候に大きく左右される。蝗の害に遭うこともある。不作になると、少なくとも1年は生活苦を味わわねばならない。だから、収穫の喜びは大きいのであるが、主イエスは今、蒔く者と刈る者を別にしておられる。だから、労苦した報いを得て喜ぶというのとは違うのである。
 伝道が喜びであるのは、一つの事業を果たし終えた満足感とは全く別のものであって、「永遠の生命に至る実」を得たからである。人々が集まって気勢が大いに上がっただけでは、その人々が汐の引くように引いて行く淋しさを間もなく味わわねばならない。人々が「救われた、救われた」と喜びに顔を輝かせていたとしても、いつの間にか浮かぬ顔をするようになり、その姿も見えなくなることが屡々ある。「永遠の命」とか「救いの喜び」が言葉として盛んに語られたとしても、実体がない。感覚的な心地よさが暫く味わわれていたに過ぎない。そういう伝道が多い。今ここで学ぶのはそれと全然違うことである。
 「一人が蒔き、一人が刈る」。確かにこういう諺があった。その諺が言葉通り聖書に記録されるところはないが、例えばヨブ記31章8節に「私の蒔いたのを他の人が食べ」というところに用いられている。ミカ書6章5節にも「あなたは種を蒔いても、刈ることがない」という言葉がある。それらの個所を見ると、蒔く者と刈る者が別人であるとは、蒔いた者にとっての呪いをいうのであるが、その本当の意味は、刈る者の祝福であると主は言われる。「私はあなたがたを遣わして、あなたがたがそのために労苦しなかった物を刈り取らせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは彼らの労苦の実に与っているのである」。
 それでは、蒔いておいてくれた人とは誰か。ほかの人々が労苦したと言われるのであるから、蒔いた人は複数である。とすれば、旧約の預言者のことであろうか。しかし、ここでは、預言者のような人が用いられたにせよ、神が種を蒔いて置かれ、刈り入れの時が来て御子を遣わされた、と解するほうが適切ではないかと思う。主が我々を器として用いたもう伝道とは、世界の終わりに向けて種まきから始めて成果を積み上げて行く業ではない。
 種が蒔かれていないのに刈り取ることはあり得ない。だから、神に用いられて種を蒔く人も必要なのだという議論は間違いではない。しかし、今ここでは、蒔く人と刈る人とを別々に扱っておられるのであるから、我々もその混同は避けなければならない。だが実際、熱心に伝道を論じるクリスチャンの殆どは、蒔く人が刈り取る人であるという錯覚に陥っているようである。
 非常に分かりにくいことかも知れない。分からないのが当然で、分かるようにしては本物でなくなるのである。分からなくてもこれを分かるようにせよと聖書は命じるのであるから、何とかして分かるようにしなければならない。そこで、二つのことを思い起こそう。一つは、旧約で語られる神の戦いのことである。主が戦いたもう。イスラエルはただ神を礼拝するだけである。敢えて言うならば何もしない。そのとき神が勝利し、信仰者は神の勝利に与る。神のためにイスラエルが雄々しく戦わなければならないとは言われていない。むしろ、その逆であって、イスラエルのために神が戦いたもう。それを信ずる者が勇者なのである。分かりにくくてもこれを信じよう。
 伝道についても同じではないか。我々が神のために一生懸命に働いて、種蒔きから刈り入れまでしなければならないというのとは違う。神が我々の収穫のために種蒔きをし、育てて置いて下さった。その収穫に我々は与るだけである。今日の聖書の個所から教えられるのは明らかにそのことである。
 神を押しのけて、種蒔きから収穫まで人間が全部してしまう。それを立派なこと、分かりやすいこと、なすべきことと宣伝される。根本的に逆立ちしているのではないか。彼らが伝道と呼んでいるのは本来のものと全く逆の人間の運動に過ぎないではないか。
 もう一つ考えたいのは、終末の到来、我々の終末への突入、我々における終末的事態の展開、それこそが伝道であって、人間が頭で考えて改良に改良を加えた手段を使い、人間の努力が目標を追求する営みは、御言葉とか、祈りとか、信仰とかいうキリスト教用語がふんだんに使われて、最もキリスト教的な働きのように言われていても、神の働き場を奪い取り、来臨したもうキリストを押しのけているに過ぎない。我々は来臨したもうキリストの前に己れを捨てなければならない。


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