◆Back Number2000.04.09.◆ |
――4:27-34によって――
主イエスとスカルの一人の女との語らいは、主ご自身のキリスト宣言によって頂点に達したのち、一旦26節で急に閉じられ、彼女は町に戻って人々を集めに掛かる。人々が集まって主イエスの説教を聞くのは39節以下のくだりである。一方、彼女が井戸の傍から去るのと入れ替えに、弟子たちが町から戻って来る。ここで主は弟子たちに重要なことを教えたもう。一口で言えば、派遣、伝道に関する教えである。 これまでヨハネの福音書で読んで来たのとかなり違う情景、かなり違う主題が展開する。これまでは、人は動かず、ジッと聞いて、主イエスの語りたもう教え、あるいはそのなしたもう御業を受け取るだけであった。主イエスだけが語り、あるいは働き、人々は謂わば観客席にいるようなものであった。しかし、今や、人々も動いている。サマリヤの女は町中の人々を集める。呼び掛けを受けた町の人々は、続々と主イエスのもとに集まって来る。その間に、主は弟子たちに、これがどういう意味を持つ事件であるかを教えておられる。もう刈り入れの時が来ていると言われる。あなたがたは刈り入れるのだ。それがあなたがたの使命だと言われる。 これまでは、「イエス・キリストは何者であるか」、「彼を如何にして信仰をもって受け入れるか」、あるいは、もっと抽象的に言えば、「まことの命とは何か」、「真理とは何か」を主題として学んで来た。それでは足りないというのではない。また、学ぶだけで働かないのはいけないと諭されるのではない。聞くことよりも、何か働きをするのが重要だと教えられるのでもない。けれども、今日のところでは信仰の原理的なことではなく、キリストに接することによって起こる行動が記される。 我々の間で「あなたは聞いているだけではいけない。家に帰って家族や町の人々を一人でも多く連れて来なければいけない。自分が教えを聞いて、信ずるだけでなく、伝道をしなければならない」という勧めが、最高の真理であるかのように説かれることがある。また実際、主イエスのもとで教えを聞くよりは、主のもとを去り、町に戻って、「さあ、見に来てごらんなさい」と民衆に呼びかけることの方が、手応えもあり、やり甲斐のある仕事のように感じてしまうことがあるのだ。 「さあ、見に来て御覧なさい」。直訳すれば、「来たりて見よ」である。これが人々に呼び掛ける基本的な呼び掛けの言葉である。ただし、人々を誘うことに重要性を置き過ぎては、大切なものが見失われる恐れがある。人に勧誘していると、何か良いことをしているという充実感を味わうのは事実だ。そして、その充実感が錯覚でないことも真実だ。しかし、「さあ、見に来て御覧なさい」と人々に示すその目標、あるいは自分があなたに向けて呼び掛けずにおられないように駆り立てられている事実、あるいは私が遣わされていることの根源になるお方、あるいは、人々とともにまた戻って行かねばならない出発点、それを殆ど忘れて、只の呼び込み屋になって、呼び込むことだけで生き甲斐を感じて、自己満足することは、危険である。伝道にはその危険がある。だからといって、人を連れて来てはいけない、とは言えない。「来て見なさい」と呼び掛けるのは、自らキリストに接した者の極く当然な結果である。 町の中でこれまで疎外され、相手にされず、人のいない時刻を見計らって井戸に水汲みに来ざるを得なかった女が、このように大活躍をして、人々を連れて来るのは、確かに素晴らしい実例である。人間の回復が行なわれている徴しであると見て間違いではない。だが、そのこと自体だけを持ち上げ過ぎてはいけない。これは謂わば影の部分であって、日が当たっているからこそ影が出来る。その影を作っている太陽光線こそが重要なのだ。このことを十分に心に留めて置こう。 さて、「その時、弟子たちが帰って来た」。時間がピッタリ合っていたというのである。ちょうどその時、入れ替わるように弟子たちが帰って来る。8節で見たように、彼らは町に食物を買いに行っていた。その機会にサマリヤの女は水甕をここに残して町へ走って行った。 人々が町を出て主イエスのもとに行こうとしているのが主要テーマの流れであるから、弟子たちの辿ったのは逆の流れである。それがいけないとは誰にも言えない。謂わば、これは大事な催しをする際に不可欠な裏方の仕事である。それが大事であることは言うまでもないが、今日はそのことを学ぶのではない。 「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くが良い」と主イエスは6章27節で教えておられる。人々は朽ちる食物に心遣いをし過ぎるので、これをたしなめておられる。主の弟子たちも同じである。だから、町に行って買って来た朽ちる食物は、そう真剣になるほど大事なものではない、と言っておられるように取って良いだろう。また、同じ6章で主イエスは昔、神が出エジプトの民に荒野で水を与え、天からの食物を与えたもうた恵みを思い起こさせておられる。だから、神は今でも、必要があれば、天からマナを降らせて下さると期待しなければならない。しかし、だからといって、パンを得て来ることが余計な空しいわざだと考えるには及ばない。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることを主は命じておられる。 自分の責任とか、自分の持ち場を考える人は、裏方の仕事を軽んじないで、進んで引き受ける。すなわち、ディアコニアの働きである。しかし、それは大事な務めではあるが、その務めを意義付けることの出来る視点を外れないようにしなければならない。主のために町まで行って食物を買い調える奉仕には意味があるが、その奉仕自体が貴いと思ってはならない。つまり、ここで我々は、自己目的・自己充足に陥らないように警戒しなければならない。 そこで、文章の順序を踏み外すことになるが、32節の主の御言葉を次に学ぶことにしたい。イエスは言われた、「私にはあなたがたの知らない食物がある」。 これは、「私はあなたがたの知らない食物を食べたから、あなたがたの買って来た食物はもう要らない」。あるいは「私は食物くらいなくても生きて行けることを、事実によって知りなさい」という意味ではない。弟子たちは「誰かが何か食べる物を持って来て、差し上げたのであろうか」と互いに言ったと33節にあるから、まるで満腹なさっているような様子だったのであろうが、「私は食べない」と言っておられるのではない。弟子たちの反応は彼らが何も理解していなかったことを示す。 ついでに触れておくが、普通の食べ物と違う物を食べるとか、人と比べて著しく小食であることを、神聖なことのように有り難がる気風が多くの宗教にはある。だが、それが何か深い意味を持つかのように考えるのは空しい。例えば、主イエスが40日の断食をされたことを特別な徴しと見る必要はない。食物に関する記述は平凡に、常識的に、ただし背後に象徴的意味を考えるようにして解釈すれば間違いない。 ここに書かれていないけれども、主イエスは弟子たちとともに感謝して昼の食事をされたことは確かだと見たい。食べなくても、精神的な食物で満足出来るのだ、ということはウソではないが、ここで特に強調するには当たらない。 ただ、目に見える食物の上の位置にある、さらに重要な、目に見えない食物のことを忘れてはならない。目に見える食物だけが唯一の食物であるかのように、これがないと何もかも駄目になってしまうかのように、食物が人生の最大関心事であるかのような考えに囚われてはならない。6章では天上の食物について教えられるから、そのところでまことの食物について学ぶことにする。ここではむしろ、それらの食物を食べることの意味付けをする目的や使命を見なければならない、と諭しておられる。 それでは、その見えざる食物とは何か。24節で言われる、「私の食物というのは、私を遣わされた方のみこころを行ない、その御業を成し遂げることである」。――これはオカシイではないか。ここで言われるのは、「私の食物」というよりは、「食物を食べる目的」ではないか、と問われるかも知れない。確かに、食物でなく食物を食べる目的が含まれている。が、目的なしにただ食べるだけでは意味がないと強調される。しかもここでは、使命を与えたもうた方のみこころを行なうことによって、使命に生きる命が養われるという一面もある。 遣わしたもうた父のみこころを行なう業、それを「伝道」と呼んで置くが、これを行なうこと自体が命を豊かに養うことになる。 「遣わされる」という言葉がここで中心的意味を担っていることは一読して分かる。振り返って見ると、ヨハネ伝で「遣わされる」という言葉を聞く機会はこれまで何度もあった。バプテスマのヨハネが「遣わされた人」として先ず登場した。すなわち、彼は、終末の近いのを予感したり、時代が末世であることを悲憤慷慨したり、この民を救済する使命が自分にあると直観したりして出現したのでなく、神から遣わされて世に現われた。神から遣わされたのであるから、それとハッキリ分かる振る舞いをした。 次に、御子イエス・キリストが神から遣わされた、ということが3章で言われた。すなわち、17節「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためである」。また34節、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を語る」。この「遣わされる」、特に「神の独り子が神によって遣わされる」という言い方のヨハネ伝における重要性は、ますます明らかになって行く。この言葉の重要性は6章18節19節に見事に示される、「そこで彼らはイエスに言った、『神の業を行なうために、私たちは何をしたら良いでしょうか』。イエスは彼らに答えて言われた、『神が遣わされた者を信じることが、神の業である』」。同じ主旨の言葉が17章3節にある。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることであります」。これが福音の神髄だと言って良いほどの重要性を遣わされるという言葉が担っているのである。 今日学ぶところで、主はご自身が「神から遣わされている」ことを自らの口で語っておられる。このことを語られた最初の機会である。それが今日の聖句の大事なポイントである。 しかも、今日、ご自身が遣わされたと言われた文脈の続きに、今日はそこまで進めないが、38節に「私はあなたがたを遣わして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈り取らせた」と言われる。ここで主は遣わされた者であるとともに、遣わす者であり、弟子たちが遣わされた者である。ここで弟子たちについて言われたことを、我々は自分自身に当て嵌めて良いのである。 20章21節で、復活の主は言われた、「安かれ。父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす」。これはヨハネ伝の最終結論と言っても良い一言である。そこに向かって今日は学んでいるということを心に留めておけばスッキリした理解が得られるであろう。今日教えられるのは伝道だと言ったが、「さあ、見に来なさい」素晴らしいものを見せてあげよう、と言えば良いのではないことが分かる。遣わされた者として立つことが肝要である。 さて、先に、14節で教えられたことと若干似たことを、34節で主は語っておられる。すなわち、この水を飲む者はまた渇く。水は体の中で消費され、汗となって発散して行く。だから、外に依存し、外からつぎ足さねば生命は維持出来ない。しかし、私が与える水は、その人のうちで泉となり、泉が湧き起こり、命はますます豊かになり、永遠の命を養う。すなわち、内なる生命が始まり、それがいよいよ豊かになる。では、一旦主から水を頂いたなら、それ以後は、自分で自立して行けるということか。そうでないことは言うまでもない。最後まで主によって満たされるのである。しかし、主の与えたもう物はその時だけで消えて行く物質ではない。 27節に戻って、「イエスが一人の女と話しておられるのを見て不思議に思った」とある点に触れておこう。 弟子たちが不思議に思ったのは、一般の風習に反していたからであった。ユダヤ教のラビは女性を弟子に取らない。女は一般に独立の人格と認められず、したがって、探求心があっても、直接求めて教師につくことは許されず、家で、家の主人を通して教えを受けるべきだとされていた。旧約聖書には女預言者が何人か登場する。神が女を男の上に立てたもう場合もあることは知られていたのであるが、それは社会の慣習にはなっていなかった。ヨハネ伝6章10節に「そこに座った男の数は五千人ほどであった」と書かれているが、この時、女子供はいたにはいたが、数から除外されていた。 さらに、女性と話し合うことは汚らわしい、また女それ自体が不浄のものであるという観念も生じていたことが、ラビたちの書き残した文書によって知られている。主イエスはこの慣習から自由であられた。 弟子たちが不思議に思ったのは、新しい、型破りの生き方を見たからである。これはこののち弟子たちによって広められて行くキリスト教の新しい方式である。教会はやがて制度化し、その段階では男性社会になってしまうが、使徒行伝などで見られるところでは、女性も大いに活躍している。例えば、使徒行伝16章で見るように、ピリピの伝道で最初の中核になったのはルデヤという婦人であった。 主イエスは女弟子を受け入れた点で画期的な伝道方式を行なっておられた。神の前では男も女もない。 しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられますか」とも、尋ねる者は一人もなかった。奇異なことであるが、主イエスに対する尊敬のゆえに詮索しなかったのである。 28節、29節、「この女は水甕をそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、『私のしたことを何もかも、言い当てた人がいます。さあ、見に来て御覧なさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません』」。 水甕をそのままにしたのは、急いで行きたかったからであるとともに、その水を主イエスに飲んでもらおうと思ったからであろう。 町に帰ってからの彼女の言葉には、解せないところがある。「もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。どうして、「私がそれである」と言明された主のお言葉をそのまま受けて、「キリストが町に来られた」と告げ知らせなかったのであろうか。 彼女がまだ「これはキリストだ」と確信していなかったことは確かである。「私がそれである」と言われた主の言葉に応答出来ないままに、急いで町に戻った。彼女が主の言葉に「アァメン」と答えるのはこの後である。 「キリストかも知れない」というのは確信の言葉ではないが、キリストとの出会いの期待をこめた言葉には違いない。それにしても、彼女が自分の過去の全てを言い当てる人に出会って恐れ入ったことは確かである。それを話して聞かせて納得させるのでなく、その方に町の人を出会わせようと思った。お話しの中のキリストでなく、生きていますキリストと出会わなければならない。我々においても同じである。 |