◆Back Number2000.03.19◆

ヨハネ伝講解説教 第37回

――4:22-24によって――
「あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、私たちは知っているものを拝んでいる。救いはユダヤ人から来るからである」。
主イエスご自身、そしてヨハネの福音書は、全体として見れば、ユダヤとユダヤ人に対して厳しい対決姿勢をとっているということ我々は見て来た。今見ているサマリヤの出来事も、ユダヤ人の間にはついに見ることの出来なかったキリスト告白にまで至る。ヨハネ伝の記事ではないが、強盗に遭い、半死半生にされて、道端に捨て置かれた人を助けた愛の実行者は、ユダヤ人ではなく、サマリヤ人であった。こういう事実があったわけではないが、主イエスはこのような寓話を創作して、ユダヤ人が如何に偽善であるかを示そうとされたのである。救い主を抹殺して十字架につけたのはユダヤ人である。それだのに、「救いはユダヤ人から来る」、「サマリヤ人は知らないものを拝むが、ユダヤ人は知っているものを拝む」と言われるのであろうか。
この22節は、ヨハネ伝を詳しく読んで行こうとする人を当惑させる個所である。そこで、簡単に解決をつけたいと願う人は、この部分は後世の挿入だと言って削除する。あるいは、加筆しなければならなかった事情が何であったかを探る。しかし、これまでにもそういう個所はあったが、難解なところを加筆だという理由で削除するような読み方では、聖書はもはや聖書でなくなり、致命的な読み落としになることに気付いて、我々はそのような難しい個所に出会う度に、足を留めて、ジックリ考えた。今回も良く考えたい。
一般的に論ずるならば、ユダヤ人の方がサマリヤ人よりも旧約宗教の本流に沿っていると言えるであろう。ユダヤの方が律法の教育は良く行なわれ、神を目に見える形で表わすことは避けられ、礼拝はずっと厳粛に守られた。だが、そういう一般論を主イエスがここで語ろうとされたのであろうか。
「あなたがたは」というのはサマリヤ人で、「私たち」というのはユダヤ人、というふうに割り切ってここを読んでしまう場合が多いが、これは考え直して見よう。ユダヤ人一般とサマリヤ人一般の比較がなされていると思い込む必要はなかったではないか。むしろ、単純に「私」と「あなた」という向かい合った関係がここにあるのを読み取って行きたい。たしかに、主イエスご自身は礼拝を捧げられたもうお方について知っておられる。サマリヤの女は知らないままに拝んでいる。
「自分の知らないものを拝む」ということを主イエスはここでは必ずしも迷信と決めつけ、非難をこめて言っておられるのではないのではないか。25節でこの女性は「私はキリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られたならば、私たちにいっさいのことを知らせて下さるでしょう」と言う。だから、全く何も知らないというのではない。そういうわけで、サマリヤ人たちが集まって来た時、それを受け入れておられる。知らないものを拝んでいるから駄目だというのではなく、知らないから教えてあげる、と言われる。
脇道にそれるように見られるかも知れないが、「知られざる神に」という文字を刻んだ祭壇がアテネの町にあったことが使徒行伝17章23節に書かれている。そういう怪しげな神がサマリヤでも崇められていたのかも知れない。また、少し後の時代に「知られざる神」を崇めるグノーシスの異端の一派がサマリヤに本拠を置いた事実もあったらしく、それを意識してこう言われたという解釈もあるが、取り上げても余り意味はないであろう。
アテネで「知られざる神に」という祭壇を見付けた時、パウロは偶像に充ち満ちた環境に心中穏やかではなかったが、偶像礼拝への挑戦を思い立ち、「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、今知らせてあげよう」と言って説教を始めた。そして、「神はこのような無知の時代を、これまでは見過ごしされていたが、今は、どこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる」と結論したのである。このことと、スカルにおける主キリストの伝道とを重ねて見ると、かなり似た線が浮かび上がって来るではないか。つまり、イエス・キリストが、知らないものを拝んでいたサマリヤ人に、まことの神について、その救いについて説教された範例にならって、パウロはアテネのギリシャ人に説教したのである。
「救いはユダヤ人から来るからである」という御言葉について、もはや難しく考えることはない。これは「ユダヤ人があなたがたサマリヤ人に救いを与える立場にある」という意味ではない。これは「救い主はユダヤ人の中から出るように約束されている」という意味に取るべきである。「救いはユダヤ人から来るからである」という言い方は、知っている方を拝む理由の説明であって、知っているものを拝んでいるからユダヤ人の方が優れているという論法でないことは確かである。キリストの来臨が、ユダヤから、ユダ族から、ダビデの家系からであると約束されていたからこそ、真の神を知る知識と、それを礼拝する方式が確かなものになるのである。
直ぐ前のところで言われたように、「この山でもエルサレムでもないところで父を礼拝する時が来る」のである。エルサレムの優位はなくなったのである。パウロがアテネにおける説教で「どこにおる人でも、みな悔い改めなければならない」と言った通り、地球上のどこも同じになった。悔い改めを免除されたり、減免されたりする特権的な場所はないのだ。ただし、福音の拡がって行く前後関係、早い遅いの順序はある。ルカ伝24章47節に「その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」と言われる通りエルサレムが起点になるのである。それは優先順位という意味ではない。地理的に近いところから遠いところに伝わって行くという時間的・空間的意味である。
我々は知っているものを拝む、と主イエスは言われたが、「私は知っている」と言わないで、「我々は」と言われたのは、弟子を含めてであろう。そして今日の我々もその弟子のうちである。知らないままで、何となくありがたく感じて拝むようなことは我々には禁止されている。神は御子によってご自身を我々に啓示されたからである。我々は神を知って礼拝しているのであるが、その知識には足りないところがまだまだあるのを弁えなければならない。でなければ、自分は知っていると思い上がったユダヤ人の過ちを繰り返すことになる。しかし、まだまだ知らないのだと謙遜になれというのではない。我々に知らされていることは、シッカリと把握していなければならない。次に23節、これは今日学ぶ中心的な御言葉である。「まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今来ている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである」。
神を父として礼拝することについては前回21節で学んだ。まことの神の子であられるイエス・キリストが世に来られて、ご自身を我々に与えたもう時、神は我々の父になりたまい、我々は神の子となり、神を「アバ、父よ」と呼ぶことが出来るようになる。同時に、その礼拝の場所がエルサレムとか、その他の特別の場所に限定されるものではないということも学んだ。ここで基本的な教えは示された。
今度は、矢張り基本的なことであるが、それを踏まえて、まことの礼拝をする者がどういう態度、どういう心掛けで礼拝をするかを教えられる。これでなければ、まことの礼拝ではなくなると言われているのである。
それは「霊とまこと」をもってであると示される。これは合言葉とも言うべきもので、宗教改革の時、我々の先輩たちはこの合言葉によって礼拝を改革したのである。したがって、我々が礼拝について検討する時、「霊とまこと」という二点から自己吟味すれば良いのである。旧約の時代であっても、神は霊とまことをもって礼拝しなければならなかったのではないか、と問われるであろう。その通りである。24節に「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」と言われるように、神が霊であることが人間の捧げる礼拝の霊的でなければならない根拠になっている。そして、神が霊であるのは、永遠のことであるから、神礼拝が霊的でなければならないのも永遠不変である。
しかし、実際の礼拝では、霊的な面がどんどん薄れ、そして崩れた。実際について見ると、旧約における礼拝は、犠牲と祈りからなっていた。ところが、事実上、礼拝における祈りは非常に希薄になっていた。犠牲は規定通り捧げるが、本当の祈りは捧げていない人が多かった。そこで、ユダ王ヨシアの時、礼拝を正規の祭司の管理と指導のもとに置くことに改められ、したがってユダにおいては礼拝はサマリヤよりも比較的健全で純粋であった。それでも、どんどん不純になって行く。だから、イエス・キリストによって神の家は「祈りの家」として回復されなければならなかった。これは第2章の宮潔めのくだりで教えられたことであるが、今日学ぶ個所とも大いに関係がある。
ところで、祈りが手薄になったのは何故であろうか。簡単に言うならば、犠牲の占める位置が大きかったからである。犠牲の伴わない祈りは安易になるというのは常識かも知れないか、そういうことではなく、罪ある人間には神との和解が必要であることを犠牲は示していたのである。だから、和解のための犠牲は不可欠であった。だが、犠牲に人々の関心が行き過ぎる。その危険を、預言者たちは繰り返し警告していた。時代として最も古いのはIサムエル15章22節のサムエルの警告である。「主はその御言葉に聞き従うことを喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲に優り、聞くことは牡羊の脂肪に優る」。
イザヤも警告する。例えば、イザヤ書1章11節であるが、「主は言われる『あなたがたが捧げる多くの犠牲は、私に何の益があるか……』」。
それでは、我々が今しているように、祭壇に犠牲を捧げる礼拝を廃止すべきではなかったか。そうではなかった。礼拝者の罪を贖いまた潔めるための全き犠牲がなくなれば神礼拝は遊び事になってしまう。だから犠牲は律法によって厳格に命じられていた。そして、犠牲が全うされる日まで、象徴という形で、謂わばつなぎを入れ、全うされる日を旧約の民に待ち望ませることが必要であった。ところが、この象徴が肥大化して、象徴の示すべき実体を、却って見えなくするというジレンマがあった。
霊なる、目に見えない神を礼拝することは分かっているが、礼拝する側は霊をもって礼拝すれば良いとは旧約では言われていなかった。形ある物で神を表わすことは十戒の第二戒で禁止されていたが、礼拝者は形ある犠牲を捧げなければならなかった。その犠牲を省略すると、礼拝そのものが空疎な観念になってしまい、自分では礼拝を捧げているつもりであっても、神はこれを礼拝とは見做したまわない。
そういうわけで、形ある、目に見える象徴としての犠牲が、問題でありながら、なくせない。これが辛いところであった。ヘブル書10章1節に、「いったい、律法は来たるべき良いことの影を宿すに過ぎず、そのものの真の形を具えているものではないから、年ごとに引き続き捧げられる同じような生贄によっても、御前に近付いて来る者たちを、全うすることは出来ないのである」と言われる。
だが、約束が成就し、もはや象徴を立てる必要がなくなるに及んで、万事スッキリし、霊とまことをもって礼拝することが出来るようになった。ヘブル書は先に挙げた聖句の続きの11節で、「全ての祭司は立って日ごとに儀式を行い、度々同じような生贄を捧げるが、それらは決して罪を除き去ることは出来ない。しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠の生贄を捧げた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とする時まで、待っておられる。彼は一つの捧げ物によって浄められた者たちを永遠に全うされたのである」と言うが、イエス・キリストはそのことをサマリヤで言っておられたのである。
我々は霊とまことをもってするまことの礼拝を執り行う恵みを良く弁え、本当の意味で「霊とまこと」をもってする礼拝を行なわなければならない。「霊をもって」という「霊」は我々の霊のことである。霊は我々の存在の最高の部分である。その霊は神の霊の全面的支配のもとにあり、神の霊に絶対的に服従している。
そのように礼拝は霊的でなければならないから、目に見える要素に重きを置いてはならない。つまり、分かりやすく言えば、キリストの来臨によって取り除かれた象徴的な物体は、我々の礼拝から出来るだけ取り除く方が良いのである。だから、十字架を立てたり、説教壇を厳かな作りにしたり、説教者の服装を重々しくしたりすることは、それなりの意味をこめてなされるとしても、必要ではない。
「まこと」も我々のまことであるが、神のまことを知ることから我々のまことへと下って来るのである。神がまことをもって恵みを示したもうから、我々はまことをもって恵みを受け取るほかない。まことは先ず信仰である。神の言葉をまこととすることである。
まことはまた、我々の品性における真実、誠実、偽りなきこと、むなしくないこと、二心のないこと、見せ掛けのないこと、裏切らないことである。言葉を換えて、別の方向から光りを当てて言えば、我々が真実であろうとしても、それは不真実であり、あばかれて破綻し、不真実の罪を神の前に告白せざるを得ないこの告白、さらにその罪を赦された恵みに答えて、新しい命を与えられて真剣に生きる時、我々のまことが示される。
そのまことは礼拝の時だけ大真面目になるということではなく、礼拝以外の時も真実に生きるということと繋がってこそ偽りなきものである。
「霊とまこととをもって」礼拝をするのだから、礼拝には、霊とまこと以外のものは要らないのではないか。建物も要らない、御言葉も要らない、讃美歌も要らない、聖書も要らない、ただ霊的な、霊に感じた集いをするだけで良いのではないか、と考える人がある。これは間違いである。
なるほど、説教と言うに当たらぬ無駄話が講壇から語られることもある。そんなものなら、ない方がマシだと言えそうである。だが、御言葉を宣べ伝えよと主は命じて、御言葉を託したもうたのであるから、それを語らなければならない。好い加減な話しでなく、霊とまことをもって御言葉を語り、霊とまことをもって御言葉を聞かねばならない。霊とまことを盾にとって、礼拝にはそのほかの何もあってはならないと主張するグループがある。讃美歌も歌わず、説教もせず、聖書朗読もない。集まって、黙って、神からの示しを受けて散会して行く。礼拝はそういうものでなければならないと考える人が事実いる。これは座禅と同じである。無言、無念無想、それは無駄なことを考えたり言ったりして疲れている頭を休憩させるためには有意義かも知れないが、何もないから霊的であるとどうして言えるのか。休憩になるとしても、神礼拝にならないのではないか。
悔い改めはないではないか。全ての約束を成就し、全ての象徴を全うしたもうた贖い主イエス・キリストが、御言葉の権威をもって臨みたもうのでなければ、神礼拝は成り立たないのである。キリストの君臨が宣言されなければならない。「そうだ、その時は今来ている」。「今!」という時がここでは強調されている。
この言葉が出て来る時、つねにこのように強調されているわけではないが、このところや、5章25節「よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが神の子の声を聞く時が来る。今すでに来ている。そして聞く人は生きるであろう」、また、13章31節、「今や人の子は栄光を受けた」などの個所では、「今」という言葉は、すでに大転換が起こったことを語っている。単に時を強調し、強く印象づけるためだけの文章のアヤでなく、約束され、預言され、待ち望まれたこと、それが実現したことを言うのである。礼拝はそのような大転換そのものなのだ。
「父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである」。人々はこのように全き礼拝の成就を切に願っていた、と言われたのではない。人々が願っていた、と言われたとしても、全く素直に受け入れられるのであるが、主イエスはその言い方をここでされなかった。神が求め、そのために御子を遣わし、こうして礼拝が全きものとなった、と教えたもう。まことの礼拝は人間の到達点ではなく、神の恵みの実現である。


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