◆Back Number2000.03.05◆

ヨハネ伝講解説教 第35回

――4:11-16によって――
サマリヤのスカルの町から来た女は、井戸の傍で人と出会おうとは全く予想もしていなかった。ましてや、その方が世の救い主であるとは夢にも思わなかった。そして、彼女の言葉は、彼女が俗っぽい、無知で物分かりの悪い、物質的な考えの女であることをそのまま表わしている。だが、そこから出発して、彼女が徐々に悟りを開いて行く経過が読み取られる。ニコデモが主イエスを訪ねて来た場合、真剣に考えて求めて来たことは確かだが、対話には殆ど進展がなく、決裂にこそ至らなかったといえ、あくまで平行線、あるいはスレ違いの問答であったのと対照的である。
スカルの女は、最初は人と関わりを持つことを嫌い、人間に対して無関心であったらしく、疲れ切って休んでいる旅人イエスに一瞥もくれず、声をかけられると敵意を剥き出しにして答える。まことに、はしたない人間であった。だが、その敵意は、次に「この人は誰であろうか」という疑問となり、好奇心になり、欲求になり、探求心を呼び起こされ、主イエスへの畏敬となり、キリスト告白に至る。主イエスが10節で「『水を飲ませてくれ』と言った者が誰であるか知っていたならば」と言われた言葉をめぐって、この女の認識が進展して行くのである。
この変化を辿ることは興味ある読み方であると思うが、主イエスがご自身を示される示し方を追って行く方が、ズッと意味のある読み方になるであろう。彼は先ず、一杯の水を乞う疲れた哀れな旅人である。ユダヤからガリラヤに急いで通り抜けようとする行きずりのユダヤ人であることは見ただけで分かる。だから、サマリヤの女には敵意とは言わぬとしても、冷酷さの対象にしかならなかった。
これは表面的な見方であろうか。そうではない。みすぼらしい行きずりの旅人と見えたのは仮の姿であった、あるいはこの女は主イエスの尊厳さを見損なったのだと解釈するならば、この記録は単なるお話しである。これでは、聞く我々を衝き動かし、人生を作り変える出来事は起こらない。彼は、事実、終わりまで、みすぼらしい姿でおられたのである。「われ渇く」と言われる方との出会いであったからこそ、ここには意味ある出会い、救いの出来事が起こった。それが我々においても起こらなければならない。主イエスが別の機会に語りたもうた「善きサマリヤ人」の寓話をここで思い浮かべることが有意義である。「誰が強盗に襲われて半死半生になった人の隣り人になったのか?」。隣り人になったのは、共同体の内側の人ではなく、よもやこの人が隣り人であるとは誰も思わなかったような、無縁の行きずりのサマリヤ人であった。その物語りを裏返しにしたような形で、今度は、無縁のユダヤ人が真の隣り人としてサマリヤ人の中を通り過ぎて行かれる。しかし、最も無縁であると見えるこのユダヤ人が、彼らにとって最も大切な人になった。
主イエスがなぜここで通り過ぎてしまわないで、一人の女と対話なさったのか。それはこの女が問題のある生き方をしていた罪人であり、その結果町の人々から疎外されて、孤独であり、一人で水を汲みに来なければならないような人だったからであるということは容易に分かる。それを主イエスは見抜いておられたから、他の誰とでもなく、この女と語りたもうた。
これは確かに大事な点であるが、もっと単純に見て行くならば、主イエスが渇いておられたから、声を掛けて水を一杯所望したもうたことから話しが起こされる。もし渇いておられなかったなら、この出会いは起こらなかった。この点を見落としてはならない。次に、「水を飲ませてくれと言った者が誰であるかを知っていたならば、あなたの方から願い出ることになるのだ」という言葉によって、女に「このようなことを言うこの人は一体誰なのか」という疑問を起こさせ、「ヤコブより偉い人なのか」と探求させ、彼女の関心を引きつけ、かつ高め、引き上げたもう。女はいよいよ引きつけられて、「誰なのか」、「誰なのか」という問い掛けのレヴェルを高めて行き、主イエスも答えのレヴェルを高めて行かれ、ついに「あなたと話しをしているこの私がキリストである」と宣言され、「誰なのか」という疑問は解決するに至る。我々にとっても、キリストは誰なのかの追求が必要である。
主イエスが「生ける水」という言葉を語りたもうた当初、彼女の考えは「生ける水」の本質にまで思い至ることが全く出来なかった。前回も触れて置いたが、「生ける水」という言葉は、「汲み立ての水」とか、「流れる水」という意味で普通使われたらしいので、そういう意味に取ってしまったのではないかと思われる。だが、主はヤコブの井戸の水のこと、また全て地上にある水のことを「生ける水」とは呼んでおられない。この井戸の水のことは、13節にあるように、ただ「この水」と言われるのである。飲んでもまた渇く水は「生ける水」ではない。水そのものの中には命がないからである。この女は精神的なことに極めて疎い、無知・無教養な女であって、ニコデモと違って、相手を尊敬することも知らない。「生ける水」は信ずる者に主イエスの与えたもう御霊のことであるのに、それが少しも分かっていず、この井戸、あるいは他の井戸から汲んだ汲み立ての水のことだとしか考えていないようである。「あなたは汲むものを持たないではないか」。「井戸は深いのだ」。また、彼女は「あなたは先祖ヤコブよりも偉いのか」と問いを起こす。そんなに偉くもなさそうだ、という含みで語っているように思われる。ヤコブの掘ったこの井戸より良い井戸を掘って、飲ませてくれるとでも言うのか。そんなこと、出来るはずがないではないか。――そこまでハッキリ決めつけたのでないとしても、イエスはどこかから水を汲んで与えてくれる人くらいにしか考えていない。彼が源泉からの汲み手ではなく、源泉そのものであることを考えようともしない点で、彼女は根本的に間違っていたのである。7章37節で読むことが出来るように、「誰でも渇く者は、私の所に来て飲むが良い」という主の御言葉がある。「私があなたがたのために泉から水を汲んで来て飲ませて上げるから、私のこところに来なさい」と言われるのではない、という点に注意しよう。「私から飲め」と言われるのである。言葉を換えて言えば、彼を通じて真理の源泉に導かれるのではなく、真理の源泉そのものである彼から、真理を受けよと言われるのである。またニコデモの場合に戻って、それとの違いを考えて見たい。ニコデモは熱心な真理探究者であり、当代の最高の律法学者であった。それが、イエスから教えを聞くことによって、さらに高く真理に向かって行こうと願った。彼は主イエスを神から来られた優れた先生であると認めて、尊敬しており、その教えを聞こうと求めて近付いて来た。しかし、主イエスが神そのものであることには思い及ばなかったし、また認めようとしなかった。だから、「新しく生まれなければ神の国を見ることが出来ない」と教えられても、その新しい命を、目の前におられる御方から受けることが出来るとも思わず、またそれを願いもしないから、自分が生まれ変わることについては全く否定的であった。サマリヤの女は自分の立場に固執せず、間違った立場をドンドン捨てて行く。「あなたは、この井戸を下さった私たちの父ヤコブよりも偉い方なのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。――彼女はヤコブの井戸の水と、主イエスの与える命の水との比較を、ヤコブとイエスとの比較に置き換えて、主イエスの人物を計ろうとする。
イエスがヤコブよりも偉大であることは言うまでもない。ヤコブはイスラエルの12支族の先祖として偉大であるが、それだけである。この女は19節で「主よ、私はあなたを預言者と見ます」と言った時、預言者としてヤコブより偉大であると捉えたらしく思われる。それまでは主イエスを少しも偉いとは考えていなかったらしい。
彼女の発想は、人類が一般に持つ生命、すなわち、先祖から子孫に伝統と結び付いて受け継がれる民族的・血統的・肉体的な生命、また日々水を飲むことによって支えられ・養われる生理的な生命、この二つが綜合されて、先祖の掘って置いてくれた井戸に象徴されると捉えるものである。「この井戸は何千年にも亘ってヤコブの子孫のみか、家畜をも生かし養って来たのです。ヤコブは謂わば私たちの命の源です。あなたはそれよりも優れた水を与えると言うのですか。あなたはこの水を与えたヤコブよりも偉大だと自分で思っているのですか」。
主はそれに答えたもう。「この水を飲む者は誰でも、また渇くであろう。しかし、私が与える水を飲む者は、いつまでも、渇くことがないばかりか、私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、湧き上がるであろう」。渇くからまた飲む。そして渇きは癒される。しかし時がたてばまた渇く。そしてまた飲む。では、その繰り返しを無限に続けるのか。そうではない。水が命を支えることは一面その通りであるが、その命の尽きる日が来ると、水があっても飲むことは出来ない。ここに肉体的な命の限界、すなわち死があること、また命を永遠に持続させることが出来ない、自然的・物理的な水の力の限界を見なければならない。
注意したいが、限界の中にある地上の水には意味がないと言われるのでは決してない。「渇いている者に一杯の水を与える者は、大いなる報いを受けるのだ」と彼は教えておられる。「この水を飲んでもまた渇くのであるから、飲んでも飲まなくても変わりがないではないか」と言って、渇いている者に水を与えないことは赦されない。また、地上の井戸の水、それに養われる地上の命にはそれなりの意義がある。やがて死ぬ命であるから、意義を追求する生き方をしなくても良いのだ、と言う人がいるならば、その軽はずみな生き方には永遠の罰がある。やがて失せる命ではあっても、一日一日、一生懸命に生きなければならないのは当然である。しかし、その命に限界があることを忘れてはならない。限界を忘れると、一日の命に固執することによって、永遠の命を失うことになる。
主イエスはここで、ヤコブが与えてくれたこの井戸の水と、その水によって養われる命を結び付け、一方、ご自身の与える生ける水と、その水によって持続される永遠の命とを結び付けて、両者を対比させておられる。どちらも大事なのだと解釈して間違いではないが、今ここでは、そういう抽象論を扱うのではない。キリストでなければ与えることの出来ない水のことをひたすら考えよう。
この女は毎日ここに水を汲みに来て、その水がなければ生きて行けないことをよく承知している。しかし、それ以上の水については、かつて考えたことも・教えられたこともなかった。だから、物質的なことしか考えられない愚かな女だと言えるかも知れない。
それでも、彼女はこの井戸を、先祖ヤコブの残してくれた井戸として把握していた。創世記48章16節にヤコブがヨセフの子ら、すなわちサマリヤ人の祖先に与えた祝福が記される。「わが先祖アブラハムとイサクの仕えた神、生まれてから今日まで私を養われた神、全ての禍いから私を贖われた御使いよ、この子供たちを祝福して下さい。また、わが名と、先祖アブラハムとイサクの名とが、彼らによって唱えられますように」。この言葉をスカルの女は、断片としてかも知れないが、とにかく憶えていた。
主イエスが言われた「この水を飲む者は誰でもまた渇くであろう。しかし、私が与える水は、云々」との御言葉は、地上にあるあらゆる水に当て嵌めることが出来る。けれども、水のある所どこでも、主とこの女との対話のような対話が始まるわけではない。我々はヤコブの井戸と関わりなしに生きて来たのであるから、ヤコブの残してくれた井戸、与えてくれた水については、考えなくて良いだろう。日常生活の中で使っている水と、永遠の生命に至る水との比較に直ちに進んで良い。ただ、このスカルの女は、先祖ヤコブとの関わりを考えないではおられなかった。そこにこの出来事の特殊性がある。すなわち、ヤコブの約束の成就、失われたイスラエルの回復、さらに具体的に言えば、ユダヤ人から蔑まれたサマリヤ人の救いという意味がこめられているのである。サマリヤ人にとって、ヤコブは大切な人であった。しかし、ヤコブも死に、ヤコブの命を継ぐ者も、ヤコブの水で養われた人も死ぬ。この水で生きていた家畜も死んだ。それに比し「私が与える水を飲む者は死なない」と主は言われる。「私が与える」という言葉に決定的な意味がある。「ヤコブでなく私が」という意味を読み取って置きたい。世界の全ての民族に見られるが、不死への憧れがあり、死ななくて済む薬を探し求めて長い旅に出る人がいる。この件について今これ以上論じることは、時間を費やすだけの議論になるので、今はしないが、人々の求める不死の薬は、飲めば永遠に生きるというものであった。ところが、キリストの与える水は、消費される水、飲めばなくなってしまう水でなく、飲めば、その人の内で湧き上がる泉になるという点について学んでおく。
永遠の生命とは単にいつまでも死なないというだけのことではない。命が時間的に長いだけでなく、中身の充実した生であり、生命の再生産でなくては祝福にならない。人類は不死を獲得したとは決して言えないが、昔と比べると驚くほど寿命が延びた。だが、長く延びた人生を充実し切れないことが新しい恐怖になっている。生ける水を一度飲んで、それで目的達成というのではなく、自分自身のうちに泉を湧き出させなければならないのだ。めいめいが命の泉を持たなければならない。いや、キリストがそうであられるように、我々一人一人が泉にならなければならない。キリストの恵みとはそういうものである。
「永遠の命」については、これまで3章16節、36節で学んだし、これがヨハネ伝だけの教えるものではないが、ヨハネ伝の特徴ある言葉であることは広く知られている。これからも永遠の生命に与ることについては繰り返し学ぶ機会がある。飲んでもまた渇く水の養う命は一時的であるが、キリストの与える水の齎す命は永遠である。これは「イエスを信ずる人の受ける御霊」を指したものであるということは、前回も触れたように、7章39節に書かれている。これの詳しい解説は7章を学ぶときまで待つことにしよう。
そのことがまだ理解されないので、女は汲みに来る労が省けることを喜んで、その水を是非欲しいと願ったのである。これを肉的欲望と蔑み見ることには殆ど意味がない。愚かな求めであるが、ここには永遠への手掛かりがあった。「主よ、私が渇くことがなく、またここに汲みに来なくても良いように、その水を私に下さい」。
この求めに対して、主は「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れて来なさい」と答えられた。ここからまた新しい主題が発展するのであるが、主がことさらに勿体をつけて語りたもうたのではないし、この女の生活の裏も表も知っておられることを示すために、わざわざ夫のことに触れたと取るのも不自然ではないかと思われる。
ここでは、素朴に、イエス・キリストの福音が、夫婦揃って聞くべきものであるという基本的姿勢を教えておられると見るべきである。夫だけ、あるいは妻だけが、永遠の命に至る言葉を聞いているということで満足出来るのか、それで良しとする姿勢で御言葉が本当に聞けているのか、ということを考えなければならない。Iペテロ3章の7節には「命の恵みをともどもに受け継ぐ者」という言葉があるが、命というのは永遠の命のことである。永遠の生命を一緒に継承するのが夫婦関係の中枢なのである。夫婦がそれぞれ別の仕事をしたり、それぞれ別の食べ物を食べるということはあって良いかも知れない。しかし、永遠の命に至る水は一緒に飲むべきである。そうでなければ、夫婦の誓いというものは、世俗の次元におけるだけになってしまう。
さて、主イエス・キリストはサマリヤの人たちに生ける水を与えたもうたのであろうか。この後にスカルの人々が信じるようになったことは書かれているが、水を与えたとも、バプテスマを施されたとも書いていない。本当に与えたもうたのか。確かに与えたもうたのである。どういう形でか。それはご自身を与えるという形においてである。キリストを与えられた者はキリストから飲み、キリストから食し、永遠の命に至る泉を自分自身の中に持つのである。


目次へ