◆Back Number2000.02.20◆

ヨハネ伝講解説教 第34回 ――4:7-10によって――

 ヨハネ伝にはイエス・キリストと女の人との出会いの記事が幾つかあり、いずれも我々の心に感銘を焼き付けている。8章に、姦淫を犯して衆目の前に引き出された女との出会いがある。罪の赦しの恵みを実に鮮やかに示す出来事であった。11章で、ラザロの復活に先立って、主は先ずラザロの姉妹マルタと会い、次にマリヤと会った上で、死人を墓から呼び起こしたもう。死人の甦りの真理が、ご自身の復活に先立って、マルタとマリヤに、言葉と事実をもって示された。
 20章で、主ご自身の復活に際しては、かつて7つの悪霊に取り憑かれていたマグダラのマリヤに先ず顕現したもうた。そして、この事実を弟子たちに伝えよと命じたもう。――これらの個所がヨハネ伝という山脈の主峰群を構成する記事に属することは、我々がすでに知っている。
 そのように、今、4章では、無名のサマリヤ女に極めて重要な啓示が与えられる。女性が下積みにされていた時代であるから、キリストがことさらに男性を差し置いて女性を重んじたもうたと見る見方は、十分強調するに価すると思う。だが、結局、我々は男女の区別は意識せずに、事柄そのものを見るべきである。まことに、今日与えられる御言葉から、我々の思いはガラテヤ書3章28節の「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つである」との聖句へと纏まって行くことになる。
 これまで、ヨハネ伝で主イエスと誰かが出会った場面を思い起こす。バプテスマのヨハネとの出会いは勿論非常に大事なものであった。これがなければ福音の歴史の幕開けはなかった。しかし、ヨハネとの出会いの絶大な意義は分かるとしても、その出会いそのものについては、多くを示されていない。
 次に、かつてヨハネの弟子であって、ヨハネに促されてキリストの弟子になった者らとの出会い。これも重要である。「イエスは振り向き、彼らがついて来るのを見て言われた。『何か願いがあるのか』。彼らは言った、『ラビ、どこにお泊まりなのですか』。イエスは彼らに言われた、『来て御覧なさい。そうしたら分かるだろう』」。――実に印象的な問答が記録されているが、言葉数は僅かしかない。キリストと出会うとは、彼に従って行く人生の転換だと教えられる。しかし、キリストとの出会いそのものから聞き取ることは余りなかった。
 ニコデモとの出会いにも深い意味があって、我々はさまざまなことをここから考えさせられる。しかし、考える材料は提供されるとしても、直接に我々の応答を引き出すような分かりやすい御言葉はそこにはなかった。
 サマリヤ女との出会いの中で、主は多くの内容を語っておられ、その語りたもう御言葉は、分かりやすいし、福音の伝達としては一面的ではなくて包括的であり、しかも我々の応答を促さないではおかないものがある。
 さて、昼の12時頃、主イエスは疲れ果てて井戸の傍らに休んでおられた。弟子たちは町まで食物を買いに行く体力を持っていたが、主イエスは疲れ切っていた。そこにサマリヤ女が登場する。
 これだけでも、大袈裟に言えば、異常な事態である。通常、女たちは朝と夕方に時刻をきめて水を汲みに井戸に集まった。それは女同士のコミュニケーションの機会であり、また水を濫費する者がないように監視しあう。水汲みの時以外は水が溜まる時間である。時間外に汲みに来る人がいると、必要な時に水量が足りなくなるかも知れない。特に水の乏しい地帯では、創世記29章にあるハランのように、井戸には権利者以外が利用出来ないように、重い蓋がしてあって、何人もの力で蓋を取り除けねばならない。スカルの井戸はそれほどは厳しく管理されていなかったらしいが、それでも、部外者は汲むことが出来ないようになっていたらしい事情が11節の女の言葉から窺える。「あなたは汲む物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです」。つるべがあったに違いないが、通りすがりの旅人にはそれが利用出来なかったということであろうか。もっとも、誰でも釣瓶を使うことが出来るが、ユダヤ人はサマリヤ人の使う道具を汚れているとして、それでは水を飲まないという意味かも知れない。
 今日は7節から学んで行こう。「一人のサマリヤの女が水を汲みに来たので、イエスはこの女に、『水を飲ませて下さい』と言われた」。
 一人の女が時間外に水を汲みに来た。彼女は汲むことを禁じられてはいないが、人々とは違う時間帯にここに来る。つまり、水を汲む権利は取り上げられなかったが、町の女たちの交わりには入れて貰えない。乃至は、彼女の側で人との交わりを避ける。それは間もなく明らかになる彼女の異常な生活の故に、人々から嫌われ、蔑まれ、彼女自身も人と交際することを疎ましく感じていたからである。
 つまり孤独なのである。この女のように孤独で屈折した思いを持つ人がこの世界に一杯いるということに思いを馳せないではおられない。しかし、現代人の孤独、相互不信、交わりの断絶について言うことは沢山あるが、そこに焦点を絞って、人々に呼び掛け、現代人の悩みに対する解決があると宣伝することは避けておく。それよりは主イエスご自身も孤独であられた点に強調点を置く方が重要ではないか。
 「弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである」という8節の言葉は、この一団が空腹であった状況の説明なのだが、誰か一人が財布を預かって買いに行けば済むのに、弟子たちが皆出払っていたという点に注目しなければならない。どうして弟子たちが皆出掛けたのか。主が彼らを皆行かせたもうたからではないであろうか。主イエスは一人になろうとしておられる。
 前回、昼の12時、主イエスが渇いておられた情景を考えることから、我々の思いはゴルゴタの丘のキリストへと向かわざるを得なかった。今度も、弟子たちが散ってしまい、キリスト一人取り残された聖金曜日の十字架のキリストを思い起こさずにおられないではないか。そのように、取り巻く人も、かしづく人もないキリストが、今、サマリヤ女と出会いたもうたのである。我々がキリストと出会う場合もそうであるということを悟らねばならない。群衆や弟子に囲まれているイエスに会っただけでは足りないのである。
 キリストもまた孤独であられたということが、孤独な人間に心を開かせる機縁になる事情を考えねばならないのは確かであるが、キリストの孤独と人間の孤独とを結び付けて、独り合点するのは、たいして意味がないのではないか。大事なのは、彼しか目に入らないということである。彼一人を見詰めるほかなく、他の人に目を向けないことである。
 キリストへと手引きする人がいてはならないというわけではない。しかし、最後には手引きする人の手を離れて、めいめい一人になりきって、直接にキリストの前に立たなければならない。私のことをキリストに執り成してくれる人はいない。彼ご自身が我々のための唯一人の執り成し手である。この方に全てが見透かされていることを女は間もなく知る。彼は単に執り成しをして下さるだけではないことを我々も弁えよう。
 この方が「水を飲ませて下さい」と言われたことで、この女がひどく驚いた様子が、9節に描かれている。ユダヤ人がサマリヤ人に語りかけることがそもそもなかったのである。時々流血事件が起こるほど、仲は悪かった。それであるのに、ここで主イエスが水を求めたもうたのは何故か。第一に、彼が本当に渇いておられた事実を考えねばならない。それは十字架の上で「われ渇く」と言われたことへと我々の思いを向けさせる。キリストの苦難をここに読み取って置きたい。
 第二に、関係のない者に対するキリストからの関係付けである。女は疲れて休んでいるユダヤ人に全く無関心であったが、彼の方から接近して来られる。こちらからは知ろうとしないのに、彼の方から知られるという構造が、一般的であることを我々は知っているであろう。
 この呼び掛けに対し、拒否反応が返ってきた。「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女の私に、飲ませてくれと仰っしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していないからである、と注釈される。あなたとは無関係なのだという意味である。あなたがどんなに喉が渇いていても、私の知ったことではない、と言うのである。
 サマリヤ人という名を聞くだけで、我々はルカ伝にある善きサマリヤ人の物語を思い起こさずにおられないが、ユダヤ人の中のユダヤ人とされる祭司やレビ人でなく、ユダヤ人からは全く疎外されていたサマリヤ人こそが「己れ自身を愛するように隣人を愛する」という戒めを実践していた。疎外され、踏みつけられていた人が癒し手になるという意味がここにある。では、サマリヤ人の中のサマリヤ人と言うべき疎外されたスカルの女は、疲れ果てて水を飲みたがっている旅人に水一杯を与えるのは当然ではないか。確かにそうでなければならない。しかし、そうでないこともある。
 創世記24章に、アブラハムの僕が、暮れ方、娘たちの水汲みの時刻にアラム・ナハライムに着いた記事が出ている。僕が一人の娘に「お願いです、あなたの水甕を傾けて、私に飲ませて下さい」と言うと、娘は「お飲み下さい。あなたの駱駝にも飲ませましょう」と答えてくれた。求められる以上に親切であった。これは神の選び置かれた器に備わっていた美徳を語る物語りではあるが、旅人への思い遣りは古代人が一般的に持っていた美徳である。しかし、このサマリヤ女にはその美徳はなかった。まるで現代人のように、他者に対して無関心かつ冷淡であった。
 ユダヤ人とサマリヤ人の断絶について少し説明しておいた方が良いであろう。II列王紀17章に詳しい経緯が書かれているが、北王国は紀元前721年にアッスリヤに滅ぼされ、住民はアッスリヤに移され、アッスリヤ王は、バビロン、クタ、アワ、ハマテ、セパルワイムから人々を連れて来て、サマリヤの町々に住まわせた。ところが、新しい住民に次々禍いが起こるので、人々はこの地の神の掟を知らないための禍いであると考え、アッスリヤ王に願って、この地から連れ去られたイスラエルの祭司を連れ戻して、どのように主を敬うべきかを教えさせるようにした。
 このように一応イスラエルの先祖の宗教がサマリヤ人にも受け継がれたが、実際は、彼らはもといた国の神々を持ち込み、宗教的混乱はひどくなり、名目的には主を礼拝するが、実質は偶像礼拝であったとII列王17章は書いている。  ユダヤ人の側に偏見があったことは否定出来ない。王国が南と北に分裂した時から、北王国はエルサレムに依存しない宗教制度を持つようになり、その時から宗教的反目が始まった。他国から人を連れて来て住民を入れ替えたというのは嘘ではないが、ユダの側から見た誇張がある。
 サマリヤのユダヤ教は、エルサレムのユダヤ教と全く没交渉であるが、基本的に同じアブラハムの宗教、聖書の宗教である。聖書本文も細かい字句の違いを別として同じものが伝えられていた。イエス・キリストはこの間の事情を良く見ておられたようである。だから、サマリヤ人に同情的であった。善きサマリヤ人の寓話は意図的にサマリヤ人を主人公として登場させる。また、ルカ伝17章11節以下にある10人のらい病人との出会いの記事で、癒された10人のうち、神を誉め称えるために戻って来たのは一人のサマリヤ人であったという事件もある。8章48節で、ユダヤ人が主イエスに「あなたはサマリヤ人で、悪霊に取り憑かれている」と罵っているが、主がサマリヤ人に好意的であられることに反感を持ったのかも知れない。
 ところが、ユダヤ人とサマリヤ人の間にあった断絶が、使徒行伝ではキレイに消え失せているのが見られる。キリストの福音はそれまであった確執を克服させたのである。ヨハネ伝10章16節に、「私にはまた、この囲いにいない他の羊がある。私は彼らをも導かねばならない。彼らも私の声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろう」と記されている。この御言葉は世界教会の一致を言われたものと解釈されることが多いと思うが、イスラエルの失われた種族、すなわちサマリヤ人を神の民として回復させ、再統合すると語っておられたと見ても少しも支障はない。
 そのように、サマリヤの女への語り掛けは、失われたご自身の民への働き掛けである。それが一人の人への語り掛けに始まった点に注目しよう。サマリヤ人の集団改宗というべき事件がこの後起こるが、主の御業は一人から始まる。つねにそうである。
 10節、イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また『水を飲ませてくれ』と言った者が、誰であるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。  私は今あなたに水を乞うているが、立場が逆転して、あなたの方から生ける水を乞い求めねばならないことにあなたは気付くのだ、と言っておられるのである。
 「神の賜物」とは何を指すのであろうか。神の賜物は律法であるという理解がユダヤ教のラビの間では有力であった。しかし、この10節の内容から判断して、神の賜物と「生ける水」は同じものを指すと単純に考えれば良いと思う。さらに踏み込んで、神の賜物とはキリストそのものであると見ることも出来なくない。しかし、キリストを神からの賜物と取るよりは賜物を与えるお方とした方が良いであろう。
 「生ける水」という言葉は本来は流れている水や、泉から汲み立ての水を指すものであったらしい。しかし、生かす水、命を与える水という意味で広く用いられていた。旧約にすでに多くの例がある。エレミヤ書2章13節「私の民は二つの悪しき事を行なった。すなわち、生ける水の源である私を捨てて、自分で水溜めを掘った」。ゼカリヤ書14章8節、「その日には、生ける水がエルサレムから流れ出る」。エゼキエル書47章には、生ける水という言葉は使っていないが、ゼカリヤの言ったのと同じ意味で、再建されたエルサレム神殿の敷居の下から水が湧き出るさまが語られる。これらの預言の実現はすぐ次に14節で、「私が与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがないばかりか、私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き上がる」と言われる。そしてヨハネ伝7章37節以下で繰り返される、「誰でも渇く者は私の所に来て飲むが良い。私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。福音書記者はこれを註解して、「これはイエスを信じる人々が受けようとしている御霊を指して言われたのである」と書いている。
 もう一個所ヨハネ伝で見て置きたいのは、19章34節である。「一人の兵卒が槍でその脇を突き刺すと、すぐ血と水とが流れ出した。それを見た者が証しをした。そして、その証しは真実である」。生ける水、命の水は、キリストから来るのであるが、十字架のキリストから来ると証しされている点が重要である。
 7章で、生ける水とは主イエスの与えたもう聖霊であると言うのであるから、これ以上探求する必要はないが、旧約時代から生ける水という言葉と、水を用いる象徴的儀式は多かったので、水が何を表わすかは、多くの人によって論じられ、知恵だと言う人もおり、御言葉だと言う人もいた。それらの解釈にもそれぞれ考うべき点がある。
 大切なのは、水が何かを探求するだけでなく、我々がすでに生ける水を受けていると確認することである。すなわち、バプテスマの水は、洗い浄めを象徴すると共に、生かす水がすでに与えられていることを示している。


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