◆Back Number2000.02.13.◆

ヨハネ伝講解説教 第33回 ――4:1-6によって――

 ヨハネ伝4章は、これまでの章と非常に違って、主イエスとその周辺を十分に生き生きと描き出す。例えば、3章と比べて見よう。当代随一の律法学者ニコデモが登場し、夜主イエスを訪ねて来て対話する。主イエスは彼に深遠な答えをされる。これはヨハネ伝の特徴的な場面であるが、その情景を描いてみようとしても、材料が余りにも少なすぎる。闇の中から対話が聞こえて来るだけである。また例えば、2章のカナの婚宴と比べて見よう。主が「最初のしるしを行なって、弟子たちが信じた」と書かれていて、それはその通り大いに重要な出来事であるが、婚礼の花婿が誰なのか、どういう情景であったのか、全く分からない。
 ところが、4章の場面はよく分かるのである。場所がハッキリしている。サマリヤのスカルである。この福音書記者はサマリヤのスカルのあたりで伝道に従事したことがあるのではないかと思われるが、読む人もその場所のたたずまいを捉えることが出来るであろう。スカルと書かれているのは何かの間違いでそうなったのであり、旧約聖書に出て来る名はシケムであると一般に言われる。これには異論もあるが、シケムとスカルが別であったとしても、そう遠くは隔たっていない。20節に「この山」と言われているが、これは間違いなくゲリジム山を指している。スカルに行ったことはない人でも、地理を調べれば、南西にゲリジム山があり、北西にエバル山が見える眺めの所で、主イエスが語られたということが分かる。ユダからガリラヤに行く道が井戸のそばを南北に走り、井戸の所から道は分かれて町に至るようになっていたのであろう。
 そこに泉あるいは井戸があった。ヤコブがここに井戸を掘ったという記録はないが、ここに住んだなら当然井戸を掘らなければならなかった。自然の湧き水ではなく、人が掘ったものであるから、泉というよりは井戸と言う方が正しいであろう。深く掘った井戸であって、30メートル以上の深さがある。この井戸は涸れもせず、今日も残っているそうである。だから主イエスがサマリヤの女と出会いたもうた場所を正確に特定することが出来る。
 井戸のそばでの出会いは、旧約聖書にしばしば現われる美しい情景である。例えば、創世記24章で、アブラハムの僕が主人の命令によってイサクの妻となるべき人をパダンアラムに探しに行って井戸のほとりでリベカに会う。創世記28章では、イサクの息子ヤコブも妻を探して同じ井戸のほとりでラケルに会う。また出エジプト記2章で、エジプトを逃れたモーセはミデヤンの地に来て、祭司リウエルの娘たちと井戸のほとりで出会う。いずれも旅人がこの地の女と出会う。
 時は昼である。主は疲れておられたし、空腹であられた。弟子たちが町に食物を買いに行く間ここで待っていて、食事が済めば旅を続けることになっていたのであろう。また彼は渇きを覚えたもうた。ヨハネ伝19章28節で、主イエスは十字架の上で「私は渇く」と言われたことは、全く無関係な事件かも知れないが、我々はそれを思い起こさずにおられない。それは暑い季節であった。過ぎ越しの祭りにはエルサレムにおられ、その後しばらくユダヤに滞在してバプテスマを授けておられ、それから北上されたのであるから、夏の初め、もしくは真夏であったであろう。真夏の昼のギラギラ照りつける暑さを感じながら情景を偲ぶのである。
 ここに一人のサマリヤの女が登場する。名前こそ分からないが、彼女がどういう暮らしをしていたか、何を考えていたかは会話の中でハッキリ浮かび上がって来る。想像を交えなくても、その場面を復元できる。
 さらに歴史を調べれば、この場面はもっと意味深いものになる。第一にアブラハムのことを思い起こさなければならない。創世記12章6節に、「アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた」と書かれている。その前からシケムの町はあった。原住民のシケムの聖所もあった。ここで主はアブラハムに現われたもうた。アブラハムはここを最初の聖なる地として、祭壇を築いた。
 創世記33章18節によれば、ヤコブはパダンアラムからカナンの地に戻って来て、シケルの町の前に天幕を張った。そして、天幕を張った場所をシケムの父ハモルから買い取って、そこに祭壇を建てて、これを「エル・エロヘ・イスラエル」と名付けた。「神、イスラエルの神」という意味である。これは由緒ある地である。出エジプトの民がエジプトから携えて来たヨセフの骨はヨシュア記24章32節によればこのシケムに葬られた。
5節に「ヤコブがその子ヨセフに与えた地」と書かれているが、ヨセフの地であるからヨセフの骨を葬ったのである。ヨセフの子マナセの子孫がここを領有した。
 ヨシュア記24章によると、ヨシュアは嗣業の土地の分割が終わった後、イスラエルの全ての部族をシケムに集め、重要な説教をし契約を立てさせ、契約のしるしに大きな石を取って、聖所にある樫の木のしたに立てた。そういうことがあったから、イスラエルの聖所の一つとして重んじられ、イスラエル王国がユダ王国から別れたとき、ここが北王国の王ヤラベアムの住まいとなったことが列王紀上12章25節に書かれている。
 また、シケムは逃れの町の一つとされていることがヨシュア記20章7節によって知られる。この由緒ある地に主イエスが来たりたもうたのは偶然ではない。  歴史を遡るだけでなく、歴史を下って来ると、使徒行伝8章5節以下に、ピリポによるサマリヤ伝道のことが書かれている。多くの人が信じた。サマリヤはエルサレムと並ぶキリスト教の中心地となるのである。主イエスによるサマリヤ伝道は、後日ピリポによってなされるサマリヤ伝道の準備であったと見てよいであろう。
 何よりも大事なことに、ここでイエス・キリストは、これまでに語りたもうたよりも、いっそう明瞭に福音を語りたもうた。むしろ、ご自身がキリストであることをこの上なくハッキリお示しになった。その頂点は25節、26節である。「女はイエスに言った『私はキリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られたならば、私たちに一切のことを知らせて下さるでしょう』。イエスは女に言われた、『あなたと話しをしているこの私がそれである』」。
 さらに見なければならないのは、主イエスがご自身を明らかにしたもうただけでなく、主がそうなさったことに対する人々の反応があった点である。スカルの人々は42節に言う、「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救い主であることが分かったからである」。
 これはヨハネ伝で読むことの出来る最初のキリスト告白ではないだろうか。バプテスマのヨハネはナザレのイエスが何者であるかを知って告白したが、これは使命としてそれを把握していたことであって、イエス・キリストの宣教に対する応答としてではない。最初のキリスト告白と言ったが、この後に人々の告白が陸続と続いたわけでは必ずしもない。ユダヤにおいてはもとより、ガリラヤにおいても、やや好意的な物見高い群衆はいたが、告白する群れは成立しなかった。もっとも、サマリヤにおいても、人々がキチンと信じたのかどうか、疑わしいではないかと言われるであろう。確かに、ここでキリストを信ずる共同体が成り立ったとは矢張り言えない。
 マタイ伝10章5節によると主イエスは弟子たちを全国伝道に遣わす時、「異邦人の道に行くな。また、サマリヤ人の町に入るな」と言っておられる。サマリヤを宣教の地から除外しておられる。また、ルカ伝9章51節以下にサマリヤ人が主イエスを拒否した事件が記されている。しかし、サマリヤに早い時期にキリスト教会が出来たという事実を我々は使徒行伝8章によって知っているのである。ヨハネ伝4章のサマリヤ伝道は後日のサマリヤ伝道の準備であった。
 サマリヤにおいてそれほどの重要な出来事が起こるとはどういう意味か。それは第一に、旧約の預言の中にしばしば繰り返し約束されたイスラエルの回復の成就でなくて何であろう。イスラエル王国はユダに先立って滅びた。そこにいた支族は異邦人との混血によって消えてしまった。ユダのように、滅ぼされてもなお国を再建しようと思う人がいたならとにかく、そういう人はいなかった。それでも、神は再建の約束をイエス・キリストによって果たしたもうた。  ユダヤ人はサマリヤ人を異邦人と同列に扱っていた。それはかなり偏見のある見方なのである。今日、サマリヤの宗教について、いろいろな点が明らかになって来ているが、サマリヤにも旧約の宗教の枝分かれしたものが生きていた。サマリヤ人の間にも聖書が受け継がれていた。イエス・キリストはサマリヤ人を異邦人のように見る偏見を訂正させようとしておられる。その代表的なのがルカ伝10章にある善きサマリヤ人の寓話である。サマリヤ人の方がユダヤの祭司よりも律法に忠実であったことを示しておられる。そして、ヨハネ伝4章35節で「私はキリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています」という信仰告白を彼女から引き出しておられる。これは旧約聖書の信仰の神髄でなくて何であろうか。
 さらに、第二に、ユダヤとガリラヤを差し置いて、サマリヤが信仰告白の成り立った地とされているところに、神の驚くべき御業を見なければならないのである。
 「立っていると思う者は倒れぬように心せよ」とパウロはIコリント10章12節で言う。主イエスはヨハネ伝9章41節で、「もし、あなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、いま、あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と言われた。
 さて、4章の初めから見て行くが、先ず1節から3節までにこう書かれている。「イエスがヨハネよりも多く弟子を作り、またバプテスマを授けておられるということをパリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、(しかし、イエス自らがバプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった)ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた」。
 2節は括弧の中に入れられているが、初めから括弧付で書かれたのではない。この部分は挿入であろうと見做されて、括弧がついた。福音書記者自身が後で書き足したのかも知れないし、他の人の筆になるのかも知れない。
 ユダヤを去られた事情の説明である。パリサイ人はヨハネに対しても好意的ではなかった。その事情は1章19節以下で読んだ通りである。それでも、パリサイ人はヨハネに敵対はしなかった。ヨハネの次にナザレのイエスが現われて、バプテスマを授け、ヨハネのところに行く人よりもっと多くの人がイエスからバプテスマを受けていることに、パリサイ人は不快感を募らせた。殺意を抱いたのではないかと言う人もいる。そうかも知れない。ナザレのイエスはエルサレムで宮潔めをして、ユダヤ教の体制と真っ向から衝突されたからである。
 しかし、5章18節に「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった」とあるので、イエスを殺そうという意志決定はもう少し後であったと見た方がよいのではないか。思うに、主イエスは徒党と徒党の争いを好みたまわなかった。ヨハネ派とイエス派が拮抗すると見て、どちらの集団が大きくなるか、というふうに興味本位で見られては真理から離れてしまう。また、弟子の数を増やしてパリサイ派と党派争いをすることを主は嫌悪したもうたのである。
 どの世界にも、多くの人を集めた方に真理があるという固定観念がある。どの宗教にもこの考えがあって、自らの正統性を示すために人をより多く集めようとする。ヨハネは、自分のところに来る人よりもナザレのイエスのもとに行く人の方が多いと聞いた時、それは当然のことと納得し、喜んだ。「彼は必ず栄え、私は衰える」。
 ヨハネがイエスのもとに多くの人の集まることを真理の証しと見ようとしたことは誤りとは言えないであろう。しかし、数で判断することは間違いである。悪魔は数を動員することが出来る。主ご自身は、ヨハネの集団よりも大きい群れが出来ているのに、それを離れて去って行かれるのである。
 では、ガリラヤに行かれた理由は何か。そのことは44、45節で明らかになる。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」。その個所になってからまた解き明かすが、この御言葉については注釈を必要とする。この言葉は他の福音書ではナザレについて語られたものとされる。しかし、ヨハネ伝では、主イエスの故郷はユダヤなのである。エルサレムの宮が彼の家なのである。しかも、ユダヤにおいては彼は疎外されていた。サマリヤやガリラヤが彼を受け入れた。
 4節を見よう、「しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった」。「しなければならなかった」というやや不自然な感じの言葉が、この節の特色をなしている。通常、ガリラヤに住むユダヤ人はエルサレムの往復にサマリヤを通り抜けることを避けて、遠道でもヨルダンの東をまわる。今回はそれの出来ない緊急の事情があったのである。それは何か。緊急避難をして、パリサイ人の追って来ないサマリヤへ入ったということであろうか。彼の命が狙われていたと考えれば事情がよく分かると言う人もある。
 しかし、先にも触れたように、この時点で主イエスの命が狙われていたと考えるのは無理であろう。この後もユダヤに来ておられるからである。では、「しなければならなかった」とはどういうことか。ここで、福音書にしばしば出て来る「しなければならない」と意味を思い起こそう。
 「十字架につけられ、そして三日目に甦らなければならない」と言われるのは、預言されていたから、預言通り成就しなければならない、という意味である。神の計画が決まっており、実現の手順が決まっているから、その通りでなければならない、というふくみがある。しなければならないことを果たすのは彼の従順であった。死に至るまで従順であられた、とピリピ書の言うところを思い起こさねばならない。「サマリヤを通過しなければならなかった」のは、偶然的な事情ではなく、神の意志であったことを言う。サマリヤにおけるこの事件はガリラヤに行く途中のエピソードというふうに軽く考えてはならないものがある。
 5節、「そこでイエスはサマリヤのスカルという町においでになった」。この旅行はかなり急ぎ足で歩いたようである。午前中休みなしに歩いたのであろうか。主イエスは疲れてしまわれた。だから主にお休み願って弟子たちが食物を調えに町へ行った。
 6節、「そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばに座っておられた。時は昼の12時頃であった」。
 「時は昼の12時頃であった」という言葉はヨハネ伝では19章14節にある。ピラトが主イエスを十字架につける判決を下したのである。ルカ伝23章44節には、「時はもう昼の12時頃であったが、太陽は光りを失い、全地は暗くなって、3時に及んだ」とある。昼の12時を主イエスの受難の時として見ることは出来なくない。
 先にも少し触れたが、主イエスが十字架の上で「われ渇く」と言われたことと、こことを重ね合わせる必要はない。しかし、その方がよく分かるなら、そうした方が善いであろう。十字架を想起することによってキリストとの出会いは確実なものになるのである。


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