◆今週の説教2000.02.06◆

ヨハネ伝講解説教 第32回 ――3:31-36によって――

今日我々の聞く31節から36節までの言葉は、前後関係を切り離し、それだけを取り出して読んでも、多くの真理に満ちていて、「まことにその通りである」と讃美をもって同意せざるを得ない個所である。だが、これは誰の口から出た言葉であろうか。福音書の言葉の順序に沿って読んで行く限り、バプテスマのヨハネが弟子たちに与えた返答の続きであると受け取るほかない。我々の手にしている口語訳聖書では、36節の終わりで括弧が閉じられるが、この引用記号の始まりは27節である。――もっとも、括弧はもともとの本文の中にはなくて、読みやすいように訳者が挿入した解釈を交えた処置であるから、それに絶対的に従わねばならないものでもない。新共同訳聖書では、30節で括弧は閉じられ、ヨハネの言葉をそこまでとし、31節からまた別の引用記号がつく。それが誰の言葉であるかは見当が付かない。
 先にも触れたことがあるが、ヨハネ伝のもともとのテキストが損なわれ、現在の形は文章の順序が狂っていて、主イエスのニコデモへのお答えの終わった12節の次に、31節から36節までの一区切りが続き、その後に13節から21節が来て、3章が閉じられるのが本来の形ではなかったか、という有力な仮説がある。これに従って読んで見ると、スッキリするし、納得出来る点が多々あるのは事実である。しかし、我々はまだ知らないことが多くあるということを考えると、全く確かな証拠があるわけでもなく、推定だけで、原文の順序は入れ替わったものだと断定することを差し控えて、伝統的な読み方を踏襲すべきではないかと見て来た。
 今述べた仮説に従って読むならば、今日の学びの個所である31節から36節、また13節から21節は、主イエスの言葉の続きとしての総纏め乃至真理の啓示と考えられ、あるいは福音書記者による総纏め的メッセージと考えられる。そのように読む方が分かりやすい面があることは確かである。だが、上に挙げた理由によって、我々は原文の組み替えを躊躇する。だから、主イエスの言葉でも、福音書記者の言葉でもなく、バプテスマのヨハネの言葉として読んでおくことになる。
 それでは、31節以下はヨハネからその弟子たちに向けられた教え、ヨハネ教団の主張であるということになるのか。「そうではない」と我々は十分確信をもって答えることが出来るであろう。この言葉は我々キリスト者を諭し、我々に基本的なことを確認させるための言葉である。
 ということは、バプテスマのヨハネがそのように重要な事項を、その弟子たちを経由してキリスト教会に伝えたということなのか。――それは不自然な解釈になろう。 では、どういう受け取り方をすれば良いのであろうか。これはバプテスマのヨハネの言葉の続きであるが、ヨハネの口から出た言葉そのままでなく、その言葉が福音書記者の胸中に「こだま」となって響きわたった部分であると受け取ることにしたい。「こだま」という比喩しか持ち出せないのは我々の知恵が浅いからであるが、知恵が浅いのは偽りない事実であるから、身の程を弁えてこれで我慢するほかない。同じように、16節から21節も、我々の持つ聖書では主イエスの言葉を示す括弧の外であるが、主イエスの言葉が続いて、福音書記者の胸中に「こだま」となった部分である。
 さて、31節、「上から来る者は、全ての者の上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る」。バプテスマのヨハネの言葉の「こだま」だと言ったが、ここには「こだま」になる前のヨハネの肉声がかなり多く残っている。「上から来る者」とはヨハネの証しするキリスト・イエスのことである。「地から出る者」とは地上にある者一般という意味ではなく、特にヨハネ自身を指している。――3章全体を結ぶに当たって、ニコデモのことも「地から出る者」に含めて言っていると解釈する余地は十分ある。ニコデモも地上のことしか考えず、それしか語れないという限界を持っていた。しかし、ヨハネが弟子たちに語った言葉のなかに、ニコデモのことを読み込むことは今は避けておいた方が良いであろう。
 ところで、ヨハネは「神から遣わされた」と1章6節で明言されたではないか。それは確かな原理であって、その後変わったのでも・修正されたのでもない。「神から遣わされた」ということと、「上から来た」ということとは、言い方が一見似ているため混乱しやすいかも知れないが、別の事柄であると理解するのは困難でない。すなわち「神から遣わされた」とは、その「使命」に関して言う言葉であり、「上から来た」とは、「存在そのもの」その本質に関してであって、13節の「天から下って来た者」というのと同じであり、6章33節で「神のパンは天から下って来て、この世に命を与えるものである」という所でいよいよハッキリして来るように、その方の「神性」に関することである。
 神はご自身の御子、地上で唯一神性を帯びたお方を遣わしたもうた。しかしまた、バプテスマのヨハネのような人も、下って我々のような者までも、神は使命を与えて遣わしたもう。神から遣わされたという点で、キリストと我々は共通している。ただし、イエス・キリストは遣わされた者であると共に遣わす者であるが、我々は遣わす者にはなれないということを忘れてはならない。20章21節で復活の主は言われる、「安かれ、父が私をお遣わしになったように、私もまたあなたがたを遣わす」。
 今学ぶところでは「上から」と「地から」が対比される。上の天に属する者と下の地に属する者がクッキリと対照される。バプテスマのヨハネの証言においては、この二つの峻別・対比は重要な要素である。彼は自分が下の世界の者であることを強調しなければならなかった。彼が言い続けた「私はキリストではない」という証言もこれであるし、1章15節の「私のあとに来る方は私よりも優れた方である。私よりも先におられたからである」との証言もこれである。前回学んだ「彼は必ず栄え、私は衰える」もこれである。
 「上から来る者は、全ての者の上にある」。これは説明の必要もない単純なことである。上から来たお方が全てを支配しておられる、という意味をここに読み取って差し支えないが、ここではごく単純に、「上と下を混同しないように」と注意しているだけではないかと思う。
 「全てのもの」というのは万物、被造物の全てという意味に取っても良いが、ヨハネがここで言わんとしたのは、全ての証し人という意味ではないかと考えられる。その証し人の中でも、私は彼の下に立つのだと言いたいのだ。私はその方の靴の紐を解く値打ちもない、と言ったのと同じである。ヨハネの弟子たちは、ヨハネがバプテスマを授けたのであるから、ヨハネの方がイエスよりも上なのではないかという考えを持っているので、それを改めさせる必要があった。
 「上から来る者は、全ての者の上にある」。上と下という言葉によってヨハネが言おうとしたのは、上なる世界と下なる世界があるという、二元論の宇宙構造とか、世界観というものではない。証しされるお方と証しする者との立場の絶対的な違いという点だけである。「上から来る者」とは、13節にも「天から下って来た者、すなわち、人の子の他には、誰も天に上った者はいない」とあった通り、この証言の中では、ただ一人イエス・キリストだけである。それに対する「地に属する者」としては全ての者を含めて良いし、ニコデモを考えても良いのであるが、上でも触れたところであるが、ヨハネとしては自分のことを特に指していたと受け取るべきであろう。
 上と下の峻別ということをヨハネは強調しようとしたが、この強調を全ての局面に及ぼして、上なる世界と下なる世界とが隔絶されているという意味に取ってはならないという点について、一言付け加えておく。すでに3節で、主イエスの言葉によって教えられたように、「上から生まれる」という出来事が地の上で起こるのである。パリサイ人であるニコデモには理解出来ないことであったが、それが福音の事実である。このことは1章12節で「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えた」という言葉で早くから教えられた。また、その次の13節では「それらの人は、血筋によらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである」と教えられた。
 ヨハネは「地から出る者は地のことを語る」というが、彼の証言は地のことだったのか。地のことよりもっと重要な事柄を証ししていたのではなかったか。もちろん、我々はヨハネが救いの歴史の中に占める不滅の重要性を忘れてはならない。しかし、「女の産んだ者のうち最も偉大であった」と主イエスの言われたヨハネであるが、その言葉に限界があったことを無視するわけには行かない。主イエスは12節で「私が天上のことを語った場合、云々」と言っておられるが、主イエスは天上のことを語りたもうのである。それは救いの言葉である。ヨハネは天上のことを語らなかった。それは彼の限界以上のことであったのだ。
 間違えてはいけない。ヨハネが語った言葉は真実であり、その証言は朽ち行くものではなく、また、真実を吐露した彼の証言は我々を感動させずにはおかない。けれども、それは天上の言葉、天よりの啓示、救いの言葉ではない。地上に来られた神の子へと我々を導き行くことが出来るだけである。救いはキリストの言葉によるのであって、ヨハネの言葉によるのではない。「見よ、あの人だ」というヨハネの証言は不可欠であるが、それだけでは救いにならなかった。「見よ、私がそれである」と言われるお方が来られなければならない。
 ヨハネが実に立派な証しをしたので、我々の目がヨハネの証しに釘付けされて、それの指し示すお方の方に向かわずに終わるようなことがあってはならない。 「彼はその見たところ、聞いたところを証ししているが、誰もその証しを受け入れない」。天から下った者であるから、私の証しするお方は、天において見たこと、聞いたことを地上に来て伝える。これはイエス・キリストについての証しであるが、さらに一歩踏み込んで、キリストの語りたもう内容についての証しでもある。彼は救い主であり、1章29節で言われたように、「世の罪を取り除く神の小羊」であるが、それと共に、究極の啓示者であり、彼を通じて天上の真理が余すところなく啓示されると言っているのである。
 アダムの堕罪以来、天は罪人には閉ざされていたのであるが、天から下った唯一のお方方が、閉ざされた彼方の天を開き示して下さった。1章51節に「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」と主は言われた。
 次の「誰もその証しを受け入れない」という証言は、果たしてヨハネの口から出たままの言葉なのか、と疑う人は少なくないであろう。第一、ヨハネはそこまで見届けてはいない。しかし、ヨハネが預言者としてナザレのイエスの結末を予見していたことは疑えないのではないか。すでに預言者イザヤが「誰が我々の聞いたことを信じ得たか」と言っている。
 「しかし、その証しを受け入れる者は、神がまことであることを確かに認めたのである」との言葉は、世を挙げて御子に敵対しているようであっても、キリストの言葉を受け入れる者が少数ながらいることを予告し、その少数者の信仰がどういうものであるかを示す。彼らは神が真実であられることを確認すると言う。神がまことであるのは我々には良く分かっているつもりであるが、若干の事項を付け加えて置きたい。第一に、ヨハネの第一の手紙5章20節に「神の子が来て、真実な方を知る知力を私たちに授けて下さったことも知っている」というところでも、御子によって、知力を与えられて、神を真実なお方として知ることが出来るようになる、と語られた。天から遣わされた御子の証しを受け入れる者というのは初めからその素質を持っていたのでなく、「知力」を与えられた者だけが受け入れるのである。
 第二に、ヨハネの第一の手紙の1章10節に「もし、罪を犯したことがないというなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言葉は私たちのうちにない」と書かれている点は大いに助けとなる。神がまことであると知ることは、神を偽り者とすることの逆であるが、我々自身の罪がここに関わっている。神がまことであるという「まこと」、真実は、罪からの贖いに関する真理である。 第三に、神の真実というのは、聖書で言う場合、約束を無にせず、必ず実現する、という含みであった。そして、もろもろの約束の頂点をなすのはメシヤの約束であった。すなわち、メシヤの約束がナザレのイエスにおいて実現したのを彼らは確認する、というのである。
 34節に進もう、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである」。「神のお遣わしになった方」とは、「方」という尊敬を籠めた訳語が示すように、ここでは御子キリストのことを言う。しかし、一般的に神から遣わされた者は神から託されたメッセージを届けるのであるから、神の言葉を語り、自分の言葉を語らない。主イエスご自身も、5章31節で「もし、私が自分自身について証しするならば、私の証しは本当ではない」と言っておられる。
 「神は聖霊を限りなく賜うからである」と訳されたところは、「彼は御霊を限りなく賜う」である。「彼」というのは父なる神であるのか、御子であるのか、あるいはまた聖霊であるのか。聖霊が聖霊ご自身を与えたもうということはあるのだが、ここでそれが語られているとは考えにくい。神から遣わされた御子が聖霊を賜うという意味なら、十分考えられる。御子は1章33節でバプテスマのヨハネによって「御霊によってバプテスマを授ける方」と証言されていたが、バプテスマを授ける方が聖霊を授けるのは当然である。15章26節には主イエスが「私が父のみもとからあなたがたに遣わそうとしている助け主、すなわち真理の御霊」と言っておられるのであるから、確かに御子からも聖霊は遣わされる。しかし、ヨハネ伝3章34節では、日本語の聖書に「神は聖霊を限りなく賜う」と訳してあるように理解するのが多分最も良いのではないか。
 35節、「父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった」。この証言は要するに御子に与えられた絶大な権能と栄光を言う。キリストの証しを受け入れない人が多いけれども、神は御子に万物を委ねておられて、そのことはやがて明らかになる、と予告するのである。思い起こされるのは、13章3節、最後の晩餐のくだりであるが、「イエスは父が全てのものを自分の手にお与えになったことを思って、云々」とある個所である。「何々を手に与える」という言い方が同じである。ここには最後の晩餐の初めに弟子たちの足を洗いたもうたことが書かれている。ご自身の手に委ねられている者らのために、足を洗いたもうた。シモン・ペテロがそれを恐れ多いこととして断わろうとすると、主は言われた、「もし私があなたの足を洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」。足を洗うことによって彼らと関わりを持とうとされたのである。 17章2節に主イエスは「あなたは、子に賜わった全ての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになった」と言っておられる。ここで、御子に万物が与えられた意味が明らかになっている。それは単なる支配ではなく、永遠の生命に至らしめるための支配である。
 3章を結ぶに当たって聞く言葉は「御子を信じる者は永遠の命を持つ、御子に従わない者は、命に与ることがないばかりか、神の怒りがその上に留まるのである」である。信仰によって御子を受け入れる者は、神を受け入れ、神の祝福を獲得する。「神の怒りがその上に留まる」は神の怒りを受けねばならないであろう、ということと同じではない。そういう意味もあるにはある。しかし、今ある神の怒りが除去されないで、そのまま留まる、という意味を考えなければならない。エペソ書2章3節に「生まれながらの怒りの子」と言われるが、キリストを受け入れることによって神の怒りは過ぎ去り、キリストを受け入れないことによって神の怒りは留まるのである。


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