◆Back Number2000.01.22.◆

ヨハネ伝講解説教 第31回 ――3:27-30によって――

 前回、26節で見たように、バプテスマのヨハネの弟子たちがヨハネのもとに来て、「あの方がバプテスマを授けており、皆の者があの方のほうに移って行く」と訴えた時、「あなたのほうが、あの方よりも我々にとっては大事な人なのだ」という含みがあったと思われる。それに対して、ヨハネは27節に「人は天から与えられなければ、何ものも受けることは出来ない」と答える。私の使命も、私の重要性も、上から決められていて、あなたがたの判断にはよっていないのだ、と言おうとしたものである。
 ヨハネの弟子たちについて、我々は詳しいことは何一つ知らない。名前も分からない。彼らの考えについては推測も出来ない。彼らに関してこれ以外に我々に知らされているものとしては、マタイとルカの福音書によって伝えられた一つの出来事があるだけである。マタイ伝では11章2節以下に書かれているが、ヨハネは獄中でキリストの御業について伝え聞き、自分の弟子たちを遣わして、主イエスに尋ねさせる。「来たるべき方はあなたなのですか。それとも、他に誰かを待つべきでしょうか」。
 この記録は弟子たちというよりもヨハネ自身の心の迷いを示しているように読める。ヨハネはズッと、「自分はキリストの前に遣わされた使いだ」という自覚をもって生きて来た。このことを確信しているつもりであった。だが、投獄されて、ここから出る日はもう来ないと予想された時、自分が生涯を賭けて証しして来たことは本当だったのか、死んでも悔いないことをしたのか、との迷いが心に兆した。というのは、ナザレのイエスは彼の抱いていたメシヤのイメージと若干違っていたからである。すなわち、ナザレ人イエスはヨハネが期待したような栄光の王ではなく、むしろ余りにも地味過ぎ、己れを低め過ぎる僕であられた。本当にキリストなのか、とヨハネは尋ねたかったのである。ヨハネのこの問いを弟子たちが主イエスに取り次いだ。
 ただし、ヨハネの迷いを重大視し過ぎ、深刻に受け取っては理解を誤る。彼の心中で、信仰と疑いとが五分五分に渡り合い、あるいは疑いの方が優勢になっていたと見てはならない。彼はやはり信じていた。しかし、その信仰が弱かったのである。その弱さを主イエスのじきじきの御言葉によって強められたいと切実に願ったのが真相であろうと我々は考える。
 今日、ヨハネ伝で学ぶヨハネの証しと、今マタイの福音書で見たヨハネの質問とは、ある意味では無関係だと言えるし、矛盾していると見られなくもないが、ヨハネの確信に何の迷いも陰りもなかったと敢えて割り切る必要はないであろう。信仰者の現実は、謂わば、錨をおろした船のようであって、流されはしないが、波と風によって絶えず揺れているのである。
 それがヨハネの信仰の現実であったが、ヨハネの弟子たちにおいては、その先生の持つほどの確信もなかった。上の場面で見たように、先生に言われるままに、先生の言葉を伝える。自分の確信というほどのものはない。思想もない。
 ただ、彼らは先生に対する人並み以上の帰依の感情を持っていた。その帰依の感情にはこの人こそキリストではあるまいかとの期待あるいは予感が混じっていた。この弟子たちが、それなりに真面目な人であったことを否定する必要はない。彼らは真面目に人生を考えて、それぞれ持っていたこの世での生活を捨ててヨハネの弟子となった。ヨハネの弟子の中にもバプテスマを受けた後しばらく共同生活をして、それからもとの生活に戻る、所謂「在家」の弟子もたくさんいたことが知られている。いま我々の見ているのは、「出家」してヨハネの内弟子になっていた人たちである。
 内弟子の中から、もう何人もがヨハネのもとを去ってイエスについて行って弟子になった。残った弟子は、ヨハネの教えを捉え切れなかった出来の悪い弟子ということになるであろうが、彼らとしては先生に忠実に仕えたいと思ってそうしているのであって、この先生からナザレの先生へと簡単に移って行った仲間の行動を釈然としない思いで見ていたわけである。
 この人たちにヨハネが「人は天から与えられなければ、何ものも受けることは出来ない」と言ったのはまことに適切である。この言葉がヨハネ自身のことを言ったものであるのは読む人々の容易に気付くところであるが、ヨハネは「あなたたち自身のことを考えて見なさい。あなたがたは天から受けているのか」という含みをこれに持たせているように読み取るのが望ましい。
 ヨハネの弟子たちが真面目な人たちであったと上に述べたが、それは角度を変えて見るならば、天から受けたのでなく、人間として真面目に考え、人と人との関係を誠実に生きようとしているだけ、ということではないか。彼らはヨハネに期待し、ヨハネがこの時代を建て直す偉大な教師であることを予感し、この教師について行こうと決断し、この世の生活を捨てた。そして先生のことを一心に思っている。それは人並み以上の真面目な生き方であると言える。しかし、彼らには天から受けたものは何もないではないか。彼らがヨハネに対して抱いた期待も、神から与えられたものだと言うならば、それはそうに違いないが、その程度のことを「天から与えられたもの」と言ってはならない。生まれながらに持っている感覚が、曇らされさえしなければ、そこに何かがある、ということは誰にでも分かるのである。
 ニコデモの場合を思い起こそう。彼は主イエスに「私たちはあなたが神から来られた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるような徴しは誰にも出来はしません」と言った。彼がものすごく真面目な、人並み外れた探求心の持ち主だったことは確かであろう。この言葉は信仰告白のように取られるかも知れないが、主イエスは直ちに「誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることは出来ない」と却下された。「新しく生まれる」とは「上から生まれる」ということでもあると我々は学んだが、主はニコデモに「あなたはまともなことを言ってはいるが、新しく生まれたのではない」と諭された。
 3章に入ってから繰り返し学ばせられている教えは、一連の続き物であって、新しく生まれること、上から生まれること、上から教えられること、上から来たお方、要するに天から与えられるという主題を強調する。そのことを分からせるために、「上から」ということを「下から」、「肉から」、「地上で」というような言い方と対照させて示された。最終的にハッキリ語られるのは、次回に学ぶ31節である。「上から来る者は全てのものの上にある。地から出る者は地に属する者であって地のことを語る」。
 ヨハネは偉大な教師であったと言うことは出来るのであるが、地からの者でしかなく、彼は上から来た者ではない。同じ意味のことを主イエスは先に引いたマタイ伝の言葉の続きで、11章11節に「女の産んだ者の中でバプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と言われた。
 ヨハネの弟子たちは上を向いて生きて来たと言えるであろうが、上から来た者ではないし、それどころか上から生まれたのでもない。そういうわけで、ヨハネの弟子たちのことから、我々自身のことに、しばらく思いを向けてよいであろう。我々は上にあるものを求めなければならないが、上にあるものを求めるだけでなく、我々自身が上から新しく生まれていなければならない、いや、生まれ変わっていることを固く確信していなければならない。そうでなければ、今学んでいることは実を結ばずに終わる。
 さて、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることは出来ない」とヨハネは弟子たちに言う。この言葉について難しく考える必要は何もない。ヨハネは、自分の務めが神から受けたものであって、自分はその範囲のものでしかなく、定められた範囲を越えてはならない、と言っている。つまり、次の28節で「私はキリストではなく、その方よりも先に遣わされた者である」というのと同じことを、一般論として言ったのである。主イエスがピラトに対して、ヨハネ伝19章11節で、「あなたは上から賜わるのでなければ、私に対して何の権威もない」と言われたのと言葉は似ているが、特に結び付けて考えねばならないものではない。
 弟子たちは「あの方」のバプテスマのもとに赴く人が、こちらに来る人より多いことを嘆く。その嘆きをヨハネは間違いであるとたしなめる。こうなることは神の御心において定まっているのである。その御心を私は天から啓示されて知っている。あなたがたも知りなさい。
 天から与えられて受けたもの、それはあらゆる物について言える。神は一切を支配しておられるからである。しかし、ヨハネは今見たように、一般論を言うのでなく、自分の受けた使命、職務について語る。受けた賜物についても、自分に与えられた分は僅かであるから、あの方ほど人を引きつけないのが当然ではないか、と言ったと取ることも出来よう。しかし、賜物のことは今は無視して良いのではないか。
 天から受けたこととしてヨハネが弟子に伝えたのは、第一に、「私の使命はキリストになることではない」という点であった。弟子たちの間にあった期待はここでキッパリと打ち着られ、消された。言葉としては、1章20節でヨハネがパリサイ人に対して言ったことの繰り返しである。弟子たちもそれは聞いて知っていたのではないかと思われるが、彼らはまだ期待を捨てていない。ヨハネの説教に打たれた人は、これは神から遣わされて悔い改めを促す器だから、キリストに違いないと感じたのである。それに対し、天からの答えではないではないかとヨハネは言うのである。
 第二に、キリストより「先に遣わされた」という面で積極的な意味が打ち出される。
先に遣わされるとは、先ず、キリスト預言の成就の順序の第一段階であるということである。幕はまだ開いていないが、幕開き前の音楽が始まったようなものである。マラキ書4章5節に「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、私は預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と記されている。ヨハネは自分はキリストに先立って遣わされたエリヤであると自覚していた。だから、彼は服装を駱駝の毛衣と定め、それによって自分がエリヤであることを示した。
 先に遣わされるとは、諸準備のためである。荒野に主の道を備える、とイザヤ書40章は言う。また「主の御前に先立って行き、その道を備え、罪の赦しによる救いをその民に知らせる」のが使命だということをヨハネの父ザカリヤはヨハネが生まれた時に預言したと、ルカ伝1章76節77節に記してある。メシヤの来臨は多くの預言者によって語られて来た。ヨハネはその連鎖の一つとして預言の成就に繋げたのか。そういう面はあるが、これまでと同じ調子で預言が繰り返されるのではなく、成就の始まりとして、これまでと違う調子が響き始めた。それをヨハネの父ザカリヤは「罪の赦しによる救い」と言った。これがキリストの福音なのだ。
 次に、ヨハネは自分の使命を「花婿の友人」という比喩を用いて示す。「花婿の友人」というのは、個人的に親しい人がそれに選ばれるということから来たのではあるが、結婚式における一つの役割の名称なのである。当時の慣習では、「花婿の友人」という役が二名定められていて、花婿の到着を迎えて婚礼の場に連れて行き、婚礼を取り仕切る。ヨハネはその友人の一人だと言う。もう一人のことは考えなくて良いであろう。これは主人公ではない。主人公の引き立て役である。主人公、花婿、それはイエス・キリストである。このことは後ほどもう一度見る。
 そのように、私は花婿の友人の役割を帯びているのだから、私の弟子であるあなたがたは、私がそういう者であることの証しを立ててくれなければならない、と言う。だが、ヨハネの弟子はそういう証しを立てたであろうか。それをした弟子と、しなかった弟子に別れたというのが実情であった。
 さて、29節の比喩である。「花嫁を持つ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ」。
 自分が、謂わば「花婿の友人」だ、と言ったこの比喩は、ヨハネとキリストとの関係を第一に示すものではあるが、それだけではなく、花婿と花嫁の関係になぞらえられている事柄をも我々に考えさせるであろう。その事柄とは何であろうか。主イエスがマタイ伝22章で、「天国は王が王子のために婚宴を催すようなものである」と言われたことを思い起こさずにおられない。また、マタイ伝25章で、「天国は十人の乙女が花婿を迎えに出るのに似ている」という比喩も言われた。天国の比喩なのだ。結婚は神の国の成就を示す比喩である。
 面白い比喩だと感じる人があろう。だが、着想が面白いとか適切とか言うよりも、イスラエルの預言の歴史の中にこういう伝統があったことを思い起こしておきたい。すなわち、神とイスラエルとの恵みの契約の関係が、夫と妻との関係になぞらえるのが定式になっていた。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ホセア、それらの預言者たちは神の国の成就、イスラエルの完成を結婚の到来と祝いの宴という比喩で預言した。イエス・キリストの神の国の譬えがしばしば婚宴であった理由はそこにある。ヨハネの福音書の2章で示されたカナの婚宴における葡萄酒の奇跡も、預言の伝統を受け継いで、それが今成就していることを象徴的に示したものでなくて何であろう。
 この比喩の連鎖は聖書の終わりまで続く。ヨハネの黙示録21章2節に「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た」。その前の19章の6節から8節に掛けて言われる。「ハレルヤ、全能にして主なる我らの神は、王なる支配者であられる。私たちは喜び楽しみ、神を崇めまつろう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意をしたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行ないである」。
 この連鎖を終わりまで見渡した目で見直すならば、エペソ書5章に結婚における夫と妻の結び付きを、キリストと教会の関係を象徴したものと言うのは何ら奇異とすべきことではない。
 ヨハネは自らを花婿の友人として把握した。その所を学ぶのが今日の学びであるが、ヨハネが何をしたかを知るだけでは、我々の学びとして足りないことに気付かなければならない。我々は「花婿の友人」ではない。我々は花婿の「花嫁」なのだ。キリストの花嫁に相応しい純潔を身に着けることを願わなければならない。キリストの花嫁の純潔を奪おうとする試みは今一段と激しくなっているからである。この事情を無視して、ヨハネと弟子、ヨハネとキリストの関係を考えているだけでは、聖書を読んでいるつもりでも、字面を追って行くだけの読み方になる。
 「こうして、この喜びは私に満ち足りている」とヨハネは言う。ヨハネの喜び、これは我々の喜びでもある。キリストを知ることは我々にとって喜びである。
 「彼は必ず栄え、私は衰える」。私の務めを果たし終えたから私は衰える、と取っても間違いではない。しかし、ヨハネの魂の底からの叫びを聞くならば、私は衰えることによって使命を全うするという意味が含まれている。証し人は証し人たる自分の地位を守ることによって証しを果たすのか。そうではない。自分の地位が消えて行くことによって、証しが成り立つ。これがキリストを証しする証しの特色である。我々がヨハネから学ぶべき究極の教えはこれである。


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